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羊飼い ペンテコステ記念礼拝
『助け主が来た』
ヨハネによる福音書 13章25−31節
2006/6/4 説教者 濱和弘
賛美  18、135、416

さて、今日はペンテコステです。ペンテコステは、クリスマス、イースターと共に教会にとっては大切な祝日の一つで、聖霊なる神さまが、私たちのところに遣わされてきた日です。聖書の神様は、唯一の神様です。しかし、その唯一の神様は、父なる神様、子なる神様、聖霊なる神という、三つの独立した性質をもつお方が、決して切り離すことのできない深い結びつきの中で、一つに結ばれておられる、そのようなお方のです。今、司式の兄弟にお読み頂きましたヨハネによる福音書14章15節から17節は、その聖霊なる神様が、「やがて私たちのところに使わされてくるよ」ということを、イエス・キリスト様が弟子たちにお話しになったところです。

その聖霊なる神様のことを、今日の聖書の箇所におきまして、イエス・キリスト様は助け主とそう呼ばれました。あるいは、同じヨハネによる福音書14章17節においては、真理の御霊というふうにも呼ばれています。この助け主、あるいは真理の御霊と呼ばれるお方は、ひとつの大きな特徴を持っておられるのですが、それは、いつも私たちと一緒にいて下さるお方であると言うことです。先程のイエス・キリスト様が、聖霊なる神様を真理の御霊と呼ばれたヨハネによる福音書14章17節のすぐ前、16節を見ますと、そこにはこう書いてあります。口語訳聖書ですが、「わたしは、父に御願いしよう。そうすれば、父は別に助け主を送って、いつまでもあなたがたと共におらせて下さるであろう。」新共同訳聖書では、「永遠に一緒にいるようにしてくださる。」となっています。いずれにしても、この助け主と呼ばれる聖霊なる神様は、いつでも、どこでも、ずっと私たちと共にいて下さるお方だというのです。

実際、日本語では「助け主」と訳されている言葉はギリシャ語では、παρακλητοσ(パラクレートス)といいます。このパラクレートスと言う言葉に対して、イエス・キリスト様と同じ時代に生きた同じ民族であるユダヤ人たちは、「持続性、信頼に価すること」といったこと、つまり真実さ、誠実さといったものに通じるニュアンスを感じ取っていたようです。いつまでも変わらないで、ずっと持続されるからこそ、それは信頼に価する真実で誠実なものだと言えます。今日言っていることと、明日言うことが全く違うような人は、とうてい信頼することが出来ません。けれども、聖霊なる神様は、昨日も、今日も、明日も明後日も、ずーっといつまでも、それこそ永遠に変わらない姿勢と態度で私たちと共にいて下さり、私たちに接して下さる、まさに真実なお方であり誠実なお方なのです。このように、いつまでも首尾一貫して変わらないものを、私たちは真理と呼びます。そのように、いつでも、どこでも、どんなときでも、決して私たちに代わらない態度で接してくださるお方だからこそ、助け主と呼ばれる聖霊なる神様は、真理の御霊だとも言えるのです。

この助け主であり、真理の御霊である聖霊なる神様が、私たちのところに送られてくるのは、私たちを孤児にしないためであると聖書は言います。14章18節から21節にこう言われています。「わたしはあなたがたを捨てて孤児とはしない、あなたがたのところに帰って来る。もうしばらくしたら、世はわたしを見なくなるだろう。しかしあなたがたはわたしを見る。わたしが生きるので、あなたがたも生きるのである。その日には、わたしはわたしの父におり、あなたがたはわたしにおり、わたしがあなたがたにおることがわかるであろう。わたしのいましめを心にいだいてこれを守る者は、わたしを愛する者である。わたしを愛する者は、わたしの父に愛されるであろう。わたしもその人を愛し、その人にわたし自身を表すであろう。」この言葉は、イエス・キリスト様の十字架の死と復活のことを示しているという人がいます。「世がわたしを見なくなる」というのが、十字架の死を示しており、「しかし、あなた方はわたしを見る」というのが、復活の出来事を示しているのだというのです。そして、そのことによって、神様を信じ、イエス・キリスト様を信じる者たちも、イエス・キリスト様と同じ復活の恵みに与れるのだと言うことを確信させられると言うことを言っているのだというのです。

