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羊飼い 『確かな望み』
コリント人への第一の手紙 15章12−28節
2006/4/16 説教者 濱和弘
賛美  123、112、465

 さて、今日はイエス・キリスト様の復活を祝うイースター(復活祭)です。教会にとって、イースターはクリスマスと並ぶ、非常に重要なお祭りです。というのも、イエス・キリスト様の御生涯は、十字架の死と復活という出来事に、全てが集約できるからです。クリスマスは、神の一人子が人となられてお生まれになったことを覚え、その日を記念して行われます。しかし、それはは、私たちの罪を贖うための十字架に向う御生涯の始まりでもありました。そのイエス・キリスト様の御生涯に関しては、新約聖書の福音書を通してしか知ることは出来ません。そして、その福音書も、公生涯と言われる30歳頃の3年間の事がほとんどであり、それ以外のことは、マタイによる福音書とルカによる福音書に、その誕生に関する記事と、12歳の時にあった一つのエピソードを告げているだけです。

ですから、イエス・キリスト様の御生涯といっても、それは、イエス・キリスト様が、救い主として、人々に教えを語られ、福音を伝えて歩かれた3年間を指しているといっても過言ではありません。それは、神の一人子であるイエス・キリスト様がこの地上にお生まれになったその意味と目的が、この3年間の公生涯の中に全て込められているからです。そして、その公生涯の締めくくりに、イエス・キリスト様の十字架の死があったのです。十字架の死、その死に際して、イエス・キリスト様が最後に語られた言葉は、「すべてが終わった」というものでした。新改訳聖書は「完了した。」と訳していますが、「すべてが終わった」ということは、私たちの罪のための贖いが全て完了したということです。何事でもそうですが、一つのことが終わる、完了するということは、次の新しい事が始まると言うことです。その新しいことが起こる最初の出来事として、イエス・キリスト様がよみがえる、復活なさると言うことがあったのです。ですから、イエス・キリスト様が復活なさったと言うことによって、神様によって新しいことが始められたのだと言うことが出来るのではないだろうかと思うのです。

ところが、イエス・キリスト様は「全てが終わった」「全てが完了した」と言われ、罪の贖いを漸減されたにも拘らず、現代に至るまで、人間の世界の中には、私たち人間の罪が横行しています。歴史の中に戦争や犯罪といったものがなかった時代はないと言い切ることが出来ます。そして、今というこの時代にいたっても、この混沌として、様々な社会問題や、悲惨な事件が起こっている時代といえます。確かに、罪の贖いは終わったかも知れません。けれども一体、新しい何が始まったのか。今日、私たちは、そのことについて少し考え手みたいと思います。そして、今も昔も相変わらず、罪が横行しているような中にあって、「私たちは希望を持って、(今の時代)を生きることが出来るのだ」と言うことについて確認していきたいと思うのです。

イエス・キリスト様の復活、それは死に対する勝利であるという一面があります。死に打ち勝ったからこそ、死から甦られたというわけです。聖書は、死というものは私たちの罪によってこの世界に入り込んできたといえます。つまり罪の結果が死であると言えますし、罪に対する裁きが死であると言うこともできます。そういった意味では、罪の赦し、罪に対する贖いが完全に終わったのであるならば、この死という問題にも解決が与えられてしかるべきです。そういった意味で、イエス・キリスト様の御生涯が、十字架の死で終わっていたとしたならば、たとえそれが、私たちの罪に赦しを与えるためであったとしても、空しいものに過ぎません。イエス・キリスト様の十字架の死は、復活という死に対する勝利があるからこそ、本当に罪の赦しのためであったと言うことができるのです。つまり、イエス・キリスト様が復活なさったことによって、罪の結果である死、あるいは、罪の裁きである死に、完全に解決が与えられたと言えるのです。

