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羊飼い 『境目に立つ信仰』
マルコによる福音書 2章18−22節
2006/1/15 説教者 濱和弘
賛美  新聖歌 19、420、202

さて、今お読み頂きましたマルコによる福音書2章12節から22節は、断食をするかしないかと言ったことで、イエス・キリスト様が人々から批判された出来事が記されています。もちろん、聖書そのものの書き方は、「ヨハネの弟子とパリサイ人の弟子立ちが断食しているのに、あなたの弟子はなぜ断食しないのですか」と問いかけているだけですので、人々がイエス・キリスト様を批判したと言うと、言い過ぎのように思われるかも知れません。けれども、「ヨハネの弟子とパリサイ人の弟子立ちが断食しているのに、あなたの弟子はなぜ?」と、そう問いかけているわけですから、少なくともイエス・キリスト様の弟子が断食をしないということは、極めて奇異に映った行為だったようです。今日でも、イスラム教ではラマダンといって一月間、夜明けから日没まで断食をしますし、ユダヤ教でも、贖罪の日に断食をします。またキリスト教に置いても断食をして祈ると言ったことは、今でもありますし、私自身、断食した経験は何度かあります。つまり、断食という行為は、信仰者にとって自分の神に対する敬虔さを表わす宗教的行為として、キリスト教やユダヤ教、イスラム教と言った信仰の壁を越えて広く一般的に行われているものなのです。

イスラム教徒がラマダーンと呼ばれる一ヶ月間断食をするのは、断食が、断食をする者を罪から解放し罪を浄化すると考えられているからですし、ユダヤ教においても贖罪の日(ユダヤ歴<大陰暦>新年から十日後のヨム・キプールと呼ばれる日)に断食して罪を悔い改めます。このように、断食をもって神に対する敬虔な姿勢を表わすと言うことは、罪の赦しと言うことと深く結びついています。もっとも、いくつかの注解書は、このマルコによる福音書の、強の箇所に置いてバプテスマのヨハネの弟子立ちが断食をしていたのは、バプテスマのヨハネが、ヘロデに捕らえられ処刑されたことを悲しんで、断食していたのだと、そのように説明しています。そうすれば、2章19節から20節の「婚礼の客は、花婿が一緒にいるのに、断食できるであろうか。花婿と一緒にいる間は、断食は出来るであろうか。しかし、花婿が奪い去られる日が来る。その日には断食するであろう」という言葉は、次のような意味になります。つまり、「バプテスマのヨハネは捕らえられ、処刑されたのだから、そのヨハネの弟子立ちが暖軸するのは当然だ。けれどもイエス・キリスト様はまだ、死んでいないのだから断食をする必要はない。死んだときには、イエス・キリスト様の弟子立ちも断食するだろう。」といった意味になってきます。

確かにそうすれば、一応は意味が通ります。しかし、そうなると、こんどは、21節22節の「だれも、真新しい布切れを古い着物に縫いつけはしない。もしそうであるならば、新しいつぎは古い着物を引き破り、そして破れがもっとひどくなる。また、だれも、新しいぶどう酒を古い皮袋に入れはしない。そうすれば、ぶどう酒は皮袋をはり裂き、そしてぶどう酒も皮袋も無駄になってしまう。」という言葉との繋がりがなくなってしまいます。ですから、やはりここでは、断食をするかしないかと言った問題を、パプテスマのヨハネの死と結びつけて考えるべきではなく、いわゆる罪と赦しとの関係でなされる断食に関して語られたと考える方が良いようです。イスラエルでは、先程も申しましたように年に一度、贖罪の日に断食して罪を悔い改め身を戒めます。それはユダヤ歴でいうところ新年、ですから私たちの言うところの新年とはすこし時期がずれていますが、その新年から十日後のヨム・キプールと呼ばれる日におこなわれるのです。そして、その贖罪の日には、ヨハネの弟子であろうとパリサイ人であろうと、ユダヤの人はみな、その日には断食をしなければならなかったのです。もっとも、これ以外にもパリサイ派と言われる人たちは毎週2回の断食をしていました。

