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羊飼い 『12使徒の選び』
マルコによる福音書 3章13−19節
2006/2/19 説教者 濱和弘
賛美  新聖歌 21、137、428

さて、今朝、司式の兄弟からお読みいただきました、聖書の箇所はイエス・キリスト様が12使徒と呼ばれる直弟子12人をお選びになった所です。私たちが12使徒と言いますと、何か特別な存在であるかのように思います。実際、彼らは、イエス・キリスト様の弟子立ちの中にあっては中心的な役割を果たした人たちであったろう事は、聖書にわざわざ、このような選びの記事と共に、個人名が挙げられていることからも容易に想像が出来ることです。この12使徒の選びに関して、マルコは2つのことを述べています。一つは、イエス・キリスト様ご自身が望まれた12人であったということ。二つ目は、彼らはイエス・キリスト様のもとに置かれたと言うことです。そこで、今日は、この2つのことから、キリストの弟子となる資格と言うことについて考えてみたいと思います。というのも、選ばれた12弟子が、イエス・キリスト様の弟子たちの集団の中心的人物になっていったということは、彼らの姿に、私たちがイエス・キリスト様の弟子となっていくためには、何が大切なのかということが、この12使徒の選びという出来事に見いだせるのではないかと考えるからです。

それは、イエス・キリスト様によって罪が赦され、神の子とされた者は、同時にイエス・キリスト様の弟子となってこの世の中で生きていかなければならないからです。そこで、第一のことですが、それは12使徒には、イエス・キリスト様が望んだ人が選ばれていると言うことです。では、一体イエス・キリスト様はどのような人を望まれたかというと、12使徒に選ばれた人から判断するしかありません。ところが、その12使徒の中で、この人はこんな人物だと、はっきり分かる人は、そう多くはありません。というのも、12使徒の中の何人かをのぞいては、断片的な事以外は、いったいどんな人であったについては、確かなことが余りよく分かっていないからです。たとえば、熱心党のシモンと言う人などは、熱心党という、ユダヤ民族の独立のためには、それこそ民族紛争をも起し得ないような過激な民族主義的グループには言っていたと言うことは分かりますが、それ以外のことは良くわかりません。

ほかにも、バルトロマイと言う人も、その名前から、おそらくタルマイという人の子供であったろうという事は分かりますが、それ以外のことはわかりません。ヨハネによる福音書の1章に出てくるナタナエルという人と同一人物ではないかと言う人もいますが、それも定かではありません。また、ピリポやアンデレなどは、比較的聖書の中に名前が出てくる方ですが、名前が出てくるというだけで、その人物の人柄や能力といったものはほとんどわかりません。聖書は、これらの人をはじめとして、ダタイやアルパヨの子ヤコブ、あるいはトマスと言った人がどのような人かを、ほとんど告げていないのです。ところが、ほとんど何も告げられていないと言うことが、実は大きな情報だということも出来ます。つまり、彼らは、特筆すべきようなことが、ほとんどないごく普通の人々だったと言うことです。

私たちが学校で、歴史を習うとき、大体特別なことが起きた事については、歴史の出来事として学びますし、特別なことをした人の名前は学びます。けれども、特別なことがない、ごく普通人々の生活でおこった、ごく当たり前の事は、それこそ教科書にも載っていませんし、ごく普通の人の事などは、当然書かれているはずもありません。それは、書くべき特別なことがないからです。そういった意味から言えば、イエス・キリスト様が12使徒に選ぼうと望まれた人々は、取り立てて何もない、当時のごく普通の人々だったのです。普通、宗教一般に置きましては、教祖に続くその高弟たちや指導者となっていく人物は、実に素晴らしい人物として描かれます。まさに弟子の模範となるべき素晴らしい立派な信仰の偉人、特別な人として、その偉人伝が後々まで、伝えられていく傾向がみられるのです。

ところが、聖書は、12弟子を全く特別な人としてとしては描いていません。むしろ、あえて特筆すべきこととして、挙げられていることは、ゼベタイの子ヤコブとヨハネが、雷の子を意味するボアネルゲというあだ名を付けられるような人物であったということや、シモンという男は熱心党員であったとか、イスカリオテのユダという男は、イエス・キリスト様を裏切った男であると言うことなのです。雷の子ボアネルゲと言うあだ名は、どうやら、このゼベタイのヤコブとヨハネという人は、実に気が短く怒りっぽい性格だったからのようです。そのかれらの気が短い怒りっぽい性格が現われている出来事が、ルカによる福音書9章51節から56節までに書かれています。そこにはこのよう書かれています。

