三鷹教会のロゴ メッセージ

羊飼い 『安息日の恵み』
マルコによる福音書 2章23−28節
2006/1/22 説教者 濱和弘
賛美  新聖歌 341、35、426

さて、今朝の聖書の箇所は、安息日に関する規定について、イエス・キリスト様が論争なさった箇所です。従来、イエス・キリスト様が生きておられた時代には、パリサイ派の人々たちによる厳しい律法主義がひかれ、様々な戒律に人々は縛られ、苦しんでいたとそう言われてまいりました。ところが、近年、イエス・キリスト様が生きておられた時代のユダヤ教は、もっと緩やかな律法主義ではなかったかというような見方も出てくるようになりました。しかし、それでも、割礼と何を食べてはならないかといった食物規定、そして安息日の規定は、厳しく求められていたというのです。それは、これらの、割礼、食物規定、安息日の規定が、ユダヤ人がユダヤ人であることの民族的アイデンティティーの関わる問題だったからです。そういうわけで、こんにちでも、厳格なユダヤ教の方々は、この安息日の規定をきちっと守っておられるようです。

安息日というのは、私達の感覚では日曜日のように思ってしまいますが、聖書における安息日は、ユダヤの習慣に基づいていますから、金曜日の夕方から、土曜日の夕方までです。この金曜日の夕方から土曜日の夕方までの間、厳格なユダヤの方々は、許されている範囲のことは、一切の労働と思われる行為は行わないのです。私は、実際にイスラエルに行ったことがありませんので、自分では経験したことがないのですが、イスラエルでは、安息日には、エレベーターが動かないことがあるといった話を聞いたことがあります。それは、エレバーターのボタンを押すことが労働と見なされるからです。この教会でも、イスラエルに行かれた方が何名かおられますし、先週までは佐々木修養生も、聖書学院の卒業旅行でイスラエルに言っておられましたので、ひょっとしたらエレベーターが動かないで不自由をするといったことを経験なさったかも知れません。

ともかくも、安息日の規定を厳格に守るということは、とても重要なことだと考えられていたのです。ところが、その安息日の規定を、イエス・キリスト様の弟子たちが破っているのです。どのように破ったかと言いますと、23節にありますように「安息日に麦畑の中をとおっているときに、その麦畑にある麦の穂を取って食べた」というのです。それは、麦の穂を積むということが、労働と見なされたから(「ミシュナー」シャバット7:2)です。私たちにしてみますと、他人の畑の麦の穂を摘んで食べると言ったことは、労働であるかそうか以前に、それは盗みになりますから、それ自体、やってはいけないことであるように思われます。

最近の高校、特に東京都内の高校ではやっているかどうか分かりませんが、私が通っていた高校では、秋になると毎年マラソン大会がありした。インターネットで確認しましたが、今でも10月にやっているようです。そのマラソン大会のスタート前に、その当時、必ず、体育の先生がする注意がありました。それは、「お前ら、絶対に畑のトマトやキュウリをとって食べるな」と言うことでした。私の高校は田舎にありますから、マラソンコースも畑の中を通っています。いえ12kmのマラソンコースの大部分が畑の中だといっても良い状態です。そんなわけで、走っていてちょっと疲れると、畑に入ってと何やらを失敬する人間が、毎年、何人か居るようなのです。そんなわけで、近所の農家から苦情か何かが着ていたんだろうと思います。それで、先程の「お前ら、絶対に畑のトマトやキュウリをとって食べるな」と言う注意になったんだろうと思うのです。あろうとなかろうと、私どもの国では、人様の畑の農作物を勝手にとって食べてはなりません。ところが、イスラエルの国では、安息日以外では、他人の畑の農作物を摘んで食べてもかまわないのです。さすがに鎌を入れて刈り取ると言ったことは、赦されていませんが、麦の穂を摘んでその場で食べるとか、葡萄を摘んで食べるといったことは、彼らの行動の規範であった律法(神経着23:25)において、許されていたのです。

