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羊飼い 『キリストを告白する』
マルコによる福音書 8章27−33節
2006/9/17 説教者 濱和弘
賛美  275、175、397

さて、先週の礼拝説教におきまして、マルコによる福音書の6章から、先程、司式の兄弟にお読みいただきました、8章33節までは「イエス様というお方は誰であるか」と言うことを主題に、話が展開していると言うことをお話し致しました。その中にあって、先程お読み頂きました8章22節から33節は、そのテーマに関するまとめである、と言えます。そして、29節の後半にある、「あなたこそ、キリストです。」という言葉が、その結論です。この、「あなたこそ、キリストです。」という言葉は、まさに、イエスというお方は誰かと言うことを、言い表しています。

イエス・キリストという名前は、教会に行っている人であっても、行っていない人であっても、一度くらいは耳のしたことがある名前です。例えば、私は、イエス・キリストという名前を始めて知ったのは、確か、小学校2年生の時であったと記憶しています。学校で借りた偉人伝の本の中に、イエス・キリストというものがあり、それを読んだのが、最初であったと思います。それ以来私は、イエス・キリストという名前は、イエスとキリストという名字と名前であると思っていました。ひょっとしたら、皆さんの中にも、そのように思われていた方もおられるのではないかと思います。しかし、御存知のように、キリストというのは、名字でも名前でもありません。それは、救い主という意味であって、イエス・キリストという呼び方は、つまりは救い主イエスと言う意味なのです。ですから、イエス・キリストと言うときに、それは、イエス様というお方は、救い主としてのお働きをなされるお方であると言うことです。そういった意味で、まさに「あなたはキリストです。」という言葉は、イエスというお方は誰かと言うことを、ずばりと言い表しているのです。

この、マルコによる福音書の6章から、今日の聖書の箇所に至るまで、人々は、自分たちの持つ知識や経験で、このイエス様というお方の語る教えやなされる御業を理解しようとしてきました。けれども、そのような理解の仕方では、イエス様というお方を、キリストとして理解することができなかったのです。そのような、人々の姿を、心が鈍くなっていると言っています。それは、こころが頑なな心になっていて、新しいことや正しいことを受け入れることの出来ない状態です。しかし、イエス・キリスト様は、そんな頑なな心の人々を決してあきらめることも見捨てることもしませんでした。だからこそ、くり返し、くり返し、ご自分が誰であるかを人々に理解させようなされたのです。その結果が、このペテロが「あなたこそ、キリストです。」という言葉に繋がっていたのです。このペテロの言葉は、ペテロ個人のものと言うよりも、弟子たちを代表してペテロが応えたものであると考えても良いだろうと思います。それは、29節に、弟子たちに向って「それでは、あなたがたは、わたしをだれというか」とたずねられたイエス・キリスト様の問いがあるからです。そのように弟子たちにたずねかけられた答えに対して、弟子たちを代表して、ペテロが答えたというわけです。

ですから、おそらくこの時には、弟子たちの間では、イエス様というお方に対して、「この方はキリスト(つまり救い主)に違いない」というそんな思いが広がっていたのだろうと思います。この、弟子たちのイエス様に対する「あなたこそ、キリストです」という言葉は、イエス・キリスト様がピリポ・カイザリアの村に弟子たちに、「人々は、わたしをだれと言っているか」とたずねられたことから始まっています。この27節にある、「人々は、わたしをだれと言っているか」と言う問いに対して、弟子たちがなんと答えたかというと、その答えは、こうです。「バプテスマのヨハネだと、言っています。またエリヤだと言い、預言者のひとりだといっています。」この答えは、マルコによる福音書6章14節、15節にある人々のイエス・キリスト様に対する理解と全く同じです。そこには、こう書いてあります。『さてイエスの名が知れわたって、ヘロデ王の耳にはいった。ある人々は「バプテスマのヨハネが、死人の中からよみがえってきたのだ。それで、あのような力が彼のうちに働いているのだ」と言い、田の人々は、「彼はエリヤだ」と言い、また他の人々は「昔の預言者のような預言者だ」と言った。』これは、まさに先程の弟子たちの言葉、(今日の聖書の箇所でいうなれば8章28節の言葉)と重なり合うものです。つまり、この時に至ってもまだ、人々はイエス・キリスト様のことを正しくは理解できていなかったと言うことだろうと思います。

