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羊飼い 『もうひとつの命』
マルコによる福音書 9章1節
2006/10/22 説教者 濱和弘
賛美  19、264、102

さて、今お読みただ来ましたマルコによる福音書9章1節は、イエス様がどのようなお方であるかと言うことを、弟子たちが知り、また、その弟子たちに、キリストの弟子として生きることは、「自分をすて、自分の十字架を負って、イエス・キリスト様に従って生きることだ」と教えられた後に記されています。同時に、この9章1節の言葉は2節以降から始まる新たな展開の前に置かれてもいます。このマルコによる福音者に置きましては、8章の31節でイエス・キリスト様が、ご自分が必ず苦難に遭われると言うことをお教えになっています。すなわち、「それから、人の子は必ず多くの苦しみを受け、長老、祭司長、律法学者たちに捨てられ、三日後によみがえるべきことを彼らに教えはじめ、あからさまに、この事をはなされた。」ということです。このキリストの苦難は、いうまでもありませんが、イエス・キリスト様の十字架の死です。ですから、イエス・キリスト様が十字架の死を語り教えられた以上、このマルコによる福音書の物語に耳を傾ける聴衆は9章2節以降のイエス・キリスト様の歩みを、意識してその行ないと業を見ていかなければ成りません。いうなれば、9章2節をさかえにして、イエス・キリスト様の十字架の死への歩みが、まさに具体的に始まったと言うこともできるのです。そして、その十字架の死が、私たちに神の国をもたらしてくるのです。

その十字架への歩みに先だって、この「神の国が力を持って来るのを見るまでは、決して死を味わわないものが、ここにいるものの中に立っている。」と言う言葉が語られるのです。ですから、このマルコによる福音書9章1節は、イエス・キリスト様が誰であるかを知り、イエス・キリスト様の弟子として生きると言うことと、イエス・キリスト様の十字架の死ということの狭間におかれているといえます。それは、イエス・キリスト様を信じる弟子となると言うことと、イエス・キリストが十字架に向って苦難の道を歩まれ、死なれたという出来事の間には、「決して死を味わわない」という出来事が伴うと言うことです。ところが、実際に、この9章1節の言葉を、文脈の中に当てはめて理解しようとすると、様々な困難なことが起こっていきます。とも申しますのも、先程も申し上げましたように、この9章1節は、9章2節以降に先立つ言葉であると同時に、8章38節の言葉に続く言葉でもあるからです。

その8章38節は次のように成っています。「邪悪で罪深いこの時代にあって、わたしとわたしの言葉を恥じる者に対しては、人の子もまた、父の栄光のうちに聖なる御使いたちと共に来るときに、その者を恥るであろう」。とあります。「人の子もまた、父の栄光のうちに聖なる御使いたちと共に来るときに、」と言われるのですから、8章38節は、イエス・キリスト様の再臨の出来事さして述べているのであろうと思われます。だとしますと、この9章1節を8章38節に結び付けて考えますと、9章1節で言う「神の国が力をもって来る」というのは、イエス・キリスト様の再臨の時のことを指しているということになります。いや、実際、私もこの9章1節は再臨との関わり合いの中で受け取るべきだろうと思います。少なくとも、このマルコの福音書の著者は、そのような意図をもって、このイエス・キリスト様の言葉を、ここに書き留めたのだろうと思うのです。そうすると、「神の国が力をもって来るのを見るまでは、決して死を味わわない者がいる」ということは、イエス・キリスト様の再臨の時まで、ペテロやヨハネといった初代教会の弟子たちが生き残っていると言うことになります。もちろん、今現在の私たちにとっても、イエス・キリスト様の再臨は将来の希望でもあり、まだ見ていない事実です。ですから、この神の国が再臨の出来事として語られているとするならば、ペテロやヨハネが今も生きていると言うことになります。けれども、言うまでもないことですが、そのような事実はありません。ですから、この9章1節の「神の国が力をもって来るのを見るまでは、決して死を味わわない者がいる」と言う言葉をどう受け止めればいいのでしょうか。

そのことを、思っていますと、私はふとある人たちのことを思い出しました。それは、私たちと同じクリスチャンですが、私たちと余り馴染みのない人たちです。私たちが、教会とかクリスチャンと言った者を考えますと、まずパット頭に浮かんでくるのはこの三鷹キリスト教会であり、また教会員のお一人お一人です。私も、クリスチャンとはどんな人たちかと言われると、まずは教会の皆さんお一人お一人のお顔が具体的にイメージされます。そこから、広がってホーリネス教団の諸教会やそこに連なる牧師の方々や信徒の方々に広がり、さらにはプロテスタントと広がっていきカトリック教会といったところまでは思い浮かびます。ところが、そこまでいってもなかなか思い浮かばないのが、正教会とよばれるキリスト教です。正教会というのは、地域によってギリシャ正教会とかロシア正教会という風によばれますが、お茶の水にあるニコライ堂がそれに当たります。この正教会は、私たちには余り馴染みがありませんが、じつは私たちプロテスタントよりもは、ずっと古い歴史を持つのです。

