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羊飼い 『あなただからこそ』
マルコによる福音書 5章1−20節
2006/5/28 説教者 濱和弘
賛美  19、211、254

さて、今日の聖書の箇所は、イエス・キリスト様が伝道の拠点としていたカペナウムの町を挟んで、湖の対岸であるゲラサ人の地での出来事です。イエス・キリスト様のご一行が舟からあがられると、すぐに汚れた霊に憑かれた人が墓場から出てきたと書かれています。そして、イエス・キリスト様の出会ったとあります。新改訳聖書にはイエスを迎えたとなっていますが、原語であるギリシャ語を視ますと、決してイエス・キリスト様が来られるというのを意識して出迎えたというのではなく、それは、墓場から出てきた人にとっては、全く予期せぬ出会いであり、偶然の出会いでした。しかしこの、偶然の出会いが、人生を変えたのです。

このイエス・キリスト様と出会った墓場から出てきた人は、汚れた霊の憑かれ、すなわち悪霊に憑かれてしまったがゆえに墓場に鎖で繋がれていました。「鎖に繋がれていた」というのは、どうやら彼が、人々に乱暴をはたらき、周りの人の手に負えなかったからのようです。その辺のいきさつを、マタイによる福音書8章26節に「彼らは、手に負えない乱暴者で、だれもその辺の道を通ることが出来なかったからである。」とそう告げています。マタイによる福音書は、「彼らは」というように、複数形で言われるのは墓場にいて、乱暴を働いていたのは一人ではなく二人だったからです。しかし、マルコでは一人の人であるかのように単数形で描いています。おそらく、この時、この湖の東側のゲラサ人の地と呼ばれる地域において、悪霊に取憑かれたと思われた人は、ひとまとめにして墓場に連れてこられ、そこに住まわされていたのか知れません。というのも、墓場というのは、死者を葬る場所であると同時に、悪霊が住む場所だと考えられていたからです。イスラエル地方の墓場は、洞穴のような横穴を掘って、そこに遺体を治めていましたから、そこに人を追いやって、雨露をしのぎながら住まわせることは十分にできました。そのようなわけで、この地方で悪霊につかれた思われた人たちが、墓場に集められた人たちがそこに住まわされていたということはあり得ることなのです。ですから、この聖書の箇所で、墓場から出てきた人の背後には、それまでに、彼と同じように、人々から「あれは悪霊に憑かれた人だ」といわれ、墓場につながれ社会の隅っこ押しやられて生きた多くの人たちの姿が隠れています。

ですから、この悪霊に憑かれた人は、一人の人として描かれていますが、決して一人ではなく、そのような多くの人の悲しみを背負ってイエス・キリスト様と出会っているのです。そして、その人は、人々から鎖で繋がれ足かせをつけられるのです。鎖で繋ぐ、足かせをかけるというのは、何ともひどい仕打ちのように思われます。如何に乱暴者であったとしても、墓場に追いやってそこに住まわせるだけでなく、鎖や足かせをつけるなど、今の、私たちから見れば、いかにもひどい、非人道的な扱いのように思います。けれども、それはその時代のその地域社会においては、必ずしもそうとは言えません。むしろそれは当たり前の事で、その地域に住む大多数の人たちが安全に、心を煩わせないためには仕方のないことであり、また当然のことだったのかもしれません。いつの時代でもそうですが、社会の隅に追いやられて生きなければならないのは、minority(マイナリティ)と呼ばれる人たちです。minorityというのは、人数が少ない少数派ということ、例えば少数民族だとか、たとえ大多数であっても権力や権勢など持たない力のない弱い立場にある人たちのことです。そういった意味では、この悪霊に憑かれた人も、この地域の人たちの中ではminorityだったといえます。だからこそ、多くの人の人たちの生活が脅かされないために、墓場という、町の中ではない、人里離れたところにあるような所に追いやられ、そこに住まわされたのです。もちろん、圧倒的多数のmajorityにも言い分はあるでしょう。それこそ乱暴者でそのあたりに近づくことが出来ないのです。ですから具体的な迷惑を被っているのです。それは、確かにもっともで正当な理由のように見えます。

