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羊飼い 『素直な心を持って』
マルコによる福音書 3章1−6節
2006/2/5 説教者 濱和弘
賛美  新聖歌 11、309、450

さて、ただ今お読み頂きました箇所は、安息日にイエス・キリスト様が片手の不自由な人をおいやしになったことで、パリサイ派の人々が不満をいだいたという出来事が記されている所です。先々週の礼拝に起きましても、同じマルコによる福音書2章23節から28節までにおいて、イエス・キリスト様の弟子が、安息日に、麦の穂を摘んで食べたことが記されていました。安息日に麦の穂を摘んで食べると言うことは、当時のイスラエル社会では、してはならないことです。と申しますのも、安息には一切の労働をしてはならないことになっており、麦の穂を摘むというのは、そのしてはならない労働の一つと見なされていたからです。それなのにイエス・キリスト様の弟子たちは、そのルールを守らず、それでパリサイ派の人たちにとがめられたのです。

そのように、弟子たちをとがめるパリサイ派の人たちに対して「安息日は人のためにあるもので、人が安息日のためにあるのではない。」とそうおっしゃって、ご自分の弟子たちをかばうのです。言うまでもありませんが、「安息日は人のためにあるものだ」といっても、私たちが安息日を自分勝手に過ごしてもかまわないと言うことではありません。先々週もお話し致しましたが「安息日を聖」なる日として、これを尊ぶように定められたのは神様です。そして、そのように神様が安息日を聖なる日となさったのは、私たちが、神様が私たちを創造して下さったということを心に覚え感謝するためだといえます。また、それだけでなく、神様が私たちを助け、救って下さったことを心に深く覚えて、感謝と神様にお仕えする思いで、礼拝を捧げるためなのです。この神様の創造の業と、救いの業を心に覚えると言うことは、私たちにとって大きな恵みであり、素晴らしい益です。なぜなら、神様の創造の業と救いの業とは、神様の愛と慈しみによってなされたからです。

神様が、私たちを愛し、慈しんで下さっている。この事が、私たちの心に刻まれ、実感として感じ取られるならば、私たちにとって大きな力になります。神様の愛や慈しみと言ったものは、私たちを慰め励ましてくれるからです。だからこそ、神様は、安息日を聖なる日として、この世の一切のことから離れて、神を礼拝すべき日として捧げられるべきものなのです。それは、私たちが喜びと感謝の中で生きて行き、また慰めと励ましを受けて生きていく力となるのです。そういった意味でも、安息日は私たちのための特別な日であると言えます。しかし、パリサイ派と呼ばれる人たちは、安息日に労働をしないという形式を重んじて、安息日が持つ本来の意味と意図を見失ってしまっていました。そのような状況に対して、イエス・キリスト様は、安息日の意味と意義を「安息日は、人のためにあるのであって、人が安息日のためにあるのではない」と言う言葉で言い表しているのです。

同時に、この言葉は、当時のユダヤ教の人々がよって立つ権威に対する挑戦のような言葉でもありました。安息日に、麦の穂を摘むことは労働であるからしてはならないということは、彼らが受け継いだ教えでもありました。それは、安息日を聖なる日として一切の労働をしてはならないと言うことを解釈した権威ある律法学者達の解釈し、教え伝えた権威ある教えなのです。その権威に寄りかかってパリサイ派に人たちは、イエス・キリスト様の弟子たちを批判するのです。ところが、そのパリサイ派の人たちに対して、イエス・キリスト様は「安息日は、人のためにあるのであって、人が安息日のためにあるのではない」と真っ向から対立するのです。そして、「人の子は安息日にもまた主なのである。」といって、安息日がどのような日であり、どの用に守るべきかを定める権威は、私にあるのだと、そう主張なさり、宣言なさるのです。それは、いかなる権威にも優るところのイエス・キリスト様の権威の主張でもあります。

そのイエス・キリスト様のご宣言を自らが証しなさるような出来事が、起こってまいります。それが、今お読み頂きました。マルコによる福音書3章1節から6節までの出来事です。ここにおいて、イエス・キリスト様は、安息日に片手が不自由な人をお癒しになられるのです。当時のユダヤ教における理解においても、安息日に死にかけている病人やけが人を治療することは、許されていました。けれども、命の危険に至らないような病を癒すことは、当時の安息日に関する規定では、違法なものだと考えられていたのです。そのような中で、イエス・キリスト様は、まさにその安息日に片手の不自由な人に向って、「立って、中に出てきなさい」とそう言われるのです。もちろん、そう言われるのは、その人を癒そうという意思の表れです。まさに、弟子たちが安息日のルールをやぶったと非難を受けたように、イエス・キリスト様ご自身もまた、安息日のルールを破ろうとしているのです。その時、イエス・キリスト様は「安息日に善を行うのと悪を行うのと、命を救うのと殺すのと、どちらがよいか」とそう質問を投げかけます。