もちろん、それは神と人の前に、自分たちの敬虔さを示すためであり、神に受け入れられる者であることを示すためであったと言えます。けれどの、イエス・キリスト様はそのような断食に在り方を否定されたのです。つまり、断食は罪が赦されるためにしなければならないものでもなく、神に受け入れられるために、自分たちの敬虔さを神に示すためになされるものでも無いのです。むしろ、罪の赦しは、イエス・キリスト様の死によって成し遂げられたのです。ですから、「花婿が奪い去られる日が来る。その日には断食するであろう」と言う以上、それは罪の赦しが成し遂げられたからこそ、断食をするということになります。それは、神に受け入れられるために敬虔な生き方をするのではなく、神に受け入れられているからこそ、敬虔な生き方に変えられていくと言うことです。そこには、どちらにも共通して神に対して敬虔に生きるということがあります。

けれども、その両者の敬虔な生き方が持つ意味は決定的に違ってきます。今日の聖書の箇所で言うならば、断食をするという宗教的行為は、バプテスマのヨハネの弟子たちやパイサイ人とイエス・キリスト様の弟子立ちも同じ行為です。しかし、その意味や目的は全く違うのです。先日、東京女子大学の江口再起教授が、宗教改革者マルティン・ルターに関することについて継ぎのようなことを語っておられました。マルティン・ルターと言う人は、修道士としては模範的な人だったようです。ですから、修道院の規則が週に2回断食をしなければならない決まりになっていたら、ルター週3回断食をする、人が2時間お祈りするならば、3時間お祈りをすると言った修道生活を送っていたそうです。そうやって、ルターは神の義、神の正しさに近づこう近づこうと努力するのですが、努力して敬虔な生活、信仰的に善い行ないをするほど、神の正しさの前では、自分の内側にある罪に気が付いて悩み苦悩が深まっていったと言うのです。そして、神の義しさがルターの罪や汚れを責めたというのですね。

ところが、そのルターが、ローマ人への手紙1章17節「神の義は、その福音の中に啓示され、信仰に始まり、信仰に至らせる。これは「信仰による義人は生きる」と書いてあるとおりである」という言葉に、はっと気付かされたというのです。今までは、神の義に、神の義しさに近づこう近づこうと頑張っても憂鬱になるだけだった。そこで、ローマ人への手紙を読んでいて、自分が何もしなくても良いという存在に気が付いたと言うのです。たとえば、母親は、赤ん坊は自分が何も出来なくても、100%与えてくれる。100%守ってくれる。そして、ルターは、この母親のような存在が神であり、恵みだと言うことに気が付いたというのです。そして江口教授はこのように言うのですね。ルターは頑張ることを辞めたときに本当に信仰が深まった。それではルターが頑張っていたのはなぜか。それは本当に神を信頼できなかったからだ。神を100%信頼すること出来たときに、ルターにとって神の義しさは、私たちの罪深さを図る物差しではなくなったというのです。

皆さん、天国に入るためには、100点満点を取る必要があります。天国は、罪も汚れも全くない世界だからです。律法を厳格に守り、断食をしているという、パリサイ人や律法学者たち、あるいはヨハネの弟子も70点、80点は取れていたかも知れません。けれども、70点、80点でも合格点に達していなければ、神の御子であるイエス・キリスト様から見れば、0点の人と何ら代わりはありません。どちらも合格点に到達できず、天国に入れないからです。だからこそ、その不合格の人間を、イエス・キリスト様は合格させてあげると言うのです。赤ん坊が母親から母乳を与えられ、それを受け取って生きるように、神様が私たちに、イエス・キリスト様の十字架の死によって、天国に受け入れて生きることが出来るようにしてくださる。この事が分かると、本当に神に信頼し、神に対する信仰が深まってくる。そうしたら、もはや悪いことなんか出来なくってくる。そして神の前に義しいことをするようになるのではないかと思うのですが、どうでしょうか。

これこそ、まさにこのマルコによる福音書2章18節から22節が言わんとしていることそのもののように思われます。バプテスマのヨハネの弟子たちやパリサイ人、また人々たちも、神に受け入れられるためは、敬虔な行ないをしなければならないとそう思っていました。だからこそ、神について語り、神の国について語るイエス・キリスト様の弟子立ちが、そのような敬虔な行ないである断食をしないのか不思議だったのです。けれども、イエス・キリスト様はそのような人々に対して、神に受け入れられるための敬虔な行為などはないのだというのです。神に受け入れられているからこそ、人々は敬虔な行ないを行うようになるのだとそう言うのです。もちろん、そのような考え方は、当時の常識を全く越えたものですし、当時の人には考えも及ばなかったようなことです。それは、旧約時代のユダヤ教の信仰とイエス・キリスト様がもたらしたキリスト教の信仰のまさに境目にあるものだといえます。旧約時代の生き方から、新約時代の生き方の境目であると言っても良いのかも知れません。