ところが、弟子たちの心の中には、「このお方は救い主だ」「キリストだ」という思いが広がっていっていたのです。もちろん、初めは弟子たちも、イエス・キリスト様のことを正しく理解できませんでした。ですから、弟子たちも、初めはイエス・キリスト様から、心の頑ななもの、心に鈍いものと呼ばれたのです。しかし、その頑なか心の弟子たちの心が解きほぐされて、イエス様がキリストであると思うように返られていったのです。そういった意味では、イエス・キリスト様の弟子たちは、もはや、以前の弟子たちではありませんでした。新しく生まれ変わったような弟子たちの姿が、そこにあるのです。そのように、弟子たちが変ったのは、イエス・キリスト様と共に生活し、イエス・キリスト様に身近に接していたからであろうと思います。イエス・キリスト様と寝食を共に死、行動を共にしてふれあう中で、7章24節以降にあるスロ・フェニキアの女に見せた憐れみの心に触れ、また五千人の人を五つのパンでお腹を満たすと言う奇跡から何も学ぶことの出来なかった弟子たちに、同じような四千人を七つのパンで満たすと言う奇跡を通して、何度でも導こうとする、忍耐深い愛や、群衆のことを心配する思いやり触れる中で、それこそ、だんだんと目が見えてくるようになるようにして、イエス様というお方が、キリストであると言うことがわかってきたのです。それは、イエス・キリスト様との人格的な交わりを通して、イエス・キリスト様の心に触れたからであると言うことができるだろうと思います。イエス・キリスト様の憐れみの心、愛の心が、弟子たちの頑なな心を変えていったのです。

私は、この6章から一連の流れを読みつつ、一つの疑問がありました。それは、「どうして、イエス・キリスト様は、もっと直接的にご自分がキリストであると人々にお知らせにならなかったのだろうか」と言うことです。自分から、「私は、キリストである」と宣言なされる方が、ことはずっと早いようにおもわれます。ところが、イエス・キリスト様は、実に遠回りをして、弟子たちにも、人々にも、自発的に気づかせるようになさっておられるのです。それが、なんともまどろっこしく感じられる。しかし、よく考えてみますと、どんなにイエス・キリスト様が「自分はキリストだ」とお教えになっても、人々の心が、心からそれを受け止めなければ意味がないことのように思います。人々が、知識として、イエス様というお方は「キリストなんだ」と知ってもダメなのです。だからこそ、イエス・キリスト様は、心が、「ああこの方はキリストなのだ」とそう受け止めるまで、じっと忍耐して待っておられたのだろうと思います。そして、じっと忍耐して、キリストの本質である愛と憐れみ、そして慈しみを示し続けておられたのです。そして、その愛と憐れみ、そして慈しみといったイエス・キリスト様の心に触れたときに、弟子たちの頑なな心が、はじめて解けて「この方は、人々が言うような、バプテスマのヨハネの再来だとか、エリヤだとか、預言者のひとりであるといったような存在ではない、この方こそ、我々を救って下さる救い主だ。キリストである」気づいたのです。

結局、イエス・キリスト様を知ると言うことは、単に知識の問題ではないと言うことです。そして大切なのは、イエス・キリスト様の心を知るということなのです。心を知るということのためには、身近にいると言うことが重要になってきます。あの「あなたこそキリストです。」とそういったペテロを初めとする弟子たちも、イエス・キリスト様の身近に身を置き、共に生活したからこそ、イエス・キリスト様の愛と慈しみの心が伝わったのです。愛とか、慈しみといった目に見えない心の情動は、よほど、感性の鋭い人でない限り、共に生活するという日常性の中にあって、ひとつひとつが積み重なって伝わってくるものなのです。そして、このイエス・キリスト様の愛と憐れみに満ちたお心に触れたならば、私たちは必ず変ることが出来るのです。

今、私たちの教会では、12月のクリスマスの時に洗礼式が持てるようにと洗礼準備会が行われています。今はお一人の方が、ご出席下さっていますが、他にも洗礼を受けたいという方がいらっしゃったら是非お申し出いただきたいと思います。洗礼とは、あの洗礼漕に身を沈めることによって、古き自分に死んで、新しく生まれ変わるのだということを表す、行ないによる神様の言葉です。神様は、洗礼を通して、その人が新しく生まれ変わったのだということを、宣言なさって下さっているのです。そのように、人が、神を信じ、イエス・キリスト様を自分の救い主であると告白するとき、私たちは生まれ変わることが出来ます。この、私たちを新しく生まれ変わらせて下さる、イエス・キリスト様の愛が私たちと共にあるからです。だからこそ、私たちは、イエス・キリスト様の愛と慈しみが、今も私たちと共にあるのだと言うことを心に留めなければなりません。それは、つまりはイエス・キリスト様が私たちと、いつも共にいて下さると言うことなのです

