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羊飼い 『神の家族』
マルコによる福音書 3章31−35節
2006/3/26 説教者 濱和弘
賛美  新聖歌 18、220、143

さて、今日お読み頂きました聖書の箇所は、ちょっと間違えますと、キリスト教に対して、大きな誤解を与えかねない箇所であります。どういう誤解かと言いますと、キリスト教は家庭を捨てさせ崩壊させる宗教だと言う誤解です。イエス・キリスト様の母マリヤや兄弟たちが、イエス・キリスト様を訪ねてきた時、イエス・キリスト様は、「私の母、私の兄弟とはだれか」と言い、「神のみこころを行う者はだれでも、わたしの兄弟、また姉妹、また母なのだ」と、そうおっしゃられた。このような言葉は、キリスト教では、信者になると、家族を捨て信者の交わりを家族よりも優先させると誤解され兼ねないような言葉だと言えます。もちろん、このイエス・キリスト様の言葉は、そのような意味で使われたわけではありません。実際、イエス・キリスト様は十字架の上で死なれる直前に、弟子の一人のヨハネに、ご自分の母マリヤのことを託しておられます。

そこには、最後の最後まで、ご自分の母親を気遣う息子の姿を見ることができます。そのように、イエス・キリスト様は、決して家族のことをないがしろにしたり、家族を捨てなさいと言った教えを語られたお方ではないことを知ることが出来ます。そもそも、イエス・キリスト様は、旧約聖書に書かれている様々な律法を廃棄するために来たのではない、その律法を成就するために来たのだと、マタイによる福音書5章17節でそう言っておられます。その旧約聖書の律法の核となるもの、中心となるものが、モーゼの十戒ですが、その第五戒(区分の仕方によっては第四戒とする人:カトリックやルーテル教会)には、「あなたの父と母を敬え」と明言されています。ですから、その「律法を成就するために来た」と言われるイエス・キリスト様が、父や母をないがしろにするようなことをなされるはずはありませんし、そのような教えを語られるわけがありません。キリスト教は家族を大切にする宗教なのです。

その、大切になければならない家族というものを、イエス・キリスト様は、単に血縁という枠組みに留めてはおられません。「神のみこころを行うものは、だれでも、わたしの兄弟、また母なのである。」と言って、もっと大きな広がりをもった家族という枠組みを提示しておられます。それは「神の家族」とも呼ぶべき、神を信じ、神のみこころを行うものたちの群れなのです。確かに、このマルコによる福音書3章31節から35節に先行する20節からの文脈を見ますと、宣教の業をしているイエス・キリスト様に対して、気が狂ったと思った身内のものが、イエス・キリスト様を取り押さえに来たと言う出来事が記されています。言うまでもなく、イエス・キリスト様が、病める人をいやし、悲しむものを慰め、罪人に福音をかたると言ったことは、全て父なる神のお心に添ったものです。ですから、ここでは神のみこころに添い、神のみこころを行っていたイエス・キリスト様に対して、それを止めさせようとする肉親と、イエス・キリスト様と共に、神のみこころを行おうとする者達の姿がコントラストを描くように示されています。

そして、その対照的なコントラストの中で、血のつながりを越えた、より大きな「神の家族」という人と人との繋がりを示しているのです。この、神の家族は、35節にありますように、神のみこころを行う者達であります。しかも、その神のみこころを行うものは、イエス・キリスト様と共に神のみこころを行うものであるというのです。34節には、こう書いてあります。「そして、自分をとりかこんで、座っている人々を見まわして、言われた。「ごらんなさい、ここにわたしの母、わたしの兄弟がいる。」そう言われてから、その言葉に引き続いて「神のみこころを行うものはだれでも、わたしの兄弟、また姉妹、また母のである。」と言われているのです。イエス・キリスト様を取り囲み、座っている人々が、なぜイエス・キリスト様を取り囲んで座っているかというと、それはおそらくはイエス・キリスト様の語る言葉を聞いていたからだろうと思われます。ですから、イエス・キリスト様の語る言葉に耳を傾けるということと、神のみこころを行うと言うことは、決して切り離すことのできないものとして、示されているのです。

