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羊飼い 『ともしびがやってくる』
マルコによる福音書 4章21−31節
2006/4/9 説教者 濱和弘
賛美  新聖歌 2、191、220

今、お読み頂きました聖書の箇所は、マルコによる福音書4章21節から25節です。そのうちの21節から22節は、あかり、つまり「灯火」というものをモーチフにした、イエス・キリスト様のたとえ話です。このマルコによる福音書の4章には、イエス・キリスト様の譬え話がまとまって出ていますが、その譬えの説き明しが、聖書に記されているのは、先週お話しいたしました、1節から20節までの「種まきの譬え」ただ一つです。もっとも、4章34節には「イエスはこのような多くの譬えで、人々の聞く力にしたがって、御言を語られた。譬えによらないでは語られなかったが、自分の弟子たちには、ひそかにすべてのことを解き明された。」とありますから、弟子たちは、この「灯火」の譬えに込められた意味を聞いていたかも知れません。しかし、とにもかくにも、聖書は、この「灯火」の譬えの意味については、何も語ってはいないのです。先週も、少しお話ししましたが、このような譬え話は、譬えを用いた本人による解説、つまりここではイエス・キリスト様の解説なしでは、様々な解釈を産み出します。

そんなわけで、このマルコによる福音書の4章21節、22節の譬え話についても、いくつかの解釈があります。たとえば、「あかり」ひとつにしても、それがイエス・キリスト様を指すという解釈もあれば、「神の国の奥義」であるという解釈もあり意見が分かれるのです。そして、仮にこのあかりがイエス・キリスト様であるとするならば、イエス・キリスト様というお方がそのようなお方であるかは、今は人々に隠され理解されていないが、必ず明らかにされると言った具合に、読み解かれていきます。また、あかりが「神の国の奥義」であるとした場合、イエス・キリスト様が語られた神の国の奥義は、今は隠された形で表わされているが、それが必ず明らかにされるときが来るというのです。そのように、いくつかの解釈がこの聖書の箇所からなされるのですが、それは、まさに聖書が、この譬えをどう解釈し理解するかについて何も語ってないからです。けれども私は、聖書が何も語っていないことそれ自体か雄弁に語ってる事もあるだろうと思うのです。

それは、「あなたはどう思うか」ということです。先週も、あの「種まきの譬え」のところでお話ししましたが、イエス・キリスト様は、ご自分の話を聞きに来た多くの群衆を前にして、あの「種まきの譬え」をお話しになりました。そして、その解き明しについては、何も語らず、ただ「聞く耳のあるものは聞きなさい」と問いかけられたのです。そして、今日、私たちはこのマルコによる福音書4章21節22節の「ともしび」の譬えの前に立たされています。そして、イエス・キリスト様のもとにあつまった群衆たちと同じように、一切の説き明しを示されることなく、同じように23節に置いて「聞く耳のあるものは聞きなさい」と、問いかけられているのです。先週の「種まきの譬え」のところでもお話し致しましたが、「聞く耳のあるものは聞きなさい」という言葉は、だたんに注意深く聞来なさいとではなく、聞いたらそのことに対して「あなたどうしたいのか?」「どうするのか?」と、私たちに迫ってくるそんな言葉です。

ですから、この「灯火」の譬えが語られ、「聞く耳のあるものは聞きなさい」と問いかけられているということは、この「灯火」の譬え話を聞いたあなたは、「どう思い、どうするのか」という決断を迫られているのです。そういった意味では、この譬え話は、単純に「あかりがイエス・キリスト様であるとするならば、イエス・キリスト様というお方がそのようなお方であるかは、今は人々に隠され理解されていないが、必ず明らかにされる。」とか「あかりを「神の国の奥義」として、神の国の奥義は、今は隠された形で表わされているが、それが必ず明らかにされるときが来る」といった真理の叙事的な内容を伝えるものだと考えるべきではないように思います。むしろ、私たちの生き方に深く関わり合いながら、「あなたはどうするのか」というイエス・キリスト様の問いかけの中で、読みとっていかなければならないだろうと思うのです。ですから、今日、私たちは、この「灯火」の譬え話を、あなたは、この譬え話を聞いて「どう思い、どうするのかという」イエス・キリスト様の問いかけの中で聞いていきたいと思うのです。

