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羊飼い 『神により頼む者』
マルコによる福音書 6章6−12節
2006/7/2 説教者 濱和弘
賛美  19、284、308

今お読み頂きました聖書の箇所は、イエス・キリスト様が、使徒と呼ばれる12人の弟子たちを二人ずつの組にして、伝道の旅へ派遣すると言ったことについて書かれているところです。その冒頭の節6節の始まりは、「そして、彼らの不信仰を驚きあやしまれた。」となっています。この言葉は、前の6章1節から5節にある、イエス・キリスト様が郷里では受け入れられなかったという話のまとめの言葉です。ですから、12使徒の派遣のもの語りは、6章の後半の、「それから、イエスは付近の村々を巡り歩いて教えられた。」という言葉から始まります。

どうして、このような中途半端な節の区切りを下のだろうかと思いますが、ご存知の方もおられかとおもいますが、もともと聖書には章や節といったものはありませんでした。古い聖書の写本、特に新約聖書の写本をみますと、大文字べた書きでかかれています。つまり、句読点もなければ、文字と文字との間が区切られてもいないのです。たとえば、日本語で言うならば、ひらがなで「えーこくさんではいちにちにせんにん」と書かれてあるようなものです。この言葉は、句読点の入れ方、また文字の区切り方で、「英国産では一日に千人」とも理解できますし、「えー、国産では一日、二千人」と言った風に、全く違った意味に理解することもできます。もちろん、文章の前後関係を見れば、どのような区切り方が良いのかの判断がつきますから、文章の前後関係から、正しい分かち書きに書き直して、現在の聖書のもととなるギリシャ語校訂本が出来上がっているわけです。そのように、べた書きでかかれている聖書ですから、章や節が最初からあろうはずがありません。聖書が書かれた時代よりもっと後の人が、聖書を読むときの助けとなるように便宜的に章や節がつけられたのです。どうやら、最初に章に分けられ、後から節に分けられて大体16世紀半ばには現在のような章節の区分けになったようです。それにしても、聖書の中には、このマルコの6章6節のように、まったくもって、変な区切り方が多くあります。それについては、「聖書の何節何節節を分ける作業をしていた人が、あまりの膨大な量があるので、馬に乗って移動中に、馬にゆられた弾みに手元が狂っておかしいところに番号をふったのがそのまま残ったのだ」という冗談があるほどです。

まーともかく、この12弟子が派遣されるという物語は、6章の後半から始まるのですが、それは、イエス・キリスト様が郷里で受け入れられなかったと言うことに結び付けられ、それに引き続く出来事として記されています。イエス・キリスト様の郷里での伝道は、人間的な見方からすれば、全くの失敗でした。聖書にはイエス・キリスト様ご自身が、「彼らの不信仰を驚き怪しまれた」とあります。「驚き、怪しまれた」というのですから、予想外にうまく行かなかったのだろうと思います。けれども、だからといって、イエス・キリスト様は、決して失望してあきらめたりはしていません。故郷で受け入れられなければ、直ちに付近の村々に出かけていって、人々を教えられるのです。そこには、人々を教え導くイエス・キリスト様の暑い情熱、パッションまた深い愛といったものを感じさせられます。聖書には、イエス・キリスト様を、失われた一匹羊を探し求めてあるく羊飼いの姿にたとえているところがあります。ルカによる福音書15章1節から7節ですが、そこには、まさに、一人の人も失なうことなく、神の国の恵みに導こうとしているそんな、イエス・キリスト様のお姿を、見ることができるのです。また、そのような情熱と愛があるからこそ、12弟子達を呼び寄せ、伝道の旅に送り出されるのです。その結果として、今、ここに集う私たち一人一人が、神を信じる信仰に招かれ、こうして教会に集っているのです。

それは、2000年という長い教会の歴史の中で、イエス・キリスト様の弟子たちによって繰り返し、繰り返し宣教がなされることによってなされた、神の御業と言っても良いのかも知れません。その、キリスト様の弟子たちの宣教・伝道の出発点が、今日の聖書の箇所にあるのです。そこには伝道に向っていく、弟子たちに語られたイエス・キリスト様のお言葉が書かれています。それは、旅のために、「つえ一本のほかには、パンも、袋も、またお金も持たず、ただわらじをはくだけで下着も二枚は着ないように」というものでした。そして、「どこに行っても、家に入ったなら、その土地を去るまではそこに止まっていなさい。」というのです。2000年前のイスラエルにおいて、旅する人たちがどのような旅支度をしたかについて、詳しくは分かりませんが、しかし、つえ一本とただわらじをはくだけで、パンも袋も、またお金も持たないというのは、いかにも旅支度としては心許ない感じがします。ここに袋というものがあげられていますが、ウィリアム・バークレーと言う人は、この袋というものが何であるかについて二つの可能性があることを示唆しています。一つは、羊飼いや巡礼者、旅行者といった旅するものがもったやぎの皮でできたずだ袋で、そこには、普通一日か二日分のパン、干しぶどう、オリーブ、チーズなどを持ち歩いて入れた、その袋である可能性です。もう一つは、祭司や信者、この場合はユダヤ教の信者ですが、彼らが、神殿や神のための献金を集めるためにもちいた献金袋といったものである可能性です。

