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羊飼い 召天者記念礼拝
『聖徒たちは語る』
詩篇116篇
2006/11/5 説教者 濱和弘
賛美  357、38、468

今日は、召天者記念礼拝であります。ですから、こうしてお写真を飾って、信仰の先人たちを偲びながら、礼拝の時を持っています。毎年、私はこのお写真を飾る時、1つのことが気にかかりながらお写真を飾ります。それは、お写真が皆様の方を向き、皆様と相対するようにして置かれるからです。そのために、私たちが礼拝を捧げるときに、あたかも、こうしてお写真が飾られておられる方を礼拝しているような誤解を与えないだろうかというささやかな危惧なのです。もちろん、ここに集っている皆さんには、そのようなことはないだろうと思いますが、形式上はそのように見えてしまいます。それで、ささやかな危惧を持つのですが、しかし、それでも私は、こうして召天者記念礼拝において、信仰の先人たちと顔と顔とを合わせながら、神に礼拝を捧げることに大きな意味を感じています。それは、次のような理由によります。今年、私たちは、愛する加藤亨牧師を天に送り出しました。その葬儀の祭壇を組むときに、加藤先生の意志だということで、お写真を、講壇の中央からあえてずらして飾りました。お写真が、中央に来ると、いかにも加藤先生が拝されるような形になるのを、先生は嫌ったのだろうと思います。

いかにも加藤先生らしいとそう思いました。そのような中、私は、加藤先生の棺を皆様方の方に足を向け、頭を講壇の中央にある十字架に向けて置かせて頂きました。それは、ちょうど、説教者が、改宗にむかって説教するのと同じ形に祭壇の形にしたのです。そのような棺の置き方というのは、欧米などで行われているものです。欧米では信徒の方の葬儀では講壇に向って足を向け、講壇に向き合うようにして棺を置く、そして教職者の葬儀では、会衆に足を向け、説教を語るようにして棺を置くのです。もしろん、ただ単に、欧米でそのようにしているから、そうしたというのではありません。そこには、葬儀の場も、神を礼拝する場であるというしっかりとした神学的根拠を持っているからであります。そんなわけで、実は、私はここ数年来、葬儀の時の棺の置き方にこだわっていました。ですから、例え、棺を横向きに置くときでもそうです。通常、葬儀の場合、講壇は、正面向って左側に起きます。その講壇に向って足を向け、皆さんと共に礼拝を捧げる形で棺を置き。葬儀の場で共に神を崇めつつ葬儀を行ってきたのです。つまり告別礼拝として、葬儀を行ってきたのです。しかし、それでも、あえてこの召天者礼拝では、先人たちのお写真を、この講壇の前で、皆様方の方に向け、そして互いに向き合う形で、礼拝をすることに私は大きな意味を感じているのです。それは、この召天者礼拝においては、この信仰の先人たちが、主にある証し人として皆様方に語りかけているからです。主にあって先に召されたものとして、ここにお写真が並べられているお一人お一人が、皆さんに神の恵みと豊かな慰めを証しておられる。だからこそ、お写真は皆さんの方を向いているのです。

今日、お読み頂いた聖書の箇所は、特に15節クリスチャンの葬儀の席で、説教者や司式者、あるいは告別の言葉を語られる方の口から語られる聖句の中では、最も多く引用されるものではないかと思います。「主の聖徒の死は、そのみ前に尊い」実際には複数形ですので、「主の聖徒たちの死は、主の目に尊い」という新共同訳や新改訳聖書の方が正確な訳になろうかとおもいますが、しかし確かに、この言葉は、主を信じて天に召された者の最後に語られるにふさわしい響きを持っています。ところが、その「主の聖徒たちの死は、主の目に尊い」という言葉も、詩篇116篇全体の中で見ますと、この15節の言葉だけが、全体の中で不思議と浮き上がってしまって、実に収まりが悪いのです。ともうしますのも、この、詩篇116篇をみますと、全体が1人称で語られています。1節の「わたしは主をあいする」からはじまって、「私の声を聞き」「私の願いをきいてくださり」「私は生きる限り」と、一貫して私という一人称で、私について語られているのです。そして、その私が、非常に大きな苦難から助け出されたこと、おそらくは死に至るような病の中で、神に助けを求めた時に、病が癒やされたという感謝をささげているのです。そのようなわけで、その個人の感謝の歌がこの詩篇116篇だろうといわれています。ところが、そのような個人が感謝を捧げる歌の中に、突然、何の脈絡もなく「主の聖徒たちの死は、主の目に尊い」という言葉が置かれるのです。

