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羊飼い 幼児祝福記念礼拝
『一番大切なこと』
ミカ書 7章18−20節
2006/11/12 説教者 濱和弘
賛美 : 19,344,265

今日は、幼児祝福礼拝です。私たちの国、日本では、3歳と5歳と7歳になると七五三といって、子供が元気にそだって幸せになるようにと、神社にいってお祈りをします。もちろん、教会は神社とは違います。けれども、天の父なる神様も子なる神様イエス・キリスト様もまた聖霊なる神様も、子どもたちが、悪いことから守られ、神様のことを信じて、正しく育っていって欲しいと願っています。空も海も山も、全てのものを造って下さった神様は、みんなのことをあいしておられるんですね。だから、子どもたちが元気に、幸せになるようにと祈ることは、よいことです。お父さんや、お母さん、おじいちゃんやおばあちゃんも、みんなが、元気で良い子になって幸せになれるようにと、毎日神様に祈っています。だから、教会でも、神様の祝福をみんなが受け継いでいけるようにと、幼児祝福式を行います。今年は、M・T君が、この後の祝福をうけます。そのまえに、少し、お話しをしますが、今日は大人の人たちと合同の礼拝ですから、教会学校でのお話しはありません。ですから、最後まで頑張って、お話しを聴いていましょうね。

さて、教会学校で、先生がお話しをするときに、まこと君のことをお話ししていますが、今日もまこと君のお話です。まこと君は、みんなと一緒で、お父さんとお母さんと一緒に、毎週日曜日に教会にいって神様を礼拝し、教会学校で、神様のお話を聴いていました。ある金曜日に、幼稚園のお友達のシンジ君がまこと君にいいました。「まこと君、こんどの日曜日に、ぼくの家に遊びにおいでよ、いっしょにあそぼう。」それを聴いたまこと君は、シンジ君のお家で一緒に遊びたくてたまりません。だってね、シンジ君は、もうすぐ、遠くへ引っ越してしまうので、もう遊べなくなってしまうからです。それでどうしても、シンジ君のお家に遊びに行きたかったんです。でも日曜日は、お父さんお母さんと教会に行かなければなりません。まこと君は、教会もお友達がたくさんいるし、イエス様のお話を聞くことも大好きでした。だから教会に行くことも楽しみだったんです。それで、まこと君はしんじ君に「わかった、ぼく、日曜日の朝は、お父さんとお母さんと教会に行くから、お昼から遊びにいくね。」とそう言いました。するとシンジ君が困ったような顔をして「ごめんね。ボクは、お昼から、おじいちゃんの家に行くから午前中しか遊べないんだ。」っていうんです。まこと君もシンジ君困ってしまいました。そしたらまことくんは、「じゃ、ぼく日曜日に教会行かないから、一緒に遊ぼう」そういってシンジ君と遊ぶ約束をしてしまいました。けれども、まこと君は、お父さんにもお母さんにも、日曜日の朝にシンジ君と遊ぶ約束をしたということをいえませんでした。それはね、まこと君のお父さんもお母さんも、神様を礼拝すると言うことをとても大切にしていたからです。それで、言えなかった。

さあ、日曜日の朝です。まこと君は、まだ言い出せません。「どうしよう。どうしよう」って考えてました。そして、「よし」といって、黙ってこっそりと家を抜け出しました。そして、シンジ君の家に遊びに行きました。シンジ君に家は遠くにあったので、走って一生懸命シンジ君の家にやって来ました。そして、玄関のベルを「ピンポーン」とならしました。すると、シンジ君のお母さんが出てきました。「いらっしゃいまこと君。あら、こんなに遠くまで一人で来たの。」シンジ君のお母さんはびっくりしました。まことくんは、「うん、今日は日曜日でお父さんとお母さんは教会で行くので、一人で行いきなさい。って言われたの」そういってまこと君は嘘をついてしまいました。家では、お父さん、お母さんが忙しく教会に行く準備をしていました。そして、「まこと君、きょうかいにいくわよ」とお母さんが声をかけました。でもまこと君は、返事をしません。そうだよね。まこと君は、こっそりと家を抜け出した遊びに行っているんだもんね。でも、お父さんも、お母さんも孫亜子とは知りません。お父さんは、「おかしいな、ちょっと外を捜してくる」といってまこと君を探しに行きました。10時半、礼拝が始まる時間です。まこと君はまだ見つかりません。11時まだ見つかりません。11時半、そろそろ礼拝が終わる時間なのですが、まことくんは見つかりません。