だからこそ、イエス・キリスト様は、「だれも、真新しい布切れを古い着物に縫いつけはしない。もしそうであるならば、新しいつぎは古い着物を引き破り、そして破れがもっとひどくなる。また、だれも、新しいぶどう酒を古い皮袋に入れはしない。そうすれば、ぶどう酒は皮袋をはり裂き、そしてぶどう酒も皮袋も無駄になってしまう。」とそう言われるのです。その境目は、二つのものを分ける境界線です。境界線に立つとき、私たちは、その境界線のどちら側も見渡すことが出来ます。そして境界線があるということは、そこには境界線で分けられる二つのものがともに接しあっています。つまり繋がって連続性があるのです。ですから、パリサイ人やバプテスマのヨハネの弟子立ち、あるいはその当時のユダヤ教の人々の信仰とイエス・キリスト様がもたらした信仰とは繋がっています。どちらも同じ神を信じ、同じ旧約聖書を正典としてうけいれているのです。そして、そのどちらにもその根底に流れているものは神の義しさと神の愛です。だからこそ、イエス・キリスト様も、「しかし、花婿が奪い去られる日が来る。その日には断食するであろう」といって、断食を否定なさらないのです。神に目を向け、神を信じる者の生き方として、その敬虔さを表現する方法としての断食をするということは、どちらにも共通したものです。

しかし、その意味や、目的は異なっているのです。それはまさにイエス・キリスト様と言うお方を境目にして、二つに分かれているのです。そういった意味では、このマルコによる福音書2章の場面に立つ人々は、その境目にあって自分はどこに立つのかということが問われていると言えます。まさに、彼らは境目にたつ信仰が求められたのです。そして、境目に立つときに自分がどこに立っているかと言うことをチャンと見極めていないと、大変なことになります。この場面において、私たちは、ともすれば、新しいぶどう酒は新しい皮袋に入れるべきであるとして、古いものを否定的に見てしまう傾向があります。実際、この場面では、イエス・キリスト様によって、新しい時代が始まったのですから、それは新しい信仰の在り方や理解といったものが大切であると言われている事は間違いありません。そういった意味では、新しいぶどう酒を新しい皮袋に入れることをしなければなりません。けれども、同時に、イエス・キリスト様は、「だれも、真新しい布切れを古い着物に縫いつけはしない。もしそうであるならば、新しいつぎは古い着物を引き破り、そして破れがもっとひどくなる。」とも、おっしゃられるのですそれは、古い着物を継ぐためには、古い布切れでなければならないと言うことでもあります。それは、どんなに真新しいものでも、それを継ぎ当として使ってはならないし、また使うことは出来ないと言うことです。

そもそも、古い着物に継ぎを当ててまで使うと言うことは、それが古くてぼろぼろになったからと言って、捨てることが出来ないと言うことです。捨てられない理由はいろいろあるでしょう。けれどの、捨ててしまうと大変だからこそ、それを継ぎ当てしてまでもつかうのだろうと思います。そのように、新しいものではどうしても継ぐことのできない大切なものもあるのです。ラインホルド・ニーバーという神学者の有名な神学者がいます。そのラインホルド・ニーバーのお祈りが残されていますが、その祈りの言葉は、次ぎのようになっています。「神よ、変えられないことを静かに受容する慎みを、変えるべきことを変えていく勇気を、そしてこの二つを見分ける知恵を、私たちにお与えください。」このラインホルド・ニーバーの祈りは、まさに信仰には変えてはならないものとかえなえればならないものがあり、それを見極めなければならない信仰の境目にたつことがある。その時に自分が立つべきところをしっかりと見極めさせてくだいという祈りです。

