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羊飼い 『出来事を見る目』
マルコによる福音書 3章20−30節
2006/3/5 説教者 濱和弘
賛美  新聖歌 218、344、428

さて、今日の聖書の箇所は、イエス・キリスト様を人々がどのように見ていたかと言うことを伺い知ることが出来るような箇所です。マルコによる福音書を最初から読んでまいりますと、イエス・キリスト様が語られた言葉と、なされた行ないは、人々の中に、大きな驚きと困惑をもたらしていたことがわかります。たとえば、それは「驚き」という言葉で言い表されています。例えば、マルコによる福音書1章21節22節には、このように書かれています。「それから、彼らはカペナウムに行った。そして安息日にすぐ、イエスは会堂にはいって教えられた。人々はその教えに驚いた。律法学者たちのようにではなく、権威ある者のように、教えられたからである。」あるいは、1章27節には、イエス・キリスト様が汚れた霊につかれた人から、その汚れた霊を追い出されたのを見た人々が、「驚きにあまりに論じあっていた」と書かれています。

また。2章に入りますと、1節から12節までにおいて、イエス・キリスト様は、ご自身の中に罪を赦す権威があることをお示しになりながら、そのことを証するかのようにして中風を患っていた人をお癒やしになました。この時にも、人々の内に驚きがあったことが、マルコによる福音書2章12節に記されています。このように、イエス・キリスト様の語られた言葉や行動は、人々に驚きを持って受け止められていたのです。驚きという感情は、今までに経験したことのないような出来事に出くわしたときに心に起こる感情です。初めて見る、初めて聞くといった、そのような経験をしたときに私たちは「驚き」を感じるのです。しかし、驚きは同時に困惑をもたらします。というのも、「初めて見る」、「初めて聞く」のですから、その初めてであった事をどのように受け止め、理解し評価したらいいかと言うことに困惑するのです。

たとえば、そのような困惑は、2章13節から17節の中に見られます。ここには、イエス・キリスト様は、取税人や、罪人と呼ばれる人々と一緒に食事の席に着かれた事が書かれています。このように、取税人と呼ばれる人たちは、当時のユダヤ人社会では、人々から嫌われていた人たちでした。また罪人代々ばれていた人たちは、人々、特に宗教的には、厳格にまじめに生きていたパリサイ派の人々から疎外されていました。そのような人たちとは、普通、食事の席を共にすると行ったことはしないのですが、その取税人や罪人と呼ばれる人たちを、ぞろぞろと引きつれ、一緒に食事をするイエス・キリスト様のお姿に、パリサイ派の人々は困惑するのです。もちろん、イエス・キリスト様自身が取税人であり、罪人と呼ばれるような人であるならば、パリサイ派の人々も困惑はしなかっただろうと思います。しかし、このお方は、権威ある者のように教えを語り、人々を癒やし、悪霊を追い出すといったことまでして見せているお方なのです。その人が、人々が忌みきらう人たちと食事を共にしていると言う出来事を目にして、パリサイ派の人たちは困惑せざるを得ないのです。

それは、イエス・キリスト様が聖なるものをもって、もっとも汚れた世界のただ中に飛び込んで行かれたからです。本来は聖なるものは、罪や汚れといったものとは無縁なはずなのに、その聖なるものを、罪や汚れと言ったもののただ中に持ち込んだのです。また、そのような困惑は、パリサイ派と呼ばれる宗教的に厳格な人たちだけではなく、ごく普通の人々の中にも広まって行っていました。同じマルコによる福音書2章18節以降には、断食をするかしないかと言う問題で、人々が、イエス・キリスト様と言うお方に対して困惑している様子が伺えます。それは、イエス・キリスト様の弟子たちが、みんなが断食をする時に、みんなと一緒に断食をしないといった当時の宗教的慣習を打ち破るようなことをしていたからです。もちろん、断食をしていなかったのはイエス・キリスト様の弟子たちですが、弟子がそうしないのは、その師たる存在の教えによるものです。ですから、そのように、弟子たちに長い伝統と歴史に裏打ちされた宗教的慣習を守らせないイエス・キリスト様の教えと生き方に、人々は困惑しているのです。