 そのような思いで、今日の説教の準備をしていく中で、私には、心を離れないている一つの言葉がありました。それは、説教の準備のために読んでいたいくつかの本の中のひとつに書かれていたものですが、このようなことが書かれていました。「ある翻訳を読んでおりましたら、『ともし火が来るのは升の下や寝台の下に置くためか、』と訳してありました。実際に原文のギリシャ語は『ともし火が来る』なのです。けれども多くの人々は、ともし火が来るといっても、ともし火に足がついているわけでもなく、誰かが持ってくるわけですから、運んでくるとか、持ってくると言う表現に置き換えた。当然のことでしょう。新約聖書の写本の中には、ギリシャ語自体を変えてしまったものもあります。しかし、今日では、主イエスがお語りになった時には『ともし火が来る』とおっしゃったのは確かであるとされています。」イエス・キリスト様は、私たちの教会の公用聖書である口語訳聖書や新改訳聖書、共同訳聖書で訳されているように「あかりを持ってくる」でもなく、「あかりがやってくる」「灯火がやってくる」とそうおっしゃられたというのです。

私も、一応ギリシャ語の原文に当りました。するとやはり、「灯火がやってくる」となっている。しかも、「灯火がやってこようとしている」とうけとめられるような言い回しにも訳すことが出来るような文章になっているのです。「灯火がやってこようとしている」、それは私たちが灯火をつけようとしているのではありません。灯火が意思と意欲を持って、私たちのほうにやってこようとしているというのです。いうまでもありませんが、ともしびというものは、明るい場所で灯すものではありません。暗い場所、暗いところで必要とされるものです。そしてその場所が暗ければ暗いほど、その灯火が照らし出すあかりは、私たちにとって大切なものになるのです。だからこそ、灯火は、ますの下や寝台の下に置くのではなく、燭台の上におくのです。なぜなら、暗がりでは、ものがみえにくく、暗闇では全くものが見えなくなるからです。ですから、灯火を必要としている人とは、暗がりの中にいる人、暗闇の中にいるが、その暗がりの中で見えにくくなっているものや、全く見えなくなっているものを見ようとしている人だといえます。そのような、暗闇や暗がりの中にいる人の所に、灯火はやってこようと願い、また、やってこようとしているのです。

そして、灯火がやってくると、暗さの中で見えなくなっていたものが、はっきりと見えてくるのです。「そのような、灯火があなたの所にこようとしている」とイエス・キリスト様の譬えそれ自体は、私たちに語りかけています。そして、「そのように灯火やってこようとしているのに対して、あなたはどうするのか?」と問いかけられているのです。どうするのかと聞かれて、自分が暗闇の中にいると思う人は、「どうぞその灯火を私のところにもたらして下さい。そして、灯りで照らし明るくして下さい」と、そう答えるでしょう。しかし、光り輝く、明るいところにいる人ならば、そのような灯火など必要とはしません。だいいち、灯火を必要としない明るみの中にいる人の所には、灯火それ自体がやってこようと考えはしないだろうと思います。灯火が、意志と意欲を持ってやってこようと思うのは、その人が、当然、灯火を必要としていると思われる状態にある場合に、やってこようとするのではないと思うのですが、どうでしょうか。