けれども、いかにもっともで正当な理由であったとしても、墓場に追いやられ、鎖に繋がれる人にとっては、それは悲しい辛い出来事なのです。しかも、それが悪霊に憑かれたと言う理由であるならばなおさらです。問題はこの人自身にあるのではない、この人が置かれている状況にあるからです。少数民族だから、有色人種だから、貧乏人だから、下層階級だから、そう言ったことは本人にはどうしようもないことです。たまたまそのようなところに、生まれたのです。なのに、そう言った理由で、社会の隅の押しやられていくと言うことは、私たち人間の社会の中では往々に置きる事です。今の私たち日本の社会問題の一つに格差社会といったものがあると言われます。この格差というのは、当然経済格差といったものが第一ですが、その経済格差が教育格差といったものに繋がり、構造的な階級社会を生みだしていくと言われています。まさしく、どこに生まれるかは誰にも決めることが出来ません。けれども、どこに生まれるかで、どのような人生を送るかが決まってしまうような社会になりつつあるというのです。

あるいは、病気になってしまった、体に傷害を負ってしまったと言うだけで、社会の隅っこでひっそりと生きていかなければならないようなそんな社会が私たちを取り巻いています。前にも、お話ししましたが、以前、私が住んでいた町の近くでこういう事がありました。その町に、知的障害を持った子どもたちの養護学校を作ろうと言う計画が持ち上がりました。すると、その地域から反対の声が挙がり、結局、実現しなかったのです。ところが、聞いたところによりますと、その反対をしたのが、実際の障害を持つ子供を持つ家族だというのです。その家族に人たちは、それこそ車で何時間もかかる遠方に子供を預けているのですから、近くに養護学校が出来れば、本当は助かるのだろうと思うのですが、しかし、その家族が反対する。反対する理由は、近くに養護学校が出来れば、自分たちの子供が地域の人の目にさらされると言うところにあるらしいのです。その周囲の視線が、本当なら近くにあって便利であろうと思われる施設の建設を拒み、遠くにある学校に子供を預けさせるのです。ここにもmajorityの影にあって社会の隅に追いやられているminorityの人たちの姿があり、悲しみやつらさがあります。

そのつらさや悲しみに思いを馳せながら、聖書に目を落とすと五章五節には、この悪霊に憑かれた人が、「夜昼たえまなく、墓場や山で叫びつつけて、石で自分のからだを傷つけていた。」と書かれてあります。一体どうしてその人は、「夜昼たえまなく、墓場や山で叫びつつけて、石で自分のからだを傷つけていた。」のか、その理由は明らかではありません。悪霊に憑かれたがための異常な行為であったということも出来るでしょう。実際にそのように書かれている注解書もあります。そしてそれが、一般的な見方かも知れません。けれども、私は、この大声を上げながら、自分のからだを石で打つ人の姿を思い浮かべるときに、どうしても、その人の悲しみを思わざるを得ないのです。「一体自分はどうしてこうなってしまったのか」という深い悲しみの中で、自分のからだを打ち叩きながら嘆き悲しんでいる人の姿が、私の脳裏をよぎっていくのです。

そして、そのような悲しみの中にある人をイエス・キリスト様は悪霊から解放し、癒やされるのです。その時のいきさつが、6節から14節にあります。そこを見ますと、イエス・キリスト様を見かけた悪霊に憑かれた人は、イエス・キリスト様のところに走り寄ってイエス・キリスト様を拝します。けれども、走り寄ってきたのは、悪霊に憑かれた人自身の意思ではありません。むしろその人に取憑いている悪霊が、その人をイエス・キリスト様のところに走り寄らせるのです。そして、悪霊自身が、イエス・キリスト様に「どうぞ私たちを苦しめないで下さい。」「自分たちをこの土地から追い出さないで下さい」と懇願するのです。それは、イエス・キリスト様が、社会の隅に追いやられ悲しみ、嘆いている人の悲しみを、決して放ってはおかないお方だからです。だからこそ、この悪霊に憑かれた人と出会い、その人と向き合ったイエス・キリスト様は「汚れた霊よこの人から出て行け」とそう言われるのです。そして、その言葉通りに、この人は癒やされ、悲しみは取り去ら、喜びが心に満ちあふれるのです。

