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羊飼い 『豊かな実りを産み出す土壌』
マルコによる福音書 4章1−20節
2006/4/2 説教者 濱和弘
賛美  新聖歌 201、40、316

さて、ただいま司式の兄弟にお読み頂きました聖書の箇所は、イエス・キリスト様によって語らえた「種まきの譬え」と言われるところです。この、「種まきの譬え」は、マタイによる福音書にも、またルカによる福音書にも書かれていますが、いずれも、イエス・キリスト様は、この話を、多くの群衆に向ってお話になられたと記しています。マルコによる福音書には、イエス・キリスト様が海辺で、船に乗って人々に語り始めた様子が書かれています。それは、教えを語られ始めたところ、多くの群衆が集まってきたからです。おそらく、イエス・キリスト様は、それらの教えを聞きに集まった全ての人々が、ちゃんと語ることを聞く事が出来るようにと、船に乗られ、人々にむかって語られたのだろうと思います。あるいは、船に乗って、そこから人々に語りかけるという方法をとられることで、集まった群衆の注意を、イエス・キリスト様に向けさせようとしたのかも知れません。当然、そのように人々の関心を集めようとしたのは、人々に、これから自分が語ろうとしていることをちゃんと聞いて欲しかったからであろうと思います。

そういった意味では、この「種まきの譬え」の話は、イエス・キリスト様がしっかりと人々の心に留めて欲しい話の一つだったのかも知れません。そんなわけでしょうか。マルコは、4章3節で、イエス・キリスト様が、このたとえ話を話し出す際に、「聞きなさい。」といって話し始めたと記しています。イエス・キリスト様は、人々に「よく聞きなさい」と喚起を促して、この種まきの譬えを話し始められたのです。その内容は、聖書にあるとおりですが、ある種まきが種を蒔いた時、蒔かれた種が4つの地に落ちたというのです。一つは、道ばたであり、一つは土の薄い石地、さらにもう一つは茨の中であり、最後の一つは良い地におちました。それぞれの地に蒔かれた種は、やがて芽を出しますが、良い地に蒔かれた種以外は、全て実を結ぶことが出来なかったが、良い地に蒔かれた種は、多くの実りを結ばせたというのです。この、譬え話そのものは、非常に明瞭な話です。目をつぶって話を聞いていると、その様子が容易に想像できます。道ばたに蒔かれた種を鳥がついばみ食べている様子などは、今の時代の人々にも、簡単に思い描くことが出来るように思うのですが、どうでしょうか。

しかし、譬え話そのものは、明瞭で、簡単に想像できたとしても、その譬え話しが何を意味し、何を指しているかということは別です。この譬え話だけでは、一体イエス・キリスト様が、この譬え話を通して何を言おうとしていたのかは良くわかりません。この譬え話しそれ自体から分かることとしたら、「良い地でなければ、豊かな実りは得られない」ということぐらいです。「より豊かな実りを実らせるためには、良い地でなければならない。」と言い換えても良いかも知れません。その程度のことしか、分からないのです。もちろん、イエス・キリスト様のもとに集まってきた群衆は、イスラエル人です。そして、イエス・キリスト様がただならぬ存在、それこそ、救い主か、悪くても預言者の一人、偉大な教師の一人であるという期待のもとに集まっています。ですから、イエス・キリスト様が「良い地でなければ、豊かな実りは得られない」あるいは、「より豊かな実りを実らせるためには、良い地でなければならない。」と言われたとき、その豊かな実りということが、神様の祝福であると言うことぐらいは分かっていただろうと思います。

けれどの、蒔かれた種が何であり、鳥が何であるか、石の地に落ちると言うことが何を意味しているか、茨の中に落ちるとは何を意味しているかについては、良くわからなかっただろうと思うのです。当然、良い地についても、良い地とはいったい何なのかということについて、イエス・キリスト様の周りにいた人は誰も分からなかったのだろうと思います。ですから結果として、この「種まきの譬え」の話が、一体どのような意味を持っているのか、この話を通してイエス・キリスト様が何を言おうとしたかについては、種まきの話を聞いただけでは、良くわからないいのです。実際、イエス・キリスト様の身近にいて、その教えや行動をつぶさに見聞きして来た弟子立ちですら、この譬え話だけでは、その意味は分かりませんでした。だからこそ、12弟子を含む、イエス・キリスト様の身近にいた者達ですら、この話は一体何を言おうとしていたのですかと尋ねたのです。そんなわけで、14節以降に、イエス・キリスト様ご自身による、この譬えの意味についての解説がなされているのです。ですから、それを見れば、この譬えの意味について、どう解釈し、理解すれれば良いかについては、大体の所分かります。