なるほど、そう言う風に受け止めることも出来るかも知れません。しかし、20節に「その日には」という表現は、聖書の中で、この世の終わりの日について語られる時に用いられる、一種の独特な言葉遣いです。ですから、単にイエス・キリスト様の十字架と復活と言う近い将来のことだけでなく、その背後にあるこの世の終わりの最後の審判の時に、神様を信じ、イエス・キリスト様を信じる者が、救われるという、もっと長い、終末的な視点で語られていると考えるほうが良いように思われます。おまけに、21節からの「わたしのいましめを心にいだいてこれを守る者は、わたしを愛する者である。」という言葉は、15節の「もしあなたがたがわたしを愛するならば、わたしのいましめをまもるべきである。」という言葉と呼応しています。そのようなわけで、この18節から21節までの「わたしはあなたがたを捨てて孤児とはしない、あなたがたのところに帰って来る。もうしばらくしたら、世はわたしを見なくなるだろう。しかしあなたがたはわたしを見る。」というのは、イエス・キリスト様の再臨までを含む言葉である考えるべきだろうと思うのです。

つまり、イエス・キリスト様が十字架にかかり死なれ、復活し、天に昇って行かれて、やがて再びこの地上に来られるというところまで見据えられた言葉なのです。そのような中で、イエス・キリスト様が再び来られるまでの間、聖霊なる神さまが私たちと、ずっと一緒にいて下さり、私たちを助け支えて下さるというのです。それは、私たちが、やがて神の国である天国に迎え入れられまでの間、この地上でいきていく上には、神さまの支え、イエス・キリスト様の助けが必要だからです。神さまとイエス・キリスト様の支えと助けがなければ生きていけないほど、私たちが生きる現実の世界は、私たちにとって厳しい、過酷な一面を持っていると言うことでもあります。だからこそ、私たちは、助け主なる聖霊なる神さまが、絶対に必要なのです。

それでは、実際に私たちが生きている現実の世界は、私たちにとって厳しい、過酷な一面を持っているとするならば、それは一体どのような過酷さなのでしょうか。

先程、助け主と言う言葉の元々の言葉は、ギリシャ語では、παρακλητοσ(パラクレートス)であり、ユダヤ人たちは、この言葉の「持続性、信頼に価すること」といったこと、つまり真実さ、誠実さといったものに通じるニュアンスを感じ取っていたと申しました。その、真実さ、誠実さといったニュアンスを感じ取らせるπαρακλητοσ(パラクレートス)と言う言葉は、法廷での援助者、あるいは弁護者という意味を持っています。ですから、いわば、παρακλητοσ(パラクレートス)とは信頼できる誠実な援助者、弁護人と言ったところです。この弁護人を必要とする場面は、実際の生活の上では法廷と言うことになります。法廷で訴えられたときに、弁護人がその脇にあって、どう受け答えをしたらいいかをアドバイスしてくれるのです。おそらく、イエス・キリスト様が弟子たちに、助け主がやってくるよとお話しになったときには、その後に起ってくる迫害のことが頭にあったのではないかと思われます。実際、イエス・キリスト様が十字架に架けられてから、その後300年間、教会は激しい迫害に会い、多くの殉教者を出してきました。ですから、そのような時代には確かに、クリスチャンが、神を信じているという理由だけで、公衆の面前に引き出され、弁明しなければならない場面があったと言うことも、想像できます。ですから、そのような場面において、まさに信頼できる弁護人としての助け主となる聖霊なる神様の働きが必要であったと言われれば、なるほどそうであったろうとうなずく事も出来ます。しかし、今に時代の日本においては、そのような迫害があるというわけでありません。

もちろん、地域の中で、未だにキリスト教に関する偏見が根強く残っている地域も無いわけではありません。以前にもお話ししましたが、キリスト教の伝道をしていると言うだけで、石を投げつけらえると言ったことが、未だにあったりする地域もあると言うのです。また、キリスト教の信仰を持つと言うことに対する家族の反対といったことに出くわすことも、まったくないと言う事も出来ません。また、日本の因習の中で、例えば葬儀と言った席での立ち振る舞いと言ったことなどにおいて、知恵を働かせなければならないこともあるだろうと思います。それはそれで、そのような場面においては、確かに、聖霊なる神様の助け必要だと言えるだろうと思います。けれども、そのような状況というものは、日常茶飯事の事ではありませんし、法廷で弁明しなければならないと言ったせっぱ詰まった場面とは、少しばかり趣が違っているようにも思えます。

