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羊飼い 『キリストを見抜いた目』
マルコによる福音書 7章24−30節
2006/8/27 説教者 濱和弘
賛美  9、239、358

さて、ただ今、司式の兄弟から、マルコによる福音書7章24節から30節までをお読み頂きました。この箇所は、イエス・キリスト様がツロ地方に行かれたときに、スロ・フェニキア生まれの女の娘から、悪霊を追い出したという記事が書かれてあるところです。ツロ地方というのはフェニキアというイスラエルの国にとっては異邦人の国の南部にある地域です。その異邦人の地に、イエス・キリスト様が行かれ、そこで誰にも知られないように、家に入っておられたというのです。どうして、わざわざ異邦人の地に行かれて、誰にも知られないように家の中に入っておられたかについては、諸説があります。伝道のためと言う方もいれば、バプテスマのヨハネの首をはねたヘロデ・アンティパスの追求の手を逃れるためではなかったと言う方もいます。けれども、実際の所は、よくわかりません。しかし、いずれにしよ、イエス・キリスト様は異邦人の地、イスラエルの人たちにしてみれば汚れた地域と思われた場所に身を潜めていたようです。

この異邦人の地、ツロ地方にも、イエス・キリスト様の噂は広まっていたようで、家の中に隠れて身を潜めていたイエス・キリスト様の所に、一人の女が訪ねてきます。この女は、26節にはギリシャ人で、スロ・フェニキア生まれであったとあります。このギリシャ人であり、スロ・ファニキア生まれであったという言い方は、つじつまの合わない言い方です。スロ・フェニキア生まれというのは、この女性が、カナン人、つまりヨルダン地方の人であったことを示しています。いわば、中近東アジア系の人だということです。ですからその人がヨーロッパ系のギリシャ人であったと言うことは、考えにくいことです。その考えにくいことを、あえて記しているのは、おそらく、この女性がギリシャ文化の影響を受けているということを指し示しているのだろうと思います。ギリシャ文化というのは、ご存知のように多神教です。そのことを考えますと、この女も、そのような多神教の文化の影響を受けていただろうということは、十分に考えられます。しかも、場所はフェニキアにあるツロ地方です。フェニキアという言う国は、古くは、預言者エリヤの時代に北イスラエル王国にバアルという神を信じる信仰をもたらしたイゼベルの出身地シドンがある国で、ふるくから偶像礼拝の国でした。

ですから、そのような、偶像礼拝の地で、ギリシャ人でスロ・フェニキア生まれの女性とイエス・キリスト様が関わり合いを持たれたというできごとは、まさにユダヤの人たちにとっては、まさにとんでもない状況であったと言うことです。そのとんでもなさというのは、汚れた地域で汚れた人と関わりを持つというとんでもなさです。しかも、そのとんでもない状況の中で、イエス・キリスト様は、その女性の求めに応じて、その女性の娘をお癒やしになられるのです。そのような物語がここに記されているのです。

私が聖書学院で学んでいましたときに、よく言われたことは、聖書を理解するときに大切なことは、聖書を文脈で読むことだということです。平たく言えば、前後関係に注意しながら読むことだと言うことです。たとえば、私たちの教会では、毎月、その月の最後の週に、翌月の聖書通読カレンダーをお配りしています。その聖書通読カレンダーにそって、聖書通読をなさっている方もいらっしゃるだろうと思いますが、9月は、ホセア書、ヨエル書、アモス書が通読箇所になります。この通読箇所を、文章のまとまりごとに区切って通読しますが、このように一日の通読箇所をひとまとまりの区切りとして読んで参りますと、そのひとまとまりの区切りとして、その箇所だけから学び、また教えられます。もちろん、個人個人のデボーショナルな聖書の読み方、信仰の養いという意味からすれば、そのような聖書の読み方も良いだろうと思います。たとえば、このスロ・フェニキアの女性の娘をイエス・キリスト様がお癒やしになられたという物語それ自体は、異邦の女、異教の女の熱心な求めによって、イエス・キリスト様の救いの恵みは、イスラエルの民だけでなく、私たち異邦人にもおよんだのだと言うことを私たちに教えてくれます。そして、イエス・キリスト様が「まず子供たちに十分に食べさすべきである。子供たちのパンを取って小犬に投げてやるのは、よろしくない。」という言葉に、「主よ、お言葉どおりです。でも、食卓のしたにいる小犬も、子供たちの、パンくずはいただきます。」と答えた女性から、あきらめないで求め続ける信仰の熱心さの大切さをおしえられ、謙虚な姿勢の尊さを学ぶのです。