ところが、この出来事は、この地域の人に大きさ衝撃をもたらします。その衝撃は、悪霊に憑かれた人が正気になったという衝撃とともに、その癒しの際に、その人から追い出された霊が、イエス・キリスト様の許しの元に豚の群れ二千頭にはいり込み、そしてそのために崖から湖になだれ落ちて死んだという事件の衝撃の大きさでもあったろうと思います。そして、イエス・キリスト様にこの町にから出ていってくれと願うのです。この町の大多数の人にとっては、イエス・キリスト様がなさったことは、受け入れがたい、信じがたい出来事であり、何とも受け入れがたい奇妙な出来事だったからです。そのような、大多数の人たちの気持ちは、20節にある「人々は、みな驚き怪しんだ」と言う言葉の中に現われているように思います。不思議の思えて受け入れがたいのです。そのような人々の反応に、イエス・キリスト様は舟に乗って、そこを立ち去ろうとします。すると、先程の悪霊に憑かれていた人が、イエス・キリスト様と一緒にお供したいと願いでます。自分を苦しみから解き放って下さったイエス・キリストさまです。ついて行きたいと思うのは自然の感情かも知れません。また、その人がこれから帰っていく社会は、自分を墓場に追いやり、鎖で繋ぎ足かせをはめた人々が住む社会です。今、悪霊から解放されたとはいえ、周りの人々は、「あれはかつては悪霊に憑かれて、人々にさんざん迷惑をかけた奴だ」といった目で見られることも十分に考えられます。社会の偏見や差別といったものはそう簡単には取り去られないものです。ですから、悪霊につかれたために、社会の隅っこ追いやられた人は、癒やされてもまだ偏見と差別の目に追いやられるようにして、社会の隅っこで生きていかなければならないと言うことも、ままあることなのです。だからこそ、そんな社会から逃げ出して、自分を受け止めて下さるイエス・キリスト様の弟子として、イエス・キリスト様とともに生きたいとそう思ったのかも知れません。

ところが、イエス・キリスト様は、弟子としてついて行きたいという願いをお許しにならなりません。そして、偏見や差別の目にさらされるかも知れない社会の中に止まっていなさいというのです。その理由について、イエス・キリスト様はこのように言っておられます。「あなたの家族のもとに帰って、主がどんなに大きなことをしてくださったか、またどんなにあわれんでくださったか、それをしらせないさい。」家族、この悪霊に憑かれた人の家族も、きっとこの地域社会の中で身を小さくして生きなければならなかったminorityの悲しみやつらさを背負って生きた人たしであったろうと思います。悪霊につかれ、人々に乱暴をはたらく。自分の家族がそのようなことをしている。その当時の村落社会の中ですから、それが誰の息子であり、誰の家族であるかは、すぐに分かることです。そのような中では、家族もまた、本人と同じように肩をすぼめ、社会の隅っこで身を小さくして生きていかなければならない状況は、容易に想像できます。

私の知人に、友達のお兄さんが、ある大きな犯罪に関わってしまったという人が居ます。そして、そのお友達のお兄さんは人を殺してしまったのです。犯罪が起ったとき、それが話題性のあるものであればあるほど、マスコミは熱心な取材をします。本人だけではなく、家族のところにまでやって来て、当然のことのように、いろいろとインタビューを試みる。そのような中で、家族は身を小さくしているのです。私の知人のお友達は、その地域に住んでいることが出来なくなって、人知れず静かにどこかに越されて行かれたそうです。そして、その後の消息は分からないそうです。そうやって、越していった先で、きっと身を小さくしながら生きているのだろうと、そう思います。家族だからと言うことで、マスコミに追い回される家庭は、世の中に早々あるものではありません。ですから彼らのまた、社会の中ではminorityです。minorityだからこそ、マスコミも堂々と、相手の悲しさや苦しさなど考えずに、いえ考えていても、報道という大義名分によって、その悲しみや苦しみを踏みこえてマイクを向けることが出来るのだろうと思います。そのような、悲しみと苦しみの中にある人に、誰が一体寄り添うのでしょうか?一体誰が、慰めの言葉と励ましを語るのでしょうか。

