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羊飼い 『イエス・キリスト様の癒し』
マルコによる福音書 7章31−37節
2006/9/3 説教者 濱和弘
賛美  272、185、354

私たちの教会は、日本ホーリネス教団と言う教団に所属しています。その日本ホーリネス教団には、機関誌に「りばいばる」というものがあります。この教会でも、何人かの方が、講読しておらますが、その「りばいばる」の今月号の中に、『「神癒」と「実践』』と言う記事が出ておりました。「神癒」というのは、神の癒しと書いて「神癒」とよむのですが、読んで時のごとく、神様によって、病気を癒やして頂くことと考えられています。つまり、お祈りすることで、病気が癒して頂けるということを信じる信仰です。このような、「神癒」ということが、教団の機関誌で取上げられているのは、私たちの教団の信仰の特徴が、「四重の福音」と呼ばれるところにあるからです。「四重の福音」とは、神を信じ、自分の罪を認め告白して、イエス・キリスト様を自分の罪の救い主と信じたものは、罪が赦され、さらに、罪の根源である自己中心的な思いを神のお心を中心に考える神中心的な思いになるように、恵みの内に成長させて下さり、やがてイエス・キリスト様が再び来られ、この世を裁かれるときに、天国にいれていただけるということであり、更には、この世にあっては、神が祈りの内に病をも癒やして下さるお方であると言うことです。だから、教団の機関誌でも、この「神癒」を取上げているのです。このように、私たちの教団が、その特徴の一つに「神癒」を取上げているのは、聖書に、イエス・キリスト様が多くの人を癒やされた記事がでているからです。そして、今日の聖書の箇所も、その中の一つなのです。

神は、祈りによって病を癒やされる。もう25年ほど前になりますが、私が就職したときの話です。入社直後の新入社員研修で性格診断をうけました。その診断は何十問かある設問に、ハイかイイエかわからない、のいずれかに記しをつけていくというものでしたが、その中に、「神はいる。」とか、「祈りで病気が治る」といった設問がありました。「神はいる」と言うことに「ハイかイイエか」と問われますと、クリスチャンである私は、「イイエ」と答えるわけには生きません。ですから、「ハイ」と言うところに印を付けました。また「祈りで病気は治る」と聞かれましても、いやしくも「神癒」の信仰を標榜するこの三鷹キリスト教会の信徒であるものが「イイエ」と答えるわけには生きません。やはり「ハイ」に印を付けました。やがて、その性格診断の結果が返ってきました。その結果は表であらわされていたのですが、同期入社の人たちとその結果を見比べてみますと、私だけが他の人たちと違ったかたちの表になっていました。そこで私は、どうして私のだけ違うのでしょうかと尋ねますと、「あなたの表は、特に自分の内面を追求するタイプの人の表です。診断の結果、あなたは物事を深く追求しすぎるタイプのようです。あまりものごとを考えすぎないように。」と言われてしまいました。どうやら、「神はいる」と言うことに「ハイ」と答え、「祈りで病気は治る」と聞かれて「ハイ」と答えたことが、内面追求型と言った評価に繋がり、他の人とは大きな違いになったようです。

けれどの、正直なところ、「それも仕方がないかな」とも思うのです。特に「祈りで病気が治る」などといいますと、それこそ加持祈祷のような、江戸時代やもっと時代を遡った平安時代の人間のような時代錯誤の感もしないわけではありません。少なくとも、医学が発達した現代に済む私たちは、祈りではなく、薬や手術で病気は治すものだと考えるのが普通です。ですから、祈りで病気が治るというと、非常に非科学的出、宗教がかった精神世界の話のように聞こえてくるのだろうと思います。場合によっては、「まゆつばもの」のようなイメージさえ与えかねません。そのため、神が祈りにこたえて病気を治して下さるという「神癒」の信仰が、狂信的なマイナスのイメージに繋がって、伝道の妨げになったりすることもあります。更には、「神癒」ということが余りにも強調されるために、健康上の大きな問題を生み出す場合もあります。