それでは、一体どうして、このように不自然に、唐突に、この詩人は、自分が苦難から救い出された喜びを語る中で、「主の聖徒たちの死は、主の目に尊い」という言葉を、ここに残したのでしょうか?そのことを思いながら、今日の説教の準備をして参りましたが、この聖徒たち、すなわち神の民の死は、その生き方というものに深く関わっているように関わっているように思われます。そう言うわけで、一体「聖徒たちの死は、主の目に尊い」というこの言葉の持つ深みに分け入りつつ、神の民として生きると言うことはどういうことについて考えてみたいと思います。というのも、神の民であるということは、具体的な生き方の中に繁栄されなければならないからです。この詩篇116篇を書いた詩人は、伝説ではヒゼキヤだと言われています。イザヤ書を見ますと、38章確かにヒゼキヤが死にそうになるほどの大病をわずらったという記事が書かれていますから、この詩篇116篇の背景と思われる状況がありますから、そういったところから、ヒゼキヤだと言われるのかもしれません。一方、宗教改革者のカルヴァンという人は、この詩篇116篇は、ダビデだと言います。この詩篇116篇には、他のダビデの詩から引用したのではないかと思われるところがあるからです。結局のところ、この詩人が誰であるかについては、わかりません。

その詩篇116篇は「私は主を愛する」という言葉から始まります。そして、どうして「私は主を愛する」のかという理由を「主はわが声と、わが願いを聞かれたからである。」と言っています。つまり、神がなして下さったみ業に対して、その応答として「私は主を愛する」というのです。確かに、この詩人は、神に祈り、願い求めたのでしょう。だからこそ、彼は、「主はわが声と、わが願いを聞かれた」とそういうのです。けれども、神に祈り、神に願い求めたとき、彼の心には主なるかみに対する愛があったわけではありません。彼が、主なる神を愛するようになったのは、神が彼の声と願いを聞いて下さったからです。逆を言えば、神には、この詩人の願いを聞きいれなければならない根拠など何もないのです。彼が神をしたい求め、惜しみない愛を注いでいたから、神は彼の祈り求める声に答えたのではないのです。神を愛しているわけでも何でもないものの祈りの声に、神は耳を傾けられたのです。この出来事を通して、この詩人は神というお方のご本質に気が付きます。それは5節以降に言い表されています。 「主は恵み深く、正しくいらせられ、われらの神はあわれみに富まれる。」 この詩人は、自分の中に神に憐れんで頂く根拠も何もないことを知っていたのでしょう。「主は無学な者を守られる」と言っています。この無学なものというのは、わきまえがなく、危険なことがあってもそれを回避する分別を持たない人を指しているようです。

そういった意味では、自分が決して才覚のある人間ではないといっているのです。いうなれば何も取り柄がないということです。その上神を愛しているわけでもない。なのに神は、そんな詩人が、神に「主よ、どうぞわたしをお救い下さい」祈り求めるときに、彼をあわれんでくださり、恵みを与えて下さったというのです。ですから、彼が、1節2節で「私は、主を愛する。主はわが声とわが願いを聞かれたからである。主は私に耳を傾けられるので、私は生ける限り主の名を呼びまつるであろう。」というのは、祈りに答えて神が病気を治して下さったことで愛すると言っているのではありません。神の深い憐れみと、恵みのゆえに、彼は神を愛するのです。つまりこの詩人は、神がその深い憐みによって私を愛して下さったからこそ、神を愛するというのです。そして、その神を愛するという詩人の決意は、「私は生きている限り、主の名を呼びまつるであろう。」という言葉に見ることができます。彼は「生きている限り主の名を呼びもとめます」とそう誓い。そして、何度もこの詩の中で。その誓いを果たすと言っています。14節「わたしはすべての民の前で、主にわが誓いをつぐなおう」とあります。18節19節にも「わたしはすべての民の前で、主にわが誓いをつぐないます。エルサレムよ、あなたの中で、主の大庭の中で、これを償います。主をほめたたえよ。」にも、そういって誓いをくり返しているのです。「わが誓いをつぐなう」ということは、果たすと言うことです。この詩人は、神が憐れみ深いお方であり、恵みに富む方だからこそ、「生ける限り、感謝のいけにえを捧げて主の名を呼び求めます」とそう誓うのです。