ですから、灯火がやってこようとしている先は、暗闇の中にいる人、あるいは暗がりの中にいる人の所です。そして、そのような中にある人が、「灯火がやってくる」といわれて、そんなもの必要ないと答えるとするならば、そのように答える理由は二つしかありません。一つは、その人が、自分自身が暗闇の中にいると言う自覚をもっていないと言う理由からです。自分が暗闇の中、暗がりの中にいると言う自覚がなければ、灯火を求めようはずはありません。そして、二つ目は、その人が暗闇の中にあっても、灯りを照らして見なければならないものなど何もないと思っているということです。たとえ暗がりの中にいても、自分に必要なものは全てそろっているのならば、灯火など必要ありません。しかし、実際は自分は暗闇の中にいるのに、明るい光の中にいると思っている人などいるのでしょか。あるいは、本当に、自分には、必要なものが全てが満たされているなどと思っている人が居るでしょうか。そう思って聖書に立ち返ると、確かに居るではありませんか。

たとえば、パリサイ派と呼ばれる人たちや律法学者たちです。パリサイ派の人たちは、少なくとも自分たちは、神と人との関係において明るい光の中にいると思っていた人たちでしたし、また必要なものは全て満たされていると思っていた人たちだと言えます。また、律法学者たちも、当時の社会情勢の中で知らなければならない旧約聖書の律法理解については、十分に理解していると思っていた人たちです。ですから、彼らはイエス・キリスト様も必要としなければ、イエス・キリスト様の語る教えも必要としませんでした。むしろ、それは彼らにとって迷惑なものだったのです。しかし、本当は、パリサイ派の人たちも、律法学者たちも、けっして明るい光の中に居るのでもければ、全てに満たされ全てを知り尽くしているわけではありませんでした。彼らもまた暗闇の中に居るか、よしんば多生の光が差していたとしても、暗がりの中に身を置いていたのです。ですから、彼らもまたイエス・キリスト様と言うお方が必要な存在であり、イエス・キリスト様は、彼らの所にも、神の国の民として迎えられるその秘訣をもってやってこられようとしているのに、彼らはそれを必要ないと拒でしまったのです。

ひょっとすると、イエス・キリスト様は、そのような状況を踏まえながら、この灯火の譬えを話されたのかも知れません。そして、その上で、「それではあなたはどうなのか」と問うのです。ですから、ことは、パリサイ派や律法学者たちと言った存在を飛び越えて、イエス・キリスト様に従っている私たちにも問いかけられていると考えなければなりません。私たちに、灯火が来ているが、あなたはどうするか、それが必要かと問いかけるのです。ここにきて、私は戸惑いを禁じ得ませんでした。というのも、当然の事ながらクリスチャンは、イエス・キリスト様を必要としています。またイエス・キリスト様を必要としているからこそ、このお方を自分の罪の救い主として信じてクリスチャンになったのです。そして、イエス・キリスト様の十字架の死によって罪ゆるされ神の子として頂いたのですから、いわば罪の暗闇の中から、神の愛が降り注ぐ光の中に 連れ出されたようなものです。その私たちに灯火が来ているが、どうするかと言われても、「主よ、私は、もうすでに光の中に入れて頂いております。」と答えたくなってしまうのです。

なのに、光が来ているがあなたはどうするかと問われる。私は、イエス・キリスト様の十字架を自分の罪の贖いのためであると信じ、救われている。また、クリスチャンとしてイエス・キリスト様を伝え伝道している。なのに私にはまだ光が必要なのだろうか。救われてクリスチャンとなったのにまだ何か足りないのだろうか。その時、私は、はたと築いたのです。これでは、自分がパリサイ派や律法学者たちと同じではないかと、そう思わされたのです。私は、イエス・キリスト様の十字架の贖いを信じ救われることで十分だと思っていた。けれども、主イエス・キリスト様がもたらしてくださる神の恵みや祝福といったものは、もっともっと豊かなものなのではないか。それが、それが神の側からやってきているのに、私たちはそれを見落としているのではないか。