「さて、イエスが天に上げられる日が近づいたので、エルサレムに行こうと決意して、その方へ顔を向けられ、自分に先立って使者をおつかわしになった。そして、彼らがサマリヤ人の村に入っていき、イエスのために準備しようとしたところ、村人は、エルサレムに向って進んでいかれるというので、イエスを歓迎しようとはしなかった。弟子のヤコブとヨハネとはそれを見て言った、『主よ、いかがでしょう。彼らを焼き払ってしまうように、天から火をよびよせましょうか』。イエスは振り返って、彼らをおしかりになった。そして一同はほかの村に入った。」自分たちを歓迎してくれないからといって、「主よ、いかがでしょう。彼らを焼き払ってしまうように、天から火をよびよせましょうか」などと考えるのは、いかにも、いかにもです。まさに雷の子のあだ名にふさわしい、短期で怒りっぽい性格を伺わせる出来事だといえます。ですから、雷の子ボアネルゲというあだ名は、決してほめられたあだ名ではなかったのです。また熱心党のシモンもそうです。熱心党というのは、ユダヤ民族がローマの支配下から解放され、民族の独立とユダヤ人の国家の独立と自治のためには暴力革命も辞さないと言った過激な面を持つ連中の集まりでした。今日的な言い方をすれば、テロ集団に近い思想を持った物騒な連中です。

もちろん、当時のユダヤ人の愛国意識から見れば、全く受け入れられない存在ではなかったかも知れません。しかし、色々な暴動や反乱をおこすといった面は、やはり余り誉められたものではなかったと思います。さらには、イエス・キリスト様を銀30枚で売ったイスカリオテのユダにいたっては言うまでもありません。それ以外にも、ペテロは、大祭司に捉えられ、裁判にかけられようとするイエス・キリスト様を前にして、「あなたはキリストの弟子でしょうと」と問われると、3度も知らないとしらを切ったような人ですし、マタイは、当時の人から嫌われ軽蔑されていた取税人でした。そう言ったことを考えると、イエス・キリスト様が自分の直弟子である12使徒にと望まれ多人たちというのは、ごく普通の人々であり、またごく普通の人々よりも、むしろ問題のある人々を選ばれたと言うことができます。イエス・キリスト様は、決して能力があるとか、立派で高潔な人を12使徒となる人材の条件として望んではいなかったのです。それは、裏を返せば、ごく普通の人々である私たちも、キリストの弟子となることが出来ると言うことが出来ます。

ですから、私たちは、ただ単に、イエス・キリスト様の恵みと憐れみによって、罪を赦して頂き、神の子として頂いたというだけではありません。もっと積極的にイエス・キリスト様の弟子となるべく選ばれた存在であるということも出来るのです。このことにおいて、つまりイエス・キリスト様の弟子となると言うことにおいて、私たちは、自分にはそんな資格はありませんと言うことはできません。あの12使徒職ですら、その人材としてイエス・キリスト様が求められたのは、ごく普通のありふれた人々や、むしろ問題があるような人だったではありませんか。だとすれば、私たちはイエス・キリスト様の弟子として選ばれる資格がないなどとは、到底言える者ではありません。そして、イエス・キリスト様は、私たちに、イエス・キリスト様の弟子になるようにと望み、求められておられるのです。もちろん、イエス・キリスト様の弟子となるべく望まれ、求められているからと言って、即座に弟子ふさわしいことが出来るかというと、そう言うわけには行きません。イエス・キリスト様の弟子としてふさわしい者となるためには、弟子となるための訓練が必要です。

