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羊飼い 『神が近づいてくる』
マルコによる福音書 6章45−53節
2006/8/13 説教者 濱和弘
賛美  19、341、355

さて、いま司式の兄弟にお読み頂きました聖書の箇所は、イエス・キリスト様が湖の上、つまりは水の上を歩いて渡ったという奇跡が記されている所です。昔、子供の頃に、友人が、右足が沈まない内に左足を水の上におき、その左足が沈まない内に右足を水の上に置く、これをくり返し行うと水の上を歩けるようになると言っていました。もちろん、そのようなことが出来るわけではありませんから、人間が水の上を歩くと言ったことは不可能なことだといえます。そんなわけで、合理主義的な考えをする方は、これはイエス・キリストが湖の中にある岩礁に位置を知っていたから、その岩礁づたいに渡って来たのだと言うような、解釈がなされたかたもいらっしゃったようです。ところが、舟がこぎ悩むほどの逆風が吹く、いわば嵐のような状況で、しかも、真夜中の闇の中で、波立つ湖面の中で、岩礁の位置を正確に見極めることなどできないという別の合理主義的考えによって、この、岩礁づたいに歩いてきたといった考えも否定されてしまいました。

結局、このイエス・キリスト様が湖の上を歩いて弟子たちの舟の所に来られたという出来事は、合理的な考え方では説明できない奇跡の物語なのです。この奇跡の物語を歴史的事実として捉えるか、寓話や創作として捕らえるかは、聖書観の違いや、聖書に対する研究方法の違いによって違ってきます。そして、私たちの教会は、歴史の中におこった奇跡であり、歴史的事実であると受け止めている保守的立場に立つ教会です。しかし、この物語を歴史的事実として捉える教会であろうと、寓話や創作だと考える立場の教会であったとしても、この奇跡の物語から、神の教えを聴き、神からの語りかけを貴行としているのです。そして、この神の教えを聴き、神からの語りかけを聞くと言うことが、教会にとって何よりも大切なことなのです。ですから、今日、ここに集っている私たちは、このイエス・キリスト様が水の上を歩かれたという奇跡ものも語りから、私たちの教会に語りかける神の言葉に耳を傾けたいと思うのです。

そこで、このマルコによる福音書6章47節以降の物語ですが、先週も申しましたように、52節に「先のパンのことを悟らす、その心が鈍くなっていたからである」と記されているように、水の上を歩かれるという奇跡と五つのパンと二匹の魚で五千人以上の人のお腹を満たしたという奇跡と密接に関わっています。そして、この五つのパンと二匹の魚で五千人以上の人のお腹が満たされたという奇跡は、聖餐式に結び付けられることによって、イエス・キリスト様の受難を指し示しているのです。いうならば、五つのパンと二匹の魚の奇跡は、イエス・キリスト様は、「私たちの罪を贖う子羊である」ということを、私たちに教えてくれていると言うことができます。つまり、この五つのパンと二匹の魚の奇跡は、「イエス・キリスト様とは誰か」、「イエス・キリスト様とは何ものなのか」を教えてくれているのです。ですから、その五つのパンと二匹の魚の奇跡に密接に結びついている「イエス・キリスト様が湖の上を歩かれた」と言う奇跡もまた、「イエス・キリスト様は何ものなのかを教えてくれているものであると言えるだろうと思います。

それでは、この「イエス・キリスト様が湖の上を歩かれた」という奇跡は、一体イエス・キリスト様が何ものだと言っているのでしょうか。そこで、私たちが注目しなければならない言葉は、48節の言葉です。そこには、このように書いてあります。「ところが、逆風が吹いていたために、弟子たちがこぎ悩んでいるのをごらんになって、夜明けの四時ごろ、海の上をあるいて彼らに近づき、そばを通り過ぎようとされた。」ここに、「そばを通り過ぎようとされた。」としるされていますが、ある注解者(レイン・ウィリアムソン)は、出エジプト記の33章22節や列王記上の19章11節などを例証として、「通り過ぎる」という言葉は、「神顕現の特有な表現である。」(実用聖書注解:マルコ、執筆:藤本満)といいます。つまり、イエス・キリスト様が、「そばを通り過ぎようとされた。」というのは、ご自分が神であると言うことをお示しになっているというのです。