ニーバーと言う人は、エール大学を出て牧師なった人で、もっとも近代的な神学を学んだ人です。その近代的な神学では、神の国、すなわち天国は、死んだ後の世界でもなければ、やがてイエス・キリスト様が再び来られるときにもたらされるという将来の希望でもありませんでした。それは、人間理性を働かせ、だんだんと良くなっていくことによって、この地上が平和で豊かな天国となるのだという、social gospel(社会福音)といったものでした。けれどの、どんなにそのような理想を掲げても、現実の人間の罪深さや愚かさ、貪欲さは変わらない現実を突きつけられて、彼はもっとも新しい、近代的な神学では立ちゆかないことに気づくのです。最終的にニーバーが落ち着いたところの神学的立場は、私同じような保守主義の信仰ではありませんでした。けれども、ニーバーもまた変えてはならないことと変えなければならないものの境目にたって、自分はどうあるべきかを探求した一人であったことは間違いがありません。そのように、私たちは、様々な場面で信仰の境目に立たなければならないのです。今まで通りにやっていくのか、新しいものに向って生きていくのか。あるいは、何を変えるべきで何を変えてはならないのか。そのような境目にたって、自分の信仰や信仰の在り方が問われるのです。

私たちの教会も、そういった意味では境目にあります。私が赴任してきて6年目になりますが、私にとってこの教会の設立者である加藤亨牧師は、恩師でもあり、尊敬する牧師の一人でもあります。そして、決して越えることが出来ない存在であると思っています。ですから、私は加藤先生と同じことは出来なし、同じように出来ないと言うことも自覚しています。だからこそ、この三鷹教会の歩みの中で、加藤先生が積み上げてくださったものの中で、変えてはならないものをしっかりと見極めながら、その中で、自分が出来ることは何かを考えなければならないと思ってきましたし、今もそう思っています。そういった意味では、私自身も境目に立っていますし、教会も境目に立っていると言えるだろうと思います。そして、教会がそのような境目に立っているからこそ、私たちは、先程のニーバーの祈りにあるように、しっかりと見極めることの出来る知恵を神様から与えて頂きたいと思うのです。そのために、私だけではない、皆さんで心を一つに会わせたいと思うのです。

キリスト教会では、ともすれば「新しいぶどう酒は新しい皮袋へ」という言葉を取り上げて、新しい風潮や新しい信仰の運動が良いもののように取り上げられる傾向があります。しかし、大切なのは、新しいからと言って飛びつくのではなく、「境目にあって、神様に正しい判断が出来るように」と、神に祈り求めていくことなのです。もちろん、教会だけではない、私たち一人一人の人生においても境目となる局面があります。進学や就職、結婚などは、まさに人生の転機となる境目ともいえる出来事だといえます。あるいは、ほかにもさまざまな人生の岐路における分岐点があり、その都度その都度、私たちは、選択し、決断し、歩みを勧めていかなければなりません。そのようなときに、本当に大切なことは、自分がどこに立っているのかと言う、自分の立つべき所をちゃんと持っていると言うことなのです。

今日の礼拝でお読み致しました、このマルコによる福音書2章18節から22節はそのような信仰に境目にたつ場面で、私たちがどこに土台をおいて立つかと言うことの大切さを問いかけています。そして、少なくとも、聖書は、その土台がイエス・キリスト様の十字架の死にあると言っています。「しかし、花婿が奪い去られる日が来る。その日には断食するであろう」という言葉は、私たちの土台は、イエス・キリスト様の十字架の死にあると言うことです。そして、そのイエス・キリスト様の十字架の死が指し示しているものは、神の恵みと愛なのです。それは、私たちが、頑張ることが出来なくても、力無く弱々しくても、100%私たちに赦しを与え、恵みを与え、100%守ってくださる神の恵みと愛です。この神の恵みと愛を信頼するところから、キリスト教の信仰は始まるのです。ここに立つならば、私たちはどのような信仰の境目に立っても、誤ることは無いだろうと思います。仮に誤ることがあっても、また人間ですから必ず誤ることがあるだろうと思うのですが、必ず立ち返ることが出来るだろうと思うのです。

それは立ち返ることの出来る神の愛と恵みを持っているからです。この愛と恵みが、私たちが立つ足をしっかりと支えてくれるのです。ですから、この神の愛と恵みを信じ信頼して歩んでいきたいと思います。そういった意味では、境目に立つ信仰とは、自分自身が頑張って何かをするということではなく、神の温かい懐に抱かれることなのです。

お祈りしましょう。