もちろん、私たちは、ペテロたちと同じような形で、イエス・キリスト様と寝食を共にしているということではありません。私たちにとってイエス・キリスト様が、いつも私たちと主にいて下さるということは、物質的な意味で一緒にいると言うことではないのです。それは、むしろ、私たちの心の中に、イエス・キリスト様が住んでいて下さっているということです。、そして、私たちの心の中に住んで下さっているからこそ、どんなときにも、私たちと共にいて下さるということでもあるのです。ですから、イエス・キリスト様を「自分の罪の救い主」として信じクリスチャンとなったかた、みなさんお一人お一人の心の中に、イエス・キリスト様が住んで下さっているのです。だからこそ、私たちもまた、この私たちの心の中に、イエス・キリスト様が共に住んでいて下さっているのだと言うことを、心に意識しなければなりません。そして、イエス・キリスト様が心の中に住んで下さっているからこそ、私たちは祈り、聖書を読み、また礼拝に集うのです。

というのも、イエス・キリスト様が住んで下さる場所は、私たちの心です。そこは、私たちの心ですから、私たちの願いや思い、感情や欲望といった心の思いが一杯に詰まっています。ですから、そのような私たちの心の思いが、私たちの心の中に住む、イエス・キリスト様の言葉を閉ざしてしまうことがあります。もともと私たちの心は頑なな、鈍い心だからです。時には、自分の思いや願いを神の言葉かのようにして受け止め、自分自信を正当化してしまうこともあります。それは、新しく生まれ変わったはずのクリスチャンの心の中にも残っている、根深い人間の罪の性質なのです。だからこそ、自分自身の心の内を祈りの中で神の前に表しながら、自分の外側から語りかける言葉としての聖書の言葉を聞き、また、礼拝の説教の言葉に耳を傾けるのです。私自身感じることですし、おそらくここに集っている多くのかたも感じておられることだと思いますが、聖書を読んでいると、時折、不思議と心に響く言葉があったり、心に残る言葉があったりします。また、聖書そのものの言葉ではないけれども、牧師や信徒の方が聖書を通して語ってくれる言葉やアドバイスの中に、そのような思いを持つことがあります。これらは、自分内側から湧き上がってくる言葉ではなく、私たちの外側から語りかけてくる言葉です。

それは、時には私たちを慰め癒す言葉であったり、励ます言葉であったりします。またある時は、私たちの過ちをするどく指摘する言葉であったりします。これらは、私たちの外側から聞こえてくる言葉ですが、私たちの心の中に住んで下さり、心の中に住んでおられるからこそ、私たちのことを一番抑止っておられるイエス・キリスト様だからこそ、聖書の言葉、説教の言葉などなどを捕らえ、それを心に響かせ、心に残すことで、私たちを、慰め、励まし、癒やして下さっているのです。また、それだけではありません。私たちが誤った道に進んでいっているときには、教え、聡、導いて下さっているのです。ですから、聖書の言葉が、また教会の言葉が、私たちの心をチクっと刺すこと、あるいはグサッと刺し通すとき、それは神が私たちをさばく言葉として、私たちの心を刺し通しているのではないということを知らなければなりません。むしろ、私たちを愛しておられるイエス・キリスト様が私たちの心に住んでいて下さるからです。イエス・キリスト様は、そうやって私たちを神と人の前に正しく歩んでいくようにと、導いて下さっているのです。ですから、どんなにグサッと心をさしても、それは、私たちを裁いているのではなく、私たちを愛し憐れんでいて下さっているのです。

そうやって、私たちを神の子として、育み、育てていって下さっているのです。ですから、たとえ、聖書の言葉が心を刺し通すことがあっても、その私たちの心を刺し通す言葉の背後にある、イエス・キリスト様の愛に、思いを馳せて、そのイエス・キリスト様の愛を信じることが大切なのです。そのように、イエス・キリスト様は、私たちの日常の様々な場面で、様々な出来事で、様々な関わり合いの中で、私たちを、愛し、慈しみ、また教え育んでおられるのです。だからこそ、私たちは、イエス・キリスト様のことを、思わなければならないのです。私たちがイエス・キリスト様のことを思って生きるならば、私たちは、イエス・キリスト様と共に生きているのです。そうやってイエス・キリスト様と共に生きているならば、イエス・キリスト様のことがだんだんとわかってきます。それこそ、私たちも、このマルコによる福音書8章22節から26節にある、ベッサイダの目の見えなかった人が、イエス・キリスト様に、癒やされて目が開かれ、だんだんと目が見えるようになってきたように、私たちの心の目が開かれイエス・キリスト様のことが、だんだんとわかってくるのです。ですから、神を信じ、イエス・キリスト様を「自分の救い主である」と告白し、洗礼を受けて新しく生まれ変わったとしても、それだけで完全にイエス・キリスト様のことが全てわかるというわけではありません。はじめは、ぼやっと何となくわかり、だんだんとその理解が深まっていくのです。