それは、貧しい人や、お腹がすいて困った人を助けるためであり、そうやって、人と人とが支え合い、暖かな人間関係で結ばれた心豊かな社会を気づきあげるためであったと言うことができるだろうと思います。つまり、イスラエルにおける律法とは、本来は人の心を豊かにし、私たちが生きていくのに、快い社会を生み出すのに役立つものであったのです。ところが、規則やきまりというものは、それが、いったん明文化されてしまいますと、その精神が忘れられ、規則の言葉だけが残ることがあります。そして、その言葉が、私たちの生活を締め付け、心地よい社会どころか、人間性それ自体を疎外してしまうことがあるのです。こんな事がありました。それは四国にいた時のことです。理由が何だったかは忘れましたが、私たち家族は、遠方に出かけ、用事を済ませて、かなり強い雨の夜に車で家に向って走っていました。それは、余り馴染みのない道でしたが、かなり見通しの良い道で、私は車のヘッドライトが来てないのを確認しながらT字路を曲がりました。すると、突然、パトカーがサイレンを鳴らしてやってきて、一旦停止違反だというのです。どうやらパトカーはヘッドライトを消して、一旦停車違反をする車を待っていたようです。そんなわけで、私は一旦停止違反で、罰金を払うハメになってしまいました。

もちろん、交通違反は違反ですから、仕方がないと言えば仕方がないことです。ですから、罰金はしはらったのですが、しかし、私には何だか釈然としない重いが心に残りました。その釈然としない理由は二つあります。ひとつは、雨の夜道とはいえ、車が来ているかどうかは確認できる程の見通しのきく道で、確かに車が全く通っていない状況で曲がったのに対して、その道でヘッドライトを消してパトカーが待ち伏せしていたこと。もうひとつは、一旦停止の表示が余りよく分からないような形になっていたことです。実際、一旦停止の表示に私は全く気づきませんでした。そこで、パトカーに乗っていた警察官の方に、一旦停止の掲示がなかったじゃないかと言ったのですが、警察官の方は、大きく出てますよというのです。それで、最初は私の見落としかなと思ったのですが、余り釈然としないので、何日か後、そちら方面に行く用事があったとき、わざわざ遠回りして、問題の場所に行ってみましたが、どう見ても分かり易い表示とは言えないものでした。そんなわけで、未だに釈然としないのですが、要は、交通法規は、本来、交通の運行を円滑にし、危険行為をなくし交通事故から私たちを守るためにあるものです。ところが、見通しも良い交差点で、見通しがよいからこそ、車のヘッドライトを消してじっと身を潜めて違反者を待っているのです。

その方が、ずっと道路交通上、危険な行為のように思えます。そして、それは交通規則の本来の趣旨からはずれて、規則のための規則、取り締まりのための取り締まりになっているような感じがして、未だにその時のことが釈然としないのです。もちろん、だからといって規則を守らなくて良いと言うことではありません。しかし、規則やきまりには、それが定められた趣旨というものがあるのですし、規則のために規則があるのではなく、私たちが気持ちよく、安心して生活していくことが出来るために規則や決りといったものがあるのです。いわば、私たちのために規則や決まり事があるのです。同じように、イスラエルのおける律法といったものも、本来は人の心を豊かにし、私たちが神と人との関わり合いの中で生きていくのに、快い社会を生み出すのに役立つものであったのです。ところが、規則が一旦規則として定められると、その規則の本質が見失われていってしまって、ただ人を規制するためのものになってしまっているという、まさにそのような状況が、今日の聖書の箇所の中にあるのです。

つまり、安息日に関わる律法、これは、モーセの十戒の中にある決りですが、それを機械的に取り扱って、人々の行為を規制し縛りつけている、パリサイ派の人々を「安息日は、人のためにあるもので、人が安息日のためにあるのではない。それだから人の子は安息日にも主なのである。」と言って戒められるのです。つまり、いかに、あるいはどのようにして安息日規定を守るかと言うことを求めているパリサイ派の人たちに対して、イエス・キリスト様は、どうして安息日の規定が定められたかを問われたのです。そのことを、明らかにするために、イエス・キリスト様は、イスラエルの人々が心から尊敬し、誇りとしているダビデ王のことを引き合いに出します。それが25節にある次のような言葉です。「あなたがたは、ダビデとその共のものが、食物がなくて飢えたとき、ダビデがないのをしたか読んだことがないの。すなわち大祭司アビアタルの時、神に家に入って、祭司たちのほか食べてはならぬ備えのパンを、自分も食べ、また共の者にも与えたではないか」。この、ダビデが祭司以外に食べてはならない備えのパンを食べたという出来事はサムエル記上の21章1節から6節までに記されている出来事だと思われます。それは、ダビデが、自分の仕えていたサウル王の嫉妬にあい、命を狙われると言う事態に陥り、ノブという町に逃れていった時に、祭司アヒメレクに頼んで、祭司しか食べることのできない備えのパンをわけてもらったと言う出来事です。