ともうしますのも、イエス・キリスト様の時代には、イエス・キリスト様とは無関係に神のみこころを行っていると自負していた人たちがいたからです。それはパリサイ派と呼ばれる人たちや、律法学者と呼ばれる人たちでした。この人たちは、自分たちが旧約聖書に書かれている神の律法を忠実に守り行っていると思っていました。旧約聖書に記された律法は、神のみこころであると言うことができます。なのに、イエス・キリスト様は、「律法を廃棄するために来たのではない、律法を成就するために来たのだ。」と言われたのです。しかし、「律法を成就するために来たのだ」ということは、イエス・キリスト様以前の律法は、まだ完成されていない未完成なものであったと言うことになります。実際、新共同訳聖書には「わたしが来たのは律法や預言者(つまり旧約聖書)を廃止するためだ、と思ってはならない。廃止するためではなく、完成するためである。」と訳されています。

もちろん、旧約聖書自体に記されている律法それ自体に不備があると言うことではありません。ですからそれは、律法というものは、ただ単にその文言に書かれていることをしっかりと守り行えばそれで良い、完全だというものではないと言うことを意味しています。だとすれば、イエス・キリスト様が、旧約聖書に記されている律法が、未だ全うされておらず、未完成であるといわれるのは、なぜなのでしょうか。どこに問題があるのでしょうか。それは、律法を行うものの心の中にあると言っても良いだろうと思います。従来、私たちは、人が罪から救われるのは、ただ神の恵みによってであり、行ないではなく信仰によってのみ救われるのだといってきました。それこそ、それは宗教改革のスローガンである信仰のみ、恵みのみ、聖書のみと言う言葉に言い表されているとおりです。それに対して、イエス・キリスト様の時代のパリサイ派の人々は、律法を守り行うものが救われると考えていたと、捉えていました。

ところが、最近になって、サンダースやジェームス・ダンといった新約学者の研究によって、当時のパリサイ派とか律法学者と呼ばれる人たちも、律法は、神の契約によって神に選ばれた神の民が、その神の恵みに答えるものとして守るべきものであると考えていたということを、明らかに致しました。この神の恵みに対する応答として、律法を行うわけですから、そこには神の恵みと言うものをどう理解するかと言うことが応答の仕方に深く関わってきます。ともうしますのも、恵みに対する応答は、感謝の気持ちが大切だからです。ですから、神の恵みに対する応答として、律法を行うときに、それはただ、その文言を守り行えばよいと言うことではありません。そこには、深い神に対する感謝の気持ちがあり、恵みを与えて下さった神に喜んでいただきたいという気持ちがなければなりません。それこそ、ただ決められたことを守り行うということではなく、神を喜ばせようとする気持ちが大切なのです。

これは、何についても言えることですが、相手を喜ばせたいと思うときに大切なことは、相手のことを思うことです。そして、相手が何を喜ぶかを考えなければなりません。そのためには、相手を深く知る、相手の思いや心を深く知ってこそ、相手の喜ぶことをすることができるのです。神を喜ばしたいと本当に願うならば、神の心を知らなければなりません。そして神の心をしってこそ、みこころを行う者になるということができるんですね。しかし、どうやったら神の心をしることができるのでしょうか。その神の心というのが、最も良く現われているのが、イエス・キリストというお方です。イエス・キリスト様は聖書が示している父なる神、子なる神、聖霊なる神による、三位一体なる神における子なる神です。このように、イエス・キリスト様は神ご自身でもあるのですから、だれよりも神の心を知っています。そして、その語る言葉の一つ一つ、ご生涯のあゆみ一つ一つが神のお心を示していると言えます。だからこそ、イエス・キリスト様と共に歩むことで、その生涯の歩み一つ一つを見届けている弟子たちやイエス・キリスト様を取り囲んで、語られる言葉に耳を傾けている人たちを、「わたしの母、わたしの兄弟」とそう呼ばれたのです。