そんなわけで、クリスチャンになっても、まだ信仰のこと、神様のこと、イエス・キリスト様のことなどが、良くわからないと言ったことがあっても、心配はいりません。イエス・キリスト様と共に生きているならば、だんだんとわかって来るのです。そして、私たちは、新しく生まれ変わったものとして、変っていくことが出来るのです。例えば、ペテロがそうです。今日の聖書箇所を見て参りますと。「あなたがたは、わたしを誰というか」とイエス・キリスト様の問いかけの、「あなたこそ、キリストです」と正しく答えたペテロが、31節に以降おいては、「サタンよ、引き下がれ」とそう言われています。言うまでもありませんが、「サタンよ、引き下がれ」という言葉は叱責の言葉です。サタンというのは悪魔のことですから、「悪魔よ、引き下がれ」というのは、かなり強い叱責であったといえます。ペテロが、そのように強い言葉でイエス・キリスト様から叱責されたのは、彼が、イエス・キリスト様が十字架の上で死んで、そして三日目に蘇るということを弟子たちに教え始めたからです。教え始められたというのですから、彼らは「イエス様というお方は、救い主キリストに違いない。」とそう思ってはいましたが、しかし、彼らが心に思い描いていたキリストと、イエス・キリスト様が、キリストとしてなさっていたことは違っていたようです。だから、一から教えなければならなかったのです。

この時、ペテロを初め、当時のユダヤの人たちが心に描いていたキリストとは、ユダヤの国の王として、自分たちの国を植民地にしているローマ帝国から開放してくれる、政治的な救い主であり、国を救う救国の志士でした。けれども、皆さんも御存知のように、イエス・キリスト様は、当時のユダヤの人たちが期待したような救い主ではありませんでした。この8章31節にあるように、私たちの罪の為に、私たちが受けなければならない神の裁きに対して赦しを与えるために、十字架の上で死なれた、罪からの救い主なのです。そして、そのように救い主が十字架に架かって死ぬと言うことが、私たちに対する神の救いの計画でした。ですから、「(キリスト、すなわち)人の子は、必ず多くの苦しみを受け、長老、祭司長、律法学者たちに捨てられ、また殺され、そして三日の後によみがえるべき」なのです。神のご計画だからこそ、そうしなければならない、なすべきことなのです。このことを、十分に理解することなく、「イエス様はキリストです」とそう伝道して歩いても、当時のユダヤの人々は、イエス・キリスト様の救い主としてなさろうとしていることを誰も理解しなかっただろうと思います。むしろ、彼らが長いイスラエルの国の歴史の中で築き上げ、心に思い描いた政治的な救い主として、それこそ、政治的な運動に巻込んでいっただろうと思われます。

だからこそ、「あなたこそ、キリストです。」とそう答えた弟子たちに対して「自分のことは誰にも言ってはならない」とそう言われるのです。そうやって、弟子たちに釘を刺しておいて、それから、じっくりと、ご自分が、救い主キリストとして何をしようとしているのかと言うことを、弟子たちに話し始められたのです。ところが、聖書は、そのイエス・キリスト様をペテロはいさめ始めたと、そう告げています。おそらくは、ペテロは、当時の人たちが描いていたキリストのイメージにしたがって、このようなことをいってイエス・キリスト様をいさめたのではないかと思います。「救い主が十字架にかかって死ぬなんて、とんでもないことです。あなたは、確かに救い主キリストです。ですから、救い主として、私たちの王となり、ローマの国を滅ぼし、私たちの国イスラエルに繁栄をもたらさなければなりません。」それは、当時の人たちの願いでもあり、ペテロの願いでもあっただろうと思います。そのような民族の願い、自分自身の願いから、神のご計画を語るイエス・キリスト様をいさめるのです。そんなペテロを、イエス・キリスト様は叱責なさいます。「サタンよ引き下がれ、あなたは神のことを思わないで、人のことを思っている。」と、そう厳しく叱責されるのです。そして、確かに、ペテロは、神の思いに心を馳せるのではなく、民族の願い、自分の願いに思いを寄せている、まさに人のことを思っているのです。

