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羊飼い 『ふと気がつけば』
マルコによる福音書 4章26−33節
2006/4/23 説教者 濱和弘
賛美  2、172、339

さて、ただ今司式の兄弟に読んでいただきましたマルコによる福音書4章26節から33節までには、二つの例え話が書かれています。そして、その二つの例え話は、いずれもその最初に「神の国は、ある人が地に種をまくようなものである」とか「神の国を何に比べようか。またどんな譬えで言いあらわそうか」と言われていますように、神の国というものを、人々に教えるために語られたものです。神の国、それは天国と呼び変えても良いものです。天国というと、私たちは何だか死んだ後の世界と言う感じがします。最近では、キリスト教だけに限らず、仏式の葬儀などの時にも人の死に面した場面で、「天国に行く」とか天国にいる誰々に」などといった表現を耳にすることが多くなりました。そんなわけで、天国というところは死んだ人間が行くところという感じを強く受けるのだろうと思います。それにしても、死後の世界に対する言葉は、天国と言うだけではありません。「地獄」という言葉もあるのです。しかし、だれも葬儀の席に置いては「地獄に行った」とか「地獄にいる誰々」などと言う人はいません。そこには、だれでも天国に行きたい、天国に行って欲しいと言う思いがあるからです。つまり、すべての人は、天国という言葉に、慰めや憩いに満ちた素晴らしい世界を思い描くからです。そして、素晴らしいところだからこそ、だれもが死後は天国にいる、天国に行きたいとそう思うのです。

ところが、この天国の本家本元のキリスト教における天国というのは、一般に思い描かれるような死んだ後に行く世界としてのものではありません。たしかに、それは、やがて再びイエス・キリスト様がこの世に来られる再臨の時に訪れる将来的なものでもあります。今年の初めには、太田君がイタリヤに行かれましたし、先日までは高木彪兄弟、克子姉妹もイタリヤに行かれておりましたので、システィーナ礼拝堂にある、ミケランジェロの最後に審判という巨大な壁画を御覧になられたのではないかと思います。このミケランジェロの最後の審判と言う絵には、やがてイエス・キリスト様がこの世の終わりの時に再び来られ、神に罪ゆるされて天国に行くものと、神の裁きを受けるものとに振り分けられる様が描かれています。まさに、この世の終わりのことですから、これから先の将来の様子を思い描かれているのが、ミケランジェロの「最後の審判」と言う絵なのです。

そのイエス・キリスト様の再臨がいつ起こるのかは、私たちには分かりません。ずっと先のことかも知れませんし、近い将来のことかも知れません。ですから、私たちは、それがいつであっても良いように、しっかりと身を正して神を信じて、イエス・キリスト様を生きていかなければなりません。しかし、同時に、それは私たちが生きている間には訪れないかも知れません。事実、初代の教会のクリスチャンは、自分が生きている間に主の再臨があり、天国である神の国がおとづれという期待を持っていましたが、彼らが生きている間にそれは起こらなかったのです。そういった意味では、イエス・キリスト様の再臨が生きている間に起こらない限り、それは死と、その死からの復活という出来事と深く結びついた将来の希望であると言えます。そのような希望の中で、天国、すなわち神の国というものが待ち望まれながら、歴史は積み重ねられてきました。そして、その歴史の積み重ねの厚みの中で、多くの人に神の恵みと愛が伝えられてきたのです。

実は、この神の恵みと愛ということが、神の国ということと深く関わってくるのです。と申しますのも、神学的に言うならば、神の国のとは神の愛と恵みが支配している国だからです。ですから、歴史の積み重ねられてきたその歴史の厚みの中で、神の愛と恵みが伝えられてきたと言うことは、次のようなことを、私たちに教えてくれます。すなわち、神の国は、将来の希望としてあるだけではなく、過去の歴史の中にも、そして現在にも存在しているものなのだと言うことです。将来だけではなく、過去に置いても、そして今も神の国は存在している。だとすれば、いったいそれはどこに存在しているのでしょうか。

神の国がすでにやってきていると言うことについて、イエス・キリスト様が語っているところが、私の知る限り、聖書の中に二箇所ほどあります。一つは、マタイによる福音者12章28節です。そこには、こう書いてあります。「しかし、わたしが神の霊によって悪霊を追い出しているなら、神の国はすでにあなたがたの所に来たのである。」そして、もう一箇所は、ルカによる福音書17章20節21節に述べられている次のような記述です。「神の国は、いつ来るのかとパリサイ人が尋ねたので、イエスは答えて言われた、神の国は、見えられるかたちでくるものではない。また『見よ、ここにある』『あそこにある』などともいえない。神の国は、実にあなたがたのただ中にある。」この二つの聖書の言葉は、いずれも、神の国が私たちの所に来ていると言っています。マタイによる福音書の12章18節では、イエス・キリスト様によって悪霊が追い出しているならば、そこに神の国がきている。」といっています。