少し歴史をひもとくことになりますが、教会は、イエス・キリスト様が十字架について死なれ、復活なさり、そして天に登られた後、聖霊が降臨したペンテコステから、具体的にこの地上で目に見える形で始まりました。初代教会と呼ばれる者です。その初代教会が、だんだんと教会の制度が整えられていくようになり、古カトリック教会(古いカトリック教会と書くのですが、)その古カトリック教会までは、キリスト教会は一つだったのです。ところが、そのキリスト教会が、当時地中海地方で最大の帝国だったローマ帝国の国教になると、政治的な理由で二つに別れます。ローマ帝国が余りにも大きくなったので、帝国の西側、ローマを中心とした西ローマ帝国と、帝国の東側、コンスタンティノポリス(今のイスタンブールですが)、そこを中心とする東ローマ帝国に分割され、それぞれ分割統治されるようになったのです。それにともなって、教会も西ローマ地域にあった教会と東ローマにあった教会が別れて、それぞれ西の西方教会ローマ・カトリックと、東の東方教会・正教会とになっていったのです。そして、わたしたちプロテスタント教会は、ローマ・カトリック教会から別れたわけですから、西方教会の伝統の中にあると言えます。このように、政治的な理由で別れたにせよ、それぞれ別々の歩みを始めますと、神学や教会の制度といったものに色々な違いが出てきます。もちろん、正教会もカトリック教会も、そしてプロテスタント教会も、それぞれが一致して告白したニケヤ・カルケドン信条を告白する限り、同じキリスト教です。

ニケヤ・カルケドン信条とは、ニケヤ信条というものとカルケドン信条という二つの信仰告白からなるのですが、要は、イエス・キリスト様は、全き神であり、全き人であるということを告白したものであり、三位一体の神を信じるという信仰告白であります。また、イエス・キリスト様が私たちの救い主であるということを告白するのも、このニケヤ・カルケドン信条です。このニケヤ・カルケドン信条を告白するかぎり、正教会であろうと、ローマ・カトリック教会であろうと、プロテスタント教会であろうと、それはキリスト教の伝統に繋がる教会であり、キリスト教であると言うことができます。私たちの教会では、あまりニケヤ・カルケドン信条と言ったことに触れませんが、礼拝のたびに信仰告白として、みなさんで唱和する使徒信条は、このニケヤ信条・カルケドン信条の内容を踏まえたものです。ですから、私たちは、使徒信条を通してニケヤ・カルケドン信条に繋がり、2000年の教会の歴史に繋がり、イエス・キリスト様に繋がるのです。このように、ニケヤ・カルケドン信条を通して、正教会もカトリック教会もプロテスタント教会も、そして私たち三鷹キリスト教会も一つにむすばれているのですが、しかし、それでも違いはあるのです。

その違いの一つであり、まさに今日のこの聖書の箇所にも関わってくる違いが、イエス・キリスト様のもたらした救いをどう捉えるかと言うことです。先ほど私は、ニケヤ・カルケドン信条は、イエス・キリスト様を救い主であると告白する信条でもあるということもうしました。そして、事実、正教会も、カトリック教会も、プロテスタント教会も、そして私たちもイエス・キリスト様を、私たちの救い主であると告白しています。けれども、その救い主イエス・キリスト様がもたらした救いがいったい何であるかと言うことについての理解には違いがあるのです。私たちの教会では、イエス・キリスト様と言うお方は、十字架の上で私たちの赦しを成し遂げてくださったお方であるといいます。イエス・キリスト様は、私たちを罪からの救う救い主なのです。このことは、私たちの教会だけではない、プロテスタントの教会ならば、どの教会でもそのようにいいます。そして、この罪からの救い主ということは、プロテスタントの教会だけではなく、カトリック教会であっても同じ事です。つまり、イエス・キリスト様は罪の赦す救い主であるというのは、ローマ・カトリック教会やプロテスタント教会に流れる西方教会の伝統であり、理解の仕方なのです。それに対して、東方教会の伝統における救われるということの理解は、永遠の命を得ることだというのです。ですから、イエス・キリスト様が私たちの救い主であると言うとき、それは私たちを死から救ってくださるお方であると言うことなのです。