こういった話があります。それはある牧師の話なのですが、その牧師のお子さんはお医者さんなのですが、そのお医者さんが、「キリスト教の牧師には困る」とそう言うのだそうです。というもの、牧師の中には、祈りで病気は治るのだと行って、信徒の方が病気になっても医者にもかからせず、薬も飲ませない。そうやって、病気がどんどん重くなって、自分ではどうしようもなくなってから、患者が病院にやってくるので困るのだというのです。実際、私の知っておられる方に、こういう人がいました。その方は、持病を持っておられ、ずっと薬を飲んでおられました。ところがある牧師から、「神さまに信頼してお祈りすれば、病気は治るから、薬に頼るのは止めて、神さまを頼りましょう」と言われて、薬をみんな捨ててしまいました。そして、癒しを祈ったのですが、病状はガクンと悪くなってしまったのです。結局、その方は再び薬を飲むようになったのですが、症状は以前よりずっと重い状況になってしまったのです。そんなわけで、その方は、「神さまに信頼してお祈りすれば、病気は治るから、薬に頼るのは止めて、神さまを頼りましょう」とそう勧めた牧師を長いこと恨んでいました。キリスト教の世界では、時折、「祈りによって、病気が癒やされました。」と言う証を聞きます。そして、その証は、輝かし信仰の勝利であり、キリスト教の素晴らしさを証明する出来事のように語られます。もちろん、それは決して嘘ではない真実だろうと思います。けれども、そのような癒しの証の背後には、先程申し上げた方のような、神癒しを強調するがゆえに起こるマイナスの証しも、少なからずあるのだということを知っておかなければなりません。

かつて「祈りで病気は治る」と聞かれて、私は「ハイ」と答えました。そして、神癒ということが余りにも強調されるときに起こる問題点を十分に知った今でも、私は「祈りで病気は治る」と聞かれて、るならば、やはり同じように「ハイ」と答えます。というのも「祈りによって病気が治る」ということは、単に、医者にかかることもなく、薬も飲むことなくして、神の直接的な力、介入によって治ると言うことだけではなく、お医者さんの手や薬を用いながら癒やして下さることも含むからです。そして、実際的には後者の法が圧倒的に多いのです。つまり、「祈りによって、神が病気を癒やして下さる」ということは、奇跡によって癒やして下さるという方法を限定することではありません。神様は、お医者さんや薬を用いても癒やして下さいます。また、お医者さんや薬を用いつつも、奇跡的といわれるような、回復を与えて下さることもあるのです。結局、「祈りによって、神が病気を癒やして下さる」という「神癒」の信仰は、奇跡という方法を信じることではなく、「神に信頼して、自分自身を神におゆだねする」という、信仰の態度、神を信じる心のありようが問題なのです。そして、更に申し上げるならば、「神癒」を信じ、どんなに祈って、癒やされないことだってあるのです。

私の友人に、二十歳そこそこで、交通事故のために半身不随になった男がいます。彼が事故にあったとき、私は牧師に聖書学院で学んでいましたが、彼の事故のことを聞いたとき、彼のために本当に一生懸命祈りました。私だけではない、彼の友人みんなが彼のために祈り、彼の教会の牧師は、一週間断食して、彼が癒やされるように祈ったのです。けれども、彼の足は、二度と動くことはありませんでした。事故から、2ヶ月近くたって、私と家内は大阪の病院、正確には尼崎の病院に入院している彼を訪ねました。私がお見舞いに行ったことを彼は喜んでくれ、暫く楽しく談笑をして、私は彼の病室を後にしました。彼のお母さんが、エレベーターホールまで送って下さったのですが、その時に、ほんの一週間程前に、彼は、眠れないと行って処方してもらっていた睡眠薬をため込んでいることがわかったのだそうです。どうやら自殺するつもりだったようです。その話を聞いて、私は愕然としました。もう決してと歩けない、車いすの生活をしなければならない現実の中で、それでも明るく談笑する姿に、慰めを感じていた私は、彼の心がそれほどまでに深い傷の中にあり、自暴自棄になるほど苦しんでいる事実を、改めて突きつけられたような感じがしたからです。