そこには、蒔かれた種が何であり、鳥が何であるか、石の地に落ちると言うことが何を意味しているか、茨の中に落ちるとは何を意味しているか、ちゃんと解説されています。そして最終的には、御言葉を聞き、それを素直に受け入れることが大切だというのです。御言葉を聞き、それを、素直に受け入れることが、実り多い生涯にする秘訣だというのです。この御言葉が何であるかについては、色々と考えることが出来るでしょう。旧約聖書の言葉であると言うこともできますし、イエス・キリスト様が語られた言葉であると言うことも出来ます。しかし、イエス・キリスト様ご自身は、ヨハネによる福音書5章39節で「(旧約)聖書は、わたしについて証するものである。」と言っているのです。ですから、イエス・キリスト様が、そのような御自覚を持っておられるとすれば、仮に、この御言葉が旧約聖書の言葉だとしても、結果として、それはイエス・キリスト様のことを指し示しているといえます。ですから、この御言葉とは、イエス・キリスト様が宣べ伝えられた教えであり、神の国の福音、罪人を救いに導く恵みの言葉であったと言えます。この神の国の福音を、心に素直の受け入れるとき、私たちの生涯は多くの実りを実らせるのだというのです。

ところが、現代の聖書神学者たちの中で、リベラリズムという神学的立場に立つ人たちは、そうではないと言うのです。彼らは、この13節以降のイエス・キリスト様の言葉は、後の教会の解釈が書き加えられたものであると言うのです。そして、イエス・キリスト様が本当にいたかったことは、別の所にあったとして、13節以降にある、イエス・キリスト様の説明から切り離して、このたとえ話を解釈しよう試みてきました。そうやって、このイエス・キリスト様の譬え話を、どのように理解し解釈するかについて、今までに様々な解釈がなされてきたのです。その多くは、豊かな実りというのを、伝道の成果と結びつけ、イエス・キリスト様の伝道は、様々な困難もあるが、やがて多くの実を結ぶと言うことを言っているのだとか、あるいは、イエス・キリスト様の伝道の余りうまくいっていないのではないかと疑われたことに対して、イエス・キリスト様が反論して、神の約束を信頼して期待すべきであると教えられたのだといった解釈がなされました。

それ以外にも、いくつかの解釈がありますが、そのように解釈がいくつかに分かれるのは、この「種まきの譬え」の話それ自体では、一体何を言おうとしているか分からないからです。結局、彼らが、明らかにしたことは、先程申し上げましたように、この「種まきの譬え」の話それ自体では、イエス・キリスト様が言おうとした意味は分からないと言うことにすぎません。だからこそ、イエス・キリスト様ご自身による説明がなければ、その本当の意味は決して分からないのです。もちろん、私たち三鷹キリスト教会の信仰の基本は、まず聖書に聞くと言うことですから、先程申し上げましたように、14節以降の言葉を、それは後の教会の解釈であってイエス・キリスト様の言わんとしたこととは違うなどといって退ける必要はありません。むしろ、聖書は歴史の教会を通して神が与えて下さった神の言葉であると受け止める私たちは、14節以降にあることが、まさにイエス・キリスト様が「種まきの譬え」を使って、言いたかったことであると受け止めればよいのです。

そんなわけで、今日、聖書を読む私たちは、少なくとも聖書を読む限り、この「種まきの譬え」が言わんとすることを、何となく理解することが出来るのですが、驚くべき事に、このイエス・キリスト様の説明は、多くの群衆には語られていないのです。この14節以降にある、イエス・キリスト様の解説は、あくまでも、「種まきの譬え」について対して尋ねた弟子立ちに対して答えられたお答えであって、群衆に対して語られたものではありません。イエス・キリスト様が、「種まきの譬え」について語られた後群衆に語られた言葉は、「聞く耳のある者は聞くが良い」ということなのです。私は、この聖書の箇所を何度も読み返しながら、イエス・キリスト様が本当に人々に聞いて欲しかった言葉は、この「聞く耳のある者は聞きなさい」という言葉ではなかっただろうかと、そんな風に思えてきました。