よく言われることですが、ヨハネによる福音書3章16節は聖書を指輪に譬えるならば、指輪の宝石部分に当たるだろうと言われます。それは、このヨハネによる福音書3章16節には、福音の内容といいますか、エッセンスが、凝縮しているからです。そこには、このようにしるされています。「神は、その一人子を賜ったほどに、この世を愛してくださった。それは御子を信じる者が、ひとりも滅びないで、永遠の命を得るためである。」ここには、確かに、「御子を信じる者は、ひとりも滅びないで、永遠の命を得る」ということが書かれています。ですから、東方教会の伝統の中にある、救われるということは、永遠の命を得ることだという理解は、間違ってはいないのです。だとすれば、私たち西方教会の伝統の中にある「救われるということは、私たちの罪が赦されると言うことであり、イエス・キリスト様は、私たちに罪の赦しをもたらしてくださる救い主である」と言う理解が間違っているのでしょうか。けっして、そのようなことはありません。「救われるということは、私たちの罪が赦されることであり、イエス・キリスト様は、私たちを罪から救う救い主である」ということも、これまた、聖書の語るところなのです。

例えば、パステスマのヨハネは、イエス・キリスト様に、「見よ、世の罪を取り除く神の子羊」とそう言っています。また、マルコによる福音書2章5節やルカによる福音書7章47節48節には、イエス・キリスト様に信仰をもって接した者、また、イエス・キリスト様を愛した者に対する、イエス・キリスト様の罪の赦しの宣言が書かれています。またコロサイ人の手紙1章13節、14節にはこのように書かれています。「神は、わたしたちをやみの力から救い出して、その愛する御子の支配下に移して下さった。わたしたちは、この御子によってあがない、すなわち罪の赦しをうけているのである。」ここには、あがないとは罪の赦しであると言われています。そして、このあがないは、旧約聖書・新約聖書を一貫する聖書の中心的な思想です。ですから、私たち西方教会の伝統の流れの中にある教会が言う、「救われるということは、私たちの罪が赦されることであり、イエス・キリスト様は、私たちを罪から救う救い主である」ということも、間違ってはいないのです。ですから、東方教会伝統にある正教会が言う「救いとは永遠の命を得ることだ」ということも、西方教会の伝統にあるカトリック教会やプロテスタント教会、そして私たちの教会がいう「救いとは罪が赦される」と言うことだということも間違ってはいないのです。それは、イエス・キリスト様がもたらした福音の両輪のようなものなのです。

実際、そのようなわけですから、正教会でも罪の赦しが全く語られないと言うわけではありませんし、カトリック教会やプロテスタント教会においても、永遠の命と言うことは語れるのです。ただ、強調点は、違っている。それぞれ正教会は、「永遠の命を得る」ことを強調し、カトリック教会やプロテスタント教会は、「罪の赦しが与えられる」ことを強調するのです。では、どうしてこのような強調点の違いが出てくるのでしょうか。それは、人間という者に対する理解の違いです。もっと詳しく言えば、人間の苦悩といった者に対する違いが強調点の違いとなって表れてきたのです。私たちプロテスタント、そしてカトリック教会が連なる西方教会は、伝統的に人間の苦悩を、人間の罪の結果としてみてきました。争いやもめ事、また様々な人間関係のもつれや犯罪と言った、現実の苦悩の根源に人間の罪深い性質を見ていたのです。だからこそ、救いというものは、この人間の罪深い性質を神様に赦して頂き、罪から解放されると言うことが、強調されてきたのです。だからこそ、この罪人の私たちが、罪ゆるされて義と認められる。義と認められるだけでなく、神の前に聖く義しいものと成ることが出来る聖化と言うことが大切なこととして語られてきたのです。

それに、対して正教会は、人間の苦悩を死であると捉えました。人間にとって、究極な苦悩は死ぬことであり、救いとはこの死から解放されることなのです。だから、永遠の命を得ることが救いなのだとそういうのです。永遠の命というものは、神が作られた被造物の中には存在しません。それはただ神の中にのみあるものです。なぜなら、永遠の命とは死を経験することがないと言うことです。死ぬことがない、これは神のみに属することです。ですから、永遠の命をえるということは神になることであり、救いの最終的な目的は私たちが神になることだ。正教会はいうのです。「私たちが神になる」と言われますと、私たちは「ぎょ!」として、正教会は異端ではないかと思ってしまいますが、そうではありません。私たち流に言うならば、「神の子となる」ということです。私たちも、イエス・キリスト様を信じれば神の子供とされると言いますよね。そう言うことなのです。私たちが「神の子となる」「神の子としていただく」ということは、永遠の命という、人間を含めてこの世に存在している何者も持っていない神の命をいただくことなのです。このように、人間の苦悩をどのように見るかによって、救いとは何かという理解が異なってきますし、その表現が違ってきます。けれども、どちらにも共通していえることは、救いとは、人間をその苦悩から助け出し、解放することだと言うことです。とどのつまり、イエス・キリスト様がもたらした福音は、人間を人間の苦悩から救い出し解放する事だと言うことが出来ます。その苦悩を、現実の今という時の中で起こっている問題の中でとらえ、そこにもたらされる救いを、罪の赦しという形で示したのが、私たちプロテスタント教会であり、カトリック教会なのです。そして、同じ人間の苦悩の解決を、将来の永遠の命という希望の中で語ったのが正教会だといえます。