確かにキリスト教の中心にあるのは、イエス・キリスト様の十字架の死と復活です。イエス・キリスト様が、私たちの身代わりとなって十字架の上で死に、私たちの罪の贖いを成し遂げて下さったからこそ、私たちは、神に罪ゆるされ神の子とされたのです。そしてそれだけではない、神の国、天国の約束をいただきました。その意味では、確かに、私たちはイエス・キリスト様を私たちの罪の救い主として信じ受け入れたときから光の中に入れられたのです。そして、このイエス・キリスト様の十字架の死による贖いと言うことが福音であり、キリスト教をキリスト教たらしめるメッセージです。ですから、教会は、ただひたすらこのメッセージを世の中に向けて語ってきましたし、これからも語っていかなければなりません。中には、教会はこの福音のメッセージだけ語っていればよいと言う方もおられます。そして、イエス・キリスト様の十字架による、罪の赦しさえあれば、それで十分であるかのように言われるのです。

ところが、私たちが住む現実の世界には、様々な問題があります。貧困や戦争といった社会問題から、家庭の崩壊や生活の問題など、私たちは様々な問題に囲まれており、私たちもまた、教会も、その現実の世界、現実の社会の中で生きているのです。ですから、私たちは、イエス・キリスト様に救われて光の中に入れて頂いているのですが、同時にその私たちは、真っ暗な現実の社会の中に、身を置いて生きていると言うこともできます。なのに、その現実の中にいるのに、罪ゆるされたと言うメッセージの中に、逃げ込んでしまっているのではないか。何だかそのように問われたような気がしたのです。様々な問題を抱えた現実、その現実の生活の中では、私たちは、慰めを必要としたり、励ましを必要としたり、心を癒やす言葉を必要とする場面が多々あります。また真っ暗な現実だからこそ導きも必要です。まさに、私たちには暗闇を照らす灯火が必要なのです。現実に灯火を灯すメッセージが必要なのです。

その灯火が、向こうの方から私たちの所にやってくるというのです。そして、その灯火が照らす光によって、闇に隠されていた慰めや、励ましや、癒しを見つけ出すのです。マルコによる福音書は、イエス・キリスト様の「灯火」の譬え話しを、種まきの譬えに引き続いて記しています。そのため種まきの譬えは、4章13節以降でイエス・キリスト様ご自身が、説き明しをなさいました。そういった意味からも、明かりを照らし隠されているものを明るみに出すお方はイエス・キリスト様であるといえます。ですから暗闇の中の灯火となって下さるお方は、イエス・キリスト様のことを言っていると考えるのが妥当であろうと思われます。そして、確かにイエス・キリスト様は私たちの人生に寄り添いながら、私たちを慰め、励まし、癒やして下さるお方なのです。

もちろん、そのイエス・キリスト様のお姿を、現在の私たちは目で見ることはできませんし、そのお声を聞くことはできません。しかし、聖書はイエス・キリスト様は、私たちの内に共に住んでいて下さると言うことを示しています。たとえば、ガラテヤ人の手紙2章19節20節には、「わたしは、キリストと共に十字架につけられた。生きているのは、もはや私ではない。キリストがわたしのうちに生きておられるのである。」と書かれています。これは、神を信じイエス・キリスト様を信じてクリスチャンとなったパウロが、自分は自分の内に生きていて下さるイエス・キリスト様によって自分は生かされているのだということをのべているところです。自分の内に生きて下さっているキリストによって生きていると言うことは、自分の内にあるイエス・キリスト様に導きに従って生きていると言うことでもあります。そのように、イエス・キリスト様は、現実の暗闇のような中にある私たちと共に歩み、そして導いて下さるお方です。そして、慰めが時には慰め、励ましが必要なときには励まし、癒しが必要なときには癒やして下さるお方です。

そういった意味では、キリスト教は、天国という将来的希望を語ると同時に、現実的なものでもあります。いえ、天国という将来の希望にある慰めや、癒やしが現実の今に先取られて流れ込んでいるのです。ですから、けっして、教会も、私たちも、イエス・キリスト様の十字架の贖いだけ語ればよいと言うわけではありません。イエス・キリスト様を信じたクリスチャンにも、慰めは必要なのです。励ましが必要なのです。体や心が癒やされることが必要なのです。イエス・キリスト様はそれらを私たちに与えて下さいます。確かにイエス・キリスト様の十字架の贖いはキリスト教の中心メッセージです。イエス・キリスト様が私たちの罪のために十字架に架かって死んでくださり、それを信じるものはその罪がゆるされるということを信じるものは、その罪から救われ、天国の約束をいただきます。けれども、神様の恵みや憐れみというものは、それだけに留まらないのです。その恵みを出発点にして、もっと現実的に、もっとリアリティをもって私たちの現実の生活の中に関わって下るのです。

