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羊飼い 『お委ねしましょう』
マルコによる福音書4章35−41節
2006/5/7 説教者 濱和弘
賛美  22、248、311

さて、今お読みいただきましたマルコによる福音書4章35節から41節は、イエス・キリスト様が、ガリラヤ湖の東岸にある、ゲラサ人と呼ばれる人たちの土地に行こうとしていたときのことです。ゲラサ人の地は、それこそゲサラという町を中心にした所です。ゲラサという町は、ガリラヤ湖から南東に50kmほど奥まったところにありますので、イエス・キリスト様がゲラサの町に行こうとしたのかどうかは定かではありません。もっともガリラヤからエルサレムまでは直線距離でも、100km以上あるのですから、ゲラサの町まで行こうと考えていたとしていたと言うことも十分考えられます。また、ゲラサ人の地は、ゲラサの町から、ガリラヤ湖の東岸にまで広がっていたという説もありますから、単に、ご自身が活動の本拠地にしていたカペナウムから、ガリラヤ湖の東側に渡ろうと考えていたのかもしれません。いずれにしても、イエス・キリスト様は、身近におられた弟子たちを伴って、船で湖の対岸に渡ろうとしておられたのです。

その出来事を、31節では、「さてその日の夕方、イエスは弟子立ちに、『向こう岸へ渡ろう』と言われた」といって書き始めています。ですから、このゲラサ人の地に渡ろうとなさったのは、イエス・キリスト様が、カペナウムの町で、船の上から岸の上にいる多くの人々にお話しをなさった日であったと考えられます。イエス・キリスト様は、多くの人々の前でお話しをなされました。それこそ聖書は、おびただしい群衆が御もとに集まったと告げています。そのようなおびただしい群衆が集まったのは、イエス・キリスト様が、悪霊を追い出すことや、悪霊に憑かれた人を癒やしたり、病気の人を癒やしたり下からです。そのような、力ある業をお示しになり、数々の素晴らしい出来事や成果を見届けていた弟子立ちが、今、全く新しい地、ゲラサ人の地に向って旅立とうとしているのです。それは、まさに、新しい出発のとき、まさに門出の時のように思われた時だったのかもしません。

私たちもそうですが、新しい門出のときには、期待と希望に胸をふくらませるものです。進学し、新しい学校に進む、就職して新しく社会人として出発する。あるいは結婚して新しい生活をはじめるとか、独立して一人暮らしをはじめると言ったこと、それは、まさに門での時として、期待に胸をふくらませるような出来事だと言えます。おそらくは、そのような、胸ふくらます思いで、「その日」イエス・キリスト様のお弟子たちは、イエス・キリスト様と共に、船に乗り込んだのだろうと思います。ところが、そのような希望に満ちた門出は、「その日」の「夕方」であったというのです。イスラエルの一日は、夕方、つまりその日の日没から、翌日の日没までが、一日です。そういった意味では、確かに夕方に出発すると言うことは、新しい日が始まって出発するのですから、新しい門出をするものにとっては、ふさわしい時刻であると言えるのかも知れません。しかし、私はこの夕方に旅立ったと言うことに、どうしても違和感を拭い切れませんでした。夕方、それはまさに日が暮れ、だんだんと暗くなっていく時間帯です。今と違って、2000年前のイスラエルには、電気もガスもありませんから、それこそ夜は漆黒の闇の世界です。おまけに、船で向こう岸に渡ろうというのです。海の上や、湖の上には、家などはありませんから、その闇はいっそう深いものになります。そのような闇の中に向って、イエス・キリスト様と希望に胸をふくらませた弟子たちを乗せた船が出ていこうとするのです。それこそ、岸で見送っていた人たちがいたとしたならば、彼らを乗せた船は、夕暮れの、次第に暗闇を深めていく夕闇の中に姿を消していっただろうと思います。