そのような、困惑の中で、確かに取税人や罪人といった人々、あるいは、病に冒された人々や悪霊に憑かれた人たちは、好意を持って受け止め、喜びを持って迎え入れたことは容易に想像できますし、また理解も出来ます。しかし、まじめに、かつ厳格に信仰生活を生きていたパリサイ派の人たちや、ユダヤ人のもつ歴史と伝統に裏付けられた普通の生活を送っている、いわゆる中産階級の人々は、そうはいかないのです。むしろ、イエス・キリスト様を好意的には受け取れないのです。そのような状況が、このマルコによる福音書3章20節から30節に現われてきているといっても良いだろうと思います。20節を見ますと「イエスが家にはいられると、群衆がまた集まってきたので、一同は食事をする暇もないほどであった。身内のものたちはこの事を聞いて、イエスを取り押さえに出てきた。気が狂ったと思ったからである。」となっています。この箇所のギリシャ語本文は、翻訳上二つの訳し方が可能です。ひとつは、イエス・キリスト様の家族が、「イエス・キリスト様のなされていることを聞いて気が狂ったと思って取り押さえに出てきた」という訳で、口語訳聖書は、そのような訳になっています。

もうひとつは、「イエス・キリスト様の気が狂った」と人々が言うのを聞いて、家族がイエス・キリスト様を取り押さえに来た」という二つの訳で、新改訳聖書の方は、そのように訳しています。しかし、いずれにしましても、イエス・キリスト様の家族も、また周囲の人々も、イエス・キリスト様のなされている好意を、常軌を逸脱した好まざるものと見ていたことは間違いがありません。だからこそ、「取り押さえに来たのです。」そして、イエス・キリスト様の家族も、周囲もイエス・キリスト様の語られた言葉や、なされていたことがらを「気が狂っている」からだと受け止め、理解していたというのです。そういった意味では、この時、人々や家族はイエス・キリスト様の言葉や行動を正しく理解していなかったと言えます。ある聖書を注解者は、この箇所において「気が狂ったと思った」ということを、このように説明していました。それは「余りにも宗教に懲りすぎて、常軌を逸している」という意味での「正気ではない」という意味であろうというのです。あるいは、似たような意味で、宣教の旅に出かけ、教えを語り、休む間や食事を取ることも出来ないほどに忙しくしている姿を見て、気が狂っているとしか思えないと捉えたのではないかと言う人もいます。

いずれにしても、罪人や取税人、病人や悪霊に憑かれた人といった周囲から嫌われ疎外されている人々に、熱心に教えを語り、病人を癒やし、悪霊を追い出しているイエス・キリスト様の姿は、なかなか理解し難いものとして映っていたというのです。確かに、私が信仰を持ち、クリスチャンになったとき、私の周囲からは「宗教を信じるのは良いが、ほどほどにしておけよ。」とか「あまり熱を上げすぎないように」とか「あまり深入りしないように」いった声が聞こえてきました。それは、信仰に対して熱心に生きる姿が、時として周囲の人からは常軌を逸した姿に映ることがあるのかも知れませんね。もちろん、あまりにも常軌を逸した狂信的な行為は非難されることがあっても仕方ありませんし、その非難は的を得ていると言えるだろうと思います。しかし、ここから神を信じ、イエス・キリスト様を信じ、恐れ敬いながら生きる生き方については、周囲から誤解されることを恐れてはなりません。イエス・キリスト様ですら、救い主としての使命の中で生きられたときに、家族や周りの人たちから誤解されたのです。

いずれにしても、この時、イエス・キリスト様の言葉や様々な行動は、人々や家族から理解されず、間違った受け止められ方をしていたのです。そのような中で、イエス・キリスト様のなさっていることに対して、「彼はベルゼブルにとりつかれている。」とか「悪霊どものかしらによって悪霊を追い出している」と言う人たちが出てきます。それはエルサレムから下ってきた律法学者たちです。律法学者というのは、旧約聖書に書いてある事々が、どのように理解されてきたかを研究し、それらが、今の具体的な生活にどのように適応させていくかということを研究する人たちです。ですから、この律法学者たちが語ることが、当時のユダヤの人たちの行動の規範となったのです。そういった意味からも、律法学者と呼ばれる人たちは、当時のユダヤ人社会の指導者層であったと言えます。実際、この律法学者たちは、イエス・キリスト様の時代の議会の多数を占めており、民衆に強い影響力を持っていたのです。その律法学者が、しかもエルサレムから下ってきたとわざわざ書いてあります。ですから、おそらく、この時点で、当時の宗教的指導者層が、イエス・キリスト様の言動に着目していたのだろうと思います。