そこで二つ目のことですが、イエス・キリスト様は12使徒に選ばれたものたちは、イエス・キリスト様のそばに置かれたと言うことです。イエス・キリスト様が、お選びになった12使徒を、ご自身のそばに置かれた理由は、弟子たちを福音の宣教につかわし、また悪霊たちを追い出す権威をもたせるためであったと聖書はそう告げています。それは、イエス・キリストの弟子となると言うことはどういう事かということを私たちに教えてくれています。弟子としてなすべき事は何かを教えてくれているといっても良いかも知れません。イエス・キリスト様の弟子としてなすべき事、それは福音の宣教であり、悪霊を追い出すことなのです。ただ、ここで悪霊を追い出すことを、その言葉通りに何やらエクソシスト的なことを行うことと捉えるべきではないだろうと思います。もちろん、私は悪霊の存在を否定する者ではありません。確かに悪霊と言った存在は、イエス・キリスト様の時代にも、今日にも存在していると思います。けれども、聖書のこのマルコによる福音書3章15節に、12使徒に悪霊を追い出す権威をお与えなろうとなさったからと行って、イエス・キリスト様が、弟子たちに悪霊払いの祈祷師のような存在になることを望まれたと考える必要はないと思うのです。

今日、私たち福音主義という立場にたつ人々の中にも、一部に悪霊を追い出すと言ったことや奇跡を行うことで、神の大能の力と権威を見せ、それをもって伝道の業を推し進めて行こうとする人々がいますが、ここにおいては、宣教と悪霊を追い出すと言うことは、弟子がなすべき二つのこととして並列的に記されています。ですから、福音宣教のために悪霊を追い出すと言った方法があると言うわけではなく、その両方を行っていくのが弟子としての生き方なのだというのです。そこで、この悪霊を追い出すと言うことですが、イエス・キリスト様が悪霊を追い出すといったことは、悪霊につかれた人の悲しみや苦しみを深く哀れまれたからです。ですから、イエス・キリスト様が12使徒たちに悪霊を追い出す権威を持たせようとなされたのは、何よりもまず、苦しみや悲しみの中にある人に、心を寄せ、その人の悲しみや苦しみを共に負い、そこから解放させてあげる事であったと言っても良いだろうと思うのです。

大切なのは、ただ単に行為としての悪霊を追い出すと言うことではないのです。むしろ、イエス・キリスト様の弟子たちにとって本当に大切なことは、イエス・キリスト様が悪霊につかれたといって、家族に伴われてイエス・キリスト様のもとに連れてこられた多くの人々や、墓に縛られて人々から疎外されていた人に寄せられた、深い憐れみと愛の心なのです。「悪霊を追い払う権威を持たせるためであった」と言う言葉の背後には、そのようなイエス・キリスト様のお心があることを忘れてはなりませんし、その心が弟子たちに求められているのです。つまり、イエス・キリスト様の弟子がなすべき事は、福音の宣教と神の愛とあわれみを社会の中で具体的に行っていくことであるということができます。それは、私たちの魂に救いを与え、社会の中で抑圧された、苦しみ悲しんでいる心に、慰めや平安を与え、また具体的に神の愛を実践していくことです。そのような、弟子となるために、私たちは弟子となるために選ばれ、弟子となるための訓練を受ける必要があるのです。もっとも、私は、今日の説教の準備をしながら、この訓練という言葉を使うことに、躊躇を感じ、大きな抵抗を感じていました。

むしろ、この訓練という言葉を使いたくなかったのです。というのも、キリスト教会の中で、近年、弟子訓練と言う言葉が使われるのですが、その言葉の中に、訓練される弟子と訓練する立場の牧師といったニュアンスが感じ取られるようなケースもあるからです。場合によっては、弟子訓練というのが、イエス・キリスト様の弟子となるためのものではなく、牧師の弟子を作るための訓練と言ったものになってしまっていることも全くないとは言えないように思える状況させ存在すると言わざる終えないケースも見られます。しかし、聖書が行っていることは、牧師が訓練するのでもなく、イエス・キリスト様が弟子立ちを育てていっておられるのです。ですから、本当のクリスチャンの弟子訓練とは、イエス・キリスト様ご自身のお側に身を置き、イエス・キリスト様ご自身から教え、育まれることだと言えます。

ところが、そうは言っても、私たち一人一人が、イエス・キリスト様の弟子として選ばれているといっても、今の教会においては、あの12使徒のように、直接イエス・キリスト様のお声を聞きすることはできません。そのような中で、いったい、私たち三鷹キリスト教会に集う一人一人は、どのようにしてイエス・キリスト様によって、育てていただけばよいのでしょうか。こうして、この教会に集う一人一人は、父なる神のご意志により、イエス・キリスト様の深い憐れみの中で、罪の赦しの中に導かれている一人一人です。そして、それは皆さんがイエス・キリスト様から望まれ、弟子となることを求められているお一人お一人であると言うことでもあります。そのお一人お一人がどのようにして、イエス・キリスト様のお側で教えられ、育まれていくのか。確かに、今日、私たちはイエス・キリスト様のお姿を見、イエス・キリスト様のお声を聞くことはできません。けれども、イエス・キリスト様の御臨在は、私たちと共にあるのです。