せっかく、人々がイエス・キリスト様のことを「、バプテスマのヨハネの再来だとか、エリヤだとか、預言者のひとりである」と言っている言葉にまどうことなく、「あなたは、キリストです」という正しい答えに行き着いたのに、ここでは、もう一度、周りの言葉、世の中の生き方の中に引き戻されているのです。しかし、これは人ごとではありません。というのも、私たちだって、神の思いの中で生きるのではなく。自分の思いや願いを神の思い、イエス・キリスト様の思いを押しのけても押し通そうとすることがあるからです。神を信じ、クリスチャンにあるということは、神のお心の中で生きると言うことでもあります。神を信じて生きるものは、神のお心にそって生きていくべきであります。もちろん、神が私たちにお与えになる使命や、生きる意味、あるいはご計画と言ったものは、ひとりひとり、それぞれ違っています。それは、牧師が告げ知らせることでもありませんし、お一人お一人が神に祈り、聖書の言葉に耳を傾けつつ、神の前にどう生きていくかということを、見出していかなければなりません。しかし、だからといって、全てが相対化されて、個人主義的になって、テンデンバラバラでよいと言うわけではありません。

イエス・キリスト様は、ご自分が十字架につけられ、三日後によみがえられ、天に昇られた後は、この世界に教会を残して行かれました。教会とは、イエス・キリスト様を、それこそ「私の罪の救い主です」とそう信じ告白するクリスチャンの群れです。ですから、そこは、クリスチャン一人一人が寄り集まっている社会だと言えます。そしえこの三鷹キリスト教会は、この三鷹の牟礼という地に、神がお立てになった、小さなものではありますが、しかし、確かにクリスチャンの寄り集まる共同体であり、社会なのです。共同体であるとか、社会といったものには、必ずルールといいますか、規範というものがあります。道徳規範であるとか、社会ルールといったものです。そして、そのような道徳規範とか社会ルールというものは、その共同体なり社会のもつ性質に特徴づけられます。ですから、教会という共同体には、教会と言う社会の持つ性質に特徴づけられた、クリスチャンの生き方、在り方といったものを支える道徳規範や社会ルールがあります。それでは、教会という共同体、あるいは社会といったものが持つ特徴とは、神というお方、イエス・キリスト様と言うお方の特徴に基づきます。それは、義であり、清さであり、愛だと言えます。

ですから、教会に置いては、決して神様の前に正しくないと思われることは行われるべきではありませんし、神様の清さを汚すようなことがなされてはなりません。そして、全ても行動が、愛によって支えられていなければならないのです。それは、たとえ、世の中では、「この事は許されている」「多くの人がやっている」「世の中ではよくあることでなんのおかしいことでもない」と言うようなことでも、それが、神の義しさを傷つけ、神の清さを汚すならば、そのようなことは教会では認めることが出来ないのです。それは、世間一般の考え方と、教会の考え方とには違いがあると言うことでもあります。そして、たとえ個人の願いや思いがあったとしても、それが、神の義しさや清さに触れるものであるならば、決して、それを押し通してはなりません。それが、クリスチャンというものなのです。もし、私たちクリスチャンが、神の義や清さといったものを押しのけてでも、自分の思いや願い、ちょっと悪い表現で言うならば欲望に従って生きようとするならば、それはたちまち、ペテロのように、「サタンよ、引き下がれ、あなたは神のことを思わないで、人のことを思っている」とそう叱責されてしまいます。ですから、このペテロへの厳しい叱責は人ごとではないのです。

だからこそ、しっかりと聖書の言葉に耳を傾けながら生きていきたいと思うのです。それは、私たちを神の前に義しく生きていけるように導く、神の言葉だからです。また神の前に清く生きていくこと為の道標なのです。もちろん、私たちは、弱い存在ですから、過ちを犯すことも、失敗をすることもあるでしょう。ですから、イエス・キリスト様は私たちを叱責するだけではありません。そのような私たちの過ちや失敗も許して下さるのです。ですから、私たちは罪や過ちを犯したときは、神の前に悔い改めて、その罪や過ちを許していただき、もういちど、神の前にやり直していけばいいのです。ここにおいて、「サタンよ、引き下がれ、あなたは神のことを思わないで、人のことを思っている」とそう厳しく叱責されたペテロは、これで終わりではありませんでした。彼は何度も何度も失敗しましたが、その都度、立ち返り、やり直して、後に大使徒と呼ばれるまでになったのです。

お祈りしましょう。