しかし、そのひとまとまりの文章も、前後関係に注意しながら読みますと、じつは、より深まった意味や、もっと違った聖書の主張といったものに気づかされるのです。そうやって聖書を読むというおもしろさが広がっていくのですが、この箇所もそのような箇所だと言えます。というのも、この聖書の箇所は、6章から続く、「イエス・キリスト様は誰か」という問いの中で語られているからです。6章の1節から6節までは、イエス・キリスト様の古里において、人々がイエス・キリスト様につまずいた出来事が知りされています。それは、イエス・キリスト様を小さい頃から知り、その氏素性を知っているがゆえに、それが先入観になって、イエス・キリスト様が誰であるかということを見失った人たちの姿があります。そして、6節から30節までは、弟子たちが、イエス・キリスト様の教えを伝え歩き、イエス・キリスト様の名が知れ渡ったことが記されています。しかし、そこに於いて、人々がイエス・キリスト様が誰かという理解は「バプテスマのヨハネ」であるとか、「古の預言者エリヤの再来である」とかいった、誤った理解でした。ここにおいても、イエスというお方は、人々から正しく理解されていません更に、30節から6章の最後56節までは、夜に、突風の吹き荒れる湖の湖上で舟をこぎあぐねていた弟子立ちの側を、イエス・キリスト様が歩いて水の上を渡ってこられると言う奇跡に直面しても、なおイエス・キリスト様が誰であるかを悟らない弟子たちの姿があります。つまり、弟子たちですら、イエスというお方を、十分には理解してはいないのです。

このような、人々の不理解に、聖書は、「彼らの不信仰を驚き怪しまれた。」とか「心が鈍くなっていたからである」と嘆いています。そして、パプテスマのヨハネの死のもの語りや、五千人の人を五つのパンと二匹の魚でお腹一杯に食べさせた奇跡を通して、イエス・キリスト様は、私たちを罪から救う、救い主として、十字架について死んでくださったことを、暗に示してきたのです。そして、七章の1節から23節までは、イエス・キリスト様の弟子たちが手を洗わないで食事をしているのを見て、それを「汚れた行ないだ」と非難するパリサイ派の人たちや律法学者たちとの論争が記されています。この論争の背後には、イエス・キリスト様を快く受け止めていないパリサイ派の人たちと、律法学者たちの姿があります。彼らは、イエス・キリスト様が律法をどう解釈し、どのようにおこなっているかに関心があるのです。そして、そのような視線でイエス・キリスト様を見ている彼らもまた、イエス・キリストが誰かわかりませんでした。さらには、またこの論争の発端にあった「汚れ」と言う問題にについて、人々に教えられた14節以降の、イエス・キリスト様の言葉を理解できない弟子たちの姿も描かれています。

