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羊飼い 『キリストの懐』
マルコによる福音書 2章13−17節
2006/1/8 説教者 濱和弘
賛美 20,302,399 新聖歌

さて、今日お読み頂きました聖書の箇所はマルコによる福音書2章13節から17節までですが、マルコによる福音書は2章、3章には、パリサイ派や律法学者と呼ばれる人々から、いろいろな批判がなされたことに対して、イエス・キリスト様がその批判にお答えになると言った話が綴られています。例えば、2章の1節から12節までには、中風の人に対してイエス・キリスト様が、「子よ、あなたの罪は赦された」と言われたことに対して、「この人は、なぜあんな事をいうのか、それは神を汚すことだ。神ひとりのほかに、誰が罪を赦すことができるのか」という律法学者達の批判が述べられています。また、この後の2章18節からには、断食をする、しないの問題で、人々からも「なぜ、断食をしないのか」と問われていますし、2章23節以降には安息日にかかわる問題で批判をされています。このような批判は、イエス・キリスト様のなさったことが、その時代の一般常識をこえたものであり、その当時の人たちには考えも及ばなかったことであるということを、私たちに教えてくれます。

もちろん、常識を越えると言う言葉は、一歩間違えると常識に欠けると言うことにも繋がります。常識に欠ける行為は、人を深いにし、人に迷惑をかけてしまいますから、気をつけなければならない行為です。しかし、常識を越えることが出来なければ新しいものを産み出していくことが出来ないことも確かです。そして、イエス・キリスト様は当時のユダヤ教の内部、またそれに持つずいて築かれていたイスラエル民族という宗教社会に新しいものをもたらす、常識を越えたものだったのです。そのような中で、今お読み頂きましたマルコによる福音書2章13節から17節は、二つの部分から成り立っています。一つは、13節14節の収税人であったアルパヨの子レビがイエス・キリスト様の弟子として召された記事であり、もう一つは、15節以降にある多くの取税人や罪人と一緒に食事をなさったことが書かれている部分です。そして、その両者に共通していることは、イエス・キリスト様が取税人や罪人たちと関わり合いを持ち、交わりを持たれたということです。そして、そのことが、この記事の核心に関わってくる中心的な意味を持つ内容なのです。

イエス・キリスト様が取税人や罪人と交わりを持たれたと言うことは、パリサイ派の人々にとって、なかなか理解しがたい行動であったようです・ですから、16節で「なぜ、彼は取税人や罪人たちと、食事をともにしているのか。」と、イエス・キリスト様のことを批判しています。というのも、パリサイ派と呼ばれる、宗教的な厳格主義に立つ人たちは、取税人といわれる人々や罪人とは決して食事を一緒にすることなどなかったからです。もちろん、それには、それなりの理由がありました。取税人と言われる人たちは、イスラエル民族を支配しているローマ帝国の手先のようになっている人々でした。また、そのローマ帝国の傘のもとで、不法に多くの税を取り立てることいったこともあったため、裕福でしたが、人々から軽蔑され嫌われていた人たちでした。また、罪人と言われる人々は、いわゆる犯罪者ではなく、律法と呼ばれる様々な取り決めを守ることのできないでいる人達だったからです。ですから、取税人も罪人も、パリサイ派の人たちから見れば、同じように宗教的に汚れた人たちであったと言えます。

それに対して、パリサイ派と呼ばれる人たちは、律法を厳格に守ることで、自分たちの清さ正しさを全うしようとした人たちです。当然、彼らの行動は道徳行為としても、宗教行為としても清く正しくあろうとしました。そのため、神の前に汚れている物事や、正しくないことを避け、そのようなことをしている人との接触も持たないようにしていたのです。また、その背後には、イスラエル民族の中にあるユダヤ主義と申しましょうか、神に選ばれた民としての選民意識といった優越感のようなものがあっただろうと思われます。特に、現実にはローマ帝国に支配され、植民地化されているという状況の下にあっては、その優越感は、より内面化されてとぎすまされていっただろうことも十分考えられます。そんなわけで、ローマ帝国の手先になっている取税人や律法を守れないでいる罪人と食事をともにするなど、当時のパリサイ派の人たちにとっては考えられないことだったのです。それは、パリサイ派の人々だけではなく、ごく普通の人々にとって同じように考えられなかったことだろうと思います。

