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羊飼い 『心を見つめよう』
マルコによる福音書 7章1−23節
2006/8/20 説教者 濱和弘
賛美  3、374、359

さて、今日の聖書の箇所は、パリサイ派の人たちや律法学者たちと、イエス・キリスト様が論争なさった出来事が記されています。イエス・キリスト様とパリサイ派の人たちや律法学者たちとの論争といいますが、このパリサイ派の人たちと律法学者たちはエルサレムから来たと記されています。「エルサレムから来た」とわざわざ書いてあるくらいです。ですから、おそらく彼らは、イエス・キリスト様が、多くの病人を癒すといったことや、あるいは五千人もの人を五つのパンと二匹の魚で、お腹一杯に食べさせたなどと言った奇跡をなった出来事の噂を聞きつけて、やって来たのだろうと思われます。また、人々はイエス・キリスト様の語る教えが、権威ある新しい教えであると言っていましたので、そんなことが耳に入っていたのかもしれません。そのように、パリサイ派と律法学者と呼ばれる人たちは、イエス・キリスト様のなさる業と教えに関心を持って、エルサレムからやってきたのだろうとは思うのですが、しかし、その関心は決して好意的な関心ではなかったようです。

と申しますのも、律法学者という人たちは、旧約聖書をいろいろと調べて、それを実際生活の様々な出来事に適用して、「こうしなければならない」とか、「このようなことをしてはならない」といった細々とした決りごとを決め、人々に教えてからです。つまり、律法学者たちは、当時の宗教的権威者だったのです。そして、パリサイ派の人たちは、その権威に従って、決められた細々とした決まり事やしきたりを守り行っていた人たちです。そうやって、しきたりや決まり事を守り行うことで、立派な存在であると人々も認めていましたし、自らも自認していた人たちだったのです。それに対して、イエス・キリスト様は、その律法学者やパリサイ派の人たちを否定するかのような教えを語り、行ないをしているのです。実際、ここに至るまでも、例えばマルコによる福音書2章1節から17節あたりにも、イエス・キリスト様と、パリサイ派の人たち、また律法学者たちとの間に論争があったことが記されています。そのように、イエス・キリスト様とパリサイ派の人々の間には、かなり早い段階から軋轢があったようです。その軋轢も当初は、ガリラヤ地方という、イスラエルの国にとっては、一地方におこった出来事に過ぎないものだったでしょう。

ところが、イエス・キリスト様が、病人を癒やしたり、悪霊を追い出すと言ったことを通して、多くの人々が、イエス・キリスト様の周りに集まってきているのです。それは、言うなれば、人気急上昇中、株が上がっているという状況だといえます。ですから、一地方に起こった出来事として、放ってはおけなくなったのでしょう、エルサレムからイエス・キリスト様のもとに人を送り込んだのです。そのようなわけですから、この時エルサレムからきたパリサイ派の人たちや律法学者と呼ばれる人たちが、イエス・キリスト様に好意を持っていたとは思えません。むしろ、批判や怒り、あるいは憎しみといったものを、心のどこかに持ちながらやって来たと考えられるのです。それは、イエス・キリスト様が自分たちが教え伝えてきたことを否定する、つまりは自分自身を否定している存在であるかのように思っている人にしてみれば当然の感情かも知れません。

そのような思いを持ってやって来ただろうと思われるパリサイ派の人たちの目に飛び込んできたものは、手を洗うことなくパンを食べている、イエス・キリスト様の弟子たちの姿です。そして、イエス・キリスト様と、パリサイ派の人たち、律法学者たちの間で論争が起こるのです。もちろん、その内容は、食事の時に手を洗うか洗わないかと言うことです。けれどもそれは、自分たちが受け継いできた教えと、イエス・キリスト様がもたらした福音との激しいぶつかり合いでもあったのです。普通、私たちは、食事の前に、手を洗うか洗わないかと言う問題は、衛生上の問題で考えます。しかし、この時にイエス・キリスト様とパリサイ派の人たちの間にあった論争は、そのような衛生上の問題ではなく、「汚れときよめ」といった宗教上の問題でした。つまり、汚れた手を洗わないで食事をするのは汚れた不浄な行為であるから、食事をする前には、手を洗ってきよめなければならないというのです。このように、手を洗わない手で食事をするのは不浄な行為であるということが汚れた行為だと考えるには、このような背景があったのではないかと考えられます。というのは、当時のユダヤの人たちは、どうやら、汚れというものは、人の外側から入ってきて、その人を汚すのだと考えたようなのです。