ところが、実際に、私たちが今、不老不死なのかというと、死は、今現在も、私たちの世界には死というものは、避けることのできない現実であると言えます。色々なものが不確実な世界であるにも関わらず、私たちは、確実に死ぬという現実だけか私たちにとって確かなものなのです。ですから、そういった意味では、イエス・キリスト様の復活がもたらす、死に対する勝利としての復活は、今のことではなく、やがて来る将来の出来事であると言えます。そしてそれは、私たちもまた、イエス・キリスト様のように、死というものを経験したとしても、やがて再び甦るという希望なのです。ですから、イエス・キリスト様の罪の赦しという福音は、死からの復活ということと深く結びついていると言えます。だからこそ、先程お読み頂きましした聖書の箇所は復活という希望が、私たちの信仰にとって大切なものであり、この復活の希望がなければ、私たちの信仰、すなわちキリスト教の信仰は空しいとまで言い切るのです。

ところが、今の時代に置いては、この死から復活と言うことは教会に置いても、語られることが少なくなってきたように思われます。私たちの教会は、四重の福音ということを表題に掲げてきた教会です。四重の福音とは、イエス・キリスト様がもたらした罪の赦しというもが、どのような形で私たちの生活に、具体的に関わってくるかということを言い表したもので「新生、聖化、神癒、再臨」といった言葉で言い表されています。今、皆さんがお持ちの週報の裏表紙にも、その四重の福音について書いてありますが、そこには、新生とは、「罪を悔い改めて、イエス・キリスト様の十字架と復活を信じ、新しく生まれ変わることである」と書いてあります。この新しく生まれ変わると言うことは、今までの生き方とは異なる、神を信じて生きる生き方に生まれ変わるという事と同時に、イエス・キリスト様がもたらす新しい命に繋がって生きると言うことでもあります。そして、その新しい命とは、聖書が永遠の命と呼ぶ、神の国、すなわち天国という、まさに死を乗り越えた世界における命でもあります。ですから、新生ということは、今の私たちの生き方に関わると同時に、将来にも深く関わっているのです。

また、聖化については「犯してきた罪のゆるしのみならず、罪を犯す自我性をもきよめていただき、神のみ旨を喜ぶ者へとかえられること」とあります。これは、私たちの心が神様の愛に支配され、その神の愛に突き動かされて生きるようになるということでもあります。つまり、神様の愛が私たちの思いや行動を支配する原理となると言うことです。神学の世界に置いては、神の愛と恵みが支配するところが神の国、天国であるといいます。ですから聖化ということは、私たちの心の中に神の国が築きあげられると言うことでもあります。そういった意味では、天国という希望は、単に将来の希望として待ち望むものだけではありません。将来の希望であると同時に、現在の私たちの心の中にも築きあげられるものでもあるんですね。そして、神癒ということですが、週報には「神には、祈りにこたえて、そのご計画のうちに病を癒やして下さる憐れみと力があることを信じること」と書かれています。確かに、祈りのうちに病が癒やされると言ったことを信じると言うことが神癒ですが、それは何も奇跡的なものばかりではありません。

もちろん、そのような奇跡的な癒やしがないとは言いません。しかし、そればかりを求めているとするならば、それはキリスト教の信仰の本質からはずれていってしまいます。神様は、お医者さんや薬を用いながら、私たちを癒やして下さいますし、神様のご計画の中では、切に願っても癒やされないこともあります。むしろ神癒ということの中心にあるべきものは、私たちが日々生かされていることの中心には、神の愛とあわれみがあると言うことを覚え感謝すると言うことにあります。そのように、神が私たちを命や生活そのものに関わっておられるということは、私たちがまさに神の愛と恵みの中に置かれているということでもあるのです。ですから、神癒というものは、私たちが、神の恵みと愛の中に置かれている、まさに神の国の民であると言うことを証するものであると言うことができます。そして、再臨とは、まさにイエス・キリスト様が再びこられる時のことです。週報には「キリストの再臨の時、クリスチャンが死なない体に化せられること」とありますが、まさに復活し、心の中にある神の国といったものではなく、まさに天国という神の国で生かされるという希望なのです。

