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羊飼い 『イエスとは誰か』
マルコによる福音書 6章1−6節
2006/6/18 説教者 濱和弘
賛美  264、202、18

さて、今日の聖書の箇所は、イエス・キリスト様がご自分の郷里にお戻りになったときの出来事が記されているところです。イエス・キリスト様は、カペナウムでは多くの人々がその教えを聴きに集まり、またその名はユダヤ、エルサレム、ヨルダンの向こう側からツロ、シドンといった外国まで知られるようになっていました。そのイエス・キリスト様が故郷に帰られるというのですから、普通で考えるならば、「故郷に錦を飾る」といったところです。ところが、ナザレの町の人々は、そのイエス・キリスト様を拒んだというのです。マルコによる福音書6章3節後半から6節にこう書いてあります。「こうして彼らはイエスにつまずいた。イエスは言われた『預言者は、自分の郷里、親族、家以外では、どこででも敬われないことはない』。そして、そこでは力ある業を一つもすることができず、ただ少数の病人に手を置いていやされただけであった。そして、彼らの不信仰を驚き怪しまれた。」この6節の「彼らの不信仰を驚き怪しまれた。」といわれる不信仰という言葉、新約聖書が書かれた元々の言葉ギリシャ語では απιστοσ(アピストス)という言葉なのですが、拒絶するというニュアンスがあります。信じることを拒絶するから、不信仰となるわけです。ですからここでは、イエス・キリスト様の故郷であるナザレの人たちは、イエス・キリスト様を信じることを拒絶したということです。

イエス・キリスト様を信じるといいますが、具体的に一体、イエス・キリスト様の何を拒絶したのかといいますと、それはイエス・キリスト様が神の一人子であるということ、あるいは、そこまで行かなかったとしても、イエス・キリスト様が神から遣わされた存在であるということが信じられなかっただろうと思われます。と申しますのも、聖書は、こう告げているからですマタイのよる福音書6章2節、3節です。「そして安息日になったので、会堂で教えはじめられた。それを聞いた多くの人々は、驚いて言った、『この人は、これらのことをどこでならってきたのか。またこの人の授かった知恵はどうだろう。このようなことをどこで習ってきたのだろう。このような力あるわざがその手でおこなわれているのは、どうしてか、この人は大工ではないか。マリヤの息子で、ヤコブ、ヨセ、ユダ、シモンの兄弟ではないか。またその姉妹たちも、ここに私たちと一緒にいるではないか』。こうして、かれらはイエスにつまづいた。」

ここでは、イエス・キリスト様が、安息日でどのようなことを語ったということについて、またどのような力あるわざを行ったかは記されていません。しかし、おそらくは、1節に「イエスはそこを去って郷里に行かれた。そして安息日に会堂で…」となっています。ですから、このマルコによる福音書の著者は、イエスが教えを語られ、力ある業をなさったと言うとき、読者や聴衆に、それまでに語ってきた、イエス・キリスト様の教えや、御業といったものを思い出させようとしているのだろうと思います。すなわち、4章1節から35節までイエス・キリスト様の語られた譬え話や、4章35節から5章全体に嵐を静めるといったことや悪霊(レギオン)につかれた人を解放したり、長血をわずらった女の癒やし、ヤイロの娘を生き返らせるといった出来事です。そしてそれらは、イエス・キリスト様が、神の権威によって神の国ついて語られ、天地万物を治め、悪霊や汚れた言ったものを取り除き、死までも支配するお方であることを示しています。それは、奇しくもマルコによる福音書4章8節にある、あのゲラサ人の地で、悪霊レギオンが、「いと高き神の子イエスよ」と大声で叫んだ、まさしくそのようなお方であることを示しています。つまり、イエス・キリスト様が語られたこと、成されたことは、イエス・キリスト様の神としての悟性質を感じさせるものだったということです。

ですから、ナザレの人々が、イエス・キリスト様に対してつまづいたのは、イエス・キリスト様の御人格の中に宿る神としての御性質だといっても良いだろうと思います。つまり、彼らが、拒絶したのは神として、また神の子としてのイエス・キリスト様を信じることであったと言えます。だからこそ、「この人は、これらのことをどこでならってきたのか。またこの人の授かった知恵はどうだろう。このようなことをどこで習ってきたのだろう。このような力あるわざがその手でおこなわれているのは、どうしてか、この人は大工ではないか。マリヤの息子で、ヤコブ、ヨセ、ユダ、シモンの兄弟ではないか。またその姉妹たちも、ここに私たちと一緒にいるではないか」。とそういって、彼らはイエス・キリスト様につまづいたのです。彼らにとっては、イエス・キリスト様というお方は、それこそ、子どもの時から、いえ、母マリヤのお腹の中にいるときから、よく知っているイエスという一人の人なのです。そのイエスが、今、神からの権威を持って語り、神からの力をもって、力ある業を行っている。そのことが、信じられなかったのでしょう。そんなわけで、「この人は大工ではないか。マリヤの息子で、ヤコブ、ヨセ、ユダ、シモンの兄弟ではないか。またその姉妹たちも、ここに私たちと一緒にいるではないか」。と言うのです。そこには、彼らが信じることを拒絶する客観的な根拠があります。