そのような場面を想像しておりますと、私は、どうしてもそれが新しい地に意気揚々と出かけていく様子ではなく、むしろ不安と恐れが渦巻く世界の中に旅立っていくそんな姿に見えて来るのです。もちろん、私たちが新しい生活や新しい環境のなかに飛び出していくとき、そこには光り輝くような期待や希望ばかりではありません。それに伴う、不安や恐れといったもの全くないわけではありません。だとすれば、イエス・キリスト様が、「その日」「夕方に」弟子たちと、夕闇が深まっていく夕方に旅立たれる姿は、そのような不安や恐れが渦巻く中へ旅立っていく者の姿に重なるのです。果たして、その不安や恐れが現実の気象現象に表わされたかのように、イエス・キリスト様の乗った船は、嵐に出会います。その時の様子を、「激しい突風が起り、波が舟の中に打ち込んできて。舟に満ちそうになった。」と記しています。ですから、もうやがて沈没してもおかしくないと思われる状況が迫ってきているのです。それこそ、新しい門出だ。新しい人生の出発だなどと浮かれている場合ではありません。まさに危機的状況がおとずれ、今にも壊滅してしまいそうになっているのです。

そのような中で、弟子たちは、舟の舳の方で眠っていたイエス・キリスト様をおこして、「先生、私たちどもがおぼれ死んでも、おかまいにならないのですか」と問いつめるのです。新改訳聖書では「何とも思われないのですか」と訳されていますが、かなりきつい口調です。そこには、自分たちが危機的状況にあり、今にも死んで滅んでしまうと言うような絶望的な状況が起っているのに、舟の舳で無作為に眠っているイエス・キリスト様に対するいらだちや憤りといったものがうかがいとれます。この、「先生、私たちどもがおぼれ死んでも、おかまいにならないのですか」と問いつめる弟子たちの問いは、絶望と不安と恐れの中に置かれたものの問いかけです。そして、その問いかけは、苦難や困難、自分ではどうしようもない問題に直面した人間が、神に投げかける問いかけと同じ問いかけなのです。私たちは、苦しいときや、困難な問題にぶつかり、絶望的な状況の中にあるとき、私たちもまた、「神よ、どうして私を、このような状況に放っておかれるのですか?」と詰め寄り問いかけます。それは、何とか助けて欲しい、問題を解決して欲しいと願っているのに、いっこうに手を差し伸べてくれない者に対するいらだちと憤りを込めた呼びかけなのです。そのような呼びかけを聴いて、ようやくイエス・キリスト様は起きあがります。そして、風をしかり、海に向って、「静まれ、黙れ」と言われ、風と波を静められます。まさに言葉ひとつで、風も海も従わせられたのです。

この言葉一つで、風や海を従わせられたイエス・キリスト様のお姿は、言葉一つで天と地を創造された神のお姿と重なり合います。有名な旧約聖書、創世記1章1節から3節までの言葉は次のようになっています。「はじめに神は天と地とを創造された。地は形なく、むなしく、闇が淵のおもてにあり、神の霊が水のおもてをおおっていた。神は「光あれ」と言われた。すると光があった。」この旧約聖書の言葉は、神はことばで出来事を起すお方であると言うことを示しています。神が語られる。すると語られたことが出来事となって起ってくる。神は、言葉で出来事を起される方なのです。イエス・キリスト様の弟子たちは、みんなユダヤ人でした。ですから、神が言葉で天地宇宙を創造されたということを知っていただろうと思います。神が言葉を発せられるとき、その言葉によって全ての出来事が起るのです。そして、今、自分たちの目の前で、言葉で自然をも従わせるお方、イエス・キリスト様がそこにいるのです。だからこそ、彼らは恐れおののかざるを得ません。そして、いったい、この方はだれだろう。風も、波も従わせるとは」。とそう問わざるを得ないのです。それは、まさに神としか言えないお方が、自分たちと共におられるからです。彼らは、夕暮れの、これから夜の闇に包まれていく中を船出していきました。そのような旅路に出て行く中で、人となられた神の一人子イエス・キリスト様が共に旅路を歩んで下さると言うことの意味を知りませんでした。また、その絶大な価値にも気づいていなかっただろうと思います。それこそ、舟が順調に進んでいるときには、イエス・キリスト様が自分たちの旅の同伴者であるということは、何の意味を持たなかったでしょう。というのも、イエス・キリスト様の弟子たちの中には、ヤコブやヨハネ、そしてペテロといったガリラヤ湖で漁をしていた漁師たちがいたのです。ですから、自分たちの経験や技術を持ってすれば、以下に夜の闇の中を航行しようと、なんの問題もないのです。たとえ少々の波風がやってきても、自分たちの力で、切り抜けていくことも出来るのです。ところが、彼らは、自分たちの力では、絶対に抗えないような自然の力の前に立たされます。立たされて初めて、自分の力の限界と無力さを思い知らされたのです。そのような、自分の無力さの中で、彼らは、言葉一つで嵐を静めることの出来るお方の存在に気づくのです。自分たちの旅の同伴者であったということの絶大な価値と意味を見出すことが出来たのです。そう考えると、嵐の最中(さなか)に、舟の舳(とも)で、弟子たちが、不安と恐れの中、「先生、私たちどもがおぼれ死んでも、おかまいにならないのですか」と詰問してくるまで、静かに眠っておられたイエス・キリスト様のお姿も何となく分かるような気がします。きっとイエス・キリスト様は、弟子たちが自分の無力さの中から、呼びかけてくるのを待っておられたのではないかとそう思えるのです。