今日でも、イエス・キリスト様の名によって悪霊を追い出すと言ったことをしている教会がありますが、この言葉は、そう言った教会が神の教会である、あるいは、そう言った教会に神の国があると言っているのではありません。先日、ルーテル学院大の公開授業に参加しているのですが、ルーテル学院大学は昼休みの時間に学生たちのための礼拝が行われています。私もその礼拝に出席させていただいたのですが、その時、説教者がこのような話をしていました。その方は、インドネシアで育ったと言うことなのですが、インドネシアでは今でも、悪例が働くと言ったことがまことしやかに語られているそうです。それこそ木の幹が以上にふくらんでいるところには悪霊が宿っているなどと言われるそうです。そして、何か悪いことがあると、それは悪霊によって引き起こされたと考えるようなのです。しかも、あなたが何か悪いことをしたから悪霊に憑かれた、悪霊によってもたらされたと言うわけです。つまり、何か悪いことをした、そのことに対する罰として、因果応報のようにして、悪霊の働きが及ぶというのです。このような、悪や罪に対して因果応報的な働きとしての悪霊の業ということは、いつの時代に置いても、また多くの地域に置いても見られることで、イエス・キリスト様の時代のイスラエルに置いても似たようなものです。

それに対して、イエス・キリスト様は、イエス・キリスト様が悪霊から人々を解放しているとするならば、それは神の力と権威に夜のであると言われたのです。それはとりもなおさず、罪に対しての罰、あるいは罪の結果としての悪霊に働きであるとするならば、それから解放すると言うことは、それはつまり罪を赦すということででもあります。ですから、「しかし、わたしが神の霊によって悪霊を追い出しているなら、神の国はすでにあなたがたの所に来たのである。」ということは、イエス・キリスト様によって罪の赦しが語られ、宣言されているところには、神の国がそこにあるのだと言うことでもあります。このイエス・キリスト様の語られた罪の赦しは、私たちを愛する神の愛によって私たちに与えられたものです。同時に、それは私たちが何かをしたという、私たちの行ないに対する報償として与えられるものでもありません。ただ神の一方的な恵みによって、イエス・キリスト様を自分の罪の救い主として信じるものに与えられるものなのです。そういった意味では、イエス・キリスト様の罪の赦しは、神の愛と恵みの現われだと言えます。だからこそ、この罪の赦しが語られる所に神の国はすでに来ているのです。そして、このイエス・キリスト様の罪の赦しが語られるところが、教会なのです。ですから、過去に置いて存在し、今も存在する神の国は、教会という場の中にあると言うことが出来ます。

教会。皆さんもご存知のように、教会とは、この目に見える建物ではありません。これは教会堂あるいは礼拝堂であって教会ではないのです。教会とは、神を信じたものが集い、福音、すなわち神の一人子であるイエス・キリスト様を十字架につけてまで、私たちの罪の赦してくださった神の愛が語られる所です。そして、そのことを、語り伝えるために礼拝が行われ、洗礼と聖餐が行われるところです。そして、その神の愛と恵みによって生かされている神の民の交わりがあるところが教会なのです。

そのように、教会という神を信じる民の交わりのただ中に神の国は存在しているのです。ですから、今日、ここに礼拝に集いっている私たちのただ中にも神の国はあるのです。それは、目には見えませんが、私たちの手の届く、交わりの中にちゃんとあるのです。その神の国は、「ある人が、地に種を蒔くようなものだ。」とそう言われるのです。この例え話についても、人々はいろいろな解釈を加えます。その解釈の一つ一つを御紹介していたら、時間がとうてい足りませんので、今日は、それら様々ある解釈のついてはのべませんが、少なくとの、神の国というものは、人の努力や力で大きくなっていくものではないということは出来るだろうと思います、神の国という種がまかれても、それがどうやって大きくなっていくのか話分からない、それは知らない間に成長し、そして刈り取るに至るまでに熟するのです。しかも、それは空の鳥が宿るほどに大きなものに成長するというのです。