と申しますのも、18節には人々が来て、ヨハネの弟子やパリサイ人は断食をするのに、「なぜあなたの弟子はしないのか」と問うている記事が出ているからです。その問いの前提には、当時断食をすることは「宗教的に良いことである」という前提があるからです。ですから、イエス・キリスト様の弟子たちが断食しないのを見て、人々は「なぜ、宗教的に良いことであり特のある行為である断食をしないのか?」と質問するのです。そもそも、社会から嫌われている取税人であるレビをご自分の弟子に加えられるとか、その取税人レビの家で罪人たちと食事をするといったことを、その福音書の中に書きとどめていると言うことは、それが特別なことだからです。福音書は神の言葉である聖書の中の一文書ですが、イエス・キリスト様の伝記でもあります。普通、伝記には何も特別なことがなければ書き記したりはしません。特別なことであり、それを読んだ人が「はっと驚く」ようなことだからこそ、書き記されるのです。リンカーンの伝記を読んでも、野口英世の伝記を読んでも、彼らが朝起きて、どこに散歩に行ったかなどはほとんど書かれていません。けれども、重大な出来事や事件は、ちゃんと書かれているのです。

ですから、このように、取税人が弟子に選ばれたり、イエス・キリスト様が取税人や罪人たちと食事をなさったと言うことは、それを読んだ人にとっては、「へー、イエスって男はそんなことしたんだ」と驚きをもって受け止められるような出来事だったといえます。まっ、そういった意味では2章の14節のレビが弟子として招かれた記事の表現などは、実に絶妙の表現法だと思われます。14節に先立つ13節には「イエスはまた海辺に出て行かれると、多くの人々がみもとに集まってこられたので、彼らを教えられた。」とあります。ですから、その時点で、イエス・キリスト様は、人々から認められた立派な宗教家であったといえます。そのイエス・キリスト様が、14節に入ってまいりますと、収税所に腰掛けていた取税人のレビを見かけられ、そして「私に従ってきなさい」と声をかけられる。レビは、そのイエスキリスト様の声nそ従って、ついていくだけで、弟子として受け入れられているのです。これが、レビが多くの人がその話を聞きたいと集まってくるイエス・キリスト様の所に走り寄り、自分の罪を泣いて悔い改め、頭を地面にこすりつけるようにして弟子にして下さいと願い求めたことに対して、「私に従ってきなさい」問あれたのなら納得も行きます。

ところが、イエス・キリスト様のほうから声をかけられ、それに従うだけで、弟子として受け入れられていくのです。しかもそれが、他の人ならまだしも、取税人なのです。それは、この記事を読んだもの、この話を聞いたものが、「おいおい、それだけかよ」といいたくなるような、実にあっさりとさりげなく書かれているのです。そのうえで、更に、イエス・キリスト様が取税人や罪人と食事を共になされ交わりを持たれたとなると、「一体どういうことなのだ」ということになってきます。いっぱしの宗教家として多くの人が話を聞きに集まってくりような人が、なぜ、そのような汚れた人たちといとも簡単に交わるのか?ですから、「なぜ、彼は取税人や罪人たちと、食事をともにしているのか。」と言う批判的な問いは、単にパリサイ派の人たちだけの問いではなく、このマルコによる福音書2章13節から17節までを読む人々の問いでもあるのです。そしてその問は、2重の問となります。パリサイ派の人のように、取税人や罪人を嫌う人々にとっては、「なぜキリストは、彼らと食事をともにし、いともたやすく彼らをお受け入れになられるのか」と言うと問いです。そしてもう一つは、取税人や罪人たちの問いです。そしてその問いは、「なぜキリストは、私たちのような者と一緒に食事をなさって下さったのか」という問いとなります。

パリサイ派を初めとし人々は、信仰は聖なる気高いものです。その聖なる気高い信仰を語るものであるならば、それなりの行ないや立ち振る舞いが求められます。ところが、イエス・キリスト様は、パリサイ派やごく普通の人々にとって、取税人や罪人は蔑み軽蔑する対象となる人々の中に入って良かれ、そう言った人々と交わりを持ち、彼らもまたイエス・キリスト様に従っていくのです。逆に、取税人や罪人にしてみれば、本来なら自分たちとは全く関係のない縁遠いと思われるような存在が、向こうの方から自分たちに近づいてくれるのです。もちろん、それは彼らにとって嬉しいことであるには違いがありません。しかし、どうして、イエス・キリスト様が、自分たちに地かずいて下さったのかというそのわけを問うならば、答えを見つけることは出来ないことなのです。そういった意味では、「なぜ、彼は取税人や罪人たちと、食事をともにしているのか。」と言う問いは、パリサイ派や普通の人々の困惑と、取税人や罪人の困惑の中にあると問いであると言えます。そして、その困惑を産み出しているのが、その当時の通念として存在した常識というものです。