それから、数年たって、私たち夫婦は、再び彼を訪ねました。彼は市役所に就職して、障害を持った方のお世話をする仕事をしていました。もちろん、彼自身も車いすの生活のままです。けれども、再会した彼は、同世代の人たちと比べて、ずっと大人で、言葉の一つ一つに、しっかりとした人格的な成熟さ感じさせてくれていたのです。そして、そこには、成長した一人のクリスチャンの姿がありました。そして、生涯を負った方のお世話をする。決して自分自身では口に出して言いませんでしたが、しかし同じ障害を持った者として、心からのお世話をするという使命を負っていると私はそう感じたのです。私は、その時、そんな彼を見ていて、「ああ、神様がお癒やしになる」と言うことはこういうことなのだな」とそう感じていました。確かに彼の怪我はなおらず車いすに乗ったままです。しかし、彼はひとりの人間として、本当に成長していたのです。事故による怪我は治りませんでしたが、一人の人格を持った人間という全存在、まさにトータルな面に置いて彼は癒やされたのだと、そう感じずにはいられないのです。「祈りによって、神様が病気お癒しになる」ということは、「祈りによって病気が治る」ということだけではありません。彼は身体的な一面では、治りませんでしたが、人間の存在全体として癒やされたのです。「神癒」ということはそう言うことなのです。

それでは、今日の聖書の箇所に於いて、イエス・キリスト様が、口もきけず、耳も聞こえなかったひとを治し、聞こえるようにも、しゃべれるようにもして下さったということは、一体どういうことなのでしょうか。先週も申しましたように、聖書の出来事は、前後関係という文脈を通して理解することが大切です。そして、この聖書の箇所における癒しの出来事は、その前のスロ・フェニキアの女の物語に引き続いて語られていると言うことに着目する必要があります。それは、ただイエス・キリスト様を、唯一の存在として寄りすがり、自分自身の中に何も誇ることの出来るものがない、人から価値を見出してもらえないような存在のものをも、決して見捨てず顧みて下さる救い主イエス・キリスト様のお姿が表われています。そこには、イエス・キリスト様の深い愛とあわれみが溢れています。スロ・ファニキアの女は、イエス・キリスト様との短いやりとりの中で、その愛とあわれみを見抜いて、それにすがっているのです。そのような彼女の姿勢を彼女の言葉の中に見て、イエス・キリスト様は「その言葉で、じゅうぶんである。」とそう言われているのです。そのような、人々を愛し憐れまれるイエス・キリスト様であると言うことが明らかにされていく中で、このスロ・フェニキアの女の娘が癒やされ、そして、この口がきけず耳が聞こえない人の癒しが行われていくのです。ですから、この癒しは、同じ癒しであっても、マルコによる福音書の6章53節から56節の癒しとは区別して皆かればならないように思います。

というのも、マルコによる福音書の6章53節から56節にある癒しは、それに先立つ弟子たちがイエス・キリスト様を正しく理解しきれなかった記事や人々がイエス・キリスト様を誤解していた記事と結びついているからです。イエス・キリスト様が誰か、どのようなお方かと言うことが正しく受け止められてない53節から56節の状況の中で、人々がイエス・キリスト様に求めたものは病の癒やしに過ぎませんでした。そこには、ただ盲目的に癒しを求めてくる人々の姿があります。けれども、このスロ・フェニキアの女の娘の癒しとそれに結び付けられている口がきけず耳も聞こえない人の癒しは、イエス・キリスト様が、人々に愛と憐れみを注ぐお方であると言うことの上に立って。その愛と憐れみにすがると言うことの中で起こるのです。そこには、人々を愛し憐れまれる救い主としてのイエス・キリスト様のお姿があります。そもその、新約聖書に記されているイエス・キリスト様の救いは、神の国のおとずれを指し示すものであると考えられています。イエス・キリスト様は病める人を癒やし、悪霊に憑かれた人から悪霊を追い出すといった御業を行われたのは、イエス・キリスト様によって神の国が訪れたと言うことを、目に見える形で明らかにされるためだったのです。神の国とは、日本国やアメリカ、イギリスといった国境線でくぎられた地理的領域ではありません。神の恵みと愛とが支配しているところが神の国なのです。

皆さんのご存知の新谷牧師夫妻は宣教師としてブラジルで伝道・牧会をしておられますが、彼らが担当しているのは日系ブラジル人の人たち、その中でも主に1世の人たちです。彼らは、地理的にはブラジルという国に住み、国籍もブラジルです。けれども、その心には祖国日本への思いがあり、古里への山々や海といった風景が心を占めているのです。そのようなとき、彼らの心を支配しているのは日本という国です。そういった意味では、彼らはブラジルという国に住みながら、その心は日本という国に住んでいるのです。そのように、私たちの体が、この世にあったとしても、私たちの心の中に神の恵みと愛が支配しているならば、私たちは神の国に済んでいると言えます。