当然、この祭司しか食べてはならないパンを食べたからと言って、ダビデが神から裁きを受けたなどと言ったことが旧約聖書に書かれている訳ではありません。それは、本当に食べるに窮している者に対する憐れみは、規則を越えたものであることの実例だと言えます。イエス・キリスト様は、そのダビデの例を挙げながら、規則やきまりのために、人が拘束されるのではない、規則はあくまでも人を生かすためのものあるということをお示しになるのです。そのうえで、「安息日は、人のためにあるもので、人が安息日のためにあるのではない。」といって、安息日を守るために人が存在するのではなく、人の心が豊かに、また平安に過ごせるために安息日があるのだというのです。その安息日に関する規定、すなわち安息日に労働をしてはならないということは、旧約聖書出エジプト記20章8節〜11節にある、いわゆるモーセの十戒の第四戒によります。それは次のような戒めです。「安息日を覚えて、これを聖とせよ。六日のあいだはたらいてあなたのすべてのわざをせよ。七日目はあなたの神、主の安息であるから、なんのわざをしてはならない。あなたもあなたのむすこ、娘、しもべ、はしため、家畜、またあなたの門のうちにいる他国の人もそうである。主は六日のうちに天と地と海と、その中のすべてのものを造って、七日目に休まれたからである。それで主は安息日を祝福して聖とされた。」

ここに記されている理由は、神が創造の業をすべて終えられ休まれたから、私たちもそれに倣って休息の時を持ちなさいと言うことです。しなければならないことの全ては終わったからこそ、休息の時を持つのです。ところが、実際にしなければならないことが終わったから休息の時を持つということであれば、私たちは、必ずしも一週間ごとに仕事の区切りがつくわけではありません。実際、しなければならないことは際限なくあり、しなければならないことを終えたから、休息の時を持つというならば、きっと私たちは休息の時を持つことなどないのかも知れません。ですから、安息日は仕事を終えた後の休息という意味だけではないようです。それではどうしてかというと、主が安息日を聖とされたからだというのです。聖ということは、清いと言うことです。そしてそれは、その日は神のための日であると言うことです。考えてみますと、神が六日間創造なさったことの全ては、ある意味、私たちのための働きであったと言えます。神は、私たちのための、生活空間や環境の全てを神が備えて下さり、その創造の最後に、私たち人間をお造りになってくださったのです。そういった意味では、天地創造の六日間は私たちのための六日間であったといえます。その業が終わった七日目に、神のための一日として、安息日があると言えます。ですから、この神のための一日に、私たちは、私たちに神がして下さったことを覚え、神をたたえ、神に感謝するのです。

それは、私たちが、今ここで、こうして生かされていると言うことを覚え、感謝し神をたたえると言うことでもあります。しかし、神が私たちにして下さったことは、単に創造のみ業と言うことだけに留まるものではありません。実は、この十戒は、出エジプト記20章だけではなく、旧約聖書の申命記五章にも書れているのです。その申命記の五章に記されたモーセの十戒の安息日の規定に関するところを読みますと、次のように書いてあります。「安息日を守って、これを聖とし、六日のあいだ働いて、あなたのすべてのわざをしなければならない。七日目はあなたの神、主の安息であるから、なんのわざをしてはならない。あなたも、あなたのむすこ、娘、しもべ、はしため、牛、ろば、家畜も、またあなたの門のうちにいる他国の人も同じである。こうしてあなたのしもべ、はしためを、あなたと同じようにやくませなければならない。あなたはかつてエジプトの地で奴隷であったが、あなたの神、主が強い手と、伸ばした腕とをもって、そこから導き出されたことを覚えなければならない。それゆえに、あなたの神、主は安息日を守ることを命じられるのである。」ここでは、先の出エジプト記とは違って、神様がエジプトのちで奴隷であったところから、あなたがたを救い出した下さったことを覚えて、安息日を守りなさいと言ってます。つまり、神様の創造の業を覚えて安息日を守ると言うことだけではなく、神様が私たちを救って下さったという、救いのみ業を覚えて安息日を守りなさいというのです。

