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羊飼い 『神の子の秘密』
マルコによる福音書 3章7−12節
2006/2/12 説教者 濱和弘
賛美  新聖歌 2、342、266

さて、今朝お読み頂いた聖書の箇所は、イエス・キリスト様の周りに、多くの人たちが押し寄せるように集まってきたことと、汚れた霊たちが、イエス・キリスト様の前に「あなたは、神の子です。」とそう叫んだ出来事について記されています。そして、その二つの出来事の締めくくりとして、イエス・キリストは12節にありますように「イエスはご自身のことを人にあらわさないようにと、彼らを厳しく戒められた。」というのです。このように、ご自分のことを人に知らせないようにとか、イエス・キリストは、人々から身を隠されるといった記事が、マルコによる福音書には多く見られます。たとえば、マルコによる福音書5章35節から43節には、死んでしまった会堂司の娘に、イエス・キリスト様が「タリタ・クミ(少女よ、さあ起きなさい)といった、よみがえらせると言った出来事が記されています。その最後の43節には「イエスは、だれにもこの事を知らすなと、厳しく彼らに命じ、また、少女に食物を与えるようにと言われた。」と書かれています。また8章27節から30節には、「あなたこそキリストです。」という信仰告白をしたペテロに対して、ここでもまた「するとイエスは、自分のことをだれにもいってはいけない、と彼らを戒められた」と、そういうのです。

いったい、なぜイエス・キリスト様は自分のことを人に言ってはならないといわれるのか。ご自分このことに秘密にしようとようとなされたのか。このことに、興味を持ってあれこれ考えた神学者達がいました。その中の一人といいますか、その走りとなった人はヴーレデという人です。彼は、このような、「人に言ってはいけない」といった出来事は、実際にあったことではないと言います。というのも、彼は、実在のイエス・キリスト様ご自身は、自分がメシヤであるなどと考えたことはなく、後の教会の人たちがイエス・キリスト様をメシヤとして祭り上げたのだというのです。そして、実際の実在したイエスと言う人と、彼らが神の子あり救い主に祭り上げたイエス・キリストと間にある矛盾のつじつまを合わせるために、イエス・キリスト様は「誰にも言ってはならない」といわれ、ご自分がメシアであること秘密にされたと言う話が作られたのだというのです。もちろん、私たちは、このイエス・キリスト様の「誰にもいってはならない」ということばを、ヴーレデのようには考えません。

しかし、あえて、このヴーレデのことをお話ししたのは、そこに重大な点があるからです。それは聖書の読み方に関するものです。今、ご紹介しましたヴーレデは、聖書を信仰の書として読み解くのではなく、文献として、近代的な考え方を通して、聖書の背後にある人間の歴史を読み解こうとしました。その結果、先程申しましたような聖書の理解となったわけです。けれども、聖書は文献でもありますが、それ以上に信仰の書です。我々クリスチャンが信仰によってたつところの正典です。そこにあるものは、神が人に如何に関わろうとしたという神の歴史であり、神の目から見た人間の姿なのです。近代的な考え方からすれば、奇跡的な業や癒やし、あるいは神が人となったなどと言うことは、超自然的なことで、考え難いことです。それは人間の歴史には起こりえないことだからです。

けれども、聖書は、人に関わられた神の歴史なのです。この神は、父と子と聖霊との三位一体の神です。その三位一体なる神における子なる神が、まさに人と関わられるために人となられたお方が、イエス・キリスト様なのです。その神の子の歴史が新約聖書に福音書として記されました。ですから、少なくとも、イエス・キリスト様を救い主として信じ生きるクリスチャンの群れである教会において、聖書が読まれるときには、私たちの近代的な考え方で、聖書に書かれていることを検討するのではなく、聖書に書かれているそのものが、私たちに語りかけてくるメッセージを読み解いていかなければなりません。少なくとも、それが教会における聖書の読み方でありますし、私たちクリスチャンの聖書の読み方だと言えます。そこで、今日の聖書の箇所ですが、この箇所はそういった意味では、神の子であるイエスキリスト様のお姿が描かれ、また神の目から見た人間の姿が書かれている箇所であると言えます。