たとえばユダヤの人たちの間には、カシュルートというものがありますが、これは食べて良い動物と食べてはならない動物とを区別するもので、たとえば、豚やウサギ、ダチョウなどは、汚れた生き物として食べることができません。また、エビや牡蠣、たこやいか、ウナギ穴子といった、寿司ネタになるようなものも食べることが出来ないのです。このような食べ物に関する規定は、旧約聖書レビ記11章に記されていますが、これらは忌むべき汚れたものとして食べることを禁じられたのです。それは、汚れたものを食べることによって、私たちの内側に汚れが入ってきて、それによって、私たちが汚れたものとなると考えたようなのです。もちろん、旧約聖書レビ記11章にこのようなことが書いてあるのは、私たちが神の前に聖くあることの大切さを教えるためのものです。聖いと言う言葉、ヘブル語ではコーディッシュという言葉は。離れるという意味があります。つまり汚れや罪から離れ、神の言葉に聞き従って生きるときに聖い存在であるということです。このことを、具体的にヴィジュアルな方法、つまり目に見える形で「聖いということはどのようなことか」ということを示すために、カシュルートという、食物規定が設けられたのです。つまり、汚れた動物とそうでない動物というものを分けて、汚れた動物を食べないということで、汚れたものから離れるということを教え、それを律法に定めまもることで、神の言葉に聞き従う生き方の大切さを示しているのです。そして、そうやって自らを神の前に聖く保つことが大切なのだと教えたのです。

ところが、それが、「聖くないものを食べてはならない。食べると汚れる」と言うことが定められますと、その行為を守り行うこと自体が目的になります。そして、いかにして汚れたものが自分たちの内側には入り込んで自分たちを汚さないようにするかが問題になるのです。そんなわけでしょうか、洗わない汚れた手や食器で食事をするというのは、それに人の内側汚れが入ってきて内側から人を汚すから、まず、手や食器をきれいに洗ってきよめた上で食べなければならないということになったのだろうかと思います。しかし、先程も申しましたが、カシュルートと呼ばれる律法に記された食物規定さえ、人が神の前に聖くあることを教え、聡すためのものです。食べる、食べないという行為そのものが目的ではなく、人が汚れや罪から離れて生きようとすると言うことが大切なのです。ましてや、この食事の前に手を洗うかどうかということは、律法そのもの記されたものではありません。むしろ、律法に記されたこと(出エジプト30:19、40:12にある祭司の勤めをする前に、身を洗い清めることではないかという注解<実用聖書注>あり、新聖書注解ではレビ記8:6の犠牲をささげる前に祭司が身を洗ったことではないかとする)を解釈してできた細かい規則であったと思われます。

旧約聖書に記されている律法ですら、私たち自身の生き方や心のありようが問題なのです。聖書に記された様々な教えや戒めですら、それを単に守ればいいと言うことはなく、心のありようが問題とされているのです。ましてや、それを解釈した言い伝えなどは、いわずもがな、どのような心のありようで神に向き合っているかが大切なのです。そして、その心のありようとは、神の前に聖く生きたいと願う心、また態度にほかなりません。そんなわけで、ここにおいて、イエス・キリスト様は、「外から人の中に入って、人をけがしうるものはない。かえって、人のなかからでてくるものが、人をけがすのである。」とそう言われるのです。