そのような誓いをくり返す中で、この「聖徒たちの死は、主の目に尊い」が語られます。この言葉に関して矢内原忠雄というひとがこう言っています。矢内原忠雄は東京大学の総長を務められた方で、内村鑑三の弟子でもありますが、こう言うのです。「信仰をもって死ぬ聖徒の死は、神の御前に尊い。それは神の栄光であり、聖徒の名誉である。もちろん感謝してそれを受くべきである。併し、神が死の床より我を救い出し給う時、わが生もまた神の御前に尊い」つまり、矢内原忠雄は生きることも死ぬことも神の御前には尊いものなのだというのです。もちろん、ただ生きていれば神の前に尊い生き方になるというわけではありません。信仰をもって生き、信仰を持て死ぬからこそ尊いのです。要は、神を信じ神により頼んで生きていくものの生き方、つまり神の民としての生き方を生きることが大切だというのです。そして聖徒たちの死は、そのような神の民の生き方の証なのです一般でもよく言われることですが、その人の死に様は、その人の生き方が現われると言います。人は生きてきたように死んでいくというのです。だとすれば、神の憐れみと神の恵みに寄りすがって生きた者は、死んでも神の憐れみと恵みの中におかれるのです。だからこそ、聖徒たちの死は、神の目に尊いのです。それは紛れもない、神の憐れみ恵みを語る証しだからです。主にあって死んでいった聖徒たちは、そのことを死んでもなお私たちに証として語るのです。死という人間にとって最も辛く、悲しい苦悩の先から、神の恵みと憐れみの内にあることを語るのです。

それは神のみ懐で、死の苦悩から解き放たれ慰めをいただき、神の御国で生かされる恵みだと言えます。そして、その恵みをもたらすものは、この詩人が経験したところの愛される根拠のないものを憐れまれ愛して下さる神の愛なのです。だからこそ、ただ単に神が祈りにこたえて下さって病を治して下さったから、私は主を愛するといったそのようなことではないのです。なぜなら、死は癒やされなかったと言うことの紛れもない証拠だからです。しかし、その死ですら、神の憐れみと恵みの内に置かれるのであるならば、それは実に尊いものということができるのです。今日、今ここにお写真が飾られている聖徒のお一人お一人が、そのようにご自身の死を通して、私たちに顔と顔とを向けて語りかけておられます。神を信じた生涯を通して、私たちが神の憐れみ恵みの中で、神に寄りすがって生きているかを問いかけておられるのです。そして、神の民としての生き方を生きているかと、そう問いかけておられるのです。

それでは、一体その神の民としての生き方とはそのような生き方なのでしょうか。それについては、この詩篇116篇の詩人誓いの中に見ることができます。この詩人の誓いは「生ける限り、感謝のいけにえを捧げて主の名を呼び求めます」ということです。その内容は「感謝をする」ということと、「いけにえを捧げる」ということ、そして「主の名を呼び求める」という3つのことから成ります。その最初の「感謝する」と言うこと、それは心の状況です。日々の生活の中で神に感謝の心をもつということが、神の民として証ある生き方を生きることだというのです。私が、結婚をするときにある方が、「夫婦関係をうまく保つ秘訣は、夫婦の間にあっても『ありがとう』と『ごめんなさい』をきちんと言えることだ」よ。とアドバイスしてくれました。たしかに、一緒に生活していますと、いろいろなことが当たり前になってきます。してもらうことが当たり前、与えてもらうのが当たり前、そうなってくると「ありがとう」という感謝の気持ちが涌いてこないのです。

PBAで、ラジオやテレビの番組を担当しておられる関根弘興牧師が、お知り合いの老婦人牧師について、このようなことを言っておられました。その老婦人牧師は、気管支系の病気のため、常時酸素ボンベが必要なのだそうです。私たちの教会でも、加藤カツ姉妹が同じように酸素ボンベが必要ですが、その婦人牧師は、こう言われるのです。「あなたね、この酸素ボンベの費用が毎月いくらかかるか知っている。結構かかるのよ。でも、あなたは、その生きていくために必要な酸素を只でいただいている。感謝しなければね」考えてみれば、私たちが生きていくのに必要なものはすべて与えられたものです。人間が自分で作り出したものなどは1つもありません。水も、空気も、食べ物も、すべて自然の中にあるものです。人の手によって加工されることはあって、産み出されることはありません。創世記の2章4節から17節にはこのように書かれています。口語訳聖書ですと2頁になりますが、 「これが天地創造の由来である。主なるかみが天と地を作られたとき、地にはまだ野の木もなく、また野の草もはえていなかった。主なる神が地に雨を降らせず、また土地を耕す人もいなかったからである。しかし地から泉が湧き上がって、土の全面を潤していた。主なるかみは土のちりで人を造り、命の息を吹き入れられた。そこで人は生きた者となった。主なる神は東のかたエデンに1つの園を設けて、その造った人をそこにおかれた。また主なる神は、見て美しく食べるに良いすべての木をはえさせ、更に園の中央に命の木と、善悪を知る木を生えさせられた」