私は、金曜日に、加藤亨先生のお見舞いに広島に行きました。広島大学病院の待合室で、望先を待っているときに、ふと一枚のポスターが目に入りました。それはガンを告知された人のための集会の案内でした。ガンを告知されるというのは、ショックな出来事です。少なからず、不安や恐れを感じます。本人だけではありません。家族もまた同じような思いになるのです。そんなときに、同じ苦しみや悩みを持った人、つまりは自分自身がガンになった人、または家族がガンの告知を受けた人の経験と言葉こそが、一番の慰めと支えになるのだろうと思うのです。イエス・キリスト様は、イエス・キリスト様によって悪霊から解放された人に「あなたは家族のもとに帰って、主がどんなに大きなことをしてくださったか、またどんなにあわれてくださったか、それを伝えなさい。」とそう言われました。それは、人々から墓場に追いやられ、虐げられた悲しみを彼が知っているからです。そして、イエス・キリスト様が、そこから解き放ってくれた喜びを、誰よりも知っているのが、この悪霊につかれた人だったのです。だからこそ、この人と同じように、地域社会の人々の中で肩身を狭くして生きているだろう家族のもとに帰れとイエス・キリスト様は言われるのです。そして、家族にイエス・キリスト様がどんなに憐れんで下さったのかと言うことを語りなさいと言うのです。それは、イエス・キリスト様にある、慰めや慈しみを語れと言うことでもあります。そして、それを出来るのは、この悪霊に憑かれた人だけなのです。この人だからこそ語れるのです。だからこそ、イエス・キリスト様はあなたの家族のもとに帰りなさいと言われるのです。そして、この人が家族のもとに帰ると言うことは、その人がいた地域社会に帰ると言うことでもあります。そこは、大多数の人のためであるならば、minorityの人々を容易に切り捨ていく世界です。そのような社会の中で、人々にイエス・キリスト様の愛と憐れみと恵みを語る人として、その人はそこにとどまるようにと言われたのです。

ゲラサの地の人々が、イエス・キリスト様たちを、この地方から出ていって欲しいと迫る以上、その人以外に、もはやイエス・キリスト様の憐れみを語る人はいません。きっとこの地方の人は、新たに悪霊につかれた人が出てくれば、そのイエス・キリスト様と出会った人と同じように墓場に追いやり、鎖に繋ぐでしょう。そして、その家族もまた、肩身の狭い思いをしながら生きていくに違いありません。だからこそ、この悪霊につかれた人が、この地にとどまって、社会の隅に押しやられた弱い人、minorityの人々とイエス・キリスト様の接点になることを求められたのです。またその人だからこそ、イエス・キリスト様はそのことを求められたのだろうと思うのです。考えてみますと、キリスト教の歴史は、弱者の宗教、minorityの宗教として始まりました。ガリラヤでイエス・キリスト様が伝道を始めたとき、確かに多くの人がイエス・キリスト様の言葉に耳を傾けましたが、しかし、イエス・キリスト様が権力や権勢を握ったわけではありません。権力や権勢を握っていなかったからこそ、権力の中枢の近くにいた祭司長たちや律法学者、パリサイ派と言った人たちによって十字架につけられて殺されたのです。そして、イエス・キリスト様の言葉に耳を傾けた人たちの多くは去り、小さな群れと呼ばれた教会が、伝道をし、イエス・キリスト様の教えを語り伝えてきたのです。そして、ローマ帝国時代においても、キリスト教会はユダヤ教やローマ帝国から、迫害を受け続けました。原始教会も初期の教会もminorityの苦しさと悲しさの中で、広がっていったのです。けれどの、教会は4世紀に入りますと、こんどは支配者側の宗教になります。minorityではなくmajorityとなったのです。そして、中世になり、依頼、キリスト教はmajorityの宗教として歩んできました。そして、今の時代に至ってもそうです。