「聞く耳のある」という言葉は、注意深く耳を傾けて聞くと言うことです。しかも、それはただ注意深く聞くと言うだけではなく、注意深く聞いたら、その聞いたことに対して、「あなたどうしたいのか?」「どうしたいのか?」という問いかけをもって、私たちひとりひとりにと問い正してくるような聞き方なのです。イエス・キリスト様は、この譬え話を始める前に、「聞きなさい」と呼びかけ、「これから私の話す話を、あなたがたはちゃんと聞いていなさい」と注意して話を聞きなさいと喚起しました。そのように人々に注意を促してから話し始めた話を話し終えられた後に、「この話を聞いたあなたがたはどうするのか」と、そう問いかけられているのです。それでは、この「種まきの話」を聞かされて「あなたがたはどうするか」といわれた群衆は、どう思ったでしょうか。先程も申しましたように、この「種まきの譬え」それ自体から、分かることと言ったら「多くの実りを得るためには、良い土でなければならない」と言ったことぐらいです。

けれども、逆を言えば、だれでも「良い地にならなければ、多くの実りを実らせることは出来ない」ということは理解できたということです。そのような理解の中で「それでは、あなたはどうするのか」と問われるのです。それは、きわめて決断を迫るような問いかけを持った言葉となります。「あなたは、道ばたになりたいのか、石地になりたいか、茨になりたいか、それとも良い地になりたいか」と言う決断をせまるような問いかけの言葉だからです。「良い地でなければ、豊かな実りを実らせることはできない。」「豊かな実りを得るためには良い地でなければならない。」と聞かされて、「あなたはどうなりたいのか?」と尋ねられれば、普通ならば「私は、良い地になりたいです。」答えるのではないではないかと思うのですが、いかがでしょうか。そして、「私は良い地になりたい」と答えた瞬間に、その答えは、同時に「それでは、今、あなたは豊かな実りを実らせるような良い地なのか」と問いかけてきます。そして、さらに「一体どうすれば良い地になれるのか」が、自分自身の中で問われて来るのです。

このように、イエス・キリスト様は、多くの群衆に、種まきの譬え話をなさり、あえてその説明をすることをなさらず、むしろ「聞く耳のある者は聞きなさい」と問われたことの真意は、人々に考えさせることにあったのではないかと思うのです。問いかけを通して、「私も良い地になりたい」という決断を迫るのと同時に、「いったい私は、良い地なのかだろうかどうだろうか?私が良い地になるにはどうすればよいのか?」ということを問いかけ、一人一人に考えてほしかったのではないかと、そう思えてきたのです。「自分自身が、良い地であるかどうか、一体どうすればよい地になれるになれるのか。」私たちがこの事を問いかけ始めますと、一人一人が自分の良いところ悪いところをあれこれ考え始めます。これが、譬え話ではなく、具体的に、教えであれば、私たちは、そのことだけを考えればいいのですから簡単です。たとえば、私たちの人生に置いて、より豊かな神の祝福を受ける人は、人に施しをたくさんする人ですと言われば、「ああ自分は、貧しい人に施しをしているから大丈夫」といった判断も出来ますし、「これからもっと施しをしよう」とか言ったことに考えが及びます。

あるいは「旧約聖書に書いてある、律法を守り行うことが、神からのより豊かな祝福を受ける秘訣だ」と教えられるならば、「そうか、それならば、頑張って律法を守り行おう」という気持ちにもなります。しかし、「あなたは、良い地ですか?」と問われ、「いったい、私はどうすれば良い地になれますか?」と自問し始めますと、そもそも「良い地」と言うこと自体がきわめて具体性のない抽象的な言葉ですから、あれこれ考えなければなりません。そして、自分の良いところや悪いところをあれこれ考えながら、自分は良い地になるためにあれこれ考えるのです。そうやって自分自身に気付くのです。そして、自分自身という存在がどのような存在なのかに気付くとき、私たちは、本当の意味で神の前に立たされるのだろうと思うのです。「自分は良い地となって豊かな神の祝福をいただきたい」とそう思って、自分自身を顧みるときに、私たちは、自分の様々な問題点や欠けたところ、そして罪深さに気付いていくのだろうと思うのです。それこそ、とても良い地ではない自分の姿に気付かされるのです。