そのエルサレムから下ってきた律法学者たちが、「彼はベルゼブルにとりつかれている。」とか「悪霊どものかしらによって悪霊を追い出している」と言っている言葉から、彼らのイエス・キリスト様に対する見解も、決して好意的でなかったことが分かります。当然と言えば当然です。イエス・キリスト様が罪人や取税人と一緒に食事をするとか、当時の宗教的慣習であった断食をすると言ったことや、安息日にしてはならないと行ったことを、イエス・キリスト様の弟子たちは公然と破っていたからです。ですから、律法学者たちがイエス・キリスト様に行為を持っていなかったことは十分あり得ることですし、彼らが、イエス・キリスト様のなさったことに対して、否定的なものの見方をすることは、十分に考えられますし、事実そうだったのです。それは、「彼はベルゼブルにとりつかれている。」とか「悪霊どものかしらによって悪霊を追い出している」と言っている言葉に、顕著に表れています。

「ベルゼブル」という存在が何者であるかについては、アラム語で「ハエ(虫のハエ)の王」という意味の「バアル・ゼブブ」であり、悪魔を指すものとなっていたと言われています。たしかに、ここにおいても、この後に続く言葉で、「悪霊どものかしらによって悪霊を追い出している」と言われていますから、このベルゼブルと言う存在が悪霊のかしら、悪魔としてとらえられているようです。そして、イエス・キリスト様が、その悪霊の頭である悪魔に取憑かれており、その力によって、悪霊を追い出しているのだというのです。このように、律法学者たちが、イエス・キリスト様のなされた業の中で、悪霊を追い出されたことを取り上げて、「彼はベルゼブルにとりつかれている。」といい「悪霊どものかしらによって悪霊を追い出している」と言ったのは、それが、イエス・キリスト様の神的権威の根拠として捉えられていたからだろうと思われます。実際、イエス・キリスト様から、追い出された悪霊たちは、「あなたは、神の子です。」(3章11節)とか「神の聖者です。」(1章24節)といって、イエス・キリスト様が神的な権威を告白しています。

そして、この悪霊を追い出すと言ったことや、病気を癒すと言ったことが、多くの群衆がイエス・キリスト様のあとをついて行く理由となっていっていたのです。だからこそ、この悪霊を追い出すといった出来事を、律法学者たちは「彼はベルゼブルにとりつかれている。」といい「悪霊どものかしらによって悪霊を追い出している」と言って、イエス・キリスト様を非難したのだろうと思われます。この律法学者たちの主張は、イエス・キリスト様のたとえ話で一蹴されます。つまり、「悪霊どもの頭の力で悪霊を追い出しているとするならば、それは悪魔が、自分からでた悪霊と闘うという、いわば内部分裂であって、その国は立ちゆかないというのです。」そもそも、いかに悪霊を追い出す業を行っても、悪霊に取憑かれている人は、そのことによって悪魔の支配のもとにあるのだから、わざわざ、その悪霊を追い出すことなど無駄なことです。もっとも強い存在である悪魔を縛り上げてこそ、その家の家財である悪霊に憑かれた人を奪い取ることができるのです。

ですから、実際に悪霊を追い出して、人を解放するという業が行われているのであるならば、それは、悪霊より強い存在の悪魔を縛り上げることの出来るそんな存在のお方だけであって、それはまさに神たる存在でしかないのです。そのように、イエス・キリスト様はご自身の神としての存在を示しながら、「よく言い聞かせておくが、人の子らには、その犯すすべての罪も神をけがす言葉も、ゆるされる。しかし、聖霊をけがす者は、いつまでもゆるされず、永遠の罪に定められる。」といわれるのです。人が犯すどんな罪を、また、神をけがす言葉まで赦されるのに、聖霊をけがす者はいつまでも赦されず、永遠の罪に定められるというのですから、聖霊をけがすと行ったことは、いかに大きな事であろうかと思います。それでは、実際に聖霊をけがすこととはどういったことなのでしょうか。その鍵は、30節の「そう言われたのは、彼らが『イエスは汚れた霊につかれている』と言っていたからである。」というイエス・キリスト様の言葉にあります。