ここにおいて、イエス・キリスト様は、多くの人に取り囲まれます。「おびただしい群衆がついて回った」とか、「イエスは、群衆が自分に押し迫るのを避けるために、小舟を用意しておけと、弟子たちに命じられた」と書かれていますので、その数は相当数であっただろうと思われます。しかも、エルサレムからイドマヤ、さらにはヨルダンの向こうからツロ、シドンのあたりからも、おびただしい群衆があつまっていたというのです。イドマヤというのは、ユダヤ人が敵視する民族であるエドム人の住む地ですし、ツロ、シドンというのは異邦人の地です。ですから、この時、イエス・キリスト様を取り囲んでいた群衆というのは、民族や国を超えて集まっていたと言えます。このように、民族や国を超えて敵対するものまでもが一つに集まってきたのは、ただ一つ、病の癒しを求めてでした。10節に「それは(イエス・キリスト様は)多くの人をいやされたので、病苦に悩むものは皆イエスにさわろうとして、押し寄せてきたからである。」とある通りです。

実際、今日の聖書の箇所の7節の直前の3章1節から6節には、イエス・キリスト様が安息日に片手の不自由な人をいやした出来事が記されていますように、マルコによる福音書には、多くの癒しの出来事が出ています。ですから、それこそ、イエス・キリスト様の評判は、国境を越え、民族を越えて、多くの人たちの耳に入っていたのでしょう。だからこそ、この聖書の箇所にあるように、いろいろな国の色々な民族の人々がイエス・キリスト様のもとに集まって生きたのだろうと思うのです。病の苦しみや悲しみの中で、いやされたいと思う気持ちは、時代を超え地域を越えて、全ての人の心の中にあるものです。もちろん、そのような私たちを襲う悲しみや苦しみは、病と言ったものだけではありません。そこには、貧困や差別、あるいは孤独と言った社会的な問題もあります。また貧困とまでいかなくても、経済上の問題によって、悲しんだり苦しんだりすることがあります。そのような、悲しみや苦しみのなかで、私たちは救いを求めてキリストのもとにやってくるのです。そのようなキリストに対して、汚れた霊たちは、イエス・キリスト様をみるごとに、「あなたこそ神の子です。」とそう言うのです。

イエス・キリスト様に対する神の子という呼び方は、イエス・キリスト様が救い主メシヤであると言うことを指し示す呼び方であるといわれます。また同時に、それはこの世界を統べ治めたもう王たるお方であることを示すものでもあります。マルコによる福音書には、この神の子という表現は、そう多く使われておらず、本文に含まれるかどうか議論のある1章1節を含んでも4回しか使われていません。しかも、その1章1節意外の全てが、イエス・キリスト様が、ご自身に対してこの「神の子」という呼び方を用いられてはいないのです。それは、今日の聖書箇所にあるように、悪霊たちがイエス・キリスト様に対して「あなたは神の子です」そう告白している文脈で使われています。そして、この3章11節の「また汚れた霊どもは、イエスを見るごとに、み前にひれ伏し、叫んで『あなたこそ神の子です。』と言った」というのも、その一つなのです。

この「神の子」という呼び方は、当時のギリシャ・ローマを背景にした文化圏であるヘレニズムの世界で、奇跡を行う人という意味で使われた「神のような人」に通じるような言葉です。ですから、それこそ奇跡的な癒しを求めて集まって来ている群衆がイエス・キリスト様を取り巻いて、その後に付いていくような状況の中で、「あなたこそ神の子です。」と言う言葉を聞くならば、彼らは、まさに奇跡を行う人と思わせてしまうかもしれません。もとより、悪霊たちが、イエス・キリスト様を「あなたは神の子です。」と、そう叫んだのは、イエス・キリスト様が奇跡を行う人であると言う意味で、そのように言ったわけではありません。たとえ悪霊といえども、決して抗うことのできない、まさに全てを統べ治めたもう王なる神の一人子だからです。ですから、いやしを求めてくる人々が、イエス・キリスト様が奇跡的な癒しを求める人として誤解してしまうのを避けるために、「ご自身のことを人にあらわさないように」と言われたのかもしれません。イエス・キリスト様は、まさにこの世の全てを統べ治めたもう王なる神の一人子なる神なのです。