24節以降には、「聞くことがらに注意しなさい。あなたがたの量る、そのはかりで、自分にも量り与えられ、なお増し加えられるであろう。だれでも、持っているものは更に与えられ、持っていないものは、もっているものまでも取り上げられるであろう。」とあります。聞くことがらというのですから、何かを聞くということなのでしょう。そしてここで聞くと言われると、その直前に書かれている、種蒔きの譬えに対する説明で、御言葉を聞くという言葉を思わざるを得ません。そうすると、私たちが御言葉を聞くときに、どのような量りをもって聞くか、その量りによって自分にも量り与えられ、その上になお増し加ええるというのです。先程から、何度も申し上げましたように、キリスト教の中心的メッセージは、イエス・キリスト様が私たちの罪のために十字架に架かって死んでくださり、それを信じるものはその罪がゆるされるということです。

御言葉は、第一義的にこの事を述べていると言っても間違いはありません。これを信じ受け入れるという量りももってこれを受け入れるものには、この恵みは量り与えられます。そして、そこ恵みのうちにあるものには、さらに豊かに恵みが増し加えられて与えられです。だからこそ、神を信じる、キリストを信じ救われる、クリスチャンになると言うことは、ただ罪が赦されるという事に留まるものではないのです。現実のこの生活の中で、私たちの救い主イエス・キリスト様が私たちに寄り添ってくださり、慰めを与え、励ましを与え、癒やし、私たちの実際の生活を導いてくださるのです。ですから、私たちも、教会も、このイエス・キリスト様の十字架の贖い先にある、慰めや励ましや、癒やし、そして導きといったことも神に求めても良いのです。また教会は、それらを人々に語り続けなければなりません。それはキリスト教の信仰の中にある豊かさなのです。

では、声を聞くことのできないイエス・キリスト様の導きの言葉や、慰めの言葉、励ましの言葉などを、いったいどこでそれを頂くのでしょう。「聞くことがらに注意しなさい。あなたがたの量る、そのはかりで、自分にも量り与えられ、なお増し加えられるであろう。だれでも、持っているものは更に与えられ、持っていないものは、もっているものまでも取り上げられるであろう。」というのですから、それは御言葉に耳を傾け聞くことの中で、頂くものだといえます。神を信じ、キリストを信じるものは、聖書の読みつつ聖書のみ言葉に触れる中で、また、聖書の言葉が解き明される言葉の中で、その言葉の持つ第一義的な意味を越えて、私たちの心に語りかける神の導きや、慰め、励ましといったものを聞き取ることが出来るのです。それは、私たちの内に共に住む、イエス・キリスト様の御霊が、光となって、御言葉の中に隠されているものを、私たちに明らかにしてくださるからなのです。

だからこそ、私たちは聖書にもっともっと取り組まなければなりません。また説教に耳を傾けると言うことに取り組まなければならないのです。それこそ、そこに聞く耳をもち、私たちを現実の世界の中に表わされる神の恵みの中で行かして頂きたいと思うのです。いや、今までもそうやって行かされてきただろうと思います。しかし、神様の恵みや慈しみは、私たちが知っている以上に豊かなのです。イエス・キリスト様の十字架に表わされた神の赦し愛以上に、もっとももっと豊かな愛があるのです。それは、私たちが求めても、求めても尽きない程に豊かなのです。その豊かさを照らす、わたsでぃたちは灯火が来ているのです。ですから、私たちは、今まで以上に大胆に、主よ、私を照らしてくださいと祈り求めていきたいと思います。

お祈り致しましょう。