それは、神に認められる資格がある人と神に認められる資格がない人が存在すると言う区別があるとことです。それは、民族的にいうなれば、神の選びの民であるイスラエル民族と異邦人という区別であり、イスラエル民族の中に置いては、罪人とパリサイ人といった区別と言って良いだろうと思います。そして、そのような区別の裏側には、すぐれた人間と劣った人間という差別感情を伴う劣等感や優越感が潜んでいます。その優越感が、なぜ「あんな取税人や罪人と食事を共にするのか」という困惑を産み出し、またその劣等感は「なぜキリストは、私たちのような者と一緒に食事をなさって下さったのか」という困惑を産み出していくのです。そのような困惑の中から発せられる「なぜ、彼は取税人や罪人たちと、食事をともにしているのか。」と言う問いに対して、イエス・キリスト様は、「丈夫な人に医者はいらない。いるのは病人である。わたしが来たのは義人を招くためではなく、罪人を招くために来たのである。」と、そうお答えになるのです。

このイエス・キリスト様のお答えは、額面通りに受け取りべきではありません。つまり、「パリサイ人といわれる人は立派な義人、丈夫な人だから大丈夫だ。けれども取税人や罪人は、いわば信仰的な病人のようなものだから、医者である私の助けが必要なのだ。」と言っているのではないのです。むしろ、このイエス・キリスト様の言葉は、一種の皮肉を含んだ言葉だと言えます。ですから、イエス・キリスト様が言われた「丈夫な人に医者はいらない。いるのは病人である。わたしが来たのは義人を招くためではなく、罪人を招くために来たのである。」と言う言葉は、逆説的な意味があるのです。それは、「確かに取税人や罪人と呼ばれている人には、神の恵みによる救いが必要である。しかし、神の前に義人だと思っている例えばパリサイ人と呼ばれる人も、彼らと同じように罪人なのだ。だから、そのような人も同じように神の恵みによる救いが必要なのだ」と言うことです。結局、イエス・キリスト様は、人には神に受け入れられるすぐれた人間と、受け入れられない劣った人間が入るという、当時のイスラエル民族の中にあった常識を打ち破って、「神の前には皆等しく罪人なのであって、すべての人がイエス・キリスト様がもたらす救いが必要なのだ」と言っているのです。

だからこそ、神の前では、私はあの人よりも優れているという優越感もなければ、私はあの人よりも劣っているという劣等感を持つ必要もないのです。イエス・キリスト様は私たち人間のすべてが罪人だからこそ、神の一人子なる神と言われたお方は、人々の中で住まわれ、人々の中で生きられ、そして死なれたのです。考えてみれば、このような優越感や劣等感、あるいは人間を優れた人と劣った人とに区別して差別的に見てしまうと言うことは、2000年前のイスラエルの常識的なものの見方というだけではありません。人類は皆平等であるというのは、現代社会に生きる私たちには、極めて常識的な言葉です。 例えば、1948年国際連合総会で声明された「世界人権宣言」の前文には、「人間社会の全ての構成員が、生まれながらにもっている尊厳と平等で譲ることのできない権利を認めることは世界における自由、正義、そして平和の基礎である」と唱っています。

ところが、現実には、人の持つ能力の差によって、また人の持つ所有物などによって、人の優劣を量り、区別し差別してしまっているというのが、私たちの実情のように思うのですがどうでしょうか。勉強が出来る人、余り得意ではない人。運動が出来る人と得意ではない人、お金を一杯稼げる人とそうでない人などなど、様々な分野で人に優劣をつけて見るのが現実ではないかと思うのです。もちろん、実際には受験があったり、試合があったりして勝者と敗者を分けますから、能力の優越が出てこざるを得ない社会がそこにあります。ですから、勉強にしろ、スポーツにしろ、仕事にしろ、頑張らなければならないことは事実です。そういった意味では、人間の社会に優劣があるというのは、200年前のことだけではない、現在にも存在する、人間の心の中にある普遍的な思い、永遠の常識なのかも知れません。しかし、譬え社会がそのようなものであったとしても、少なくとも神の目から見るならば、すべての人は同じように罪人であり、それゆえに神の前には救いが必要なのです。例えばそれは、私たちがクリスチャンであると言うことに置いても同じです。

私たちがクリスチャンであると言うことは、他の人と比べて特に優れた存在というわけではありません。もし、教会がクリスチャンは、宗教的に他の人よりも優れていると思っているならば、それはイスラエル民族が神の選びの民として異邦人に対して持っていた民族的優越感と同じものです。クリスチャンであろうとなかろうと、神の前には同じ罪人なのです。だからこそ、イエス・キリスト様がもたらした福音は、すべての人を平等に神の前に招いておられるのです。また、教会の中で信仰の優劣をつけて見るようなことがあるとするならば、それは、「なぜ、彼は取税人や罪人たちと、食事をともにしているのか。」問うたパリサイ派の人たちと代わりのないことかも知れません。たとえ、教会の中に牧師職あるいは教職というものと信徒職という職制上の違いはあったとしても、その職制に優劣はないのです。