この聖書の箇所に置いて、パリサイ派の人々と、律法学者たちは、外側に見えている「手を洗って食事をしているか否か」ということに目が向けられています。そして、その行為が守られているかどうかによって、ことの善し悪しを判断しようとしているのです。形式主義という言葉がありますが、それは、形式的に物事が整えられていたとしても、その物事の本質が失われてしまっていてはなんにもならないということです。特に宗教的な儀礼とか、宗教的な行為というものは、そうだと言えます。形式の中に込められたその本質を大切にしなければならないのです。例えば、私たちプロテスタント教会は聖餐と洗礼の二つがが礼典としてとても大切にされています。それは、礼典が聖書に記されたイエス・キリスト様の言葉に基づくものだからです。その礼典の一つであるこの洗礼は、神を信じクリスチャンになったものが受けるものです。私たちの教会にも旧講壇があり、そこに洗礼用のプールがあります。そこに水を張って、水の中に全身を沈めるのですが、それは、水に体を沈めることで古い自分に死に、自ら起きあがることで、新しく生まれたことを意味しています。ですから、この洗礼における水に体を沈め、そこから起きあがるという行為は、神を信じて新しく生まれ変わったのだと言うことを示す象徴的な行為だと言えます。象徴には実体があります。ですから洗礼を受けたものは、神を信じて新しい生き方が始まらなければ、また、新しい生き方をしようとしなければ、それは洗礼を受けたという形式主義に陥ってしまっていると言えます。

ただ洗礼を受けたからクリスチャンと言うのではありません。神を信じ、今までの生き方とは違う、神を信じる生き方に向ってこそ、本当に洗礼を受けた意味が発揮されるのです。それは、洗礼を受けたと言う形式が大切なのではなく。洗礼を受けたものが洗礼に込められている心をしっかりと捕らえて、その心に添って大切なのです。というのも、教会の礼典は目に見える神の言葉だからです。ですから、そこには神のお心が示されています。それは、今までとは違った生き方をするようにという神のお心です。そのお心に添って生きることが、新しく生きることなのです。

それでは、この今までとは違った、新しい生き方とは、どのようなものなのでしょうか。イエス・キロスト様が、そのお弟子たちに、ひいては私たちに命じられたお言葉があります。それはヨハネによる福音書13章34節のお言葉です。そこには、こう書いてあります。「わたしは、新しいいましめをあなた方に与える。互いに愛し合いなさい。わたしがあなた方を愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい。」新しい戒めと言いますが、愛し合いなさいということは、別段新しい戒めのようには思われません。愛し合うことが大切だと言うことは、誰でも言うことなのです。もちろん、旧約聖書にもあります。レビ記19章18節には、「あなたの隣人をあなた自身のように愛しなさい。わたしは主である」とあります。しかし、この18節の言葉は、直前の17節で「心の中であなたの兄弟を憎んではならない。あなたの隣人をねんごろにいさめて、彼のゆえに罪を負ってはならない。あなたはあだを返してはならない。あなたの民の人々に恨みをいだいてはならない」と言われ、その上で「あなたの隣人をあなた自身のように愛しなさい。」と、そう言われるのです。ですから、レビ記19章18節で「あなたの隣人を愛しなさい。」といわれている対象は、自分の身内や同胞の民だといえます。いわば、自分の親しい関係や仲の良い間柄にある者です。しかも、その根底には、「彼のゆえに罪を負ってはならない」とありますように、自分のために、自分の身近な者や日田市いかん型にある者を愛するのです。

けれども、イエス・キリスト様が、あなた方は互いに愛し合いなさいと言うとき、それは、単に身近な関係や親しみを覚えるような間柄の中だけでありません。しかし、イエス・キリスト様は「私があなたがたを愛したように、あなたがたを愛しなさい」と言うのです。イエス・キリスト様が「あなたがたを愛したように」という愛し方、それは十字架に架かって死なれることで、私たちが神の前に生きていくことができるようにする、そんな愛し方です。それは、自分のために愛するのではなく、相手のために愛することなのです。

