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羊飼い 『体と魂の満たし』
マルコによる福音書 6章30−44節
2006/7/30 説教者 濱和弘
賛美  185、317、48

今、司式者にお読み頂いた聖書の箇所は、いわゆる5千人の給食と呼ばれる新約聖書の中で、もっとも有名な話の中の一つです。それは、イエス・キリスト様が五つのパンと2匹の魚で、5000人以上の人の空腹を満たし、なおその残りが12の籠に一杯になったという奇跡の物語です。ここでは、パンを食べた者は男五千人であったとありますが、ユダヤの習慣では女性や子どもは数えません。ですから、実際には、もっと多くの人が、五つのパンと二匹の魚でお腹一杯に満たされた事になります。

たった五つのパンと二匹の魚で五千人以上の人のお腹が満たされるなどと言ったことは、物理的に考えられません。考えられないからこそ、奇跡物語なのですが、このような奇跡物語は、近代的な理性によっては受け入れがたいことです。そんなわけで、この奇跡物語に対する様々な合理的な説明をしたり、象徴的な意味を見出そうとしたりする試みがなされてきました。しかし、そのような試みのいかんに関わらず、この五千人の給食は、福音書が書かれる前から、かなりしっかりとした形で広く伝えられており、また、初代の教会にとってはかなり重要視されていた奇跡であったろうと言われています。と申しますのも、この五千人の給食の物語だけが、マタイ、マルコ、ルカ、ヨハネといった四つの福音書の全てに記されている奇跡だからです。この奇跡がなんであったか。それについては、マタイ、マルコ、ルカ、ヨハネ共々にそれぞれの視点で捉えています。マタイやルカは、この五千人の給食の出来事を通して、弟子たちがイエス・キリスト様に対して「あなたは神の子です」という信仰告白に至ったことを記しています。それは、この五千人の給食の奇跡が、預言者に勝るまさに神が人となられた証として弟子たちが受け止めたと言うことであろうと思われます。

ところが、マルコによる福音書に於いてはともうしますと、52節に「先のパンのことを悟らず、その心が鈍くなっていたからである。」とそう言うのです。この52節は、その前に記されているイエス・キリスト様が湖の上を歩いて渡られたという出来事の結びの部分ですが、そこに於いて「弟子たちは、先のパンの事を悟っておらず心が鈍くなっていたというのです。ところが、マタイやルカは、この5千人の給食やイエス・キリスト様が湖の上を歩いて渡られたという出来事が、弟子たちに、大きな驚きを与え、そして「このお方は神の子である」ということを分からせ、そして告白させたと「あなたは神の子です。」言うのです。この時、彼らはが「あなたは神の子です」とそう告白したことは歴史的に確かな事実であろうと思います。ところがマルコは、その歴史的事実を無視するかのように、この「あなたは神の子です。」と言う告白を記すことさえせず、むしろ「彼らはまだ悟っていない」というのです。それは、マルコの目から見て、弟子たちがこの時に理解した「神の子」の理解は不十分のものだったということを意味しています。そして、「イエス・キリスト様が神の子である」ということを深く理解するには、五千人の給食の出来事を悟らなければならないと言うのです。だとすると、マルコは、いったい五千人の給食から何を悟れと言うのでしょうか。

先々週の礼拝の時にご紹介したとおもいますが、M・ケーラーと言う人が、「マルコによる福音書は、長い序文を伴ったキリストの受難物語である」とそう言いました。つまり、マルコによる福音書はイエス・キリスト様の十字架に深い関心を寄せ、その受難の意味を私たちの心に刻み込むといった意図をもっていたと言えます。そのことを思いながら、今日の説教の箇所であるマルコ6章30節から45節までを読んでまいりますと、二つの言葉が、心にとまりました。一つは、34節の「イエスは舟から上がって大勢の群衆をごらんになり、飼う者のない羊のようなその有様を深く憐れんで、いろいろと教えはじめられた。」という言葉です。イエス・キリスト様は目の前にいる人たちを、飼う者のない羊のように思われたとあります。飼う者のない羊といいますが、要は群れから離れて迷い出てしまった羊です。そのような羊は決して生きていくことはできません。それこそ、食物を見出すこともできず、外的から身を守る術(すべ)も持っていないのです。羊が人間のように恐れを感じるとか不安を感じるかどうかは知りませんが、もし、羊が私たち人間と同じような感情を持っていたとしたならば、そのような状況にかれると、きっと不安や恐れで心が一杯になってしまうだろうと思います。イエス・キリスト様の目に映った人々の姿は、そのように生きることに対する不安が感じ取られるものだったのだろうと思います。そのような、不安があるからこそ、伝道の旅にでて、人を避け静かなところで休もうとするイエス・キリスト様を追いかけて行くのです。