この質問に、皆さんならどうお答えになるでしょうか。やっぱり、悪を行うよりも、善を行う方が善いと思いますし、殺すよりも、命を救う方がよい」とそう思われるだろうとおもいますがどうでしょうか…。私もそう思います。確かに、この聖書の箇所でイエス・キリスト様がお癒しなさろうとしている人は、片手が不自由なひとであり、今すぐ治療をしなければ助からないといった訳ではありません。けれども、イエス・キリスト様は「安息日に善を行うのと悪を行うのと、命を救うのと殺すのと、どちらがよいか」といって、「善を行うのと悪を行うのとどちらがよいか」、ということと「命を救うのと殺すのと、どちらがよいか」ということを並列的に二つ並べて問われているのです。当然、そこには当時の安息日に関する規則に置いて「安息日であっても命を救うことはしても良い」と定められているならば、同じように「安息日に善いことをしても良い」ではないかというイエス・キリスト様の隠れた声を聞くことができます。

そして、片手が不自由な人にとって、その病が癒されると言うことは善いことなのです。喜ばしい出来事なのです。その善いことをイエス・キリスト様はなそうとしているのです。ところが、そのようなイエス・キリスト様の問いかけに、パリサイ派の人々は沈黙を守ります。この沈黙は、イエス・キリスト様に対する拒絶です。黙殺と言う言葉がありますが、彼らは、沈黙することで、イエス・キリスト様の語る言葉を拒絶したのです。私は、片手の不自由な人を真ん中に立たせ、「安息日に善を行うのと悪を行うのと、命を救うのと殺すのと、どちらがよいか」と問われたイエス・キリスト様の行動を言葉は、パリサイ派の人たちに対する、挑戦ではなかったとそう思います。その挑戦は、決して攻撃的な意味での挑戦ではなく、深い慈しみを持って彼らの心に悔い改めを語りかける意味でのチャレンジであったように思うのです。古い権威主義や自分たちはパリサイ派という宗教的には立派な立場にあるというプライドを捨てて、素直な心で、イエス・キリスト様の語る言葉に耳を傾けて聞くものとなるようにという、そういう挑戦(チャレンジ)であったように思うのです。

だからこそ、「安息日に善を行うのと悪を行うのと、命を救うのと殺すのと、どちらがよいか」と問いかけられたイエス・キリスト様の言葉に沈黙を守り、黙殺するパリサイ派の人々の姿に、イエス・キリスト様は、怒り、その心のかたくなさを嘆かれたのではないでしょうか。私たちは、人間としての誇りを持つことは大切です。誇りを持つことは、私たち一人一人が尊厳ある存在であることの証だからです。しかし、その誇りが、私たちの心をかたくなにし、神様が語りかける言葉に固く心を閉ざしてしまうならば、それは問題です。私たちの心は、神様に向ってはいつの素直に開かれていなければならないのです。神様の語りかける言葉、それは、聖書の言葉です。ですから、私たちの心は、聖書の言葉にいつも向けられていなければなりません。時には、聖書の言葉は、私たちの誇りや自尊心を粉々に打ち砕くように語りかけてくることもあります。そんなときでも、しっかりとその語りかけてくる言葉に耳を傾ける必要があるのです。この、聖書の言葉は、一人一人の信仰生活の中で聖書を読む中で直接的に心に響いてくることもあります。

しかし、そのような直接的なものだけではありません。クリスチャン同士の交わりの中を通しても、私たちに語りかけてくるものでもあるのです。私には、大切な友人が何人かいます。彼らは私にとって本当に大切な友人なのですが、彼らを心から大切だと思えるのは、実に率直な意見をしてくれるからです。そして、そのような率直な意見は、往々にして私にとって耳の居たいものであることが多いのです。その大切な友人の中には、もちろんクリスチャンの友人もいます。当然、彼らの率直な意見というのは、聖書の言葉に支えられた言葉です。そういった意味では、直接的ではない間接的にではありますが、私を教え導く神様のお心が感じられるものなのです。

先だっても、その大切な友人の一人と礼拝のことについて、話し合っていました。もちろん、私も牧師ですから、礼拝について考えていないわけではありません。この三鷹キリスト教会の牧師として、教会の礼拝がどうあるべきか、どうなっていって欲しいかということを心に思い、考えています。しかし、そう言った中で、その友人の言葉を聞きながら、なるほど気づかずにいたこと、見落としていることなどが随分あるなと言うことに気づかされました。そして、本当に、礼拝が、神様を恐れ敬い、心静まって神の前に進みでる礼拝、そして心から神に仕える礼拝を、皆さんと共に捧げていくために、もっと心を配っていかなければならないなぁと思わされたのです。それは、この三鷹教会の礼拝がそうあるべきか、どうなっていって欲しいかという方向性だけではなく、礼拝そのものの中心にある生命線的な内容だからです。そういった意味では、みなさんともっと深く静まり、もっともおと神と交わり、もっと深く心の奥底までに染み渡る喜びに満ちた礼拝を捧げるために、礼拝の在り方や説教に取り組まなければならないと思うのです。