神は、私たちが神に何かできる能力を求めておられるお方ではありません。むしろ、神は、私たちが無力な自分自身を神に差し出すことを願っておられるのです。それは、私たちが無力な自分自身を差し出すことによって、神ははじめて、私たちの中で神としての働きを行うことが出来るからです。嵐に巻込まれて、舟は波をかぶり、水が舟の中に打ち込んできたとき、弟子たちが無作為にしていたとは考えられません。おそらくは、必死になって水をかき出し、舟をコントロールして、なんとか沈没しないようにと頑張っていただろうと思います。もし、仮に私がその舟に乗っていたら、私は間違いなくそうします。そうやって何とか助かろうとするでしょう。そして、そうやって自分が頑張れば頑張るほど、舟の舳(とも)で眠りこけているイエス・キリスト様にいらだちを感じ、憤りを感じただろうと思うのです。きっと「あなたも起きて、手伝え」とそう思っていただろうと思うのですが、みなさんならどうでしょうか。

私たちが、何事かを一生懸命に頑張っているとき、私たちは神に望むことは、自分の働きに協力してもらうことです。私たちの中に神が神としての働きを成して下さることを望むのではなく、自分の計画や自分の願いが実現すること、その働きに神が協力してくれることを望むのです。そして、その自分の望むことが実現するために、神が協力して下さらないと「あなたは、私のことは何とも思わないのですか。」といらだちを覚え、また憤りを覚えて、神に詰め寄ります。頑張っていればいるほど、激しい憤りを感じ、強く憤りを感じるものです。これが、たとえ今回は自分の望み通りに行かなくても、第2、第3の選択肢があるならば、それでもまだ、心を静めて「主よ、あなたの御心のままにして下さい。」と、祈れることもあるでしょう。けれども、まさしく教読まれたような聖書の箇所の嵐に揺れる小舟のよう名場面では、そうそうは「御心のままにして下さい」などと祈れるものではありません。それは、生きるか死ぬかの場面なのです。全てを失うか、全てを得るかの"ALL or Nothing"の状況なのです。まさに、危機的な状況の中では、私たちの本心が出てきます。むき出しの私たちの願いや願望が出てくるのです。だからこそ、イエス・キリスト様の弟子たちは、生きたい。助かりたいという思いのなかで、眠っているイエス・キリスト様にいらだちも感じ、憤りも感じていただろうと思うのです。あるいは、それは怒りといった感情だったかも知れません。

けれども、彼らが、いらだちや憤り、あるいは怒りといったもの以上に、もっとも強く感じていたのは、自分たち自身の無力さだっただろうと思います。そして、抗えない自然の力の前で、自分たちの無力さを感じている弟子たちに対して、イエス・キリスト様は、言葉で出来事を起すという、まさに創造主である神の御業をお示しになられたのです。それはまさに、神が神として働かれる業です。神の一人子なる神であるイエス・キリスト様は、弟子たちが自分の無力さを知り、その自分の無力さの中で、眠っているイエス・キリスト様を起したときに、その神が神として働かれる御業を行われたのです。ですから、私たちは、神に対して自分の無力さを差し出さなければなりません。私たちが、自分の無力さを神に差し出さない限り、神は、神としての御業を私たちの中で行うことが出来ないのです。それは、私たちの教会流の言い方をすれば、「委ねる」と言うことです。「神のお委ねする」と言うことは、自分の無力を差し出し、神がなしたもう御業を受け入れることです。要は、あれこれ努力して頑張ったとしても、結果を引き受けるということなのです。