お父さんもお母さんも結局礼拝を休んで、まこと君を捜していたのです。それでも見つからないので。とうとうお父さんは、警察に電話をしました。「すみません、家のまことくんが、朝から姿が見つからないんです。」警察のおまわりさんは、すぐに、パトカーでやって来てくれました。お父さんは、教会にも電話をしました。礼拝が終わったばかりの教会の牧師さんに「うちのまこと君がいなくなったんです。お祈りしてください。」っていいました。牧師さんはびっくりして「わかりました、教会のみんなでお祈りします」といってくれました。そして、教会のみんなでお祈りをして、すぐに、まこと君の家にきてくれました。お昼になりました。シンジ君のお母さんが、「まこと君、これから、おばちゃんと、しんじ君はおじいちゃんの家に行かなければならないから、お家までおくっていってあげるね」そう言って、車でまこと君の家まで送ってくれました。まこと君の家の家までくると、家の前にパトカーが止まっています。そして、たくさんの人がまこと君の家を除いています。みんな、まことくんのことが心配で集まってきたのです。シンジ君のお母さんは、「何かあったのかしら」とちょっと心配しました。そして、そこにいた人に「何かあったんですか」と訪ねました。するとその人は「この家の、まこと君という子供が、朝からいなくなったんです。」と教えてくれました。

それを聞いたシンジ君のお母さんはびっくりして「えっ!まことくんは、ここにいますよ!」ってまこと君を連れて行きました。まこと君のお父さんとお母さんは、まこと君が見つかって大喜びです。あまり嬉しくて、お母さんは泣き出してしまいました。シンジ君のお母さんはまこと君のお母さんに「ごめんなさいね。まこと君が、『お父さんとお母さんは教会で行くので、一人で遊びに行ってきなさい、って言われた』と言うもんだから、てっきり家に来ているって知ってると思ってたんです。」と余っていました。まこと君のお母さんも、「そんなことありません。まことがお世話になりました。」と頭を下げています。お父さんはお父さんで、パトカーでやって来たお巡りさんや、心配してやって来てくれた近所の人に「すみませんでした。ご迷惑をかけました。」とぺこぺこと頭を下げています。お巡りさんや、近所の人が帰って、お家には、まこと君と、まこと君のお父さん・お母さん、そして、教会の牧師さんだけが残りました。

お父さんとお母さんは、「まことここに座りなさい」とまこと君を座らせ、その前に立って、まことくんを叱り出しました。「まこと。お父さんは、どうしても、まことを怒らなければならないことが2つある。一つは、神様を礼拝しないで、だまって遊びに行ったこと、もう一つは、そのために嘘をついたことだ」といった、大きな声で、まこと君のことを叱りました。とっても、恐い顔でまことくんのことを叱っているのです。お父さんだけではありません。お母さんもまこと君を叱っています。まことくんのお父さんやお母さんは普段はとってもやさしくて、まことくんはお父さんとお母さんのことがだいすきでした。そのお父さんと、お母さんがとっても恐い顔で怒っているのです。まことくんは、本当に悪いことをしたんだと思って、「おとうさん、おかあさんごめんなさい。」まこと君はお父さんお母さんに謝りました。「ごめんなさい」と謝るのですが、お父さんお母さんまこと君をなかなか赦してくれません。黙っていて、まこと君の顔を恐い顔のままで、じっと見ています。まこと君は、お父さんお母さんの顔を見れなくて下を向いてしまいました。そしたら、涙がぽろぽろって落ちていきました。悲しかったんだね。自分は、本当に悪いことをしたってことがわかったんです。嘘をついてお父さんお母さんに心配かけたこと、お巡りさんや近所の人に迷惑をかけてしまったこと。本当に悪いことをしてしまった。そう思ったんです。