そのような人々をイエス・キリスト様は「深く憐まれた」と聖書は告げています。憐れむと言うことは共感するということです。けっして上から見て可哀想だと思うことが憐れみではありません。同じ地平にたち、心を相手の心に重ね合わせ、苦しみや悲しみを共感するところからのみ、本当の意味での深い憐れみの心が起こってきます。そのような、深い憐れみの中で、イエス・キリスト様は人々に、教えを語り、人々が食べるものまで心配しておられるのです。そういった意味では、私たちはこの五千人の給食の奇跡を「神の大きな力」「超自然的な力」としてとらえ、それを持ってイエス・キリスト様が神の子であることの証拠とすべきでありません。むしろ、この五千人の給食の奇跡は、私たちに心を寄せ、私たちのことを深く憐れまれる神のお心を啓示する出来事であると受け止めるべきものなのだと言えます。そして、イエス・キリスト様は、神であるとして、私たちにその力を見せつけることでご自身が神であることをお知らせになるのではなく、私たちのただ中にあって、共に歩み、私たちの苦しみや悲しみに共感してくださるお方なのです。

そのイエス・キリスト様の深い憐れみは、パンと魚という食べ物によってお腹を満たすと言うことによって示されているだけではありません。確かに、パンと魚によって五千人の人のお腹が満たされたと言うことは、具体的に起こった出来事であり奇跡です。ですから、この奇跡を通して私たちは、私たちの具体的な生活を顧みてくださるイエス・キリスト様の深い憐れみといったものを読みとることができます。しかし、この起こった出来事の物質的な奇跡現象だけに目を留め理解しているならば、やはり同じように「先のパンのことを悟らない」「まだまだ理解が十分ではない」と言われてしまうだろうと思うのです。そしてそこには、悟らなければならないもっと深い意味があると思われます。それでは、このイエス・キリスト様の深い憐れみによっておこった五千人の給食の奇跡の出来事にある意味とはなんでしょうか。41節にある言葉に目をやりますとこのように記されています。

「それから、イエスは五つのパンと2匹の魚とを手に取り、天を仰いでそれらを祝福し、パンをさき弟子たちにわたして配らせ、また、2匹の魚もみんなにお分けになった。」この「天を仰いで、それを祝福し、パンをさき、」と言う言葉は、教会の聖餐式で用いられる用語でもあります。このように、この五千人の給食を聖餐式に結び付けて考える傾向は、特にヨハネによる福音書などに顕著に見られる傾向ですが、確かに起源百年ごろには、もうすでに五千人の給食と聖餐式とが結び付けて考えられていたようです。ですから、マルコによる福音書の著者が、「先のパンのことを悟らず」と記したのは、この出来事が起こった当初は、このような五千人の給食の奇跡が、聖餐式につながるような意味をもっていたということを、誰も気付かったということです。もちろん、それは後になって振り返って「ああ、そうだったのかと」と気付いたわけですが、この時は誰も気付いていなかったのです。マタイやルカにおいては、五千人の給食や水の上を歩き嵐を静めるといった力ある業、超自然的な出来事を通して、弟子たちが「このお方は神の子だ」と驚嘆し告白した事実を伝えています。もちろん、それは出来事として事実であろうと思います。しかし、おそらくマルコの福音書の著者は、この福音書を記すに当たって、そのような奇跡を見て、イエス・キリスト様を神の子だとして信じることは、「事を余りにも表面的に見過ぎている。」とでも言いたかったようです。そして、マルコは「先のパンのことを、悟らなければならない」というのです。それは、イエス・キリスト様というお方は、五千人の給食の出来事を通して、私たちに永遠の命を与えるために、十字架の上で自らの肉を裂かれたお方であるということを心に覚えなければならないと言うことです。

なぜなら、イエス・キリスト様の神の子としての本質は、華々しい超自然的な奇跡にあるのではない、むしろ十字架の上で悲惨な死をとげた弱々しい、みじめな姿にあるのだという事であるからです。それは、あの力無く弱々しくみじめなイエス・キリスト様の死が、私の罪に神の赦しをもたらし、永遠の命をもたらしてくれたからです。力ある奇跡とはほど遠い、十字架の上で、肉を裂かれ刺し通されたお姿こそ、神の一人子がこの地上にお生まれになった意図があるのです。ですから、この十字架に架かったイエス・キリスト様を知らなければ、イエス・キリスト様を本当に知ったとは言えないのです。どんなに力ある業をみて、奇跡を見てイエス・キリスト様を神の子と信じても、それでは本当に神の子と信じたことにはなりません。十字架に磔になった、弱々しくみじめなイエス・キリスト様のお姿を見て、この方こそ神の子だと告白しなければ、本当にイエス・キリスト様を神の子であると言うことを知り、また信じたことになるというのです。