私たちは、神に「委ねる」と言うことの大切さを、教会で何度も聞いてまいりました。ですから、「神にお委ねする」と言うことが大切だということをよく知っています。けれども、「神にお委ねる」ということは、本当に難しい事なのです。この「神にお委ねすること」の難しさは、あきらめることの難しさです。自分の願うこととは異なっても、自分の思い通りには行かなくても、神のなされる御業を引き受ける。それは、自分の思いや願いをあきらめるということでもあります。だからそう簡単に出来きないのです。ただ自分の無力を神に差し出すといいますが、自分の経験や知識、技量といったキャリアを、早々簡単には捨てられないものです。イエス・キリスト様の弟子たちも、舟に波が打ち込んできて、舟に満ちそうになるまで、イエス・キリスト様を起そうとはしませんでした。自分の漁師としての経験や知識、技量で何とかしようとしたのです。けれども、それではどうしようもなくなったとき、彼らは、イエス・キリスト様を「先生、私たちどもがおぼれ死んでも、おかまいにならないのですか」といって起すのです。彼らがイエス・キリスト様を起したのは、あきらめたからです。彼らの漁師としての経験や技量や知識をもってしてもどうしようもないとあきらめたからこそ、やり場のないいらだちや憤りを持って詰め寄るのです。弟子たちは、自分の力では抗えない自然の力の前にたって、自然の力に対する自分の無力さを知って、否応なしにあきらめざるを得ませんでした。このイエス・キリスト様の弟子たちのような、絶対に抗えないような絶望的な場面に出くわさない限り、人間そうそうはあきらめきれるものではありません。あきらめきれないからこそ、自分の経験や知識、技量を捨てられないのでそれに頼るのです。ときには、この捨てられない経験や知識、技量といったものが、信仰に関わるものであったりします。

断食をしてお祈りしたら、問題が解決したとか、熱心に祈り願い求めたならば、祈りが答えられたなどと言ったことを経験しますと、断食の祈りや、熱心な祈りが問題を解決する力だと思ってしまいます。そして、祈りという力を行使することで、問題の解決を図ろうとしたりします。祈りは、断食の祈りだろうと、熱心な祈りであろうと、それは願いを叶えるためのものではありません。むしろ、本当の祈りは、祈りというものを通して、神と向き合い自分の無力さを神に差し出すものなのです。けれどの、祈りという信仰の行為ですら、そうならないのは、私たちが、自分の願いや思いをあきらめきれないからです。

先日、ある方からお電話をいただきました。初めてお話しする方でしたが、私が、PBAの他のラジオ牧師のかたと一緒に出した、ラジオメッセージ集「なぐさめ、心に満ちて」という本を読んで下さった読者の方からのお電話でした。この「なぐさめ、心に満ちて」には、私がラジオでお話ししたショートメッセージが4つばかりですが納められています。その中に、「let、it be」というショートメッセージがありますが、それは委ねると言うことの大切さを語ったメッセージでしたが、次のようなものです。ビートルズの歌に「Let it be」って曲があります。「Let it be」とは、「なすがままにせよ。」と言う意味です。「なすがままにせよ」ってことは、自分の力ではどうしようもないときに「事の成り行きに身をゆだねなさい」ということですよね。でも、事の成り行きを含めて、何かに自分の身を任せるということは、意外と難しいものですね。任せた相手が、必ずうまくやってくれるわけではありません。うまくいかないことだってあるのです。そんな時は、人に任せた分、後悔が大きくなります。ですから、自分の身を任せるときには、任せる相手を慎重に選ばなければなりません。