しかし、「つえ一本のほかには、パンも、袋も、またお金も持たず、ただわらじをはくだけで下着も二枚は着ないように」と言う文脈を考えますと、最初のパン、干しぶどう、オリーブ、チーズなどを持ち歩いて入れた袋と考える方が良いだろうと思われます。つまり、伝道の旅に出かけるにあたって、何の備えも用意せずに出かけていきなさいというのです。たしかに、この時代は旅人を家に招いて親切にもてなすということは、聖なる義務とされていたようです。ですから、そのような当時の状況を考えると、とりあえず、パンも袋もお金がなくても、村に行けば何とか、もてなしてもらえるだろうということはあったかもしれません。しかし、たとえそうであったとしても、いっさいの備えなしに出かけていけというのは、いかにも酷な感じがしますし、それを言われた弟子たちも不安な気持ちになったのではないかと思うのです。なのに、イエス・キリスト様は、何も持たずに出かけていきなさいというのです。多くの聖書註解者は、このイエス・キリスト様の言葉を、「ただ神により頼みなさい」と言うことだと言います。そして、確かにそのとおりなのだろうと思います。それは実の大胆なチャレンジです。イエス・キリスト様は、弟子たちに、ただ神により頼む生き方というものを徹底するように求めておられるのです。それは、すべて神を信頼し、お任せすると言うことです。先々のことを心配し、思い煩うのではなく、神の命じるところであるならば、神に自分をお任せして出ていきなさいというのです。

神を信頼し、神に全てをお任せする。それは信仰というものの実体です。近代神学の父と言われるシィライエルマッハーという人がいます。彼は18世紀後半から19世紀初頭の人ですが、信仰というものについて、信仰とは絶対依存の感情であると言いました。シュライエルマッハーが言わんとしたところは、宗教心理学的な要素が非常に強いもので、だからこそ、感情であるというのですが、イエス・キリスト様は単に感情ではなく、神さまを信頼して生きる生き方を求めておられます。つまり、神を信じる問うこと、信仰というものは、単なる内面的な問題だけではなく、具体的生き方の問題でもあるのだと言うことだろうと思います。そもそも「つえ一本のほかには、パンも、袋も、またお金も持たず、ただわらじをはくだけで下着も二枚は着ないように」といわれて、そのとおりにするすると言うこと自体、イエス・キリスト様の言葉に対する信頼がなければできないことです。逆に言うならば、イエス・キリスト様の語られた言葉に対する信頼があるからこそ、「何も持っていくな」という過酷とも思える言葉に従って出て行けるのです。きっと弟子たちにしてみれば、大丈夫だろうかという不安もあるだろうと思います。畏れだってあるだろうと思います。

そういった意味では、シュライエルマッハーのいうような絶対依存の感情など起ってこないのです。けれどの、それでもイエス・キリスト様が言われることですからと、そのお言葉に賭けて出かけていく。その決断の中に信仰があるのです。ですから、信仰とは、たえず決断を求められると言うことでもあります。それは、神を、またイエス・キリスト様を信頼するという決断です。自分の思いと願いとは違うことがあったとしても、「神が語られることだから、イエス・キリスト様が語られることだから」と、信頼するところから、信仰は始まるのです。それは、具体的には聖書の言葉を信じ信頼することです。また、人生の様々な決断を必要とする場面で、祈り、ここに神のみこころがあるとそう受け取ったら、それを信じて歩み出すことでもあります。もちろん、イエス・キリスト様は闇雲に私たちに決断を求めるお方ではありません。弟子たちに「つえ一本のほかには、パンも、袋も、またお金も持たず、ただわらじをはくだけで下着も二枚は着ない」で伝道の旅に出かけなさいといわれる時に、ただ命じるだけでなく、「彼らに汚れた霊を制する権威を与え」られたのです。

