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羊飼い 『それでもキリストを』
マルコによる福音書 5章21−43節
2006/6/11 説教者 濱和弘
賛美  310、302、354

さて、今日の聖書の箇所は、ゲラサ人の地で、イエス・キリスト様が、レギオンと呼ばれる悪霊に憑かれた人をお癒やしになった出来事に引き続いて書かれたものです。イエス・キリスト様は、ゲラサ人の地で、悪霊に憑かれた人をお癒やしになりましたが、しかし、その地方の人々からは、追われるようにして、イエス・キリスト様が伝道の拠点としておられた町、カペナウムに戻ってきました。悪霊につかれた人が癒やされると言うことは決して悪いことではありません。ましてや、このレギオンにつかれていた人は、人々に乱暴をはたらいていたというのです。ですから、その人が癒やされたというのであるならば、それは喜ばしい出来事です。けれども、ゲサラ人の地にいる人々が、イエス・キリスト様に町から出て行ってくれと言うのは、この悪例が追い払われるという出来事のために、2000頭の豚が、湖になだれ込んで死ぬという大きな犠牲があったからです。

ほんのわずかに人の為に大きな犠牲を払うという現実の前に、人々は驚き、イエス・キリスト様に、この町から出て行ってくれと言うのです。そこには、たとえ、それが少数のものにとって、素晴らしい恵みをもたらすものであっても、圧倒的大多数に不利益をもたらすならば、それは受け入れることができないといった現実があるのです。ベンサムという人は、最大公約数の最大幸福と言うことを言いましたが、まさにそのような功利主義の原理が働いていたのかも知れません。しかし、このゲラサ人の地に於いてはイエス・キリスト様はどんな少数のもの、力のないものであっても、決して見捨てることはなさいませんでした。そして、今日の聖書の箇所にも、私たちは、そのようなイエス・キリスト様のお姿を垣間見ることが出来るように思います。

ゲラサ人の地から帰ってきたイエス・キリスト様は多くの人に迎え入れられます。それはゲラサ人の地において、受け入れられず、「私たち町から出て行ってくれ」と言われたのとは、好対照です。そのような中で、ヤイロという一人の会堂司がイエス・キリスト様のもとにやってきます。ここにおいて、マルコの福音書は会堂司ヤイロという名前を挙げていますから、彼は、イエス・キリスト様の正面から、堂々と名乗ってイエス・キリスト様のもとに助けを求めてきたのだろうと思います。会堂司というのは、シナゴーグとよばれるユダヤ教の会堂の建物を管理するほか、礼拝の準備や指導をする人で、人々の人望を集める高い地位にありましたから、多くの群衆の中にあっても、顔も名前もさらして助けを求めに出てくることができるのです。その会堂司にヤイロの娘が、病気で死にそうだというので、イエス・キリスト様のもとに助けを求めにやってきたのです。もちろん、この時ヤイロは幼い娘の、今にも死に至るような病という、深い悲しみと苦しみをもって、イエス・キリスト様の前に立ち、助けを求めています。このことは、人々の中にある悩みや悲しみといったものは、身分や立場を越えて私たちに訪れてくるという現実を私たちに突きつけます。その苦しみや悲しみの中で、ヤイロは、その自分の苦しみ悲しみを人々の前にあらわし、正面から声を挙げてイエス・キリスト様に助けを求めることができる人であり、できる立場にあった人なのです。もちろん、イエス・キリスト様のすがり求める者を決してお見捨てにはなりません。ヤイロに御願いを聞いて、ヤイロの家に向って歩き始められるのです。

そんなイエス・キリスト様の後を、人々もまた、ぞろぞろとその後について行きました。おそらくは、イエス・キリスト様の後に付いていった群衆は、イエス・キリスト様がこれから成されるであろう、癒しの業を見ようとついて行ったのだろうと思います。そういった一団の人だかりの中で、出来事は起ります。一人の女が、イエス・キリスト様の後ろからその衣に触れるのです。それは12年間、長血をわずらった女でした。聖書は彼女について、このように告げています。「そこに12年間も長血をわずらっている女がいた。多くの医者にかかって、さんざん苦しめられ、その持ち物をみんな費やしてしまったが、なんのかいもないばかりか、かえってますます悪くなる一方であった。この女がイエスのことを聞いて、群衆の中にまぎれ込み、うしろから、み衣にさわった。それはせめてみ衣にでもさわれば、なおしていただけるだろうと思っていたからである。」