さて、旧約聖書の箴言十六章三節に、「あなたのしようとすることを主にゆだねよ。そうすれば、あなたの計画はゆるがない。」と書かれています。これは、「あなたの人生を神にゆだねなさい。」ということです。聖書がこのように言うのは、神がいつも私たちのことを心配し、私たちにためになることをして下さるお方だからです。実は、私が大学を受ける時に、友人が、この箴言十六章三節の言葉を書いて渡してくれたのです。それで私は、試験の直前までこの言葉を何度も読み、「神にすべてをゆだねます。」って祈りながら試験を受けたのです。しかし、第一希望の大学は不合格でした。その時はもうがっかりするやらつらいやらで、「神にゆだねても、落っこちたらなんにもならない。」と思いました。でも、神には、私の人生に対するご計画があったのです。そして、そのご計画に沿って私の人生を導いてくださっていたのです。そのようなわけで、私は受験に失敗しました。第一志望の大学は私が願って受験した大学です。その願いは閉ざされましたが、そのことを通して、私は今、思っても見なかった牧師になっているのです。そしてそれは、私にとって本当に良いことでした。もちろん、神に導かれる人生にも、困難やつらいときがあります。そんなときには、喜ぶことなどできません。でも、そんなときでも神を信じ、神に「自分の人生をおゆだねします。」と祈り続けるならば、神は確かに私たちの人生を導いてくださるのです。それは、必ずしも自分が望んでいた人生とは違うかもしれません。でも、神に導かれた人生ならば、たとえどんなにつらい艱難辛苦の連続だったとしても、その行き着先には、必ず神の豊かな恵みと慰めがあるのです。だからこそ聖書は、「あなたのしようとすることを、神にゆだねなさい」と、あなたに語りかけているのです。

お電話を下さった方は、この「let、it be」というショートメッセージを読まれて、「委ねると言うことはどういう事ですか?」と尋ねてこられたのです。そう尋ねられて私は「委ねるとは、結果を神様におまかせすることですよ。」とかいろいろとお答えしましたが、結局、分かったことは、「その方の心の中には、どこかに、『神に委ねても、本当に幸せになれるのだろうか』という不安が消えないんだな」と言うことでした。当然だろうと思います。誰もが幸せになりたいのですし、幸せになりたいと願い、思うことは悪いことではないからです。けれどの、この幸せになりたいという心が、委ねても幸せになれなかったらどうなるのかという不安の影を、心に落として言ってしまうのです。私にお電話を下さった方は、その不安に心がかき乱されているといったような状況ではありませんでしたが、しかし、その言葉の背後には、ご本人が感じているかどうか輪分かりませんが、不安な思いが感じ取られるものでした。この、不安な思いがだんだんと切羽詰まってまいりますと、それこそ、心をかき乱していきます。神のおゆだねした結果、神が導かれた人生が自分の願いとは異なるつらいものだったらどうしようかなどと思い始めますと、往々にして私たちの心は不安になり、心の平安は奪われます。神に委ねなく立って、人間は悪い結果を考えると、それこそ心は嵐の波のように波打つのです。そして、じっさいに事の成り行きがうまくいかなければ、心の嵐は暴風雨のようになって心をかき乱すのです。

けれども、私たちが、本当に神の前に、自分の無力さを差し出すならば、神は必ず言葉を持って、その嵐を静めて下さいます。考えてみますと、イエス・キリスト様の弟子たちを襲ったガリラヤ湖の嵐は、確かに生死をかけた大問題でした。けれども、本当の問題は、その嵐によって、もっとも激しい嵐は、揺り動かされ、不安と恐れが渦巻いた弟子たちの心だったのです。私たちは、何か困った出来事が起ると、その出来事を問題だと思いますが、本当の問題は、その出来事に向き合い、激しく揺れている私たちの心にあるのです。その嵐のように不安と恐れに揺れ動かされている私たちの心であっても、私たちが、自分の無力さを知り。神に委ねるならば、神の一人子であるイエス・キリスト様は言葉を持って静めてくださるのです。そのイエス・キリスト様が私たちの人生の同伴者になって下さるのです。だからこそ、神を信じ、イエス・キリスト様を信じて、このお方と共に歩む生涯は絶大な価値のある生涯だといえるのです。このイエス・キリスト様は、今日もあなたと共に歩んでいて下さっているのです。

お祈りしましょう。