この、イエス・キリスト様を神の子として知るということは、単に知識としてイエス・キリストというお方は神の子であったと言うことを知ると言うことではありません。私とイエス・キリスト様の関わり合いを持ち、このお方が私にとって神の子となって下さったということを信じ受け入れることです。そして、イエス・キリスト様が私にとって神の子となって下さったということは、イエス・キリスト様が十字架に架かって、私の罪に赦しをもたらして下さったということを知ることです。ですから、イエス・キリスト様を神の子であると告白するということは、イエス・キリスト様は、私を私の罪から救って下さる救い主だと言うことを信じ告白すると言うことなのです。

イエス・キリスト様のところに集まってきた人たちを見て、イエス・キリスト様は飼う者のない羊のようだと、そのように思われました。それは、もう生きていくことができない、命の危険にさらされているそのような姿です。それは、単に、肉体的な命が危険にさらされているということではありません。イエス・キリスト様の弟子たちが36節で言っているように、彼らは「めいめいで、食べるものを買いに、部落や村々に行く」ことが出来る人たちです。つまり、自分の体については養い育てることはできるのです。けれども、彼らはイエス・キリスト様を自分の罪の救い主として信じ受け入れることなくして、天国で生きる命、聖書が永遠の命と呼ぶものを手に入れることはできません。罪の赦しなしでは、一点の罪も汚れも受け入れることのできない、聖い神の国では生きられないからです。そして、神の民としてどう生きていけばいいのかと言うことも分からないでいるのです。そんな、飼う者のない羊のような者達に、イエス・キリスト様は自分の御体を十字架の上で裂き、私たちに罪の赦しをもたらして下さいました。そして、神の民としてどう生きていくかをお示しになって下さったのです。

だからこそ、このマルコは、「先のパンのことを悟れ」とそう言いたいのだろうと思います。それは、「五つのパンと2匹の魚とを手に取り、天を仰いでそれらを祝福し、パンをさき弟子たちにわたして配らせ、また、2匹の魚もみんなにお分けになった。」イエス・キリスト様のお姿に、聖餐式を重ね合わせながら、イエス・キリストの受難の意味を考えなさいと言うことなのだろうと思います。私たちは、ともすれば信仰の華々しい結果に対して神に栄光を帰す傾向があります。どんな成果があり、どのよう祈りが答えられたか、あるいは答えられるかに関心が向いていきます。そのような私たちがこの五千人の給食を見るならば、まさに、5千人以上の人が五つのパンと二匹の魚で養われたという出来事の大きさに目が向けてしまいます。けれどの、私たちが着目しなければならないのは、奇跡の出来事でもなければ、華々しい結果でもない、ただ私たちを罪から救うために、十字架について死なれたイエス・キリスト様のお姿なのです。

ほんの一週間前、私たちは、私たちの愛する加藤亨牧師を天に送りました。その前夜式、告別式の式次第の裏には、加藤亨牧師の略歴が記されています。そこには、実に控えめに、三鷹教会に牧師であったこと、総動員伝道やバックストン聖会等の働きに加わっていたことが記されています。しかし、告別式で教団委員長の内藤達朗牧師が弔辞で述べられたように、実際には教団の財務局長や厚生局長、教団委員などを歴任し、そのなしてこられた働きとその成果を見るならば、実に多くの結果を生み出しておられるのです。そして、その中でもっとも大きな功績は、この三鷹教会という教会の牧師として、この教会を建てあげ、養い育ててきたことです。けれども、私たちは、加藤牧師の生涯を顧みるときに、そう言った成果のひとつひとつをみて、神の栄光をあがめるのではなく、加藤牧師の死に、神の栄光を見なければなりません。なぜなら、その死は、死に対する敗北ではなく、神の御国(天国)への勝利の凱旋だからです。そして、それこそがまさに、イエス・キリスト様の十字架の死によってもたらされた勝利なのです。だからこそ、聖徒の死は御前にて尊いと言うことができる。加藤牧師を救い、キリスト者として導き生かして下さった神様。そのキリスト者としての生涯の全てが、イエス・キリスト様の十字架の死によってもたらされた救いにあるのです。そして、その救いにあずかった加藤牧師は、今、確かに死に勝利して神が与えたもうた永遠の命をもって、この世の生を離れて、神の御許に召されたのです。ですから、イエス・キリスト様の十字架の死が勝利であったように、その十字架によって生かされた加藤牧師の死もまた勝利なのです。だからこそ、私たちは、加藤牧師の死に神の栄光を帰し、この死をただ悲しい現実だけに終わらせず、栄光の勝利となさしめた、イエス・キリスト様の受難を思わなければならないのです。もちろん、だからといって加藤牧師が、この地上でなされたひとつひとつのことになんの価値もないと言うことではありません。それは、それで素晴らしいものであったと言えます。特に、この三鷹教会の創立から今日に至るまで、この三鷹教会を建てあげてきたその功績は、言葉では言い表せないほど素晴らしいものであったと言えます。と申しますのも、その教会を建てあげる働きというのが、イエス・キリストの十字架の御業を人々に語り伝えると言うところにあったからです。それは、伝道において、説教に於いてなされてきました。加藤牧師の教会形成は、この、イエス・キリスト様の十字架を人々に語り、見上げさせることにおいて、一点のぶれもなかったであろうと思います。そして、このイエス・キリスト様の十字架を人々に語り、見上げさせることこそが、神の民が如何に生きるかと言う、生き方そのものなのです。