この、イエス・キリスト様の「種まきの譬え」の話を聞いていた人々は、イエス・キリスト様の教えを聞きに集まった人々です。彼らは、イエス・キリスト様が教えを語り始めたときに、その教えを聴こうとぞろぞろと集まってきたのです。その人たちに、イエス・キリスト様は、種まきの譬えの話をなさりながら、「聞く耳のあるものは聞きなさい」とそう問いかけられたのは、自分自身を神の前に良い地であるかどうかを、私たちに問ってほしかったのかもしれません。そのような人々に対して、イエスキリスト様は、語られた譬え話の意味がどうのこうのといったことも大切ですが、それ以上に、私たちが神の前にどのようなものであるかを、自分自身で問いかけさせたかったのだろうと思うのです。そして、それは今も変わらない事だろうと思います。それは、イエス・キリスト様の教えの中心、つまりはイエス・キリスト様の語られた福音の中心は、私たちの罪の赦しだからです。私たち一人一人が、自分の罪深さ、いたらなさを深く知り、その罪を神に悔い、神の目を向けて、神に罪の赦しを求めるものとなって欲しいのです。

そのように、自分の罪を悔い、神に目を向けて、罪の赦しを求めること、それこそが、聖書の言う悔い改めと言うことです。そして、神に向き合いながら生きると言うことです。そのように、神に向き合いながら生きる者に、イエス・キリスト様は、罪の赦しを与えるために、私たちに代わって、神の裁きを私たちに代わって受けて下さったのです。そうやって、私たちの身代わりとなって、十字架の上で死なれたのです。その、イエス・キリスト様の御生涯こそが、イエス・キリスト様の語られた教えの全てであり、イエス・キリスト様がもたらした、福音の全てなのです。そういった意味では、イエス・キリスト様があえて、「蒔かれた種が何であり、鳥が何であるか、石の地に落ちると言うことが何を意味しているか、茨の中に落ちるとは何を意味しているか、」というようなことに対する具体的な説明なしに、例え話で話をし、「聞く耳のある者は聞きなさい」といって迫られたのは、まさに、12節にあるように「『彼らは、見るには見るが、悟らず、聞くには聞くが、悔い改めて赦されることがない』ためである。」と言ったことになるかも知れません。

イエス・キリスト様の言葉を聞き、「自分も神の祝福という豊かな実りを実らせる良い地になりたい」とそう思った者は、自分自身が良い地であるかどうかを尋ね求めます。しかし、イエス・キリスト様の語られた問いかけ言葉に対して、真剣に向き合わなければ、いかに種まきの譬え話を聞いていたとしても。自分自身は良い地であるかどうかを問うこともないだろうと思います。だからこそ、イエス・キリスト様の教えを聴きに集まった人々には、譬え話を通してしっかりと考えて欲しかったのだろうと思うのです。自分自身をしっかりと見つめ直しながら、自分という存在が神の前にどのような存在であるかを考えて欲しかったのだろうと思うのです。そのことなしに、罪の赦しを与える、イエス・キリスト様の福音は、心に届かないからです。自分自身が、神からの赦しが必要である罪人であるという自覚なしには、私たちの心にイエス・キリスト様のもたらす福音は心に浸みてこないからです。しかし、一度、イエス・キリスト様の罪の赦しを与える福音が、心に浸み込み、自分の罪を神の前に悔い改め、イエス・キリスト様が自分の罪を赦して下さる救い主であると信じた者には、罪の赦しと、天国の約束という、豊かな実りを与えて下さるのです。

それは、私たちの人生の中で、どんなに苦しいときであっても、また困難な時でも、決して失われることのない希望と喜びなのです。というもの、神に罪ゆるされ、天国の約束をいただいた者の生涯に、神は寄り添っていきてくださるからです。そうやって、私たちと寄り添って生きてくださるお方は、私たちと共に喜び、共に悲しんで下さるお方です。ですから私たち人生の様々な場面で、ある時は慰め、ある時は癒やし、ある時は励まして下さいます。そして、私たちの心に平安をもたらしてくださるのです。そういった意味では、罪の赦し、天国の約束という豊かな実りは、私たちの人生に置いては、神の慰めや癒やし、励まし、平安と言った形で表わされてくるのです。だからこそ、イエス・キリスト様は、そのご自身がもたらした福音を心にしみ込ませる良い地となってほしいと願っておられるのです。そのためには、神の前で、自分自身を顧み、見つめ直すさなければなりません。そうやって自分自身を見つめ直し、神の前に悔い改め、イエス・キリスト様がもたらした福音を受け止めるために、イエス・キリスト様は、あえて譬えを解説なされることなく「聞く耳をもつものは聴きなさい。」と問いかけておられるのです。