さらには、ここには、「私である。恐れることはない」とありますが、この「私である。」というギリシャ語でεγω ειμι(エゴー エイミー)という言葉は、出エジプト記の「私は、あって有るもの」という言葉に通じる、非常に特赦なギリシャ語の表現で、神のご自分をお示しになるときの使われる表現ですし、「恐れることはない。」という表現も神がご自身を表すときに頻繁に持たれる表現が使われています。そう言ったことから考えますと、この「イエス・キリスト様が湖の上を歩かれた」という奇跡は、神としてのイエス・キリスト様を指し示していると言うことが出来ます。そういった意味では、このこの「イエス・キリスト様が湖の上を歩かれた」という奇跡と、五つのパンと2匹の魚の奇跡は、合わせて、「神の一人子であるイエス・キリスト様が、人となられて私たちの罪を贖うために十字架に架かって死んでくださった」ということを教えてくれていると言えるでしょう。

このことを、弟子たちも、また人々も悟ることができなかったのです。だからこそ、イエス・キリスト様が通り過ぎようとするとき、神が表われてくださったと思わず、幽霊だとおびえたのだろうとおもうのです。また、それがイエス。キリスト様だとわかった後も、イエス・キリスト様が舟に乗り込まれると風がやんだ、その時に彼らは心の中で非常に驚いたのだろうと思うのです。そのようなわけで、このマルコによる福音書の著者は、「彼ら(すなわち弟子たち)は、先のパンのことを悟らず、その心が鈍くなっていたからである。」というのです。それだけでありません。このマルコによる福音書の著者は、54節以降にゲネサレの地についたイエス・キリスト様たちを迎えた人たちの姿も描いています。そこには、こう書いてあります。「そして彼らが、舟から上がると、人々はすぐイエスだと知って、その地方をあまねく駆けめぐり、イエスがおられると聞けば、どこへでも病人を床にのせて運びはじめた。そして、村でも町でも部落でも、イエスがはいって行かれるところでは、病人たちをその広場におき、せめてその上着の房にでも、さわらせてやっていただきたいと、御願いした。そしてさわった者は皆いやされた。」ここに書かれていることは、人々が、イエス・キリスト様に癒やしを求めて集まる姿です。それは、弟子たちが、イエス・キリスト様を決して悟ることができなかったように、人々もまた、イエス・キリスト様のことを正しく理解できずにいたのです。そういった意味では、私たちは、五つのパンと2匹の魚の奇跡から、イエス・キリスト様は、私たちの罪に赦しを与えるために十字架の上で死なれたお方であったということを学び、更に、今日のこの聖書の箇所から、その方は神であるおかただったと言うことを学ぶことが出来ます。

しかし、私は、聖書はこの「イエス・キリスト様が湖の上を歩かれた」という奇跡が、ただ単にイエス・キリスト様は、三位一体における子なる神が人となって表われたということを伝えるだけに止まっていないようには思えません。そして、これが聖書の素晴らしい所ですし、聖書の奥深さと言いますか、聖書が聖書足るところだと思いますが、このマルコの福音書が意図したことを、越えて、今、ここでの私たちに語りかけてくれるのです。昔、デルタイと言う人が、「解釈というものは、著者が意図したもの以上のものを汲み取ることだ」というようなことを言いましたが、聖書の素晴らしいところは、単にマルコによる福音書が書かれた時に、その著者が頭に描いていた読者、その読者に伝えようとしていたこと以上のことをもって、現代の、今、ここにこうして集っている私たちに語りかけてくるメッセージを伝えてくれるということです。そして、このマルコによる福音書の6章54節以降は、著者が意図したイエス・キリスト様は神の現われであると言うことを越えて、その神がどのような神であるかと言うことまでも、私たちに語りかけてくださっているとそう思うのです。

では、イエス・キリスト様とはどのような神であられるのでしょうか。私は、この聖書の箇所を読んだときに、心に残る箇所がありました。それは45節46節です。そこにはこう書いてあります。「それからすぐ、イエスは自分で群衆を解散させておられる間に、しいて弟子たちを舟に乗り込ませ、向こう岸のベッサイダに先に(下線は説教者の付加)おやりになった。そして群衆に別れてから、祈るために山に退かれた。」このイエス・キリスト様が弟子たちを強いて舟に乗らせ、先に行かせたこと、そしてお一人で祈るために山に退かれたこと、この事はマタイによる福音書にも出ていることですが、私は、この聖書の箇所を読むたびに、イエス・キリスト様は何を祈りに、一人になられようとしたのだろうかと、そう思わされるのです。今回のやはり、考えさせられました。そのような中で、ある注解書(前出、実用聖書注解、いのちのことば社)において、マルコによる福音書に置いては、イエス・キリスト様が一人で祈られている場面は3回だけであると書いてあるものにでくわしました。その3回とは、1章35節カペナウムの町から宣教の旅に出かけていくその時と、14章32節から42節のゲッセマネで十字架に架かる直前の時、そして今日のこの箇所であるというのです。