今日、お読みしましたマルコによる福音書は、そういった意味では、この永遠の命という希望の中で語られていると言うことができます。イエス・キリスト様を、自分の救い主として信じ、キリストの弟子となったものには、永遠の命という約束が与えられるのです。神の約束は必ず現実になります。神が語った言葉は、かならず出来事となります。だからこそ、イエス・キリスト様は、「良く聞くがよい。神の国が力をもってくるのを見るまでは、決して死を味わわない者が、ここに立っている。」というのです。それはイエス・キリスト様を信じ、イエス・キリスト様の弟子となって生きていく者を、神はイエス・キリスト様の十字架によって救ってくださるからです。また、イエス・キリスト様は、その救いをもたらすために、神であられるのに人となってこの地上に来てくださったのです。そして、そのようにしてもたらされた、イエス・キリスト様の福音は、私たちの今の苦悩に救いを与えるだけでなく、私たちの将来に希望を与えてくれるものなのです。ですから、イエス・キリスト様を信じる者は、イエス・キリスト様の約束のゆえに、今という時を、「永遠の命」という希望の中で生かされているのです。そして、その約束は必ず実現します。その確実に実現する約束のゆえに、イエス・キリスト様は「神の国が力をもってくるのを見るまでは、決して死を味わわない者が、ここに立っている。」と断言できるのです。

今、私たちが生きている現実の生活の中には、様々な悩みが溢れています。たとえ、自分自身の罪の問題が解決したとしても、それで今、ここでの問題が解決するかと言えば、必ずしもそう簡単にはいきません。私たちは人と人との関わり合いの中にいるからですもちろん、イエス・キリスト様の弟子として、祈り、聖書の言葉に導かれながら生きていくならば、問題の多くに光はあえられます。イエス・キリスト様の弟子として生きると言うことは、自分のためではなく、他者のこと、相手のことを考えながら生きる生き方だからです。そのような生き方は、和解をもたらします。人と人との関わり合いの中で起こった問題の解決は和解によって解決するのです。だからこそ、聖書はコリント人への第Uの手紙5章18節で「神は、キリストによって、わたしたちをご自分に和解させ、かつ和解の務をわたしたちにさずけてくださった」というのでしょう。そこには、今ここでの苦悩に対する、罪の赦しがもたらす救いがありますまた、神の民の群れである教会には慰めがあります。そこでは神の愛が語られ、イエス・キリスト様にある交わりがあるからです。教会は、慰めの共同体でもあるのです。ですから、もし、教会において慰めが語られないとするならば、また教会に慰めがないとするならば、大いに反省しなければ成りません。教会は、本来、慰めの共同体なのです。ですから、今、ここでの救いは、イエス・キリスト様を信じるキリストの弟子であり神の民の群れである教会の中にも、言い出すことが出来るのです

けれども、イエス・キリスト様のもたらす救いは、そのような今ここでの救いだけに止まってはいないのです。「神の国が力をもってくるのを見るまでは、決して死を味わわない者が、ここに立っている。」といわれるように、今から始まり、遠い、遠い未来にまで、ずっと続くものなのです。だから、どんなに困難な中にあっても、苦しい時でも、決して希望を捨ててはいけません。神は、必ず私たちを救ってくださるのです。救いとは永遠の命を与えてくださることである。このことを私たちは忘れていたわけではありませんが、正教会の人びとのように、強く強調してはきませんでした。しかし、救いとは永遠の命を得ることであると言うことは、今日の聖書の箇所からもうかがい知れる聖書の救いのもう一つの側面です。そして、永遠ということは、量り知ることのない無尽蔵な世界です。そういった意味では、私たちは絶望する必要はないのです。絶望というのは行く詰まった限界の所にあるからです。私たちの前には、決して行き詰まることのない永遠が開けているのです。「神の国が力をもってくるのを見るまでは、決して死を味わわない者が、ここに立っている。」見腎臓で尽きることのない命と希望に招いてくださっている神を、またイエス・キリスト様を信じ受け入れて、お従いして生きていく者でありたいですね。

お祈りしましょう。