実際、私たちが信仰のゆえに、キリスト教信仰のゆえに、法廷に引き出され弁明が求められると言ったことなどは、それこそ第2次世界大戦中はありましたが、今の日本社会の中では全くないといっても過言ではありません。それでも聖書は、私たちに助け主としての聖霊なる神さまの存在が必要だというのです。しかも、特別な状況だけでなく、聖霊なる神さまが、いつまでも私たちと共にいて下さらなければ、私たちはやっていけないというのです。そういわれて、少し考えてみますと、私たちを訴え、私たちに激しく弁明を迫ってくるような状況は以外とにあるように思える。いや確かにあるのです。では誰が訴え弁明を求めてくるのか。それは、私たちが住む社会の価値観や在り方であり、また私たち自身が自分自身を訴え、弁明を求めてくるのです。

私たちの住む社会の価値観と言いますが、現在の社会の価値観は多様化していますから、一人一人が何に価値を見出すかは、様々になっていますし、生活の在り方も様々になってきています。しかし、そのような、価値観の多様化する社会であったとしても、総じていえることは、私たちは自分たちの夢や、願い、平たく言えばやりたいことを実現するということが、私たちの生き方の中心にあると言うことです。自己実現と言っても良いのかも知れません。わたし自身、何か目標を決めて、それに向って生きていくと言う生き方は、嫌いではありません。わたし自身どちらかと言えば、そのタイプだからです。ですから、目標や目的を決めて、それにむかって頑張っている姿は、本当に心から素晴らしいと思います。しかし、私たちはいつも自分の決めや目標に到達できるとは限りません。どんなに頑張ってもそれに届かず、自分の夢や願いを達成できないといったことも起ってきます。わたし自身、大学受験でも失敗しましたし、自分がやりたかったことが出来ませんでした。夢は実現しなかったのです。いえ、夢は必ず実現するなどと、実に楽観的なことを言う人もいますが、実現しない夢の方が遙かに多いのです。

もうすぐサッカーのワールドカップがドイツで行われます。サッカー選手にとって、ワールドカップは夢であり目標です。でも、日本代表としてワールドカップの本選に出場できたのはわずかに23名にしかすぎません。実際は、この23名の選手の背後には、夢を実現できなかった多くのサッカー選手たちがいるのです。目標に向って頑張ってきた。努力もしてきた。けれども、その目標や夢が実現できなかったとき、私たちは深い失望を味わいます。そして一種の挫折感や敗北感を感じることがあるように思うのですが、どうでしょうか。そして、自分自身が、自分自身をダメな存在のように思ってしまうことも少なからずあるように思うのです。もちろん、そのような挫折感を乗り越え、新しい目標を目指して、再び頑張り始める人も少なからずいらっしゃいます。それはそれですごいことだと思いますし、賞賛の拍手を送りたい。何度挫折を経験しても、それを乗り越えながら生きている姿は、本当に素晴らしいと思います。

けれども、誰もが、必ずしもそうではありません。仮に、そうやって頑張り続けていったとしても、その内に燃え尽きてしまうと言うこともあるのです。燃え尽き症候群と言う言葉がありますが、まじめで目標を持ち頑張り続ける人ほど、この燃え尽き症候群という状況になりやすいように思います。燃え尽き症候群というのは、本来、目標を持って頑張って目標を達成したとたん、目標を達成したがゆえに目標を失い、無気力になってしまうことを指します。あるいは、目標を達成する前に、ガス欠した車が止まってしまうように、無気力になってしまうことも燃え尽き症候群の一つであると言っても良いだろうと思います。いずれにしても、そのような状況になってしまった時に、その人は、そのような状況になったのは自分が悪いのだと自分自身を責め始めるのです。夢や目標を実現できず、挫折感や敗北感を経験し、自分自身がダメな人間のように思ってしまったり自信を失ってしまったりするようなとき。あるいは、頑張って目標を達成してしまったがゆえに、目標を失い無気力になってしまい、せっかく自分の目標を達成したのに、かえって自分自身が悪いのだと責めてしまうようなことになってしまう。まさに、自分自身が自分自身を訴え責め立てているのです。そして、「おまえは、これで良いのか」「おなえは一体どうするのだ」と、自分が自分自身に弁明を求めるのです。そのように、自分が自分自身をその責め立てる言葉は、自分自身に対する自己意識を実に低いものにしてしまいます。

このように、夢や目標が実現しなかったとか、燃え尽き症候群などと言いますと、何か特別なことのように思いますが、自分自身が、自分自身の自己評価を見積もると言ったことは、生活の様々な場面であるものです。ちっとした失敗をしてしまったり、人と比べて自分はダメだと思ってしまったりするようなことは、それこそ生活の中でしょっちゅうあることです。