イエス・キリスト様の語られた教えに、それまでのユダヤ教の教師たちにない権威があること、また、その行われた力ある業の背後に、人間の力を越えた神の存在を感ぜずにはいられないのも事実です。それは、ナザレの人たちだけでなく、当時の人々の多くが認めるところです。だからこそ、多くの群衆がイエス・キリスト様の話を聴きに集まり、イエス・キリスト様のなされる業を見ようと多くの人が、イエス・キリスト様の後をついて回っていたのです。けれどの、故郷の人たちには、子どもの頃のイエス・キリスト様をよくしっているがゆえに、その事実を事実そのままとして受け入れられなくしていました。そこに、権威ある言葉を語る男がいる。しかし彼は大工である。そこに、力ある業を行う者がいる。けれども、その男は自分たちのよく知っているマリヤの息子で、自分たちはその男を子どもの頃からよく知っている。そのことが、目の前に起っている出来事を、出来事そのままで受け止める事が出来なくなってしまっている。彼らは、自分の知っていることを通して、イエス・キリスト様というお方を見ているのです。

先入観といっても良いかも知れません。彼らはすでにイエス・キリストというお方に対して、先入観を持って見ているのです。それは、イエス・キリスト様が、彼らの間におられたときには大工であったということであり、マリヤの息子だったということです。ナザレの町の人たちは、ただこの一点からイエス・キリスト様を見ている。その時、彼らにとって、イエスとは誰かと問われると、そこにはもう答えがあります。「そりゃ、マリヤの息子さ。大工をやっているあの男さ」という明確な回答を、彼らはすでに持っているのです。そんな人々に対して、イエス・キリスト様は、『預言者は、自分の郷里、親族、家以外では、どこででも敬われないことはない』。とそうおっしゃいました。

イエス・キリスト様は「預言者は」とこう言われておられますが、イエス・キリスト様ご自身が、ご自分のことを預言者の一人であると考えていたわけではありません。なのに、『預言者は、自分の郷里、親族、家以外では、どこででも敬われないことはない』。とそういわれる。それは、この『預言者は、自分の郷里、親族、家以外では、どこででも敬われないことはない』。という言葉が、この当時の格言のようなものだったからです。イエス・キリスト様は、その言葉を用いて、イエス・キリスト様は、最も身近な故郷の人や、親族からは受け入れられない現実を、嘆かれたのだろう思います。しかし、考えてみますと、この『預言者は、自分の郷里、親族、家以外では、どこででも敬われないことはない』。という格言は、実に意味深い感じがします。預言者というのは、神の言葉をあずかり、神の言葉を示すということにおいてのみ権威がある存在ですが、人間です。その預言者でさえ、郷里や親族、家では敬われないのです。だとすれば、神のひとり子であり、神そのものであるおかたであるならば、なおさら受け入れられないだろうであろうといった響きが、その言葉には感じられます。あまりに身近な存在であるからこそ、そこに起っているイエス・キリスト様という存在を、また神の一人子が来られたという事実を受け止めることが出来ないでいるのです。本当に目の前に神の出来事があるのに、それに気が付かない。イエス・キリスト様が誰かと言うことに目が向かないのです。

先々週の日曜日に、教会の有志の方々と共に、マザー・テレサという映画のDVDを一緒に見ました。マザー・テレサが、インドのカルカッタの貧民街で行った貧しさの中で死に行く人や孤児となった子どもたちに対する活動は、私たちもよく知るところです。彼女は、「この世の中の小さい人たちの中の最も小さい人のために」といって、手を差し伸べ、心を尽くして奉仕してきました。あるクリスチャンの方は、私に、そんなマザー・テレサの活動を、「あれはヒューマニズムだ」とそうおっしゃいました。ところが、彼女の言葉を良く検討してみると、決してそうではないことがわかります。彼女は、町で行き倒れて死にそうな人を見たとき、その人がキリストだというのです。彼女の言葉が、もし純粋な神学的意味で語られたとするならば、それは汎神論という異端になります。けれども、彼女自身は、決してそのような神学的意味で、言っているわけではありません。彼女の心が、自分の目の前で行き倒れになっている人、その人の中にイエス・キリスト様のお姿を見ているのです。だからこそ、彼女は周りの人が反対しても、その貧しく、行き倒れた人、社会から見捨てられた孤児を愛し、仕え奉仕せざるを得ないです。ですから、もしマザー・テレサに「イエス・キリスト様とは誰か?」と問うたならば、きっと彼女は、「イエス・キリスト様というお方は、私の周りにいる、この世の中で最も貧しい、小さい人たちです。」と答えるだろうと思います。