だからこそ、私たちは、イエス・キリスト様が、今日の聖書の箇所で「あなたの家族のもとに帰って、主がどんなに大きなことをして下さったか、またどんなにあわれんでくださったか、それをしらせなさい。」という言葉に、目を留めたいと思うのです。私たち一人一人が、寄り添える人、その人の励ましになり、慰めになり支えになって挙げられる人の中で、もっとも小さい者、最も弱いもののところに行き、イエス・キリストにある慰めや支えを知らせるものになりたいと思うのです。もちろん、それは慰めであり支えであり、悲しみや苦しみに寄り添って下さる神の愛ですから、直接、罪の赦しを語るのではないではないかと思われる方もいるかも知れません。なるほど、キリスト教の中心にあるのは、罪の赦しの福音です。そういった意味では、イエス・キリスト様の慰めや励まし、悲しいとき、寂しいときに共に寄り添って下さるイエス・キリスト様を伝えることは、福音の中心ではないかも知れません。しかし、悲しみの中にある人、虐げの中にある人、苦しんでいる人にとっては、今欲しいのは、慰めであり、支えであり、共に寄り添ってくれる愛なのです。なにの、そのようなところで罪の赦しを語っても、それは人の心に届きません。あえて、誤解を恐れずに言わしていただくならば、心に届かない福音は力がない、ただの言葉にすぎないのです。

金曜日に、私は加藤先生のお見舞いに行ったと申しましたが、帰りの新幹線の中で、週間新潮という雑誌をかって何気なく読んでいました。その中に「ひろちさや」という宗教評論家の言葉が載っていました。私は、今までに、この「ひろちさや」さんが書いた本を何冊か読んでいましたが、正直いって、本を読む限りでは、余り好きな著作家ではありませんでした。けれども、そこに書かれていることには、目をひかれました。そこにはこう書いてあったのです。「我が家は、代々、浄土宗の檀家。それは別にしても、日本の宗教家の中で、法然上人の人間性に最も強く惹かれます。」「法然が出現するまでの仏教は、すべてメーカーの論理だった。こんな有り難いお教えがあるから、信仰しなさいと言うスタイルです。しかし、法然は違う、信者の側から、救いについて考え抜いた。キリスト教におけるルターと同じ。ユーザーの側の論理で教えを説いたのです。」「ひろちさや」さんは、こんな有り難い教えがあるから信じなさいといった、上から語る言葉を、メーカーの論理と言いました。それに対して、信者の側から考え抜いたのが法然の論理で、それはルターと同じだというのです。

ルターは、中世の教会が語った救いに対して、否を唱えた人です。中世の教会は、先程も申しましたように、支配者側に立ったキリスト教です。もちろん支配者側に立ったキリスト教は、それはそれで意味があることであり、その功績も否定する必要はありません。しかし、それが支配者側の宗教である限り、それはmajorityつまり強者の言葉であり、上から、こんな良い教えがあるから信仰しなさいという言葉なのです。ですから、ルターがそのような上から論理ではなく語ったということは、ルターは弱者、つまりminorityの側から語ったと言うことです。実際、ルターは、説教する者、あるいは教師といった教えを伝える者に、生活の現場から語るように指導していますし、ルター自身の説教も、極めて生活に密着したところから語られています。そのようなに、生活の現場に、神の恵みが注がれ、神の愛が注がれているのです。ですから、私たちは、そのような生活の現場で、慰められ、励ましていただき、支えていただくことが出来ます。子育てで悩んでしまったり、人間関係や家族関係で行き詰まったり、仕事がうまくいかないと行ったことで、私たちが苦しんだり、悲しんだりする中でも、私たちは、祈りの中で励まされたり、聖書の言葉で慰められと言った事を経験してきているのではないかと思います。それは、必ず経験できるものなのです。

その経験をもって、私たちは、私たちが行かれている生活の現場で生きていくことが大切なのです。そして、そこで弱っている人、悲しんでいる人と共に寄り添いながら生きていくのです。その時に、あなたは、キリストの証人として、キリストにある慰めや励ましや、支えといったものを伝えていくことが出来ます。それは、あなたにしかできない働きですし、あなただからこそ出来る働きです。そして、そのキリストにある、慰めや励まし、支えといったものが人の心に届いたならば、その人は必ず、罪を赦すキリストの福音に触れていきます。そうやって、慰められ、励まされ、支えられる喜びは、罪ゆるされ、神に受け入れられる喜びへと広がっていくのです。そして、罪ゆるされる喜びは、天国という死をも乗り越えた希望を産み出します。ですから、私たちは、いつも弱い立場にいる人、悲しんでいる人、涙を流している人のことを忘れないようにしましょう。そしてそう言った人たちと共に歩める教会でありたいと思うのです。それが、主イエス・キリスト様にある喜びを伝えていくことになるのです。

お祈りしましょう。