マルコによる福音書6章37節には、「ここは、寂しいところでもあり、もう時もおそくなりました。みんなを解散させ、めいめいで、食べるものを買いに、部落や村々に行かせてください」という弟子たちの言葉に、対するイエス・キリスト様の答えが出ています。その答えとは「あなた方の手で、食物をやりなさい」というものです。そして、その答え通りに、イエス・キリスト様は、「五つのパンと2匹の魚とを手に取り、天を仰いでそれらを祝福し、パンをさき弟子たちにわたして配らせ、また、2匹の魚もみんなにお分けになった。」のです。天を仰いでパンを祝福し裂かれたのはイエス・キリスト様です。しかし、その裂かれたパンを人々の所に届けたのは弟子たちなのです。イエス・キリスト様は裂かれたパンを弟子たちにお託しになっておられる。ご自身は十字架の上でその御体を裂き、血を流されて救いの御業を成し遂げられました。その救いの御業を人々に伝えることは弟子たちの手におゆだねになられたのです。だからこそ、私は、伝道において、説教を通して、人々に、イエス・キリストの十字架の御業を人々に語り伝え、この三鷹教会という一教会の教会形成をなしてきた加藤牧師の働きは尊いというのです。それは、イエス・キリスト様の弟子がなすべき業であり、弟子の生き方だからです。

そうやって築き上げられたこの三鷹教会に集う皆さんもまた、イエス・キリスト様の弟子です。ですから、私たちもまた、イエス・キリスト様の十字架を人々に伝え知らせる者でなければなりません。もちろん、皆さんは加藤牧師や私のように、いわゆる伝道者・牧師ではありません。ですから、説教をするとか、個人伝道をするといったことを必ずしもしなければならないと言うことではないだろうと思います。けれども、牧師も信徒もすべからくキリストの証人です。ですから、生活の中でキリスト者として、神を見上げ、イエス・キリスト様の十字架を仰ぎ見て生きていくことが大切です。罪から身を遠ざけ、仮に罪を犯したとしたら、それを悔い改めつつ、イエス・キリスト様の十字架を見上げて生きていくこと、それが、キリストの証人として、イエス・キリスト様の十字架を語っているのです。

私たちは、イエス・キリスト様の深い憐れみと愛のまなざしの中で生きています。イエス・キリスト様は私たちのパンという具体的な日々の生活のことを心配して下さり、また永遠の命という、魂の救いを与えて要として下さっています。まさに、イエス・キリスト様は、私たちの体と魂の羊飼いなのです。そして、それは具体的なイエス・キリスト様の十字架の死という歴史的事実に裏付けされています。そのイエスキリスト様の愛と憐れみを、私たちは聖餐式を通して、くり返し、くり返し確認するのです。ですから、私たちは、月ごとに行われる聖餐式に満ちあふれている恵みに、私たちの魂を豊かに満たして頂き、キリストの証人として、人々の間で生きていきたいと思います。そうやって、祈りが答えられた、答えられない。教会に素晴らしい出来事が起こった、起こらないと言ったことに一喜一憂するのではなく、私たちに、イエス・キリスト様の十字架の死によってもたらされた罪の赦しということが、確かに全うされているということを覚え、そのことに、私たちの信仰の土台をしっかりと起きたいと思います。

そして、神のひとり子を十字架に架けて犠牲になさるほど、神が、また十字架に架かられたイエス・キリスト様が私たちを愛して下さっていることを喜びながら生きたいと思うのです。この五千人の給食奇跡を通して、「先のパンのことを悟れ」というマルコ福音書の語りかけは、そのように、私たちの体だけでなく魂をも満たして下さる真の羊飼いであるイエス・キリスト様の十字架の恵みを私たちに語りかけているのです。

お祈りしましょう。