そのようなことは、直接聖書の言葉を読んでいて気づいたと言うことではありません。むしろ、語り合う交わりの中で、色々な意見やアドバイスの言葉の中で、自分では気づかなかった違った見方があることや、あるいはそれを見落としていたことに気づいたのです。今日の、聖書の箇所を見ますと、イエス・キリスト様は会堂に入られた、そのただ中で、片手が不自由な人を真ん中に立たせ、そしてパリサイ派の人々に語りかけています。まさに民のただ中で語られているのです。そのように、神の言葉は、一人静まる中で聖書を通して語られると同時に、教会という神の民の交わりのただ中で、私たちを教え導かれるものでもあります。だからこそ、イエス・キリスト様は、教会という神の民の交わりを残していかれたのです。一人一人が個人の信仰生活の中で神の言葉を聞くと言うことだけではなく、神の民の交わりである教会をお建てになられたのです。そうやって、私たち一人一人が、神の民の交わりの中で育まれ、育っていくのです。

それは、時には礼拝の説教の言葉であることもあります。また時には、私たちの交わりの中で語られる言葉であったり、あるいは証の中で語られた言葉であったりします。そういった意味では、私たちは、語る側としては人を生かす言葉を語らなければなりませんし、聞く側としては、自分を生かすための素直な心を持たなければならないと思うのです。もちろん、その語られる言葉は、聖書の中に読みとれる神の意志や、クリスチャンの信仰の在り方と言ったことから逸脱したものであってはならないことは明らかです。ですから、そこには、しっかりとした信仰が根ざしていなければなりません。そして、相手に対する深い愛と思いやり、そして配慮が必要だと思うのです。たとえば、今日の聖書の箇所のイエス・キリスト様の言葉の中に見いだせるものです。先程も申しましたように、「安息日に善を行うのと悪を行うのと、命を救うのと殺すのと、どちらがよいか」と問いかけられたイエス・キリスト様の言葉には、深い慈しみと配慮が感じられます。

イエス、キリスト様が会堂に入られたとき、イエス・キリスト様を見つめる目は敵意に満ちたものであったと聖書は記しています。3章1節2節にある、「イエスが会堂にはいられると、そこに片手のなえた人がいた。人々はイエスを訴えようと思って、安息日にその人をいやされるかどうかをうかがっていた。」と言う言葉が、その敵意を示しています。しかし、そのような敵意のあるまなざしに対して、イエス・キリスト様は「安息日に善を行うのと悪を行うのと、命を救うのと殺すのと、どちらがよいか」問いかけるのです。それは、単にパイサイ派の人々を責め立て叱責するのではなく、「あなたはどう思いますか」と、むしろ相手の心に語りかけ、相手の心に自発的に気づかせるような配慮ある問いかけのように思われるのです。もちろん、これは推察に過ぎませんが、このとき、イエス・キリスト様は片手の不自由な人を癒そうとしています。いわば、この片手の不自由な人を中心にして、安息日であっても人のために生きる生き方と、自分のために安息日を生きる生き方を対比しながら、どちらが神様に喜ばれる生き方でしょうかと問いかけているようにすら思われるのです。

そういった意味では、まさに、安息日の規定を巡って、神に喜ばれる生き方は何かを、イエス・キリスト様はパリサイ派の人とたちに教えよう、気づかせようとしておられるといえます。それは、神様の前に、パリサイ派の人たちを生かすためでもあります。イエス・キリスト様は、ご自身の行動と彼らに対する問いかけを通して、ユダヤ主義的民族意識と、宗教的選民意識の中で、自分自身のために安息日律法を守っていきているパリサイ派の人に、神と人に喜ばれる生き方というのをお示しになられておられるのです。もとより、パリサイ派の人たちの心の中に、神様に対する意識がないわけではありません。神様を意識するからこそ、厳格に律法を守り、宗教的な生き方に徹しようとしていたのです。ただ、それが自分だけのことに向けられてしまっているがために、本当に神様がお喜びになられることが何かを見失ってしまっているのです。だからこそ、私は、パリサイ派の人々に、何とか神と人に喜ばれる生き方が何であるかを気づかせようと、わざわざ安息日に、片手の不自由な人を癒やそうとし、「安息日に善を行うのと悪を行うのと、命を救うのと殺すのと、どちらがよいか」と問いかけられたイエス・キリスト様のお心に、深い慈しみと配慮が感じるのです。