カペナウムの町から宣教の旅に向われるときも、またゲッセマネでこれから十字架の死に向おうとするときも、いずれの時も、イエス・キリスト様が、神の使命に立たれようとするときです。そして、それは神のみ胸に生きようとするときであると言っても良いかも知れません。そのように、神の使命に生きようとするときに、イエス・キリスト様は一人で祈られたとすると、この時もまた神の使命に立たれようとなさっておられたのだろうと思われます。そして、その祈りの直後に、この「湖の上を歩かれる」という奇跡がある。だとすれば、イエス・キリスト様が、「しいて弟子たちを舟に乗り込ませ、向こう岸のベッサイダに先に(下線は説教者の付加)いかせ、そして群衆に別れてから、ひとり山に退かれ祈られた」その意図は、この、ひどい逆風でこぎ悩んでいる弟子たちのところに行かれた姿にあるだろうと考えられます。また、だからこそ、わざわざ弟子たちを先に舟でベッサイダに行かせたのかも知れません。

では、この、ひどい逆風でこぎ悩んでいる弟子たちのところに、湖の上を歩いて近づいて行かれたイエス・キリスト様のお姿の中に、どのような神の使命があり、どのような神のお姿があらわれているというのでしょうか。ひどい逆風とかかれていますが、それは本当にひどい逆風であったようです。夜明けの4時頃と書いてありますが、これは当時のユダヤの時刻読みでありまして、今で言うならば夜中の3時頃です。この湖とは、ガリラヤ湖のことですが、ここは気象状態が良くなくても6時間、おそくても8時間ぐらいで渡りきれるのですが、弟子たちは夕方には湖の真ん中あたりにいたというのに、夜中の3時になっても、まだこぎ悩んでいたというのですから、そうとうな逆風だったようです。おまけに、ベッサイダに向っていったのにゲネサレについたというのですから、舟は随分と南にながされています。そういったことからも、彼らがであった逆風とは随分と厳しいものであったようです。

2000年前のユダヤの地のガリラヤ湖半の夜中の3時頃です。聖書にはイエス・キリスト様は、「逆風が吹いていたために、弟子たちがこぎ悩んでいるのをごらんになって」と書かれていますが、到底、肉眼で見えようはずはありません。しかし、イエス・キリスト様は、肉眼で見ることはできない弟子たちが逆風の中でこぎ悩んでいることをご存知だったのです。そして、イエス・キリスト様ご自身が、その激しい風の中を弟子たちのところに近づいて行かれたのです。そして、弟子たちの舟に乗り込まれた。弟子たちも、強い逆風の中で必死に舟を操って居たでしょう。けれども、目的地につくどころか、ただ風に押し流されて流されていってしまっている。そんな弟子たちのところに、イエス・キリスト様は、ご自分からちかづいて行かれて、彼らが乗っている舟に乗り込まれた。舟に乗り込まれたということは、弟子たちとその逆風厳しい舟の旅を、弟子たちと共に行かれると言うことです。イエス・キリスト様は逆風の中であえぐものと共に道行くものとなられたのです。

そのように、イエス・キリスト様が、旅の同伴者となって下さったときに、風はやんだと書いてあります。それは、いままで吹き荒れていた逆風が止んだと言うことでしょう。なんで、逆風が止んだかわからない。それは自然に止んだことなのかも知れません。けれども、イエス・キリスト様が、舟に乗り込まれたとき、確かに風は止んだのです。この自然の風が止み、湖の湖面が静かになったとき、おそらくは、逆風の中でこぎ悩んでいた弟子たちの、心の中も静かで穏やかな平安なものになっただろうとそう思うのですが、みなさんはどうでしょうか。私は、ここに、ひとり山に退いて祈り、神の使命に立って行かれたイエス・キリスト様のお姿を見るような気がするのです。そして、イエス・キリスト様というお方がどのような神であられるかを見ることが出来ると思うのです。それは、私たちと共に歩んでくださる神であり、私たちが逆風の中に置かれているときにも、私たちの心の中に平安を与えてくださるお方の姿です。そういった意味では、イエス・キリスト様は、私たちの心に平安を与えてくださる慰めの神であり、励ましの神であるといっても良いだろうと思います。