このように、四重の福音というものは、天国という将来の希望を見つめながら、今の私たちの生活の中に、その神の愛と恵みがどのように及んでいるかを言い表しているのです。なのに、その肝心な天国という将来の希望が、今日の教会では余り語られなくなっているとするならば、それは大きな問題だと言えます。どうして、そのようなことになってしまったのか、その理由の一つは死人の復活と言うことが、何やら荒唐無稽な絵空事のように思えるからかも知れません。今日の礼拝で読み上げられましたコリント人への手紙は、パウロによって紀元55年前後に書かれたものだと考えられています。ですから、イエス・キリスト様の十字架と復活の出来事から、20年そこそこしか立っていない頃に書かれたのです。そんなわけで、同じコリント人への手紙15章6節には「イエス・キリスト様が十字架に架けられ死んで三日後に甦られたことを目撃した者達が大勢生き残っている」と言うのです。

ですから、このコリント人への手紙が書かれた頃には、まだ復活と言うことが、非常に身近な出来事として捉えられていたと考えられます。そもそも、この手紙を書いたパウロ自身が、ダマスコに向う途中で、復活したイエス・キリスト様と出会うという経験を通して、クリスチャンになったのです。ですから、パウロがここにおいて、『「復活の信仰」「死んだ者が甦るという将来の希望」がないなら、私たちの信仰は空しい』とまで言い切るのは、彼の生き生きとした信仰経験があるからです。ところが、経験といったものは、時間が経つに連れてだんだんと薄れてくるものです。私たちが自分が罪人であると言うことに気付きイエス・キリスト様を自分の救い主として信じ受け入れた、それは立派な信仰経験です。そして、そこには、喜びや嬉しさ、あるいはいろんな感情が伴っていただろうとおもいます。

けれども、クリスチャン生活をながく過ごしていますと、その信仰経験の記憶もだんだんと薄れ、その時にあった感情も薄れてくることがあります。それはなにも、信仰経験と言うことだけではありません。たとえば、夫婦関係に置いても、結婚した当時の思い、愛情といったものも、結婚生活を重ねていくうちに薄れていくことがあります。私たち人間の経験というものは、それが過去の出来事にされているかぎり、断案と薄れていくというのは、経験というものが持つが、宿命なのかも知れません。だからこそ、私たちは、それを過去の経験として記憶の中に置いておくのではなく、今の生き生きとした経験として、繰り返し、繰り返し追経験していかなければなりません。そうしない限り、私たちの信仰は、今の私たちを生かす生きた信仰とはならないからです。ですから、いかにイエス・キリスト様が三日後に甦られたと言うような、素晴らしい出来事であったとしても、それが二千年の時を重ねていく中で、だんだんと現実味(リアリティ)を失っていくということは、あり得ることです。

ましてや、日々の現実生活の中で、自分の罪という問題は、極めて現実感がある問題です。人を憎んだり、嫉んだり、羨んだりといったことは、私たちの生活には起こりうるものですし、自分自身の罪深さを思い知るような現実は確かにあるからです。けれどの、自分の死とか死んだ後どうなるかなどと言った問題は、あまり生活感がないといえば、確かにないのです。そのようなわけで、復活のメッセージは、私たちの生活には余りピンと来ないのかも知れません。おまけに、今の時代は、人間関係の中で、傷ついたとか、傷つけられたといったことや、寂しい思いや辛い思いをすることが非常に多くなってきています。ですから、カウンセラーや心理学と言ったことが脚光をあびるのです。そのような中では、死とか、死んだ後どうなるかなどと言った問題よりもは、神様が私を愛して下さっていると言うことの方が心に響きます。もちろん、神が私たちを無償の愛で愛して下さっているというのも、キリスト教の大切なメッセージです。そんなわけで、キリスト教会でも、今の時代は復活のメッセージよりもは、神の愛と言ったことにウェートをおいてメッセージが語られる傾向があるのだろうと思います。