しかし、よしんば、癒しを求めてイエス・キリスト様のもとにやってきた人々が、イエス・キリスト様のことを、王なるかみの一人子なる神として理解したとしても、それが、イエス・キリスト様のお心を正しく理解できたかどうかは疑問です。というのも、先程も申しましたように、イエス・キリスト様ご自身は、ご自分に対しては「神の子」という呼び方をなさっていないからです。イエス・キリスト様は、ご自分に対しては「神の子」ではなく、むしろ「人の子」という呼び方を繰り返し、繰り返し使っておられます。それは、つまり、イエス・キリスト様ご自身は、人々の苦しみや悲しみの時でも、その苦しみや悲しみを、私たちと一緒に共に背負い、私たちと共に生きていく存在であろうとしておられるからだろうと思うのです。もちろん、苦しみや悲しみの時だけではない、喜びの時も、何も問題を感じないときでも、どんなときでも私たちと共にいて、共に歩んで下さるお方となろうとして下さっているのです。神の子であられるお方が、全く人と同じようになられ、その苦しみや悲しみを共に負ってくださるということも含んで、私たちと共に道行くものとなろうしておられるのです。

そうやって、共に苦しみ、共に悲しむ中で、私たちの苦しみや悲しみの根底にある人間の罪の問題に救いをもたらすために、神の子は人となられたのです。ところが、そのようなイエス・キリスト様のご意志とは別に、私たちは、私たちの具体的な問題解決して下さるお方であって欲しいとそう願い、イエス・キリスト様のもとにやってくるのです。具体的問題が解決するならば、それに伴う悲しみや苦しみも解決するからです。そのようなときに、イエス・キリスト様に求めるものは、苦しみや悲しみを共に負ってくれる「人の子」の姿ではありません。むしろ、実際生活のなかにある具体的な病や貧困といった問題を一刀両断に解決してくれる王であり、救い主なのです。病にしろ、貧困にしろ、あるいは心の悩みにしろ、その問題の解決してくれる救い主を求めるならば、問題が解決してしまえば、その救い主は、もう必要はありません。もちろん、問題を解決すれば感謝もされるでしょうし、喜ばれるでしょう。尊敬もされるでしょう。

そして、イエス・キリスト様は、そのような実際生活の問題を、解決に導いていって下さるお方であると言うこともまた事実です。実際、イエス・キリスト様のもとに癒しを求めてやってきて多くの人がいやされたということが聖書に記されているからです。しかし、イエス・キリスト様が本当に望まれたのは、そのような存在となることではありません。むしろ私たちと共に生き、共に歩まれる生き方を求められたのです。そうやって私たちの人生に寄り添いながら、私たちの人生を導いて下さる神の一人子なる神として、人々がイエス・キリスト様を信じ受け入れることを願っておられたのです。そして、そのようなお方として、イエス・キリスト様を私たちが信じ受け入れたときこそ、イエス・キリスト様が、本当の意味で、私たちの人生の王であり、また主権者となられたと言うことだろうと思うのです。イエス・キリスト様が自分の願いを聞き遂げてくれる相手であるとするならば、どんなにその存在を感謝し、喜び、尊敬したとしても、それは決して自分の王ではありません。むしろ、自分の願いの実現のために仕え支えてくれる支援者の一人にしか過ぎません。

そして、時折、私たちは、祈りの場に置いてイエス・キリスト様を、そのような自分の願いを実現するための支援者にしてしまっていることがあるように思うのですが、どうでしょうか。もしそうだとしたら、それは反省しなければならないことだと思います。けれども、イエス・キリスト様が、私たちの人生を、神のみまえに生きる、神の喜ばれる人生として導いていって下さる存在となるときに、キリスト様は、私たちの人生の主権者として王なる存在としての神の子となられるのです。もちろん、この私たちの主権者なる王であられる方は、王としての絶対的権力で私たちを支配し、従わせるお方ではありません。もしそうだとしたら、イエス・キリスト様は、ご自分のことを「人の子」とは決して呼ばなかったろうと思います。なのに、イエス・キリスト様は、ご自身を「人の子」と呼び、私たちに寄り添い、共に生きてくださるものとなってくださったのです。それはつまり、私たちは神に、盲目的にただひたすら、奴隷のように隷属して生きるものとはなさらなかったということです。

あくまでも、私たちが、自分自身に人生を、神の前に喜んで生きていく者となることが出来るように守り支えて下さるお方として、私たちを教え導いて言って下さるのです。ですから、自分の思うところを、このお方に素直に部受けることが出来ます。自分の素直な思いを、ありのたけを、イエス・キリスト様に祈ることが出来るのです。そして、そのように、自分のありのままの姿のままで、私たちが、神に喜ばれる人生を求めて生きるならば、イエス・キリスト様は、私たちが、悩み苦しむときに、私たちと共に悩み、共に苦しみながら、私たちを守り支えて下さいます。もちろん、私たちは、完全な人間ではありません。ですから神の前に、神に喜ばれる生き方をしたいと願っても、過ちも犯しますし、失敗もするでしょう。また、神様が私たちの人生にご計画を持っておられ、神の御心に沿って生きたいと思っていたとしても、必ずしも神様のご計画通りに私たちが生きていくことが出来ると言ったわけでもありません。