「汚れた霊を制する権威」。それは、イエス・キリスト様がそれまでに、カペナウムの町で、またゲラサ人の土地で弟子たちに実際にお示しになったことです。そして、イエス・キリスト様がお示しになった汚れた霊を制する権威は、神からの権威です。マルコによる福音書5章1節から20節は、そのゲラサ人の土地で、イエス・キリスト様はレギオンという汚れた霊を追い出された記事が書かれています。そこにおいて、汚れた霊は、イエス・キリスト様に対して、「いと高き神の子イエスよ。あなたはわたしとなんの係わりがあるのですか」とそう叫んでいます。それは、まさにイエス・キリスト様が神の権威に基づいて悪霊を追い出しておられるということの証でもあります。その神の権威が弟子たちにも与えられる。それはつまり、神があなた方についておられるから、大丈夫だと言うことなのです。イエス・キリスト様はそのことを、ちゃんとお約束になって、弟子たちに出て行けと言っておられます。そしてその約束は空手形ではありません。ご自身がちゃんと証明し、確かに持っておられるものを分け与えてくださるからこそ、一見、無謀とも思われるような、「つえ一本のほかには、パンも、袋も、またお金も持たず、ただわらじをはくだけで下着も二枚は着ないように」ということお命じになることができるのです。

神を信頼して生きる。

私が、牧師になるという決断が迫られたときに、私には二つの心配事がありました。一つは家庭のこと、もう一つは牧師という仕事に関することでした。家庭のことというは、具体的には経済的な問題です。当時私は、有名ではないにしても、一応一部上場のいわゆる大企業に勤めていました。銀行や生命保険といった金融関係の人ほど多くはありませんでしたが、そこに務めている限り生活は安定しています。けれども、そこを辞して牧師になると、経済的には随分と違ってきます。教会は総会等で会計報告をしますし、当時私は教会の会計をしていましたので、牧師の収入がいくらかはわかっていました。ですから、最初に心配したのは、子どもたちをちゃんと大学まで行かせてやれるだろうかと言うことでした。それは本当に心配したことでした。けれどもその時に、「だがまてよ。そうはいっても、私の知っている限り、牧師の家庭の子どもたちも、ちゃんと大学まで行っているではないか」とそう思ったのです。確かに、会計報告を見る、自分で帳簿をつけていると、これでやっていけるのかとそう思うのですが、現実には、私が数字の上で心配していることを、神さまはちゃんと乗り越えさせて下さっている。その事実が、不安を感じつつも、私の背中を押し、私に神を信じる決断を与えてくれました。そして、今長女は大学生になっています。神は神に信頼するものを支えて下さるお方なのです。

もう一つの私の心配は、牧師になったとして、その仕事がちゃんとできなかったらどうしようということでした。会社の仕事なら、「失敗しちゃった」ですまされますが、牧師の仕事はそれでは済まされないと言う思いがあったからです。それは、いまもおなじなのですが、しかし、考えてみますと、自分の力で失敗したとか成功したとか言うのも、どうかという感じがしないわけでもありません。今日の聖書の箇所は、弟子たちが村々に宣教に派遣されていくというものですが、その宣教の成果がどうであったかについては、余り述べられていません。果たして、弟子たちの伝道が成功したのか失敗したのか。わずかに、12節、13節に「そこで、彼らは出ていって、悔い改めを宣べ伝え、多くの悪霊を追い出し、大ぜいの病人に油をぬっていやした。」と書かれているだけです。そして、この箇所をみるかぎり、弟子たちの伝道は成功したのかのようにと思えるのですが、しかし、もしそうであるならば、「そこで、彼らは出ていって、悔い改めを宣べ伝え、多くの悪霊を追い出し、大ぜいの病人に油をぬっていやした。」という表現は、あまりのもあっさりとしすぎています。そういった意味では、このマルコによる福音書は、宣教の旅に出かけた弟子たちの、その伝道が成功したのか失敗したのかに関しては、余り関心を示していないのです。それよりもは、むしろ目を引くのは、「あなたがたを迎えず、あなたがたの話を聞きもしないところがあったら」と失敗することも、ちゃんと見据えられていることです。うまくいくときもあれば行かないときもある。神を信じ、神のみこころに添って伝道の旅に歩み出した弟子立ちであっても、全てが順調にいくというわけではないのです。それは伝道に限らず、人生に置いて言えることです。