律法学者たちは、イエス・キリスト様の語られた言葉や、なされた御業を「彼はベルゼブルにとりつかれている。」といい「悪霊どものかしらによって悪霊を追い出している」と言って、非難し拒絶しています。この、非難と拒絶は人々やイエス・キリスト様の家族が、イエス・キリスト様のなさっていることを理解できず、困惑の中で正気ではないと思ったこととは、根本的に違います。彼らは、イエス・キリスト様のことが理解できず、正気ではないと誤解していますが、イエス・キリスト様を拒絶しているわけではありません。しかし、律法学者たちは、イエス・キリスト様のなさっておられることを、「彼はベルゼブルにとりつかれ、悪霊どものかしらによって悪霊を追い出している」といって、意図的にイエス・キリスト様を非難し、拒絶したのです。そのような律法学者たちの姿を、イエス・キリスト様は「聖霊をけがす者」と呼んだのです。イエス・キリスト様は、ここであえて「聖霊」という言葉をお使いになりました。

もちろんそれは、イエス・キリスト様のなされた業の一つ一つは聖霊の力によるものであるからだということもできます。しかし、それと同時に、聖霊なる神がなされることは、何よりも私たちの救い主であるイエス・キリスト様を指し示すことです。聖霊なる神は、私たちに、イエス・キリスト様こそ、私たちを罪から救い出す救い主である、生ける真の神の子キリストであることを示し、教えてくださるお方なのです。考えてみますと、二千年も前の、しかも私たちの住む日本から遠く離れたイスラエルの地で、イエス・キリスト様が十字架に架かって死なれた出来事が、私の罪のためであると言われても、そうそう、「はい、そうですか」と信じ受け入れられるかというと、そうはいかないものです。つまり、神を信じ、イエス・キリスト様が、私たちの罪の救い主であるということ信じるということは、単純な理屈で理解し受け止められることではないのです。

けれどの、今日、こうしてこの礼拝に集っておられるみなさんお一人お一人は、そのような理屈を超えて、イエス・キリスト様を信じ受け入れ、そのイエス・キリスト様を崇め礼拝するために、ここに集っているのです。そのように、今日、この礼拝に集うようになった、この教会に集うようになった経緯は様々でしょう。また、その信仰の在り方やとらえ方も一人一人違っていると思います。けれどの、今日、こうして共に礼拝するに至った背後には、聖霊なる神の導きがあり、聖霊なる神が、私たちの心の内にイエス・キリストさまを教え示して下さったからなのです。神を信じ、イエス・キリスト様を信じると言うことは、困惑することだらけです。聖書を読んでいても、神というお方に困惑することはたくさんあります。時には誤解し、誤った理解をすることだってあるでしょう。しかし、私たちが、イエス・キリスト様の言葉と、そのなされた業、つまりイエス・キリストというお方によって引き起こされた出来事を意図的に拒否しようとしないで、しっかりと目を留めていくならば、私たちは決して、「聖霊をけがす者」と呼ばれることはないのです。

聖霊なる神は、いつも私たちの心にイエス・キリスト様を指し示し、イエス・キリスト様の語った言葉となされた御業を指し示しておられます。それはまさにイエス・キリスト様の御生涯という、歴史上の出来事です。そして、その出来事の頂点にあるのが、イエス・キリスト様の十字架と復活の出来事なのです。この事を信じることは、現代人の理性からすれば、それこそ正気ではないことのように思われるかもしれません。けれども、だからといって、私たちは、私たちの救い主であるイエス・キリストというお方を、現代の理性によって退けたり拒絶したりせず、このお方の見上げ、十字架の出来事が指し示す、私たちの罪の赦しを信じ仰ぎ見て生きていく者でありたいと思います。今日は、三月の第一主日の礼拝ですあり、聖餐式が持たれます。この聖餐式のパンと杯は、まさにイエス・キリスト様が十字架で裂かれた肉と血を指し示しています。そしてそのパンと杯に、十字架の上で死に、復活なさったイエス・キリスト様の御現臨があるのです。ですから、聖餐式のパンと杯を通して、私たちは、二千年前の出来事であるイエス・キリスト様の十字架の死という出来事を思い起こし、その出来事に目を注がなければなりません。そして、主イエス・キリスト様を私たちの罪の救い主キリストとして信じ受け入れて生きる一人一人でありたいと思います。

お祈りしましょう。