教会と言うところに、神の国は存在する。天国は存在する。だとすれば、私たちは、その神の国に多くの人たちをお招きしたいと思いますし、お招きしなければならない。けれども、どんなに私たちが、工夫を凝らし、伝道しても、そうやら、そのような私たちの努力や頑張りで神の国が大きく広がっていくわけで話さそうです。少なくとも、聖書は、「神の国は、ある人が地に種を蒔くようなものである。夜昼、寝起きしている間に、種は芽を出して育っていくが、どうしてそうなるのか、その人は知らない」と言うのです。近年、伝道方法と言うことについて、「これが効果的な伝道だ」「こうすれば教会が成長する。教会学校が祝福される」などといったスローガンで、伝道のアッピールがなされることがあります。しかし、その方法を取り入れたら、必ず教会が成長するとするならば、そう言った人たちは、種がどうして芽を出し育っていくかについて知っていると言うことになります。けれどの、聖書は、人はそれを知らないと言っているのです。だとすれば、私たちは何もしなくてもいいのか。それこそ、19世紀の頃は、種は人が夜昼、寝起きしている間に育っていくというのだから、人が何もしなくても、神の国は勝手に進歩し、発展するのだと言った楽観的な解釈もあったようです。

しかし、そのような何もしなくても勝手に育っていくという楽観的な見方も、やはりどうかと思わざるを得ません。第一、種を蒔く人も蒔きっぱなしではなく、水をやったり肥料をやったりはするのです。ですから、何もしなくても良いというわけではなさそうです。そう思いながら、聖書にもう一度目を向けますと、そこには「地はおのずから実を結ばせる」とかかれてあります。イエス・キリスト様は「神の国はある人が地に種を蒔くもののようだ」と言われました、そして、実を結ばせるのは「地」なのです。神の国いうものが「地」で実を結ぶとすれば、それは教会という場で実を結ばせると言うことでもあります。今、神の国は教会という神の民の交わりの中にあるからです。この「地が自ずと実を結ばせる」という言葉は、同じマルコによる福音書の4章1節から21節にある同じ種まきの譬えでも「四種類の地に蒔かれた四つ種の譬え」を思い出させるものです。そこでは、種が良い土壌の土地に蒔かれることが大きな実りに繋がると言うことが述べられています。そして、「あなたは、その良い地ですか」あるいは、「良い地になりたいですか」と問いかけてくるのです。

ひょっとしたら、このマルコによる福音書を書いた聖書記者は、このマルコによる福音書4章という、譬え話を一つに集めた文脈のなかで、この26節から34節までの譬えを「四つの種の話と結びつけて」、私たちに、また教会に、「あなた方は神の国を豊かに成長させる良い地となっていますか」とそう問いかけてきているのかも知れません。だとしたら、教会が神の国を豊かに成長させるために良い地となるために、私たちは、どうしたら良いのでしょうか。それは言い換えれば、教会が教会として神の国の現われとしてふさわしい姿は何かと言うことだといっても良いだろうと思います。マルコによる福音書の「四つの種の譬え」においては、良い地とは御言葉を聴いて受け入れる人たちのことでした。その流れの中で、この神の国の譬えが語られているのですから、神の国がゆたかに成長する良き土壌とは、やはり神の御言葉に耳を傾けてきく教会であると言えるだろうと思います。

先程、教会とはイエス・キリスト様の、福音、すなわち神の一人子であるイエス・キリスト様を十字架につけてまで、私たちの罪の赦してくださった神の愛が語られる所であるともうしあげました。そして、その神の愛が語られ、礼拝が捧げられ、洗礼と聖餐が行われるところが教会なのです。その教会で、きちんと神の言葉が語られ、その神の言葉に一人一人がしっかりと耳を傾けることが、出来ているならば、そこには神の国が豊かに育っていくのだろうと思います。そう思いますと、私自身、責任の大きさと重さを痛感せざるを得ません。礼拝において、こうして説教を通して、神の言葉である聖書の言葉に光を当て、照り輝かせるという職務にあたっている以上、正しく神の言葉である聖書の言葉を取り次いでいるかと言う、その責任の重さを感じるのです。また、聖餐式を執行する立場にある責任も同様です。聖餐式は、言葉によらない、行為を通して語られる神の言葉だからです。聖餐式は、主イエス・キリスト様が十字架で裂かれた体と、流された血潮による新しい契約を、パンと杯を通し私たちの心に刻み込みます。そのように、聖餐式は、私たちに私たちの罪を赦すための神の愛と恵みを伝える、行為を通して伝えられる神の言葉として、聖餐式があるのです。ですから、その神の愛と恵みが、聖餐にあずかる一人一人に、また聖餐式に出席する一人一人伝えられていないとするならば、それは大きな問題なのです。