彼らは、イエス・キリスト様のご生涯の歩みを通し、また、その語られた言葉を通して、神のお心が何であるかを知るようになるからです。そして、神の心が分かると、神のみこころが何であるかも分かるようになるのです。そして、そのイエス・キリスト様のご生涯とその教えは、十字架の死と復活に集約されていると言えます。それは、私たちの罪を赦す神の愛を実現するためのものでした。イエス・キリスト様の十字架には、私たちの罪を赦そうと思っておられる神のお心と、私たちを愛しておられる神の愛が示されているのです。イエス・キリスト様の十字架が、神の赦しと愛を示している以上、神のみこころとは「赦すことと、愛することである」と言うことが出来るだろうと思います。それは、旧約聖書の律法が、神の民に恵みによって選ばれた神の民が、その選びに対する応答としてあるとするならば、同じように「赦すことと愛すること」が、神の恵みによる救い、罪からの赦しに対する応答なのです

もちろん、この赦すことと愛することは、相手がいなければ出来ません。相手があってこそ、相手を赦すことができるのですし、相手を愛することが出来るのです。だからこそ、クリスチャンは、一人一人で信仰を全うする者として存在するのではありません。教会に神の民として呼び集められる存在なのです。教会で互いに赦し合い、愛し合うために一人一人が教会に召し出されているのです。先程申しました、イエス・キリスト様の時代のパリサイ派と呼ばれる人たちが、自分では、旧約聖書に書かれている神の律法を忠実に守り行っていると思っていたにも関わらず、イエス・キリスト様に、「律法を廃棄するために来たのではない、律法を成就するために来たのだ。」と言われたのは、このあたりが不十分だったのかもしれません。彼らは、自分の事のためだけに律法を守り、正しいことをおこなっていました。けれども彼らは、自分が於かれた人と人との関わり合いの中で、赦すことや愛することといったことが出来ていなかったのです。

自分は、神の恵みと憐れみの中で、神の選びにあずかり救いの恵みの中に置かれているのに、人の罪や汚れ、あやまちといった者を赦し愛するどころか、むしろ裁き蔑んできたのです。もちろん、そのような姿を神が喜ばれたわけがありません。3月10日に、日本ホーリネス教団の任命式があり、私と家内、そして加藤亨牧師が、2006年度も、この三鷹キリスト教会で牧師としての人にあたるように任命を受けてまいりました。任命は、神からその教会に遣わされることでありますが、言い方を変えれば、牧師としてその教会に召し出されていると言うことです。召し出されているからこそ、神によってそこに遣わされるのです。今まで、私は、任命式で名前を呼ばれますと、今年も、自分と家内がこの三鷹教会に遣わされるのだと言う思いで、「はい」と返事をしておりました。しかし、実際は、そうではないんですね。確かに、実際に任命式で名前を呼ばれるのは、私の名前であり、家内の名前であり、加藤先生の名前です。しかし、そこで牧師が名前を呼ばれると同時に、この三鷹教会に集っておられる教会員の皆さんお一人お一人も、私や家内、そして加藤先生と共に、この三鷹キリスト教会に召し出され、神様から任命をいただいて、派遣されているのです。

それは、私たちが、この教会で神のみこころを行うためです。この三鷹キリスト教会に集い、神のみこころを行っていくためであり、それは互いに赦し合い、互いに愛し合うためなのです。そうやって、互いに赦し合い、愛し合い、神の家族を築き上げるために私たちは、この三鷹キリスト教会に呼び集められているのです。しかし、赦すということ、その前提には、至らなさやあやまち、そして罪があります。ですから、私たちが赦し合うために、教会に集められていると言うことは、教会には至らなさやあやまち、そして罪があると言うことです。その、教会にある至らなさや、あやまち罪いったものは、教会に集う私たち一人一人にあると言うことです。それは、教会に集う私たち一人一人は、決して完全なものは一人もいないのだと言うことを意味しています。私たちは、みんなどこかに弱さや罪深さを持っているのです。だからこそ、神の愛によって赦されなければなりません。イエス・キリスト様の十字架に示された神の赦しと愛とによって赦して頂かなければならないのです。