このスロ・フェニキアの女の物語に結び付けられた、この癒しの物語は、イエス・キリスト様が私たちを愛しあわれんでくださることを知って寄りすがるものに、与えられる神の国の恵みの現われとしてここに記されているのです。と申しますのも、聖書は31節で「イエスは、ツロの地方を去り、シドンを経てデカポリス地方を通り抜け、ガリラヤの海べにこられた。」とあるからです。24節には、イエス・キリスト様が、伝道の拠点としていたカペナウムからは、遠く離れた異邦人の地であるツロに行かれ、そこでそっと身を隠して潜んでいたことが記されています。けれども、隠しきれずに、イエス・キリスト様がおいでになったことを聞いて、すぐにスロ・フェニキアの女が、娘を癒やして欲しいと訪ねてきているのです。ですから、病を癒やされるお方としてのイエス・キリスト様の噂は、かなり広がっていたようです。先程の、6章53節以下の記事でも、人々は病人の人たちイエス・キリスト様の所に連れてきています。そして、連れてこられた人をイエス・キリスト様はことごとく癒やしておられるのです。ですから、イエス・キリスト様がツロの地方を去り、シドンを経てデカポリス地方を通り抜け、ガリラヤの海べにこられるその間には、多くの人がイエス・キリスト様のところに連れてこられ、そして癒やされただろうと思うのです。

ところが、このマルコの福音書の著者は、そのような数ある癒しの出来事の中から、この聾唖の人のことだけを取上げて、書き記しているのです。どうして、この癒しの出来事に着目して、この物語だけを取上げたのでしょうか。皆さんは、どう思われますでしょうか?それは、おそらく、先程交読致しましたイザヤ書35章に書かれていることが深く関わっていると考えられます。そのイザヤ書35章(口語訳聖書p989、新改訳聖書ですとp1082、新共同訳聖書ならp1116)を、もう一度お読み致しますが、そこにはこう記されています。「荒野と、かわいた地とは楽しみ、さばくは喜びて花咲き、さふらんのように、さかんに花咲き、カツ喜び楽しみ、かつ歌う。これにレバノンの栄えが与えられ、カルメルおよびシャロンの麗しさが与えられる。彼らは主の栄光を見、われわれの神の麗しさを見る。あなたは弱った手を強くし、よろめくひざを健やかにせよ。心おののく者に言え、「強くあれ、恐れてはならない。見よ、あなたがたの神は報復を持って臨み、神の報いをもって来られる。神は来て、あなたがたを救われる」と。その時、見えない人の目は開かれ、聞こえない人の耳は聞こえるようになる。その時、足の不自由な人は、しかのように飛び走り、口のきけない人の舌は喜び歌う。さばくに川が流れるからである。焼けた砂は池となり、かわいた地は水の源となり、山犬の伏したすみかは、葦、よしのしげり合う所となる。」云々。

このイザヤ書35章は、バビロンの国に奴隷として捕らえられていた人々が神に救われると言う、救いの出来事が述べられている箇所です。そして、その救いの出来事が起こるときには、「見えない人の目は開かれ、聞こえない人の耳は聞こえるようになる。その時、足の不自由な人は、しかのように飛び走り、口のきけない人の舌は喜び歌う。」というのです。ですから、マルコによる福音書の著者は、このイザヤ書35章の記述を意識しながら、この31節以降にある癒しの物語を示語りまがら、イエス・キリスト様によって救いがもたらされるのだということを示していると考えられるのです。しかも、その救いは、その直前にあるスロ・ファニキアの女の物語によって明らかにされた、なんの功徳も求められず、ただイエス・キリスト様の愛とあわれみを求める者に惜しみなく与えられるものなのです。ですから、この31節から37節にある口もきけず耳も聞こえない人の癒しは、単に病気が治るという意味での癒しと捕らえるべきではないと言えます。むしろ、もっと、大きな、一人の人が神の子と神の御国に受け入れられ、神の子と競られていく、全人格的な癒しの業が示されているのであり、それは、イエス・キリスト様のもたらした福音なのです。