だからこそ、私は牧師として責任の重さと大きさを感じるのです。同時に、礼拝の説教を聞くみなさんお一人お一人も、説教を聞く一人一人として、神の言葉を聴くものとしての大切な役割を担っているのです。また聖餐に臨む一人一人としての大切な役割を負っています。それは、神の言葉を聴き、受け入れるものとしての役割です。ですから、私たちは講壇から語られる説教に対しては、心して聞かなければなりません。そこで語られる説教に託された、神の愛と恵みを聞き取っていくためにです。また、心して聖餐式に臨む必要があります。聖餐式を通して、十字架の上で表わされた、私たちの罪を赦す神の愛と恵みを感じとって行くためです。そういった意味では、毎週、毎週の礼拝の在り方が、教会が豊かな神の国として熟したものになっていけるかどうかに関わっていると言えます。それは取りも直さず、牧師としての私と、会衆としての皆さんとが、一つになって、神の言葉が語られ、神の言葉に耳を傾ける、そのような礼拝を一緒に作り上げていく事が求められていると言うことなのです。

それは、決して難しいことではないだろうと思います。心を注げばいいからです。私たちの礼拝のただ中に、主意エス・キリスト様が御臨在下さっていると言うことを信じ、礼拝にある神の愛と恵みに、心を注げばいいのです。そのような思いと、そのような態度と姿勢で私たちが礼拝の臨むならば、それが、自ずから実を結ばせるような良き地である教会がそこにあるのです。私たちが、真摯な気持ちで、神の言葉の前に立ち、神の言葉に養われ、神の言葉によって生かされていくならば、神の愛と恵みに神の国が私たちの教会の中に表わされてきます。ことさら、こんな方法、あんな方法と言った方法論に振り回されなくても、私たちが、しっかりと神の言葉に立つ礼拝を守っているならば「ふと気が付けば」知らない間に、私たちの教会に神の国が豊かに実り、大きく成長していたと言うことができるのだろうと思います。そして、教会が、きちんと神の愛と恵みを語り、私たちが、この、私たちの罪を赦す神の愛と恵みのなかで、私たちが互いに交わりを持ち喜んで生きているならば、教会と通して、「ふと気が付けば」神の国を支配している愛と恵みが豊かに表わされていたと言うことになっているだろうと思うのです。

しかし、それは、考えてみますと、教会らしくあると言うことです。宗教改革を始めた人は、ルターという人です。宗教改革と言いますが、実際ルターがしたことは教会改革です。もちろん、それは神学上の問題でもありましたが、具体的な事としてルターが最初に、手をつけたのが礼拝改革だったのです。つまり、教会が健全な教会になるために何が必要だったかというと、礼拝が正しくされなければならないと言うことだったのです。そのために、ルターは何をしたかというと、ラテン語で行われていた礼拝を、自分たちの母国語である、ドイツ語で行うようにしていったのです。ルターの時代、ラテン語を知っていたのは学者や聖職者たちだけです。ですからラテン語で礼拝が行われても、一般の人たちには何が語られているのか分からなかったのです。ひどい場合は、司祭自体が、ラテン語で語られている意味が良くわからない中で、ただ形だけラテン語の礼拝を行っていたというようなことさえ会ったようです。そのような中で、ルターは礼拝の説教をドイツ語に変え、ドイツ語の賛美歌を造り、ラテン語の聖書をドイツ語に翻訳していきました。それは、一人一人が礼拝において語られる神の言葉の説教を聞き、神の愛と恵みを共に分かち合い賛美するためでした。それは、本来の教会にとっては、至極当然の教会らしい姿なのです。神の言葉が語られ、神の言葉に耳を傾け、神の愛と恵みを共に賛美し喜ぶ、そんな教会が教会らしい姿であるとき、宗教改革は歴史をゆり動かすような大きなうねるとなっていったのです。

ルター自身は、自分のしたことが、こんなに大きなうねりになるとは想像もしていなかっただろうと思います。けれども「ふと気が付けば」それは実に大きな成長を遂げたのです。そして、今日では、カトリック教会も、ラテン語ではなく、それぞれの国に言葉で説教が語られ、賛美が歌われ、聖餐式が行われています。神の言葉が正しく語られ、その神の言葉に、人々が耳を傾け、聖餐式が正しく行われるところが教会らしい教会だからです。そして、そこに神の恵みと愛とが支配する神の国が豊かに成長していくのです。ですから、私たちの教会も、教会らしい礼拝をこれからも神に捧げ、教会らしい教会としての歩みを歩んでいきたいと思います。

お祈りしましょう。