そして、そうやって、神の愛で愛され赦された一人一人が、この教会に集っているのです。また、私は、まだクリスチャンではないと言う方々も。その神の愛で愛され赦されるため、この教会との関わりを持たれるようになったのです。ですから、この三鷹キリスト教会に集われているお一人お一人は、神のみこころに添って愛され、赦されている一人一人だと言うことが出来ます。だからこそ、そのお一人お一人と、共にこの教会に集う者とされた私たちが、互いに赦し合い、愛し合うときに、この教会は、ただのキリスト教会と呼ばれる存在ではなく、それを越えて神の家族となることが出来るのです。そして、私たち一人一人は、神の家族となるために、呼び集められているのです。ですから、どんなに、お互いに欠けがあっても、私たちは赦し合い、愛し合っていきましょう。それが、私たちが教会として、神様から呼び集められている意味だからです。そして、私たちが神の家族を築きあげていくならば、それは、もう一つの私たちに与えられた使命を果たすことが出来ます。それは伝道という使命です。伝道は紛れもない教会の使命です。

私たちは、伝道とは、イエス・キリスト様の十字架の死が、私たちの罪の身代わりのためであり、私たちが、イエス・キリスト様を自分の罪をゆるす救い主であるということを語り、伝えていくことだと思われるかも知れません。伝道という言葉には、メッセージや個人伝道と言った場で言葉で語り伝えるイメージや、言葉を文書にしたトラクトや書籍などを差し上げているイメージが頭に浮かんでくるのではないかと思うのですが、どうでしょうか。確かにそれが、大切な伝道の一つであることは違いありません。しかし、それと同じぐらいに、教会が互いに愛し合い、赦し合う姿は、世の中に、イエス・キリスト様の赦しと愛を証するところの、大切な伝道でもあるのです。というのも、私たちを取り巻く世界は、赦し合う、愛し合うと言ったこととは、ほど遠いもののように思われるからです。もちろん、家族や仲の良い友達同士の中で、愛し合うことや赦し合うと言ったことが見られることは少なくありません。

しかし、そのような愛し合い赦しあう人の交わりには、自分が愛せる相手や気の許せる相手によって築き上げられる人の輪です。ですから、愛し合い赦し合うことの中心には、自分の気持ちがあります。もちろん、それはそれで、愛し合い、赦し合うところの交わりが築き上げられて行っているのですから、悪いことではありません。けれども、赦し合うことと、愛し合うことの中心に、自分の気持ちがあるならば、その交わりは非常に脆弱な基盤の上にあると言えます。というのも、それは、人の気持ちは移ろいやすいものだと言うこともありますが、それ以上に、自分の気持ちを中心におくと言うことと、愛すると言うことは、馴染みにくい性質を持っているからです。そもそも「愛する」ということは、相手のことを思いやり心配すると言うことに繋がります。相手のことを思いやり、心配するからこそ、相手のために尽くすのです。ですから、愛するという思いの中心には、本来は相手の存在が置かれるべきです。

ですから、自分が愛せる相手や仲の良い相手という、自分の気持ちを中心に置いた愛し合い赦し合う交わりは、本来、相手のことを思いやり、心配するからこそ、相手のために尽くすところの愛すると言うこととは馴染みにくい性質を持つのです。さきほど、脆弱な基盤の上にあると言ったのは、そのような理由からです。それに対して、神のみこころに寄り添いながら愛し合い赦し合う群れを築き上げる教会の中心には、イエス・キリスト様がおられます。教会はイエス・キリスト様を取り囲み、座り込んでその語られることを聞く人々の群れなのです。そして、このイエス・キリスト様は、私たちのことを思いやり、心配するからこそ、ご自分の命を十字架の上で投げ出し、私たちを罪から救い、神にある永遠の命を与えて下さったお方です。そこには、私たちのことを思いやり、心配して下さる思いがあったからにはかなりません。まさに、イエス・キリスト様のお心の中には、私たちに対する愛があったのです。