週報にも書かれております今年の私たちの教会の指針の言葉は、ローマ人への手紙15章5節から6節です。それはこういう言葉です。「どうか、忍耐と慰めとの神が、あなたがたを、キリスト・イエスにならって、互いに同じ思いをいだかせ、こうして、心を一つにし、声を合わせて、わたしたちの主イエス・キリストの父なる神をあがめさせてくださるように」私たちが「心を一つにし、声を合わせて、わたしたちの主イエス・キリストの父なる神をあがめ」るためには、心が穏やかで平安でなければなりません。それこそ、心が波打っていたら「心を一つにし、声を合わせて、わたしたちの主イエス・キリストの父なる神をあがめる」なんて出来ないのです。けれども、くしくも聖書には「心を一つにし、声を合わせて、わたしたちの主イエス・キリストの父なる神をあがめさせてくださるように」と祈りを持って書かれておりますように、自分自身の心が波打つとき、それを静めることなど出来ません。そのような心の波は、不安であったり、怒りであったり、絶望であったり、悲しみであったりします。このような感情は、自分の願っていることや思っていることが順調に進んでいるときには起こってきません。かならず、何か思っているようにいかない、自分の考え通りにことが進んでいかないようなときに、起ってくるものです。まさに逆風が吹いているようなときなのです。

そのようなときに、私たちの心に、平安をもたらしてくれるのは、慰めの神であり、励ましの神であるイエス・キリスト様なのです。このお方が、逆風にある弟子たちのところに向って、近づいてきてくださるのです。そして、その舟に乗り込んでくださる。「どうか、忍耐と慰めとの神が、あなたがたを、キリスト・イエスにならって、互いに同じ思いをいだかせ、こうして、心を一つにし、声を合わせて、わたしたちの主イエス・キリストの父なる神をあがめさせてくださるように」という、聖書の言葉をもって、今年一年をスタートした私たちの教会は、まさに逆風に向っていく舟のように思われています。

ここに、加藤牧師の遺影と遺骨がありますが、私たちの教会の創立者であり、教会の精神的な大黒柱であった加藤先生を天にお送りしたということは、私たちの教会が正念場を迎えたと言うことです。それは、本当の意味で、私たちの教会が、私たちの教会としての時代の転換期を迎えていかなければならないということでの転換期です。いつまでも、加藤先生を精神的支柱とするのではなく、加藤先生の思いではしっかり心刻み込み、どれを土台として、私たちがしっかりとまとまって、キリストの教会としての三鷹キリスト教会をしっかりと建てあげていかなければならないということです。思いどおりに行かないこともあるでしょう。教会そのものが逆風の中を進んでいかなければならないこともあるでしょう。でも、私たちは、「心を一つにし、声を合わせて、わたしたちの主イエス・キリストの父なる神をあがめ」ながら歩んでいきたいのです。そのためには、忍耐と慰めの神であり、励ましの神であるイエス・キリスト様が、私たちの教会の中心におられるということを、私たちがしっかりと意識し確認しなければなりません。そして、そのイエス・キリスト様によって、心を静め、平安をいただきながら、歩んでいきたいのです。

マルコによる福音書の著者は、今日の聖書の箇所において、イエス・キリスト様は神が人となってあらわれたお方であると言うことを、私たちに示しました。そして、その神は、慰めの神であり、励ましの神です。その、慰めと励ましの神が、私たちの人生に、また私たちと共に寄り添い、共に生きてくださるというのです。ですから、私たちも、このお方と共に生きていきたいと思います。

今日は聖餐式があります。先程、私は、「忍耐と慰めの神であり、励ましの神であるイエス・キリスト様が、私たちの教会の中心におられるということを、私たちがしっかりと意識し確認しなければなりません。」と申しました。この忍耐と慰めの神、励ましの神はイエス・キリスト様です。このお方が私たちの教会の中心におられる、臨際されていると言うことを意識し、確認していくために、イエス・キリスト様は聖餐式を制定してくださいました。聖餐式には、主イエス・キリスト様の御臨在があります。それは、主イエス・キリスト様が私たちの教会にいて下さるということです。逆に言うならば、私たち一人一人によって、真心込めた聖餐式が執り行なわれることが、教会に主イエス・キリスト様がおられるということを、目に見える形で知る方法でもあります。そのことを覚えながら、聖餐式に臨んで聞きたと思います。

お祈りしましょう。