ところが、娘の悪霊を負いだして下さいと願い求めてきた、このスロ・フェニキアの女性は、イエス・キリスト様からこう言われています。29節です。「その言葉で、じゅうぶんである。お帰りなさい。悪霊は娘からでてしまった。」この「その言葉で、じゅうぶんである。」という表現は、決して否定的な響きではありません。むしろ、この女性の答えた言葉が、イエス・キリスト様には十分満足のいく答えであったと言うことでしょう、賞賛されているようにすら感じ取られます。そのように、イエス・キリスト様から「その言葉で、十分である」と言われたこのスロ・フェニキアの女性の物語が、イエス・キリスト様の郷里の人たちも、イスラエルの人々も、パリサイ派や律法学者も、はたまた弟子たちでさえ「イエス・キリスト様は誰か」と言うことを、十分に理解できなかったその、一連の出来事の後に、それと比べるかのようして記されているのです。このような文脈の流れを見ると、この女性は、「イエス・キリスト様は誰か」という問いの答えを見つけだした存在として描かれていると言うことになります。実際、彼女がイエス・キリスト様というお方のことをちゃんと理解したからこそ、イエス・キリスト様も、「その言葉で十分である」と言われたのだろうと思うのです。

だとするならば、この女性はどうして、イエス・キリスト様というお方を理解したのでしょうか。また、どうしてイエス・キリスト様というお方がどのような存在であるかを見抜いたのでしょうか。その答えの糸口は、やはり聖書の中に見出すことが出来ます。その最初の糸口は、彼女が、イエス・キリスト様がツロ地方に来られて、家に身を潜ませていると言うことをすぐに聞きつけて、やって来たと言うことです。すぐに聞きつけてやって来たと言う言葉には、この女性の迷いや躊躇を感じさせません。それこそ、イエス・キリスト様が、ツロ地方にやって来ておられると聞くと、すぐにその身元にやって来たのです。このように、躊躇なくやって来たと言うことは、少なくともイエス・キリスト様については、何らかの知識を持っていたからに違いありません。おそらくは、イエス・キリスト様が多くの人の病を治し、悪霊を追い出しておられるという話を聞いて知っていたのだろうと思います。

そして、彼女は、その話をありのまま受け入れ、信じていたと思われます。そして、このお方におすがりしたいと思っていたのだろうと思うのです。だからこそ、「すぐ」にやって来て、その足下にひれ伏してまで、娘の悪霊を追い出して欲しいと願うことが出来たのです。そこには、イエス・キリスト様がユダヤ人であるとか、大工の子であると言った先入観や偏見はいっさい見られません。ただ、イエス・キリストというお方について語り聞かされていることを、単純に信じ信頼して受け入れて、すがるような思いでやって来ているのです。そんな姿を、私たちは、この「そして、汚れた霊につかれた幼い娘をもつ女が、イエスのことをすぐ聞きつけて、その足もとにひれ伏した。」という言葉の中に見ることができます。それは、「この人は、大工ではないか。マリヤのむすこで、ヤコブ、ヨセ、ユダ、シモン、の兄弟ではないか」といった先入観でイエス・キリスト様を見た故郷の人たちとは、全く異なるものです。また、イエス・キリスト様が、自分たちの受け継いだ律法の解釈通りに、行動するかに注目していたパリサイ派や律法学者とも違っています。

ただ単純に、まっすぐイエス・キリスト様というお方を捕らえているのです。考えてみますと、信仰というのは、極めて単純なものでなくてはならないのかも知れません。私自身、神学が好きで、今からもう一度学びに生きたいと行っていると言っているものが言うと変な感じもしますが、信仰とは、理屈でもなく、素直な心で、まっすぐにイエス・キリストというお方を見ることであると思います。もちろん、私たちは直接イエス・キリストというお方を見ることはできません。この目でお姿やなされる業を、直接見ることもなく、この耳で、語られる言葉を聞くこともないのです。ですから、聖書において語り伝えられたイエス・キリスト様を通してしか、イエス・キリスト様を知ることは出来ません。また、礼拝を通して語られる説教の言葉によって、また教会が2000年の歴史の中で語り続けてきた信仰告白の言葉を通してでしか知るしかないのです。そして、この信仰告白の言葉は、イエス・キリスト様は神の一人子なる神が人となり、私たちの罪を贖うために十字架で死んでくださったと言うことを、私たちに伝えています。その信仰告白の一つが、今日の礼拝で、皆さんと共に唱和した使徒信条です。そして、私たちの教会も、キリスト教2000年の歴史に横たわる教会と、それに繋がる聖徒と共に語り継いできたこのイエス・キリスト様を語ります。もちろん、礼拝で語られる説教も、この信仰告白に立ったものです。そして、それは、聖書が語るイエス・キリスト様のお姿を指し示しているのです。この聖書を通して、また教会で語られる説教の言葉を通して、また信仰告白の言葉を通して語られるイエス・キリスト様を素直に信じ受け入れる時、私たちは、このスロ・フェニキュアの女性のように、単純に、しかも素直な心でまっすぐにイエス・キリスト様を捕らえているのです。