その、子なる神イエス・キリスト様のお心の中にあった愛は、父なる神のお心にも、聖霊なる神のお心の中にもあります。父なる神と子なる神イエス・キリスト様と聖霊なる神様は、その愛と思いとにおいて全く一つに結ばれた三位一体の神だからです。そのような、私たちを愛する神の愛に寄り添って築き上げられる愛し合い赦し合う共同体である教会は、決して自分が愛せる相手とだけ、あるいは自分の気のゆるせる相手とだけ愛し合い、赦しあうのではありません。神が、私たちを含んですべての人を愛し、赦したいと願っているからです。神の愛と赦しは、すべての人に向って開かれているのです。ですから、もし、教会が、また教会に集う私たちが、自分の愛せる相手とだけ愛し合い、自分の気の赦せる相手とだけ赦し合っているような現実があるならば、いかにそこに愛し合い赦し合う群れが築き上げられていたとしても、キリスト教会という名前を掲げていても、それは名前だけであって、教会の本来あるべき姿ではありません。

教会の中に築き上げられる「愛し合い赦し合う神の民の群れ」は、すべての人に向って開かれているからです。もちろん、そのような神のみこころに添う「愛し合い赦し合う神の民の群れ」である教会を、築き上げることは簡単なことではありません。私たちの心には、自己中心という罪が深く根を下ろしているからです。ですから、私たちは、神を礼拝することを大切にしなければなりません。というのも、礼拝は、神の罪の赦しと愛が語り示されるところだからです。そもそも、キリスト教の礼拝は、聖餐式が中心でした。初代教会のクリスチャンたちは毎週、毎週集い、パン裂きという、今日の聖餐式にあたるものを行ない、キリストの十字架の死を繰り返し、繰り返し思い起こし、語り聞かせていました。まさに、十字架の上で示された罪の赦しと、神の愛をそこに集った一人一人の心に刻みつけていたのです。そのようにして、私たちの愛し、私たちの罪を赦して下さったイエス・キリスト様のことを心に覚え、自分が罪ゆるされたと言う喜びをかみしめていたのだろうと思います。

同じように、今日私たちが、礼拝集い、神の赦しと愛を心に刻み、自分が罪ゆるされた喜びをかみしめるならば、その喜びが、愛し合い、赦し合う教会を築き上げる力になります。そして、その力をいただいて、イエス・キリスト様ならば、あの人に対してどうして上げるだろうか。そのようにしてあげるだろうかと言うことに思いを馳せるのです。教会に集う私たち一人一人が、そのようにして、相手に思いを馳せていくならば、必ず私たちの教会は、神のみこころに添って「愛し合い、赦し合う」神の家族である教会を築き上げることが出来ます。それだけではありません。そのような共同体に生きるものが、それぞれの家庭に帰り、奥さんはご主人のことを思いやり、心配し、ご主人に尽くすならば、それは、今まで愛し合い赦し合ってきた家庭よりももっと愛し合い許しあう家庭が築き上げられます。またご主人が、奥さんのことを思いやり、心配し、奥さんに尽くすならば、おなじようになりますし、子供が親に対して思いやり心配し、尽くすときもそうです。

それこそ、十戒の第5戒で、「あなたの父と母を敬え」といわれ、家族を大切にする事を示された神の律法が、成就されるのです。そして、より深い愛情で結ばれた家庭が、より大きな神の家族に包まれながら築き上げられていきます。今の時代は、ある意味愛することが冷えてきた時代です。家庭や家族の間で出さえそのようなことが起こり、家庭が分裂し、崩壊してしまうと言ったことも少なくはない時代です。そのような時代だからこそ、そのような互いのことを思いやり、心配し、赦し合い愛し合う神の家族である教会は、また、その教会に包まれた家庭は、この世の中にあって、世の光、地の塩のような存在として、神の愛、イエス・キリスト様による赦しを証し、伝道する存在となります。そして、それは、結果として非常に大きな伝道という、神の使命みこころにそってに生きることでもあるのです。

お祈りしましょう。