土地を耕す人もおらず、大地が何も実りをもたらさないような状況であったとき、神は人が生きるのに必要なものすべてを、エデンの園に備え、そして与えて下さったというのです。そして、神はこう言われるのです。16節です。「主なる神は、その人に命じて言われた「あなたは園のどの木からでも心のままに取って食べてよろしい。しかし、善悪を知る木からは取って食べてはならない。それを取って食べると死ぬであろう。」この聖書の箇所は、神が私たちに生きるために必要なすべてを与えて下さり、私たちが、神が与えて下さった恵みの中で、自由に、私たちの人生を生きていくことが出来るようにして下さっていると言うことを教えています。だからこそ、私たちは、神に対する感謝の心を忘れてはならないのです。もちろん、実際の日々の生活の中では、感謝できないようなこともあるでしょう。また、不満や怒りが爆発してしまうことや、悲しく苦しいこともあります。けれども、そのような中にあっても神は、決して私たちを見捨てず、見守っていて下さるのです。先程の詩人は、おそらく死線をさまようほどの病気をして、始めて生かされていると言うことの恵みを知ったのだろうと思います。それは苦しみを通って始めてわかる恵みでした。今、ここに皆さんと向き合っているお写真のお一人お一人は、「死」という人間にとって最も深い苦悩を通られた方々です。誰も、心から願って死なれたかたはおられません。死は苦悩なのです。けれども、その苦悩を通ったからこそ、神を信じ、イエス・キリスト様を救い主として信じた生涯がもたらす、死の苦悩を越えた神の恵みと憐れみ、そして慰めを知って、こうして、この召天者記念礼拝の場で、みなさんにそれを証しておられるのです。そして、死という苦悩を越えた先にある神の憐れみと恵み、慰めがあるように、主を信じて生きているその生涯もまた、同じように神の恵みと憐れみに溢れているのです。だからこそ、主にある聖徒の死は、私たちに、今、神に感謝しながら生きなさいと語りかけているように思うのです。

二つ目のこと。それは「いけにえを捧げる」、つまり「犠牲を捧げる」ということです。もっとも、犠牲を捧げると言いましても、何か具体的なものを神に捧げなさいということではありません。むしろ、犠牲を捧げると言うことは、神に罪を深くお詫びし、赦しを求めると言うことです。先程、ある方が私にアドバイスしてさった「夫婦関係をうまく保つ秘訣は、夫婦の間にあっても『ありがとう』と『ごめんなさい』をきちんと言えることだよ」という言葉で言うならば、「ごめんなさい」がきちんと言えることです。私たちは、悲しいことですが何らかの形で罪を犯しながら生きています。感謝して生きようといっても感謝できないような、嫌な思いにさせられるようなことが、私たちの日常に実際にあるものです。そのような嫌な思いというのは、自己中心的な生き方や、人のことを顧みない生き方によって引き起こされる軋轢であったり、相手もことを思いやることのできない心に触れたりするときです。たしかに、思いやりのある言葉や、気遣いのある言葉に触れたときにいやな思いになる人はいませんよね。その逆の思いやりのない、心配りのない言葉や、自己中心的な振る舞いに触れたときに人はいやな思いをするのです。そのようなことを人からされますと、私たちは不愉快な思いを通して、人間の嫌な部分を知ります。けれども、以外と相手はそのことに意付いていないものです。自分が相手にいやな思いをさせ、迷惑をかけているかに気づいていない、もし、気づいてやっているとするが、もっと質が悪いのですが、しかし気づいていないと言うことの方が圧倒的に多い。