しかし、私たちは、神が私たちを愛して下さっているというメッセージだけでは生きられないこともあるのです。先日、私は、ひょんな事から随分昔のことを思い出していました。それは25年前に聞いたメッセージのことです。今ではなくなりましたが、この教会では、昔ヤングクリスマスという、青年会主催のクリスマスがありました。25年前は私も青年でしたから、そのヤングクリスマスに参加していたのですが、特別メッセンジャーとして、岸義弘牧師をお招きしたことがあります。その時のメッセージの中で、岸牧師は、火葬場で偶然で見かけた情景の話をしておられました。それは、子供を亡くされたご家庭の斎場での様子の話でした。まだ小さいお子さんを亡くされたお母さんが、今まさに最後のお別れをするという段になって、自分もその棺に入っていこうとしているというのです。

それはそれは、悲しい情景です。自分の愛する子供が死んでしまった。悲しみの余り、自分も一緒に棺の中に入っていって死のうとする母親の姿は、想像するだけでも悲しくてやりきれません。当時の私は、当然独身であり、子供もいませんでしたが、心に思い浮かべたその情景が余りのも悲しすぎたので、その話は、私の心に深く刻みつけられ忘れることが出来ませんでした。その話を、たまたま思い出したのです。当時は独身でしたが、今は私も3人の子持ちです。そのような中で、あの岸牧師の話を思い出しながら、自分だったらどうだろうかと考えました。そうすると、あのときにまさって、話に聞いたあのお母さんの気持ちが、もっともっと深く分かってきたのです。もしそれが自分なら、自分もまた生きていくことなんかできないとそう思うに違いない、いえ、生きていけないのです。だからこそ思ったのです。「もし、天国の希望がなかったら、自分は生きていけない。」と。「神様が私を愛してくれている」とか、「神様が私の罪を赦してくださりありのままの私を受け入れてくださっている。」といったメッセージは、それはそれで嬉しいものです。そしてそれは、確かに傷ついた心を癒やし、罪のために自己嫌悪に陥ってしまう私たちの心を支えてくれます。私たちをいかしてくれます。けれども、愛する者を失って、もう生きていけないと思うようなときには、天国の希望しか、私たちを生かしてくれるものはないのです。

イエス・キリスト様は、復活なされることで死を滅ぼされた。このことは、そのような死が現実のものとして目の前に置かれたものにとっては、その人を生かすことの出来る唯一の希望なのです。そして、その希望が単なる架空の希望でないことをお示しになるために、イエス・キリスト様ご自身が、死から甦るものの初穂として、復活なさったのです。昨年度も、私たちの教会では、何人かの方がご家族をなくされました。それは本当に悲しい出来事です。だからこそ、もう一度、このイエス・キリスト様の復活によって示されているところの天国の希望に目を向けたいのです。それは、遠い将来から私たちに語りかけてくる神の希望なのです。また、私たちだけではありません。今もまた、あの岸義弘牧師が見かけたような悲しい過ぎる葬儀を行わなければならない悲しい母親が何人も何人もいるのです。もう生きていけないと思うような悲しみの中にいる人たちが沢山いるのです。ですから、私たちは、イエス・キリスト様の十字架による罪の赦しと共に、復活という希望を語り続けなければならないと思うのです。ましてや、私たちは、四重の福音を旗印に掲げる教会なのです。

現代科学の目から見れば、死人の復活などは迷信じみた愚かなものに見えるだろうと思います。それは将来の約束ですし、希望ですから、現実の起こっていることを分析し解明する科学の目から見るならば仕方のないことです。しかし、いかに愚かに思われたとしても、私たちは、そのことを語ることを止めてはならないと思うのです。そもそも死それ自体が、人間の心には決して割り切れない不条理なものです。ですから、そのような不条理なものには希望をもってしか語ることばはありません。そして、私たち人間が一度死ぬことが確かな現実である以上、死という現実には、このイエス・キリスト様の復活による天国の希望こそが、その死に対する確かな望みなのです。

お祈りしましょう。