私たちの教会は、プロテスタント教会です。そして、そのプロテスタント教会の中でも福音派と呼ばれるグループに属しています。それは、在る意味では単純なぐらい純粋に神を信じ、聖書を神の言葉として信じるグループです。けれども、その福音派の中からはマザー・テレサのような人物は出てきませんでした。それは、私たち福音派と呼ばれるグループは、何よりも人が救われることを大切にしてきたからです。この場合の救いというのは、私たちの罪が、イエス・キリスト様の十字架で赦されたということです。ですから、私たち福音派の教会は、何よりも伝道と言うことを大切にしてきました。私たちホーリネス教団の創始者は中田重治牧師です。その中田重治牧師がこのようなことを言っておられます。「教会として、教役者としては、そのような閑事業(筆者注:社会事業や福祉事業等の社会奉仕)は未信者もできることで、余力があればわれらもやるが、救霊にあまり忙しいので、金と時と力とを出しておられない。」このような言葉を聞きますと、ちょっとびっくりしますが、中田重治牧師というのは、かなり個性が強く豪快な人であったようです。そんなわけ、このような、少し粗野な表現になっておりますが、要は、「伝道する事が第一であって、社会事業と思われるようなことは、二の次である」ということです。

私が、ご指導を仰いだ先生のお一人に大川博道牧師という老牧師がおられます。もうお亡くなりになってしまいましたが、この大川牧師は、その中田重治牧師の薫陶をうけた弟子でありました。そんなわけで、私は大川博道牧師から中田重治牧師の話をよく聞かされましたが、その話を通して聞く中田重治牧師は、親分肌の人情味のある暖かい人でした。その人を持ってしても、社会事業といったものは二の次で、今は人に罪の赦しを伝える伝道が第一であって、社会事業などしていられない。」というのです。このような、十字架による人間の罪の赦しというところから、「イエス・キリスト様というお方は誰か?」と問うならば、きっと「私たちを罪から救い出してくださる救い主さ。彼は私たちの罪を赦すために十字架に架かって死なれたお方なのだ」という答えが返ってくるだろうと思います。この答えの背後には、「神の一人子であり、神であられたお方が人間に身をやつされたのは、私たちの罪の赦しを成し遂げるために、十字架の上で私たちに対して下される神の裁きを、私たちに代わって受けて下さるためであった」という、イエス・キリスト様の十字架の死に対する理解があります。

もちろん、この罪の赦しと言うことは、キリスト教の信仰の中で最も重要なことです。それは、罪によって壊されてしまった神と私たちとの関係を、正しいもの関係へと回復して下さる神の知恵であり方法でした。ですから、私たちの信仰の中心に、イエス・キリスト様の十字架による贖いということがなくてはなりません。これがなければ、キリスト教はキリスト教でなくなります。しかし、この慣れ親しんだ「私たちの罪の贖い主であり、救い主」という理解だけで、イエス・キリスト様というお方を語るならば、けっしてマザー・テレサのような「イエス・キリスト様というお方は、私の周りにいる、この世の中で最も貧しい、小さい人たちです。」という言葉は出てこないのです。「私たちを罪から救い出してくださる救い主さ。彼は私たちの罪を赦すために十字架に架かって死なれたお方なのだ」という答えは、私たちが慣れ親しんだ答えではないかと思います。私自身、ずっと、イエス・キリスト様を、私の罪を赦しとして見てきました。そして、その確信はかわりません。確かにイエス・キリスト様というお方は、私の罪に赦しを与える救い主なのです。けれども、この私の罪を赦して下さるお方は、私が苦しみの中にあるときに、私と共にいて下さったお方でもありました。

病気で入院し、手術を受けたときもイエス・キリスト様は、私のベットのかたわらに寄り添っていて下さっていたお方でした。自分が正しいと思ってやっていたこと、積み上げてきたものを否定され、激しい挫折感と敗北感の中で悔し涙を流していたときにも、イエス・キリスト様は私の側にいて下さいました。その時のイエス・キリスト様は、私にとって誰かというと、「私たちを罪から救い出してくださる救い主。彼は私たちの罪を赦すために十字架に架かって死なれたお方」ではなく、「私と共にいて下さるお方であり、私を慰め励まして下さるお方」だったのです。考えてみますと、イエス・キリスト様が、私たちの罪を赦すために十字架に架かって死なれたのは、私たちを愛して下さっているからでした。父なる神、子なる神イエス・キリスト様、聖霊なる神が、私たちを愛しておられるからこそ、私たちを、その罪と罪の裁きから救い出そうとなされたのです。愛するということは、全人格的なことです。その人の存在全部を覆い、全部を包みます。そして単に罪を犯すとか犯さないとか言った問題だけに限らず、その人の存在のありとあらゆる場面に関わり、教え、導き、支えてくれるものです。