それは、単に個人と言うことだけではありません。教会という場においても言えることです。わたしが以前、ある教会に赴任したとき、その教会の人が、私にいった最初の言葉が「先生、こんな教会に来ていただいてすみません」という言葉でした。それは、謙遜な心によって、儀礼上、へりくだってそのように言っているのではないことは、表情や振る舞いを見れば分かります。私は、その言葉を聞き、またその方々の表情や振る舞いを見てびっくりしました。その教会の方の名誉のためにひとこと言わせてもらうならば、その教会は、本当に心から神を愛し、心から神を礼拝する教会で、「こんな教会に」などと卑下する必要のない、とても良い教会です。なにに「すみません」といって頭を下げるのです。どうやら、近くにあるもう一つの教会には、若い人も多く、活発に活動して人数も増えているのに対し、その教会はご高齢の方がほとんどでした。また大きい教会、人数的にも伸びている教会が良い教会であるかのようなものの見方の中で、自分たちの教会に対する自己意識が低くなって言ったようです。

そういうことって現実にあるんですね。でも、そのようなことが実際にあるから、私たちには助け主である聖霊なる神さまが必要なのです。というのも、この助け主なる聖霊なる神は、私たちにイエス・キリスト様というお方を指し示すからです。最初に申しましたように、この聖霊なる神様は、イエス・キリスト様が十字架にかかり死なれ、復活し、天に昇って行かれて、やがて再びこの地上に来られる再臨の時までの間、私たちを孤児にしないために、私たちのところにやってこられたのです。イエス・キリスト様が天に昇られ、再びこの地上にこられる間、私たちは、直接イエス・キリスト様を見ることはできません。しかし、この助け主なるお方が、私たちに、イエス・キリスト様が私と共にいて下さると言うことを、分からせて下さるのです。そして、私が、神に愛され、イエス・キリスト様に愛されていると言うことを、私たちに教えて下さるお方なのです。

この、私と共にいて下さるイエス・キリスト様は、私という存在を愛していて下さっている。愛されると言うことは、愛されるだけの価値を、神は私たちの内に見出して下さっているからです。どんなに「自分はダメだ」とあきらめてしまうようなときであっても、また自分自身に対して悲観的になってしまうことがあっても、あなたには、神様に、そしてイエス・キリスト様に愛されるだけの価値があるのだとそう言って下さっているのです。愛するということ、それは大切に思うと言うこと、また大事にすると言うことです。ですから、神様とイエス・キリスト様があなたを愛しておられるということは、あなたを、大切に思い、あなたを大事にしていると言うことです。もちろん聖霊なる神様も同じです。だからこそ、父なる神と子なる神イエス・キリスト様は、聖霊なる神を私たちのところに遣わして下さり、私たちをずーっと助け支え続けてくださるのです。そして、あなたは「神に愛されているよ」ということを分からせて下さり、慰め励まして下さるのです。

神様があなたを愛し、大切に思っておられます。ですから、あなた自身も自分を大切にして下さい。「けっして自分はダメだ」とか「自分には希望がない」などと思い、自分に対する自己意識を低く持たないで下さい。あなたは、神様とイエス・キリスト様に愛されるだけの価値ある存在なのです。それは教会も同じです。教会は、神から愛されている一人一人によって築き上げられています。ですから、主イエス・キリスト様によって建てられて教会は、価値のない教会、存在する意味のない教会などは、一つもありません。この地上に教会が存在するすべては、神から愛された尊い、価値ある教会なのです。

しかし、まぁ、そうは言っても、現実の世界にはなかなか厳しいものがあります。おまけに、「けっして自分はダメだ」とか「自分たちには希望がない」などと言った思いは思いですから、思うなといっても、心に沸々とわき上がってくることだってあるでしょう。そんなときには、ぜひお祈りして欲しいと思います。「神さま、どうぞ私を支えて下さい」とお祈りして欲しいのです。神様は、私たちに私たちを慰め、支えてくれる助け主なる聖霊なる神を私たちのところにおくってくださっているからです。今日はペンテコステ、その助け主である聖霊なる神が私たちのところに来た、そのことを覚え祝う日です。ですから、私たちは、もう一度、主イエス・キリスト様を私たちの罪の救い主であることを心にしっかりと受けとめ直し、神信じ、イエス・キリスト様を信じる信仰をしっかりと持ちたいと思います。そして、この助け主である聖霊なる神を心に受け止めたいと思います。それは、どんなときでも、私たちが神さまに愛されているという、素晴らしい恵みを見失わないためです。そして私たち一人一人が自分の内に存在しているイエス・キリストにある絶大な価値を見出して、喜び、感謝しながら生きていくためなのです。

お祈りしましょう。