つまり、神様は私たちが、創造のみ業に置いて私たちのために全てをなさって下さったと言うことだけでなく、救いのみ業に置いても全てのことを完全になさって下さったからこそ、安息日を、神のために一日として、神に捧げ、全ての働きを辞めて、神をたたえ、神に感謝し、神のことを心に思う日としなさいというのです。この神の救いのみ業が完全に成し遂げられたその出来事は、イエス・キリスト様の十字架の死と復活においてです。イエス・キリスト様は、私たちの罪の身代わりとなって、十字架の上で私たちの罪を身に負って磔となり死なれました。そして、三日後に死から甦られることによって、私たちの罪の救いを完全に成し遂げて下さったのです。ですから、申命記において語られている「あなたはかつてエジプトの地で奴隷であったが、あなたの神、主が強い手と、伸ばした腕とをもって、そこから導き出されたことを覚えなければならない。」と言われていることは、主イエス・キリスト様の十字架を指し示している予型(タイポロジー)だと言えます。そのようなわけで、本来、安息日は金曜の夕方から土曜日の夕方なのですが、私たちは日曜の朝、イエス・キリスト様が復活なさった日曜の朝にこうして礼拝を守るのです。

それは、イエス・キリスト様によって成し遂げられた救いのみ業を覚えると同時に、私たちが、神によって、神の子として新しく創造されたことを心にしっかりと覚えるためです。だからこそ、救いの完成である復活の日の朝である日曜日を、神のための一日として、神に捧げるのです。礼拝と訳されているレイトルギアという言葉が、神の民の奉仕と言う意味があるのは、きっとそのような意図があるからだろうと思います。神が私たちにして下さった救いのみ業を覚え、神の民として下さった新創造のみ業を覚え、礼拝をお仕えする一日として主日の礼拝を守るのです。ですから、主の日として礼拝を捧げるときに、私たちはイエス・キリスト様の十字架の死と復活のことを心に忘れてはなりません。それは、私たちが主の日である日曜日に礼拝を守るその中心的にある救いの出来事の完成だからです。そして、この救いの出来事を心に覚えながら、礼拝を捧げるとき、神のための一日は、私たちのための一日と変えられます。なぜなら、十字架に命を投げ出してまで、私たちを救おうとして下さったイエス・キリスト様の十字架の死は、私たちに対する深い神の愛を示しているからです。そして、三日後に墓の中からイエス・キリスト様が蘇って下さったというその出来事は、神が私たちの全てを完全に受け入れて下さったというこのまぎれもない証だからです。

私たちが、主の日である、日曜日にそのことを心に覚えるならば、私たちは、様々な困難や苦しさ、悩みの中にあっても、支えられていくのではないだろうかと思うのです。自分が愛されていること、そして全て受け入れられていると言うことが分かるならば、それは私たちにとって大きな心の支えです。実際、私たちがいきていく環境を考えますと、単純に喜べない様々な問題があります。職場や地域の人間関係など、様々な問題や困難があり、悩みや心にズシッと重くのしかかってくるようなことがあるのです。そのような、状況の中だからこそ、私たちは神様の助けや慰め、励ましといったものが必要です。そして、その助けや慰め、励ましといったものは、愛されていると言うこと、受け入れられていると言うことを心が受け止めることによって得られるものなのです。だからこそ、主の日の礼拝は、私たちの心を豊かに支え、神と神を信じる神の民の交わりの時となりますし、そうしなければならないと思うのです。ですから、日曜日に礼拝を守ると言うことが、律法主義的な義務にしてはなりません。

そして、そのためには、この主の日の礼拝の中心に、人の子として十字架に架かって死んでくださったイエス・キリスト様のことが、絶えず語られ、思い起こされることが大切なのです。そして、礼拝に集う私たち一人一人が、イエス・キリスト様の十字架のことを心に覚えながら、礼拝に望むことが大切なのです。もちろん、色々な事情で、その主の日の礼拝に集えない方々がいらっしゃいます。病のために来ることが出来ない方もいらっしゃいます。今日のような雪のために、この場に集えないかたもいらっしゃれば、仕事や地域に奉仕のために集えない方もおられる。私たちは、そう言ったお一人お一人も、私たちのこの教会を築きあげているお一人お一人であることを覚え、同じイエス・キリスト様の十字架を見上げて、同じキリスト様の愛によって、互いに支え合い、慰め合いながら歩んでいきたいと思うのです。そして、そのような私たちの心を豊かにし、私たちの生活の中に潤いを与える礼拝の場に、一人でも多くのかたをお招きしたいとそう思います。礼拝は、私たちが神に対して、神を褒めたたえ、感謝を捧げる神に対する神の民の奉仕であると同時に、礼拝の中心におられるキリストが。私たちに深い愛を持って奉仕してくださっていることを確認し、慰めをいただき、支えをいただくための、私たちのための日でもあるのです。

お祈りしましょう。