たとえば、自分はクリスチャンであるという明確な自覚のもとにあっても、罪の誘惑に勝てないことだってあるのです。そのような弱さを、私たちは持っています。けれどの、そのような弱さを持っている私たちを、イエス・キリスト様は、いつも赦し、支え、私たちを神のみ前に生きていけるようにと、とりなしていて下さっているではありませんか。同じように、私たちが、私たちが、神のみ前で私たちの人生で過ちを犯し、失敗することがあっても、イエス・キリスト様は決して私たちを見捨てて離れるようなお方ではないのです。また、疲れて休みたくなるときに、決して頑張れと鞭打つお方でもありません。そのような私たちの弱さを知り、共に歩んで言って下さるお方なのです。だからこそ、イエス・キリスト様は、ご自分のことを「神の子」として、お示しになることを控え、あえて、ご自分を「人の子」と呼ばれたのです。ですから、私たちは、そのようなイエス・キリスト様のお心をきちんと、心に留めたいと思います。それは、私たちが、イエス・キリスト様のことを誤って理解しないためです。

今日の聖書の箇所に置いて、イエス・キリスト様は誤解され、まちがった理解をされる危険の中に置かれていました。汚れた霊たちが、イエスキリスト様を「神の子」と呼ぶときに、それは、病をいやす奇跡を起す神のような人だと誤解される危険性があったのです。あるいは、それは、具体的な現実の問題を、この世を統べ治めたもう王として、具体的に解決してくれる存在として期待されるものであったかも知れません。たとえば、その当時のユダヤ人にとっては、政治的にローマの植民地とされていた中にあって、政治的解放者であり、繁栄をもたらしてくれる王としての期待にも繋がっていくものでした。しかし、イエス・キリスト様が一番望んでおられるのは、私たちが神のみ前に神に喜ばれる人生の同伴者となられることです。そのために、イエス・キリスト様は、私たちの身代わりとなって十字架にかかって死んでくださり、私たちが罪赦されて、神のみ前に生きることが出来る者として下さったのです。

ですから、まず、私たちは、この事をしって、私たちの罪を赦し、罪から解放してくださる救い主としてイエス・キリスト様をこころに信じ、受け入れる所から出発しなければなければなりません。そして、そこから出発して、このお方を自分の人生の主権者として受け入れ、人生に同伴者として共に歩んでいく歩みに進んでいくのです。当然、一人一人の人生は異なるものです。ですから、こうして神の家族として、この場に集められている皆さん一人一人の人生も様々です。また、それゆえに主イエス・キリスト様がお一人お一人を導いていかれる導き方も様々でしょう。でも、そのような、一人一人と共に生きてくださるイエス・キリスト様は、一つです。だからこそ、私たちは、このイエス・キリスト様を通じて、一人一人が様々な人生を送りながらも、一つの三鷹キリスト教会として、この教会に結ばれているのです。そして、そのように私たち一人一人が、イエス・キリスト様と共に生きていくように、私たちも一つの教会として結ばれているからこそ、私たちは、イエス・キリスト様を、教会の主権者として、このお方と共に生きていきたいと思います。

それは、私たち一人一人の願いや、牧師の願いが実現されるためのものであってはなりません。むしろ、イエス・キリスト様というお方のお心を思い、そのお心に添って生きたいと願うところから始まります。そして、そのイエス・キリスト様が持っておられる御心を知ると言うことは、私たちが心を澄まして、神を礼拝し神の言葉である聖書の言葉に耳を傾ける姿勢から始まるのです。そして、この神の言葉を中心に、互いに言葉を掛け合う中で、見出され、一つに結ばれていくものなのです。もちろん、イエス・キリスト様というお方のお心を思い、そのお心に添って生きたいと思っても、個人的に、そうできないときもあります。頑張れない時も、疲れ切って一歩も前に進めないときもあります。そして、もし、そのような人が教会にいれば、教会もまた、そこで立ち止まって休めばいいのです。なぜならば、わたしたちが、頑張れない時ならば、また立ち止まって休んでいるならば、イエス・キリスト様は私たちと共にいて、ともに立ち止まってくださるお方だからです。

お祈りしましょう。