そして、さらに、このスロ・フェニキアの女性が、イエス・キリスト様というお方を理解することが出来たもう一つの天は、彼女がギリシャ人であり、スロ・フェニキアの生まれであったと言うことです。このギリシャ人であると言うことは、ギリシャ文化の影響を受けた人であると言うことをさすと考えられると言うことは、先程申し上げたとおりです。ですから、私たちがギリシャ神話の中で聞くギリシャの神々は、彼女にとって身近なものであったことでしょう。また同時に、スロ・フェニキア生まれと言うことは、カナン地方に広く広まっていたバアル信仰にも縁が深い物であったことを、容易に想像させます。ですから、もし、神に頼るとするならば、当然彼女は、ギリシャの神々に寄りすがっただろうと思われますし、フェニキアの神バアルに頼っただろうと思います。けれどの、その彼女が、イエス・キリスト様がツロ地方に来られていると言うことをすぐに聞きつけて、やって来たと言うことは、それらの神々に頼ってもダメだったと言うことです。つまり彼女にとって、イエス・キリスト様というお方は、「もう他にはない。もうこのお方だけだ」という存在なのです。だからこそ、イエス・キリスト様のことをすぐに聞きつけてやって来たのです。 そこには、ギリシャの神々か、バアルか、あるいはイエス・キリスト様か見比べて決めようなどといった姿勢は見られません。ただこのお方だけという一途な思いで、イエス・キリスト様を見上げているのです。

そのような思いで見上げたイエス・キリスト様が、この女性に対してかけられた言葉は「まず子供たちに十分に食べさすべきである。子供たちのパンを取って小犬に投げてやるのは、よろしくない。」というものでした。この言葉は、そのまま聞くと、突き放すような実の冷たい言葉です。実際、私も、この言葉を読むたびに、イエス・キリスト様はどうしてこんなことをおっしゃったのだろうかと考えさせられてしまいますが、それは私だけではないように思うのですが、どうでしょうか?ところが、このスロ・フェニキアの女性は、この言葉を冷たく突き放す言葉としては受け止めていないようです。彼女は「主よ、お言葉どおりです。でも、食卓のしたにいる小犬も、子供たちの、パンくずはいただきます。」とそう答えています。

ご存知のように、イスラエルの人々は選民思想を持っていました。自分たちは神に選ばれた民であると信じ、他の異邦人を犬と呼び、蔑んでいました。当然、この女性もそのことを知っていただろうと思います。ですから、イエス・キリスト様が「まず子供たちに十分に食べさすべきである。子供たちのパンを取って小犬に投げてやるのは、よろしくない。」とそう言われたとき、それは当然そうだろうと「主よ、お言葉通りです。」と言えたのだろうと思います。それはイスラエルの民であるイエス・キリスト様が、まず同胞たちのことに関わるのは当然のことです。そして、確かに神の救いの歴史はイスラエル民族の歴史から始まっているのです。けれども、彼女の目に映っていたイエス・キリスト様は選民思想に浸り、民族主義的思想に凝り固まった姿ではありませんでした。イエス・キリスト様が「まず子供たちに十分に食べさすべきである。」と言われたとき、「まず」と言われるように、最初にイスラエルの人たちに救いをもたらすとしても、その「まず」である子どもたちに十分食べさせたならば、「まず」に続く、「次には。」があるという期待を持っているのです。