この救いの出来事は、話せなかった口が話せるようになり、聞けなかった耳が聞こえるようになるという癒しの中で表されています。それは、イエス・キリスト様の語る言葉に耳を傾けず、イエス・キリスト様を決して、救い主として告白することのなかったパリサイ派の人たちや律法学者たちの姿と対照的な姿です。新約聖書には、イエス・キリスト様が、人々に向って「聞く耳のある者は聞きなさい」と、何回も問いかけられたことを記しています。たとえば、マルコによる福音書には、同じ7章の16節にも記されていますし、4章9節にも記されています。この「聞く耳のあるものは聞きなさい」と言う言葉は、「注意して聞きなさい」という感じの言葉です。そして、イエス・キリスト様は、この言葉を、何か教えを語られた時に使われました。7章14節から16節にある「それから、イエスは再び群衆を呼び寄せて言われた『あなたがたはみんな、わたしの言うことを聞いて悟るがよい。すべて外から人の中に入って人をけがしうるものはない。かえって、人の中から出てくるものが人をけがすのである。聞く耳のある者は聞くがよい』と言った感じです。このように、イエス・キリスト様は、イエス・キリスト様の語られることは、注意して聞いていないと、その真意がわからないと言われるのです。要は、イエス・キリスト様の言われることを真剣な気持ちで聞いていなければ、理解することは出来ないと言うことです。そして、イエス・キリスト様の語られることが、心に受け入れられたならば、あなたは、その言葉にどう応答するかと問われているのです。

イエス・キリスト様の語られる言葉は、時として自分たちの心をするどく刺し通します。そして自分が必死になって守っているものを切り崩して来ることがあります。例えば、パリサイ派と呼ばれる人たちは、自分たちが心の拠り所としていた伝統や先祖たちの言い伝えといったものを切り崩してきました。そのときに、彼らは、心をかたくなにして、イエス・キリスト様の語られる言葉に「聞く耳」を持てなかったのです。そんなかたくなな心と対比するかのように、イエス・キリスト様は、この口もきけず耳も聞こえなかった人に、「エパタ(開け)」といって、話すことも聞くこともできるようになさったのです。そのように、神がこの福音書の著者を導いて、この箇所にこの物語をここに書きしるさせたのです。それは、私たちに対して、心を開いて、私たちを愛し憐れんで下さるイエス・キリスト様の愛を信じ、「このお方を私たちの罪の救い主として受け入れなさい」という、神様からの私たちに対するチャレンジ(語りかけ)のように思うのです。

イエス・キリスト様が私たちの罪の救い主であると言うことの前提には、「私は罪人です」ということを自分自身が認めなければなりません。けれども、私たちは、「自分が罪人だ」ということを余り認めたくありません。自分はそれほど悪いことはしていませんし、むしろ、自分には、こんな良いところもありますし、こんなに素晴らしい所もありますと、かたくなに自分を守りたくなります。特に「一人一人は素晴らしい」と言ったことが強調される現代の風潮では、なおさらそのような重いになるかも知れません。けれども、その心を開いて、「私は神様の前に罪人です。」と認め、その罪人を愛し憐れんで、罪を赦して下さる、神の愛、イエス・キリスト様の愛と憐れみを受け入れるならば、その時に私たちは、私たちの存在そのものが、神によって癒やされるのです。そのことを、神は、またイエス・キリスト様は、私たちに望んでおられるのです。だからこそ、単に病を治すお方であると言った噂が広がることを好まれず、この口がきけるようになり、耳が聞けるようになった人に、「誰にも言うな」と口止めされたのです。イエス・キリストがもたらす癒しとは、単に病気が治ると言うことではなく、神の愛とあわれみがその人におよび、その人の罪が赦されて、神の子とされると言うことだからです。そして、神の子として、その人の存在そのものが神の子として受け入れられていく、そこに「神癒」ということの神髄があるのです。

そんなわけで、「祈ることによって病気が治る」ということも、神の深いご計画の中であるだろうと思いますし、同じように治らないこともあるでしょう。けれども、私たちが、神を信じ、イエス・キリスト様を信じて生きるならば、神は、私たちの存在そのものを癒やしてくださり、生きる意味や使命といった者を与えて下さって、この世の中で生かしていってくださるのです。ここに、私たち日本ホーリネス教団の言う「神癒」の神髄があります。ですから、私たちは、イエス・キリスト様の前で、素直な気持ちになってこのお方と向き合い、私たちの罪を悔い改めて、イエス・キリスト様の愛とあわれみを信じたいと思います。そして、このお方を私の神として信じ、私の罪の救い主として信じ受け入れて歩んでいきたいと思うのです。そこには、神が私たちの全存在を受け入れ行かして下さる癒しの生涯があるからです。

お祈りしましょう。