長血というのがどのような病気であったかはわかりませんが、おそらく婦人科に関わる何らかの出血をともなう病気であっただろうと思われます。その長血を、この女性は12年間にわたって煩っていたというのです。私も喘息という持病を持っています。発祥したのが33歳の時でしたから、それから15年の付き合いになりますので、けっして短くはない病気とのお付き合いです。けれども、この女性は、単に病気とつきあっていけばよいと言うようなことではありませんでした。と申しますのも、婦人科に関わる出血に関して、旧約聖書の時代のイスラエルでは、それは汚れたものであるとしていたからです。そのことがレビ記15章に詳しく出ています。その中でも、時にこの長血をわずらった女に関係するような記載が15章25節から27節に書いてありますが、このように書かれています。「女にもし、その不浄の時のほかに、多くの日にわたって血の流失があるか、あるいは、その不浄の時を越して流失があれば、その汚れの流失の間は、すべてその不浄の時の床と同じように、その女は汚れたものである。すべてその不浄の時と同じように、その女は汚れたものである。その流失の日の間に、その女の寝た床は、すべてその女の不浄の時の床と同じようになる。すべてその女のすわったものは、不浄の汚れのように汚れる。すべてこれらの物に触れる人は汚れる。その衣服は洗い、水に身をすすがなければならない。」このような血の流失が、なぜ汚れた物と見なされたのかについては、良く考えなければならないことです。それについては、レビ記15章の記述について、しっかりと釈義する必要がありますが、おそらくは、それが命の誕生と死との関わりの中でとらえられていたからだろうと思います。

いずれにしましても、そのような律法の規定がある中で、この女性は、その流失にかかわる長血をわずらっていたのです。だからこそ、持ち物のすべてを費やしても、その病を直そうとしたのです。先程も、申しましたが、私も15年喘息とお付き合いしていますが、自分の全財産をつやしてもこの病気を治そうとは思っていません。喘息という病気は、喘息持ちの方なら分かっていただけると思いますが、決して楽な病気ではありません。喘息の発作が出た場合、本当に苦しくしんどいものです。けれども、私は、その喘息を全財産を費やことをしてまでも治そうとは思いません。なのに、この12年間長血をわずらった女性は、自分の持病を治すためにもっているものをすべて費やすのです。さらには26節には多くの医者にかかってさんざん苦しめられたとありますが、そのように何度も何度も苦しめられても、なんとか治そうとするのです。それは、長血という病気が、単に病気と言うだけではなく、汚れたものという汚名を伴っているからです。というのも、この汚れたものという汚名がきせられている限り、この女性は人とつきあうことや町に出入りすることも出来ないのです。そのような彼女の悲しい立場、虐げられた立場が、「群衆の中にまぎれこみ、うしろから、み衣にさわった」と言う言葉に良く表われています。

人前に出ることが赦されない、人の輪の中に入っていくことが赦されない汚れたものという汚名がきせられているがゆえに、彼女は人知れず群衆に紛れ込み、うしろからイエス・キリスト様に近づいていくのです。ここには、病気というだけでも大変なのに、その病気のゆえに、最大多数である社会から虐げられ苦しんでいる人の姿があります。いえ、本当の苦しさと悲しさは、病気そのものから来るのではなく、周囲の視線からやってくる。自分達の周りにいるごく普通の人々から来る。本当にひどい話だと思います。けれども、今日の私たちの社会にだって、似たようなことは少なからずあるのです。病気や貧しさ、障害、犯罪被害を受けた人、あるいはマイナリティと呼ばれる人々に対して、偏見のまなざしや無理解、あるいは差別と言ったことがある。そして、そのようなことが、病気や貧しさと言ったこと以上に、その人たちを悲しませていたり苦しませていたりしているといったことが、現実にあるのです。

そのような人たちのことを、イエス・キリスト様は決して忘れてはいないのです。そしてこの長血をわずらっていた女性も、そのイエス・キリスト様が決して忘れてはいないない一人なのです。彼女が、イエス・キリスト様のみ衣に触れたところ、イエス・キリスト様は、自分の内から力が出ていったことに気付かれたと言います。力が出ていったことに気づいたと言うのですから、それは自分が意識して力を出したと言うことではありません。そもそも、この女性は、誰にも気づかれないように、もちろんイエス・キリスト様にも悟られないように、そっと後ろから、イエス・キリスト様のみ衣に触れたのです。けれども、そのような女性の人に隠れた行為であったとしても、悲しみと苦しみの中にある人が、イエス・キリスト様にすがりつく思いでやって来たならば、イエス・キリスト様の内側からは、力が注ぎ出されて、その人に働きかけずにはいられないのです。イエス・キリスト様は、自分によりすがってくる者達に対して、あなたは助けてあげよう、あなたは助けてあげることは出来ないなどと、振り分けるお方ではありません。イエス・キリスト様のところにすがるような思いでやってくる人は、すべて受け入れ、ご自分の内にある力をもってその人の感しみや苦しみを受け止めて下さるお方なのです。いえ、受け止めずにはいられないのです。そして、そのようにイエス・キリスト様のところによりすがってきたものを、人々の前に出し紹介し、「娘よ、あなたの信仰があなたを救ったのです。安心して行きなさい。すっかりなおって、達者でいなさい」とそう言われています。