しかも、イエス・キリスト様は「子供たちのパンを小犬に投げてやるのは、よろしくない」と言っています。この小犬(κυναρια)という表現は、イスラエルの人たちが異邦人のことを犬と読んで蔑んだ表現とは異なります。それは、むしろ家で飼っている飼い犬ということであって、決して異邦人を蔑む表現として使われたのではなく、イスラエル人と区別するために用いたに過ぎない表現なのです。本来なら、イスラエルの民であるイエス・キリスト様からは、蔑まれて見られても仕方がない存在であることは彼女も知っていたはずです。しかし、イエス・キリスト様が「小犬」と言われたとき、イエス・キリスト様が、自分を異邦人であるという理由で決して、見捨ててはいないということをその言葉から聞き取ったのだろうと思います。そして、「子供たちのパンを小犬に投げてやるのは、よろしくない」と言うイエス・キリスト様の言葉の中に、異邦人だけに止まらない恵み深さを感じ取ったのだろうと思います。だからこそ、「イスラエルの民に与える恵みが、イスラエルの民だけに止まらず異邦人にまであふれ出してくるその恵みをいただきます。」とそう言わせたのだろうと思うのです。

この女性は、異邦人です。イスラエルの民のように、神に選ばれた民でもなければ、イエス・キリスト様に助けを求めより頼んでいっても、聞いてもらえる保証もなければ、聞いてもらえるだけの根拠も価値も持っていません。だからこそ、「小犬に投げてやるのは、よろしくない」と言うこと言葉の、「小犬」という言葉が持つニュアンスの中に、民族を超えて全ての人に注がれるイエス・キリスト様の優しさと憐れみ深さを見抜いて、すがりついたのです。イスラエル民族から見ればなんの価値もない異邦人の女性であっても、けっして見捨てないイエス・キリスト様の愛を見抜いたのです。それは、彼女が言葉としてそれを知っていたかどうかは別として、あるいは意識していたかどうかはべつとして、救い主、キリストとしてのお姿だったのだと思います。そして、イエス・キリスト様は、その女性が見抜いたとおりのお方だったのです。それは、何かしらの先入観をもってイエス・キリスト様を見ているものや、自らの内に、誇るべき何かをもっているものを持っている者には、けっして気づかないイエス・キリスト様のお姿だといえます。

この女性は、自分の神々にも見捨てられ、本当に依り頼むべきものが何もないところから、イエス・キリスト様を見上げることで、イエス・キリスト様が誰であるかと言うことに対する答えを見出したのです。そんな、スロ・フェニキアの女性に対して、イエス・キリスト様は「その言葉で、じゅうぶんである。お帰りなさい。悪霊は娘から出てしまった。」とそう言いわれています。イエス・キリスト様の優しさと憐れみ深さ、愛を見抜いたこの女性は、イエス・キリスト様の言葉を疑う余地などなかったでしょう、その言葉を聞いて、家に帰って行きます、そして、その言葉通りに娘は癒やされていたのです。

私たちは、既にイエス・キリスト様がどのようなお方であるか知っています。このお方が、救い主・キリストであり、如何に憐れみ深く、愛のお方であるかということを知っています。しかし、同じように、イエス・キリスト様の愛と憐れみを知っていたとしても、ひょっとしたらこの女性のように、自分の心の奥深くまでしみ通って、寄りすがっていないこともあるのではないかと思うのですが、どうでしょうか。それは、私たちが、この女性のように、もう何も他にすがる者がないというぎりぎりの空っぽの状態ではなく、何か自分の中に依り頼むべきものを持っているからかも知れません。せっかく、イエス・キリスト様がどのようなお方であるかを、聖書の言葉を通して、教会の説教を通して、また教会に語り継がれてきた信仰告白によって知らされているのです。ですから、ただ知っていると言うだけでなく、このお方を、心に信じ受け入れ、一途に寄りすがって生きていきたいと思います。イエス・キリスト様は、一途に寄りすがってくるものに、惜しみなく愛とあわれみを注いでくださるお方なのですから。

お祈りしましょう。