神は、私たちを愛してくださっているお方です。だとすれば、もし私たちが、子なる神であるイエス・キリスト様を、罪からの救い主というただ一点からだけ見てしまっているならば、私たちは、もっともっと豊かなイエス・キリスト様の恵みといったものを見失ってしまうのではないかと思うのです。イエス・キリスト様は私たちを愛して下さっているからこそ、私たちの生活の全ての場面において、私たちの身近な存在として、私たちの側に、共にいて下さるのです。そして、ときには私たちを慰めてくださるお方であり、ときには、私たちを励まして下さり、また支えて下さるお方でもあるのです。そういった意味では、イエス・キリスト様とは誰かと問われるならば、私たちは「私たちの全存在を愛してくださっているお方です。彼は、私たちの生涯と共に歩み、私たちを教え、慰め支え、導いてくださるお方です」と答えなければならないと思うのです。そこには、私たちを愛するという神の深い愛とお心があります。そして、神から私たちに対する働きかけがあるのです。私たちが、そのことを知り、イエス・キリスト様が、そのようなお方であると言い表すならば、私たちの生き方が変わってきます。教会の在り方も変わってきます。

けっして、伝道のみということだけではなく、もっともっと自分たちの周りにいるものを愛するという生き方に変ってきます。私たちを取りまく社会は、社会の人々は伝道の対象では愛する対象になってくるのです。そして、その愛すると言うことの具体的な現われの一つとして、伝道がある。社会事業的なこともなされていく。そう言う生き方が生まれてくると思うのです。実際、以前にもお話ししましたように、世界150ヶ国以上の福音派と呼ばれる教会の牧師、伝道者、神学者たちが 1974年7月にスイスのローザンヌに集まり「世界伝道会議」が開かれ、「ローザンヌ誓約」と呼ばれるものを採択しました。そのローザンヌ誓約には、私たちクリスチャンには社会的責任があるということでした。それは人間の生活の全ての場面に神の御支配があり、神のお心があるからです。そして、その神の御支配とお心は、イエス・キリスト様が「私たちの全存在を愛してくださっているお方あり、私たちの生涯と共に歩み、私たちを教え、慰め支え、導いてくださるお方」であることと呼応しています。だからこそ、キリストの体である教会は、またその教会につながる私たちは、この世の中にあって、神に愛されている者として、神の愛を生きる者になりたいと思います。罪の赦しを語るものであると同時に、イエス・キリスト様にある、慰めや励ましを語るものでありたいと思います。

そのためには、まず私たちが、「イエス・キリストとは誰か?」と問われたならば、「私たちの全存在を愛してくださっているお方です。彼は、私たちの生涯と共に歩み、私たちを教え、慰め支え、導いてくださるお方です」と答えるものになりたいと思います。私たちが、本当に心の底からそのように応えられるものとなったならば、私たちは、私たちの周りにあって、それまで気付くことのなかった神の恵みに気付くことが出来るのではないかと思います。神の愛、イエス・キリスト様が与えて下さる恵みは、私たちが今まで思っていた以上に、私たちの周りに満ちあふれているはずです。ですから、その愛と恵みに気付き、感謝するものになりたいと思います。もし、教会が、社会的な責任を見落としていたならば、イエス・キリスト様は、かつてナザレで語られたように、『預言者は、自分の郷里、親族、家以外では、どこででも敬われないことはない』。とそういって、嘆かれておられるだろうと思います。また、私たちが、私たちの身近な生活全般の中にある神さまの恵みを見落としてしまっているようなことがあるならば、同じように、『預言者は、自分の郷里、親族、家以外では、どこででも敬われないことはない』。とそうおっしゃられることでしょう。

なぜならば、人となられた神であるイエス・キリスト様にとって、私たち人間が生きとし生ける世の中は、人となられた神にとっては故郷だからです。また、教会は、キリストの臨在し給う家であり、私たち一人一人は、イエス・キリスト様の親族だからです。だからこそ、私たちは、イエス・キリスト様とは「私たちの罪を赦す救い主なるお方である」と語ると同時に、「私たちと共に生き、私たちを励まし、慰め、支えて下さるお方である」とも語るものになりたいと思います。そうやって、キリストの愛と恵みの豊かさの中で生き、それを伝えるものでありたいと思うのです。

お祈りしましょう。