マタイによる福音書18章19節から20節には、このように書かれています。「またよく言っておく、もしあなたがたのうちふたりが、どんな願い事についても地上で心を合わせるなら、天にいますわたしの父は、それをかなえて下さるであろう。また、ふたりまたは三人が、私の名によって集まっている所には、私もその中にいるのである。」これは、イエス・キリスト様の言葉です。「ふたりまたは三人が、私の名によって集まっている所には、私もその中にいるのである。」ということは、教会という場にイエス・キリスト様の御臨在がるということです。教会とは、神を信じる人たちの群れだからです。その教会について、アウグスブルグ信仰告白の第8条でこう言っています。「教会とは、聖徒の会衆であり、福音が純粋に語られ、聖礼典が福音に従って正しく執行されるのである。そして、教会の真の一致は、福音の教理と聖礼典の執行に関する一致があれば足りる。」信仰告白とは、私たちが何を信じるかと言うことを言い表したものですが、それが聖書に基礎づけられていなければ空しいものです。アウグスブルグ信仰告白というのは、プロテスタント教会の基礎となる信仰告白ですが、それはまさに、聖書を基礎に置いて私たちの信仰を捉えようとした宗教改革に根ざした信仰告白だと言えます。

そして、そのアウグスブルグ信仰告白は、まさに神を信じる者が集い、福音が語られ、聖礼典、すなわち、洗礼と、聖餐が福音に従って行われているところが教会であると言っているのです。いうなれば、教会という神の民の結びつきがあり、その神の民が礼拝を守り捧げるところに教会が存在すると言うことです。ですから、私たちが教会に集い礼拝を捧げるときに、私たちはイエス・キリスト様の御臨在と共にあると言えます。まさに礼拝の場に集うとき、私たちはイエス・キリスト様のみ側に身を置いているのです。そう考えますと、今、私たちの時代に、私たちがイエス・キリスト様のお姿を直接形として見、イエス・キリスト様の直接音声としてお声を聞くことはできないことは、私たちにとって恵みなのかもれません。世界中の福音が語られ、聖礼典が福音に従って執行される全ての教会にイエス・キリスト様のご臨在があるからです。そしてその教会に集う、全てのクリスチャンが、イエス・キリスト様の弟子として、教え育まれることが出来ます。もちろん、私たちもです。

私たちは、イエス・キリスト様のみ側に身を置く礼拝の場で、私たちはイエス・キリスト様に教えられ育まれるのです。だからこそ、私たちは礼拝を大切にしなければなりません。礼拝において、イエス・キリスト様が私たちを教え導く声に耳を傾けなければならないのです。そうやって、私たちは礼拝に集い、礼拝の場に御臨在下さっているイエス・キリスト様のみ側に身を置き、教え育まれていく中で、イエス・キリスト様に望まれ、イエス・キリスト様の弟子として選んで頂いた私たちは、その弟子としてふさわしい存在に変えられていくのです。先程の12弟子に選ばれた中のゼベタイの子ヤコブとヨハネは、雷の子ボアネルゲと呼ばれるほどに気の短い怒りっぽい性格の荒い男たちでした。けれどの、そのヨハネは、晩年「愛の使徒」と呼ばれるものに代えられたのです。

まさに、イエス・キリスト様の深い憐れみの心、慈しみの心、愛の心を持つ者となったのです。そのヨハネが12使徒の一人となるように望まれ、選ばれたイエス・キリスト様が、そのヨハネを12使徒にふさわしい人間に変えて下さったのです。同じイエス・キリスト様が私たちを弟子として選んで下さっています。そして、私たちにイエス・キリスト様の弟子になることを望まれ、弟子として選んで下さっているお方が、ヨハネのように私たちを弟子にふさわしい者へと変えて下さいます。キリストの弟子にふさわしい者へと育てていって下さるのです。ですから、そのことを信じ、心から礼拝を捧げ、主イエス・キリスト様が、私たちを教え導いて下さるその導きにしたがっていきたいと思います。

お祈りしましょう。