けれども、私たちには、その例え話に対する説明は、このマルコによる福音書4章14節以下に置いて明らかにされています。それは、私たちは、もはや自分の存在を問う存在ではないからです。なぜなら。私たちはクリスチャンだからです。イエス・キリストを自分の罪の救い主として、信じ受け入れた私たちは、自分が何者であるかという、自己の気づきを持っています。それは神を信じる民であるということです。そのとうな私たちにとって、種まきの譬えがイエス・キリスト様によって解き明されるとき、その譬えが指し示す内容は、御言葉を聴いて受け入れるものは、豊かな実りを実らせると言うことです。御言葉とは、神の言葉のことです。それは神の御子、イエス・キリスト様の言葉であり、また聖書の言葉です。ですから、私たちもまた、14節以降に書かれている言葉を通して、イエス・キリスト様の時代の人々と同じように、聖書の言葉の前に立たされ問いかけられているのです。私たちが、聖書の言葉を読み、聖書の言葉に耳を傾けるときには、ただそれを読み、理解し納得すると言うだけでなく、絶えず、「聞く耳のある者は聞きなさい」とそう問いかけられているのです。

この聖書の言葉を通して「この聖書の言葉、すなわち御言葉にふれたあなたはどうするのか?」「どうしようとしているのか?」イエス・キリスト様は絶えずあなたに問いかけておられます。まさに、「聞く耳のある者は聴きなさい」と問いかけ、クリスチャンとして「あなたはどうしたいのか?」あるいは「あなたはどうするのか?」と尋ねているのです。そうやって、聖書の言葉を通して語りかける神を、また神の御子イエス・キリスト様の言葉を受け入れるかどうかが問われているのです。同様に、聖書の言葉を解き明し照らし出す礼拝の説教の言葉も然りです。礼拝で聖書の言葉が語られるとき、その説教の言葉と共に、「聞く耳のある者は聞きなさい」という問いかけが投げかけられます。説教者が、ことばによって、そう問いかけてなくても、礼拝の中心におられるイエス・キリスト様があなたに語りかけておられるのです。また今、私たちは、こうして礼拝に集っていますが、礼拝は、私たちから神に向っては、神の民の、神に対する奉仕の場でありますと同時に、神から人に向っては神の言葉が語られる場です。

礼拝が、神の民の神に対する奉仕の場であるというのは、礼拝においては、神をたたえ、崇めるからです。そして、神をたたえる私たちは、その神の一人子であるキリストの証人として、私たちは礼拝の場から、この世に使わされていくからです。同時に、その礼拝においては、イエス・キリスト様の十字架を思い起こさせる聖餐が行われ、聖書からの説教が語られます。それは、神から私たちに対しては、神の罪の赦しが語られ、神の恵みの言葉が語られる場なのです。ですから、聖書の言葉が触れるとき、私たちは「聞く耳のある者は聴きなさい」と問いかけ、「あなたはどうしたいのか?」あるいは「あなたはどうするのか?」と尋ねているのと同様に、説教の言葉に耳を傾けるときに、説教の言葉を聞いたあなたは、「どうするのか?」「あなたはどうしたいのか?」というイエス・キリスト様の問いかけの言葉の前に立たされているのです。

このような問いかけにむきあってこそ、私たちは、聖書の言葉を通し、説教の言葉を通して神の言葉、つまり御言葉を聴いたとはじめて言えるのだろうと思います。そして、御言葉を聴いた者は、神の前に自分がどのような者であるかに気付くのです。その自己への気付きは、決して私たちに失望を与えるものではありません。たとえ、否定的な自分の姿をそこに見出してもです。なぜなら、どんなに罪深く、いたらない自分の姿を見出したとしても、神は、そのままの私たちを受け入れ、愛して下さっているからです。イエス・キリスト様は、そのために、私たちに代わって十字架に架かって死んでくださいました。それこそが、御言葉である聖書の言葉が指し示している内容であり、福音なのです。ですから、私たちは、その福音をしっかりと心に受け止めながら、聖書の御言葉の前に立ちたいと思いますし、説教の言葉の前に立ちたいと思います。そして、そこから、私たちの心の中に問いかけてくる「あなたはどうするのか?」「どうしたいのか?」と言う言葉に、向き合い答えて行きたいと思うのです。 そのような態度で、私たちが聖書の言葉や説教の言葉に望ならば、私たちは、神の罪の赦しと天国の約束という豊かな祝福を得ることができます。そしてそれは、私たちの生涯に、神による慰めや平安、励ましと言ったものとなって表わされて出来るだろうと思うのです。

お祈りしましょう。