依然、家内からお亡くなりになった松村悦夫牧師の話を聞きました。松村牧師は、私たちの教団の教団委員長もなされた方で、松村牧師を尊敬する方も少なからずおられます。その松村牧師が、「私は、講壇の上では、神の言葉である聖書からメッセージをしますが、講壇を降りたなら、皆さんと同じクリスチャンの一人にすぎません」とそうおっしゃられたというのです。この松村悦夫牧師の言葉は、私が牧師になったとき以来、ずっと心に留めている言葉であり、自分自身に対して、教訓としている言葉でもあります。ともいうのも、ともすれば、教会に置いて牧師や聖職にあるものは、特別な存在のように見られることがあるからです。しかし、牧師といえども、神の前には、実は特別な存在ではなく、すべての人と同じ罪人の一人にしか過ぎません。ところが、そうはいっても、私たちは、人の信仰の在り方を見て、素晴らしいクリスチャンだと思ったり、自分はダメなクリスチャンだなと思ったりすることが少なからずあります。私自身、人と比べて自分はダメだなとか、まだまだなといった思いになってしまうことがあるのです。そして、そんなときには、何とも言えない劣等感が心を支配してしまいます。反対に、自分はまんざらではない、なかなか良い線行っているじゃないかといったおごりや優越感が顔をのぞかせることだってあるのです。

ですから、私自身の自戒をこめて、皆さんに申し上げるのですが、もし、人と自分を比べて、自分はダメだと思うようなことがあったとしても、そのような自分はダメだという劣等感を持つ必要はありません。仮に、誰かと自分を比べて、その人の方が自分よりも素晴らしいと思うことがあったとしたら、神はその自分よりすぐれた人と自分を同じように見て下さり、同じように扱って下さると言うことを信じて、その素晴らしさを目標にして行けばいいのです。決して自分を卑下する必要などないのです。そして、目標に到達できなかったとしても、そのことで神の前では優劣はないのです。また、優越感が顔をのぞかせるようなことがあるならば、それこそが私たちの罪のであることを覚え、その罪故に、自分もまたすべての人と同じ罪人なのだと言うことを自覚して行かなければなりません。どんなに、人間の社会には優越があると言うことが、私たちの心にある永遠の常識であっても、キリストは今も昔も、その常識を突き破って、すべての人は神の前に同じように罪人だとそう言われるのです。

そして、同じように罪人だからこそ、イエス・キリスト様は、すべての人をその懐に抱き入れ、神の恵みの中に導き入れたいとそう願っておられるのです。キリストの懐は、誰一人もれることのないほど広いものです。そして、私たち一人一人を抱きかかえ、その愛で包み込もうと、その懐に招いておられます。大切なのは、その懐に飛び込んでいくと言うことなのです。そして、イエス・キリスト様の懐に飛び込んで行くときに、私たちは神の愛の中で癒されていきます。そして、そのイエス・キリスト様の懐にあって、神の愛で癒されながら、一歩一歩成長していくのが教会と言うところなのです。先程申し上げた国連の「人権宣言」の全文にある「人間社会の全ての構成員が、生まれながらにもっている尊厳と平等で譲ることのできない権利を認めることは世界における自由、正義、そして平和の基礎である」と言う言葉は、民族や宗教に壁を越えて受け入れられているものです。そういった意味では、神がお造りになった人間が潜在的に持つ暗黙の了解を言葉にしたようなものです。けれども、それは単にあるべき本来の人間の姿という理想であって、現実にはそうはいかない、人間の優劣が存在し、それが常識のようにまかり通っています。

けれども、あるべき人間の本来の姿から逸脱しているのならば、それはあるべき姿に回復しなければなりません。そして、イエス・キリスト様が、人間には優劣があると言う常識を突き破られたのであるならば、そのイエス・キリスト様の懐にある教会もまた、一人一人が同じ罪人であると言うところから出発していき、その一人一人を神様が愛しておられるのだと言うところに立たなければなりません。そうやって、お互いを大切にし、お互いを尊重していくところが教会なのです。ですから、私たち三鷹キリスト教会もそうやって、互いに受け入れあい、互いを大切にし、支え合いながら、共に成長していく教会でありたいと思います。そうやって、私たち一人一人の罪が赦され、心が癒され、神の前に聖く義しい者と変えられていきたいと思うのです。

お祈りしましょう。