イエス・キリスト様は私たちの信仰の模範であり、私たちが目指すべき目標です。ですから、神様を信じ、イエス・キリスト様を信じた私たちは、このお方に倣うものとなることが大切です。そして、教会はそのようなイエス・キリスト様に倣う者達の集まる群れです。ですから、教会ではお互いを生かし、お互いの信仰の成長のためになる言葉が語られていかなければならないと思うのです。私が、この三鷹教会に赴任してきて6年が過ぎようとしています。その6年間を通して、私が心がけてきたことの一つに、いろんなことが言い合える教会にしていきたい。いろんなことが言い合える教会で在り続けたいと言うことです。いろんなことが言い合えるということは、一面の危険性があります。最近の朝日新聞のコマーシャルではありませんが、言葉は容易に人を傷つけるからです。けれども、相手のことを思い、相手の苦しみや悩みまでも、共に共有し、相手を生かそうとする思いでいるならば、その言葉には、当然、思いやりや配慮が込められています。

ときには、その言葉の内容に厳しいこともあることもあるだろうと思うのです。けれども、その言葉に相手のことを思い、相手を生かそうとする思いがあるならば、きっとその厳しさは乗り越えられるだろうと思います。そう言いながら、実は私は、加藤亨先生のことを思い出しています。先生は、時には実に厳しいことを語られました。個人的にも、礼拝の説教の言葉としてもそうでした。けれども、その厳しい言葉の背後には、教会員一人一人のことを本当に思い、一人のクリスチャンとして一人一人が生かされるようにという思いがあったとそう思うのです。だからこそ、私たちはその言葉の厳しさを乗り越えて、耳を傾けることが出来たのではないだろうかと思うのです。そして、それは教会という場において語られるべき言葉だったのだろうと思うのです。そのような、相手を思い、相手を生かし成長させるような言葉が教会で語られ、互いにその言葉を、素直な心で受け止めるならば、きっと教会は私たちに取って、喜びの場であり続けるだろうと思います。

もし、イエス・キリスト様がパリサイ派の人たちに、「安息日に善を行うのと悪を行うのと、命を救うのと殺すのと、どちらがよいか」と問いかけられた時に、彼らが素直な心でその言葉を受け取っていたならば、彼らの生き方は変わっていたはずです。彼らの持つユダヤ主義的民族意識と、宗教的選民意識から解放されて、もっと自然な、神に創造されたものとして、自由に生きられただろうと思うのです。そのような自由さの中で、安息日を過ごすならば、彼らは、ひたすら自分のユダヤ人という宗教的選民意識を維持し、神の選びの民として生きるために、安息日を守ると言ったことはなかっただろうと思います。むしろ、神様の愛と恵の中に、生かされているからこそ、安息日を聖なる日として、神を礼拝し、神と交わり、神を褒め讃える日としていただろうと思うのです。そして、そこから、イエス・キリスト様が他者のために生きられたように、キリストの弟子として、他の誰かのために生きることが出来る人になっただろうと思うのです。

誰かのために生きる生き方。それは神と人とに喜ばれる生き方です。もし、私たちが、聖書を通して語られる神の言葉に耳を傾けるならば、また教会という神の民の群れの中で語られる、神の言葉に根ざした言葉に、耳を傾け素直な心でその言葉を受け止めるならば、私たちは、神と人とに喜ばれる者に変えられます。そして、私たちは、このことを心に銘記し負ければならないと思います。それはイエス・キリスト様の言葉に、素直の心を開き受け入れず、拒否したものは、イエス・キリスト様を殺そうと企んだということです。人が人を殺すことを相談するということはゆゆしきことですあり、最も醜く、最も恐ろしい罪の姿です。イエス・キリスト様の言葉を拒絶し締め出した心には、そのような心が芽生えてきたのです。もちろん、イエス・キリスト様を受け入れない人々がみんな、人を殺そうというような計画を相談するといった暴論をいうつもりはありません。しかし、たとえパリサイ派のような神を意識して生きていた人々でさえ、イエス・キリスト様の言葉を受け入れなかったときに、彼らが最も大切にしていた律法、特にその基本中の基本であるモーセの十戒に記されている「殺してはならない」という律法を犯してしまおうとするのです。

もちろん、神様はそのようなことを、望んでおられるわけはありません。けれども、それほどまでに、私たち人間は弱いのです。その弱い人間である私たちが、誰かのためにいき、神と人とによろこばれるような神の民となっていくために、こうしてこの三鷹教会に呼び集められている、私たちはその一人一人なのです。

お祈りしましょう。