そのようなうまくいかないとき、失敗したと思われるようなとき、それは本当なら失意の時だと言えます。その時に、イエス・キリスト様は「また、あなたがたを迎えず、あなたがたの話を聞きもしないところがあったら、そこから出ていくとき、彼らに対する抗議のしるしに、足の裏のちりを払い落としなさい」と言うのです。口語訳聖書では、抗議のしるしにとなっていますが、他の聖書を見ますと、証のために、とか証拠のために、あるいは証明の為にとなっています。実際、原典であるギリシャ語を見ましても、抗議と言うニュアンスは感じ取られません。ここらあたりが、翻訳の難しさです。抗議のためにというと、そこには何か怒りや憤りがかんじられます。しかし、イエス・キリスト様が「彼らに対する証のために、足の裏からチリを払い落としなさい」と言うのは、そう言ったあなた方の怒りを示せと言う事ではないのです。足の裏のチリを払い落とすというのは、敬虔なユダヤ人が異邦人の地から、ユダヤの地の入るときに、足と衣服からチリを払ったと言うことに関係している者と思われます。そうやって、ユダヤ人は汚れた地とは交わりが許ないということを示したのです。ですから、ここでイエス・キリスト様が、「彼らに対する証のために、足の裏からチリを払い落としなさい」といわれるのは、足の裏からチリを払い落とすことによって、弟子たちを迎え入れず、弟子たちの話を聞かなかった人たちに、あなた方は、イエス・キリスト様とは何も係わりがないと言うことを示していると言うことになります。

それは、取りも直さず、イエス・キリスト様がもたらしたよき訪れ、私たちを神の国に導く福音となんの係わりもない、まだ罪の汚れから洗い清められていないと言うことです。当然、その結果として、神の裁きがあなた方に訪れますよということを宣告している事になります。しかし、おそらくは、この足のチリを払うという行為は、そのような罪の裁きの宣告が目的ではなかっただろうと思われます。むしろ、あなた方はまだ罪の汚れの中にいる、イエス・キリスト様がもたらした神の国に対しては、あなた方は異邦人なのですよと言うことを示しているのだろうと思います。そうやって、自分たちの罪への自覚を促して、悔い改めへと導いておられたのでしょう。結局、イエス・キリスト様は最後の最後まであきらめないお方なのです。そして、同時に、それは伝道の結果がどうであったかは弟子たちの責任ではないと言うことです。

考えてみますと、神に導かれ神を信頼して出ていったけれどもうまくいかなかったと言うときに、その責任を問われるとするならば、それは本当に酷な感じがします。神にとって、イエス・キリスト様にとっては、神を、またイエス・キリスト様を信頼すると言うことが全てなのです。それによって起ってくる結果は、全て神とイエス・キリスト様が受け止めて下さるのです。ですから、もし、私たちが神を信頼し、神により頼んで生きていく人生を歩んでいくのならば、何かうまくいかないこと、失敗と思われる事があっても、私たちは自分を責める必要はありません。仮に、私たちが祈りの内に、神に信頼しつつも、神のみこころを取り違えて決断したとしてもです。私たちが、神を信頼してなした決断であるならば、たとえそれが誤っていたとしても、神はそれを受け止めて下さるのです。

それは、マルコによる福音書の5章30節、31節に言い表されています。30節には、この伝道の旅から帰ってきた弟子たちが、「自分のしたことや教えたことをみな報告した」ことを告げています。そこでは、どのような成果があったかと言うことを問われているわけでもありません。ただ、伝道の旅から帰ってきた弟子たちに、「さあ、あなたがたは、人を避けて寂しいところに行って、しばらく休むがよい」という慰めと気遣いのあふれた言葉がかけられているのです。私たちの生きている世界は、いつも私たちに結果を求めてきます。何をやったのか。成果はどうだったのか。結果はどうだったのか。けれども、神は、あなたにそのようなことを求めてはおられません。あなたの人生で、あなたが神に何をしてくれたのか、イエス・キリスト様に何をもたらしたのかについては、なんの興味もないのです。神にとって、またイエス・キリスト様にとって、ただ関心があるのは、あなたが神を信頼し、神により頼んで生きているかだけなのです。またイエス・キリスト様を信頼し、イエス・キリスト様に依り頼んで生きているかと言うことだけなのです。つまりは、神に対する信仰をもって生きているか否かです。

そして、神を信頼し、イエス・キリスト様に依り頼んで生きていくものに、神はいつも慰めてくださいます。そして神を信頼して生きる者を神は支えて下さるのです。そして憩いへと導いて下さっているのです。この神を信頼して生きる者に与えられる慰めと支えに私たちは招かれています。ですから、私たちは、私たちの人生の様々な場面で、神に祈り、神を信頼して、これが神のみこころだと信じるところに歩み出していきたいと思います。私たちは、弱い人間ですから、神のみこころを誤ってとらえてしまうかもしれません。神のみこころだと受け取った背後には、じつは自分でも気が付かない自分の意思が潜んでいるかも知れません。けれどの、私たちが真摯な気持ちで神に信頼して生きると言うことに向き合っているならば、神は私たちの人生に関わって下さり、支え導いて下さるのです。

お祈りしましょう。