先日も田中姉妹のお宅の家庭集会でもお話しさせて頂いたことなのですが、先日、ある方かたから「聖書では人間関係をどのようにしたらいいかについて書かれている聖書の箇所を教えて下さい。」というご質問を受けました。そこで私は、このヨハネによる福音書の19章18節の言葉とマタイによる福音書7章12節の言葉をあげさせて頂きました。そこにはこう書いてあります。「だから、何事でも人々からして欲しいと望むことは、人々にもそのとおりにせよ。これが律法であり、預言者です。」ここにあることは、相手が何をして欲しいのかを思って、そのようにしてあげなさい。ということであり、相手のことを思う心です。ですから、「互いに愛し合いなさい」ということも、「人々からして欲しいと望むことは、人々にもそのとおりにせよ。」ということも、相手のことを思って、相手のためになることをしてあげなさいと言うことだと言えます。相手のことを思う心、その相手を思う心があって、それが私たちの内側から溢れ出て行動になって表われる、それが愛すると言うことの実体なのです。そして、その愛する心によって生きていくことが、神のお心に添って生きると言うことなのです。

ところが、今日の聖書の箇所は「人の内から出てくるもの、それが人をけがすのである。すなわち内部から、人の心から、悪い思いが出てくる」と言います。そして、その心の中から出てくる思いとは、「不品行、盗み、殺人、姦淫、貪欲、邪悪、欺き、好色、妬み、誹り、高慢、愚痴、」だと言います。このように具体的にあげていますが、要は、自分の欲望や、自分自身のことを思う思いです。相手のことを思わず、自分自身の欲望を遂げようとする、自分自身の気持ちを満足させようとする思いが内側から湧き上がってきて、それに身をゆだねるとき、人は自分自身を神のまえに汚れた者としてしまい、罪を犯させてしまうのだというのです。そのもっとも一例として、イエス・キリスト様は、この7章の8節以降にある話をあげておられるのです。そこには、こう書いてあります。「あなたがたは、自分たちの言い伝えを守るために、よくも神のいましめを捨てたものだ。モーセは言ったではないか、『父母を敬え』、『父また母をののしる者は、必ず死に定められる』と。それだのに、あなたがたは、もし人が、父または母にむかって、あなたに差し上げるはずのこのものは、コルバン、すなわち供え物ですといえば、それでよいとして、その人は父母に対して、もう何もしないで済むのだといっている。こうして、あなたがたは、自分たちが受け継いだいいつたえによって、神に言葉を無にしている。また、このようなことをしばしばおこなっている。」

コルバン、すなわち供え物です。ということは、それは神に献げる供え物です。ですから、神にささげものを献げる、それは神信じ敬う者が、神に対しておこなう信仰の行為です。そうやって、神に献げられたものは、神の所有のものとなりますから、それは「聖なるもの」です。ですから、神に献げられたものは、たとえ献げた人であっても、自由にすることは出来ません。それはもはや献げた人のものではなく、神のものだからです。ですから、この8節以降にあるように、「コルバン」と宣言したものは、たとえ両親のためであっても、それを用いることが出来ないのです。ですから、このイエス・キリスト様が例に挙げた人の行為は、形式的には間違っていないのです。けれども、神さまのお心は、相手のことを思いやることです。神は神を信じる者に対して、相手を思いやり愛することを望んでおられます。だからこそ「あなたの父と母を敬え」とそう言うのです。だとすると、この人の行為は、神さまのお心に添ったものではなくなります。結局、この人は、神に対する献げものをするということと、両親のことを思って心を配り、支えるということ、この二つを一緒にして、神に対する献げものとし、自分の懐から出ていくものと、両親のために使うために自分の懐から出ていくものを、「コルバン」と宣言することで、一つだけで済ませようとしたのです。倹約という見方からすれば、賢いやり方なのかも知れませんが、それは、神に対しては不誠実なやり方ですし、両親に対しても思いやりのない行為です。そして、その根底には、自分が損をしたくないと言う、強欲な思いがある、そんな行為だと考えられます。