イスラエルの国では、汚れたものの汚れが取り除かれたならば、祭司に見せ、その汚れがきよめられたことを証明してもらわなければなりませんでした。そうやって祭司に証明してもらって、その人はイスラエルの社会に復帰できるのです。そういった意味では、イエス・キリスト様が言われた「娘よ、あなたの信仰があなたを救ったのです。安心して行きなさい。すっかりなおって、達者でいなさい」と言う言葉は、この女性の汚れが全く取り除かれたと言うことを宣言する祭司の宣言であると言うこともできます。そして、あなたを私たちの共同体に受け入れますよという宣言であるとも考えられるのです。こうして、ここにも、一人の悲しみと苦しみの中にあった人がイエス・キリスト様に受け入れられて行きました。本来なら、ここでめでたし、めでたしというところですが、この話の発端は、会堂司ヤイロが、自分の娘が死にそうですからと助けて来た事から始まっています。そのヤイロの願いに応じて、イエス・キリスト様は、このヤイロの家に行こうとしていたのです。ところが、その途中に、この12年間長血をわずらっていた女性の事が起ってきた。

この12年間長血をわずらっていた女性の物語の間中、ヤイロの存在は蚊帳の外です。ヤイロ自身が、この物語に登場してくることはありませんし、ヤイロにとっても、この女性が癒やされようが癒やされまいが関係のないことです。ヤイロの関心はただ、自分の娘だけに注がれているのです。ですから、ヤイロにとっては、イエス・キリスト様がこの女性とやりとりしている時間は、実に長いものだったろうと思います。そして、ようやく、その女性の長血が癒やされ、汚れがきよめられた宣言がなされた時、ヤイロの家から、娘が亡くなったと言う知らせが届きます。人々から疎外され、虐げられ悲しみと苦しみの中で、社会の片隅で悲しみと苦しみの中で生きてきた者に喜びが訪れたその時に、人々の人望を集め、尊敬され、社会のど真ん中で王道を歩いてきた人が、悲しみのどん底に落とされていくのです。おそらく、イエス・キリスト様にぞろぞろとついて行った人々は、この12年間長血をわずらっていた女が癒やされるという一連の出来事の間、誰もヤイロのこと、またヤイロのことを考えなかったことなどなかったでしょう。おそらくは、イエス・キリスト様の弟子たちも、ヤイロのことなどすっかり忘れていたにちがいありません。そして、一人の人の病が癒やされたという出来事に、驚異の声と喜びがわき上がる中で、ただ一人、忘れ去られたヤイロだけが悲しみの中に置かれ、やりきれない心を抱えていたのです。

けれども、イエス・キリスト様は決してヤイロのことを忘れていたわけではありませんでした。その心の奥底にある、悲しみや苦しみはちゃんと心に留められていたのです。そして、ヤイロが12年の苦しみの中にあった女と入れ違いに悲しみと苦悩のどん底に陥ったとき、今度は、イエス・キリスト様はそのヤイロの悲しみと苦しみ、苦悩に寄り添われるのです。そのように、悲しみや苦しみ、苦悩に寄り添われるお方は、死んだヤイロの娘を生き返らせてやるのです。そこには、ヤイロの悲しみをくみ取り、ヤイロと共に悲しみの中に来て下さっているイエス・キリスト様のお姿があります。結局、イエス・キリスト様の目に映っているものは、人々の悲しみであり、苦しみであると言うこと私たちに教えてくれます。イエス・キリスト様は人々の苦悩に満ちた顔に無関心ではいられないのです。社会の片隅追いやられてしまった人であろうと、人々から忘れ去られたような人であっても、悲しみや苦しみの中にある時には、誰であっても等しく寄り添って下さるのです。

この12年間長血をわずらっていた女性の問題も、単に病気と言うことではなく、そこには当時のイスラエル社会における汚れという概念が背後にあっても苦しみでした。そこには単に病気といった現象だけではなく、世の中の価値観や、倫理観、あるいは社会通念といったものが複雑に絡み合っています。それは現代でも同じですし、それ以上に問題が複雑になっているといい良いだろうと思います。こういった問題に、実は現実の教会、特にプロテスタント教会の神学、現実には、バルト以降の神学においては、神学的解決の糸口を持っていないというのが実情です。さらに、それに輪をかけて福音主義は、玄関に足を踏み入れているかどうかさえ問われるような状況だといえます。そして、実際である教会においても、そのような中で、教会も忘れ去っている人がいるのではないかと言うことを真剣に考えなければならないように思います。それは、これからの大きな宣教の課題出はないかなって私っているんですね。

お祈りしましょう。