された側はわかるのですが、した側は気づかない。それはつまり、自分も人に対して、同じように嫌な思いをさせる側に立っていることもあるのだと言うことを意味しています。ただそれに気づいていないのです。だからこそ、聖書はすべての人は罪人だというのです。そのような中で、「ごめんなさい」の一言は、「ありがとう」の一言よりも、もっと難しいものです。一言「ごめんなさい」が言えれば、ことが解決することも、色々と言い訳をしたり、理由をつけて、心から「ごめんなさい」と謝罪することが出来ないでいたりするということも多いのです。誰も、自分の罪や過ち、自分の非を認めたくはありません。咎められるからです。しかし、神は、私たちが、自分の非、罪や過ちを素直に「ごめんなさい」と謝るならば、必ず赦して下さるのです。私たちが、神の前に赦しを求めて赦されない罪などないのです。だからこそ、心から神に赦しを求めながら生きることが大切なのです。神は、神に赦しを求めてくるものの罪をすべて赦し受け入れてくださるのです。そのことを、もっともよく知っているのが主にあって死んだ聖徒たちです。かれらは、神の罪の赦しの故に、神に受け入れられ天国という神の安息の地で憩いの中にいるからです。ですから、私たちが人と人との間で「ありがとう」と「ごめんなさい」がきちんと言えることが大切なように、神の前にも「ありがとう」と「ごめんなさい」が言えることが大切なのです。

そして3つ目のこと「主の名を呼び求める」ということです。「主の名を呼び求める」ということは、要は神を礼拝すると言うことです。創世記26章25節にこうあります「それで彼」これはアブラハムという人のことですが「それで彼はその所に祭壇を築いて、主の名を呼び、そこに天幕を張った」 このように、主の名を呼び求めると言うことは、神を礼拝するということなのです。礼拝するということは、神を畏れ、神に仕えるということと同時に、私たちが神にお答えするということでもあります。いえ、神に仕えると言うことは、神の言葉に応答すると言うことだといっても過言ではありません。神がなしてくださったみ業に応答し、神が私たちに語りかけてくださった神の啓示に応答することが礼拝と言うことなのです。だからこそ、礼拝では神の言葉が読まれ、神の言葉が語られるのです。では、なぜ神の名を呼び求めることになるのか。神の名を呼び求めるということは、ただ単に神の名を唱えればよいと言うことではありません。その名が指し示す神の本質を知って、その神を呼び求めると言うことが大切なのです。聖書には、神の呼び名がいくつも出てきます。全能の神エル・シャッダイ。至高の神エル・エルヨーン、自らを有って有らせるお方ヤーウェー、そして主なる神アドナイ・ヤーウェあるいはアドナイ・エロヒーム。その中で、私たち人間との深い関わり合いが示されているのが、アドナイ・ヤーウェ、アドナイ・エロヒーム、主なる神というお名前です。ですから、私たちが神の名を呼び求めると言うとき、私たちは、私たちの主で有られる神を呼び求め、そして礼拝するのです。

神が私たちの主権者であられる理由は2つあります。1つは神が私たちの創造者だからです。私たちは神によって造られた神の作品です。作品に関する一切の権限はその作家に属します。作家はその作品にとって主なのです。同じように、私たちは神によって造られた神の作品だからこそ、神は私たちの一切の主たるのです。もう一つは、神が私たちを贖い救い出してくださるお方だからです。さきほどももうしましたが、私たちは、ひとりびとりは罪人です。生きていく中で起こってくる様々な苦悩や悩み、問題というものは、何らかの形で私たち人間の自己中心的な生き方から引き起こされています。そのような私たちの罪を、神はイエス・キリストを十字架につけ死なせることによって贖い赦して下さったのです。そして、神の子として受け入れ、永遠の命を与えて下さった。そのように、私たちを贖い救って下さったのは、私たちが神を主と崇め、神を信じて生きていくためです。だからこそ、この神の救いの業の故に、神は私たちの主なのです。そのようなわけで、礼拝において神のみ業に応答ということは、神が私たちの創造者であるということを感謝することです。また、神が子なる神イエス・キリスト様を通して、私たちを私たちの罪から贖い救って下さったことを感謝し、自分の罪を神にお詫びし赦して頂くことなのです。いわば、神に対する「ありがとう」と「ごめんなさい」という言葉を、心から素直に表す場が礼拝だといえます。そして、神の言葉に耳を傾け、神に従って生きていこうとお答えする場が礼拝なのです。

この詩篇116篇の詩人は、そのように生き、そのように死んでいった聖徒たちの死が、いかに主の目に尊いかをしり、自分もそのような神を礼拝するもととしての生き方を生涯は果たそうと決心しています。彼は、主にあって死んでいった聖徒たちから学び、誓ったのです。今日、私たちも、この講壇の前に並べられた、加藤先生を始めとする聖徒たちお一人お一人が私たちに語る証しに耳を傾けなければ成りません。それは、神を礼拝して生きることの大切さを証しておられるのです。そして、私たちの、神に「ありがとう」と「ごめんなさい」を素直に言える心を持って、生ける限り神を礼拝しつつ生きることを誓い、それを果たそうではありませんか。

お祈りしましょう。