だからこそ、イエス・キリスト様は、そのような事例を挙げて、私たちの心の中にある、欲望や自己中心的な思いからことが為されると、それはたとえ宗教的な行為であっても、実体のないものであり、かえって、自分自身を罪に汚れさせてしまうのだと教えているのです。ここでイエス・キリスト様が、ひとつの例としてあげた両親のために用意していたものを、「コルバン」と宣言して、両親のためには何もしなくていいといった人の行為は、結果として、神のお心を痛め、その両親を悲しませることになってしまいました。そのように、私たち人間は、自己中心的な思いや欲望に振り回されている限りは、罪を犯してしまい、自らを罪で汚してしまうのです。そして、そのような、自己中心的な思いや欲望からでた行ないは、私たちの周りにいる人を悲しませたり、苦しませたりすることになってしまうのです。ですから、私たちは、自分自身の心をしっかりと見つめなければなりません。自分のしている行為の動機となっている自分の心をしっかりと見つめて、それが自分の欲や自分の利益のために為されていると気付いたならば、そこで神を見上げなければなりません。

そして、そのような自己中心的で、人を悲しませ苦しませるような生き方から離れ、相手のことを赦し、受け入れ、相手のことを思いやって生きていく者とされたのだと言うことを、しっかりと思い出して欲しいのです。もちろん、私たちは、弱い人間です。そう思ってはいても、罪や過ちを犯さないとは言い切れません。失敗もすることもありますし、人のことを思いやってあげられないで自己中心に考えていることも、あるだろうと思います。けれども、イエス・キリスト様は、そんな私たちの為に十字架に架かって死んでくださいました。そうやって、私たちを愛し、私たちの罪を赦し、受け入れてくださったのです。その愛によって、私たちは古い自分に死んで、神の前に生きるものへと生まれ変わらせていただいただくことが出来るのです。ですから、私たちがイエス・キリスト様を信じる信仰によって生まれ変わったのだと言うことを心に留め、新しく生まれ変わった者として生きたいと願うならば、必ず代わっていけます。どんなにゆっくりとした歩みであったとしても、必ず変っていけるのです。

今は、どんなに過ちや失敗が多くても、神の前に正しく生きたいと思い、願い者を、神は心の底から変えてくださるのです。このような変化は、ただ単に形式的に信仰生活を送っていることからは生まれてきません。心から、神の言葉に聞き従って生きていこうという思いと決心から生まれるのです。今朝、私たちは、この聖書の箇所に、イエス・キリスト様とエルサレムからやってきたパリサイ派の人たち、律法が者たちの論争がぁたことを見ました。そしてその論争は、信仰の形式は整っているがその本質を見失った人たちと、信仰の本質を生きるイエス・キリスト様との間に起こった軋轢からうまれたものです。そのことから、私たちは実体のない形式的な信仰ではなく、心のこもった実体のある信仰生活を送ることまなばなければなりません。そして、その実体のある信仰生活とは、神の喜ばれることは何か、人を思いやりながら生きるということなのです。それは、自己中心的で、自分の思いや、自分の欲に縛られて生きている生き方ではなく、逆に、周りの人たちを思い、周りの人たちの為に生きる愛の生き方です。それこそが、神を信じ、新しく生まれ変わったものとして生きるということです。

私たちの信じる、キリスト教の信仰は、私たちを生まれ変わらせ、そのような新しい生き方へと導いていってくれるものなのです。だから、私たちは、私たちの信仰を形式的な信仰にしてはなりません。神を信じ、具体的な、実際の生活の中で神を信じる者として生きていきたいと思います。ですから、私たちは、自分の心をしっかりと見つめ、自分をけがし罪を犯すような自己中心的な思いから離れ、神が喜ばれる、人を思いやる心に生きたいと思います。また、そのことを神に願い求めながら生きていきたいと思います。

お祈りしましょう。