そのとき、まこと君は教会学校で聞いたお話を思い出しました。それは人間はみんな罪人なんだよ。心に悪い心を持っているんだと言う話でした。そして、イエス様が、罪を赦すために十字架に架かって死んでくださったんだというお話しです。そのお話しを思い出しながら、まこと君は、自分は本当に罪人なんだと言うことがわかったのです。嘘をついてお父さんお母さんに心配かけたこと、お巡りさんや近所の人に迷惑をかけてしまうようなことをしてしまう自分は本当に罪人なんだ、自分の心には罪があるんだと言うことがわかったんです。そしたら、そのまこと君の罪を赦すために、十字架に架かって死んでくださったイエス様を礼拝することをしないで遊びに行って、本当にイエス様に悪いことをしてしまったと思いました。それでね、思わず「イエス様、ごめんなさい」言いました。そのとき、まこと君の後ろにいた牧師さんが、「お父さん、お母さん、まこと君は、本当に悪いと思って謝っています。私もまこと君と一緒に謝りますから、まこと君を赦してあげてください」といった深々と頭を下げて、まこと君と一緒に謝ってくれたんです。その牧師さんが、頭を下げて謝っている姿をみて、お父さんもお母さんも「わかりました。もういいよ、赦してあげる」そう言ってくれました。よかったね。本当は、お父さんもお母さんもまこと君のことが大好きなんです。

晩ご飯の時間になりました。今日はいっぱい泣いたまこと君のために、お父さんは、まこと君の大好きなレストランに連れて行ってあげました。まこと君は大喜びです。レストランで美味しいご飯を食べながら、まこと君はお父さんに聞きました。「お父さん、ほくがお父さんにごめんなさいって謝っても、なかなか赦してくれなかったのに、どうして、牧師さんが謝ったら、すぐに赦してくれたの」お父さんは言いました。「それはね、牧師さんが、まことと一緒に謝ってくれたとき、お父さんはイエス様のことを思い出したんだ。イエス様も、ああやってお父さんやお母さん、そしてまことのため、天の父なる神様に、どうぞ、罪を許してあげてくださいって謝ってくださったんだ。頭を下げるだけじゃなくて、十字架に架かって命を投げ出してまで一緒に謝ってくださったんだ。それで、お父さんもお母さんも、まことも、イエス様を信じる者の罪がみんな赦されたんだ。そう思うと、お父さんも、赦さなければいけないなっておもったんだよ。」まこと君はびっくりしました。「お父さん、ぼくね。お父さんとお母さんに怒られているときに、教会学校で聞いた僕たちはみんな罪人だ。そして、イエス様がその僕たちの罪を赦すために十字架に語って死んでくださったって話を思い出したんだよ。それで、なのに、そのイエス様を礼拝しに行かないで遊びに行って本当に悪いことをしたなって思ったんだ」

それを聞いたお父さんは「そうか、それで『イエス様、ごめんなさい』っていったんだね。イエス様は私たちの罪を赦すために十字架に架かって死んでくださった。そして父なる神様は、私たちの罪を赦して下さった。だから、神様を第一にして礼拝をすることは一番大切なことなんだよね。そうやって神様を礼拝しながら、私たちも、神様のように、人を赦す人にならなくては行けないね。」お父さんは、そういってにこっと笑いました。まこと君は自分の罪を赦すために十字架に架かって死んでくださったイエス様と、そのイエス様が一緒に謝ってくださったことを見て赦して下さった父なる神様を礼拝することの大切さを知りました。そして、神様と同じように人w赦すことの大切さを知りました。みんなも、まことくんと同じように、神様を礼拝することを大切にしましょう。そして人を赦す人になりましょう。みんなのために、イエス様は十字架の上で死んでくださったからです。そして、みんなの罪を、天の父なる神様は赦して下さっているんです。

さて、大人の方です。今日の聖書の箇所は旧約聖書のミカ書の中の一節です。このミカ書には、北イスラエル王国の民と、南ユダ王国の民への裁きの宣言と、赦しの約束が語られています。この二つの国民に対して神が裁きの宣言をなさるのは、その国の中に不正や不法がはびこっていたからです。つまり、罪がその国の人たちに蔓延していたからです。どうして、そのような罪が、広がってその原因を、ミカ書は、その一章で、神を礼拝する礼拝が乱れてしまったからだというのです。その乱れは、最初に北イスラエル王国に起こりました。1章5節8節です。そこには、こう書いてあります。

「これはみな、ヤコブのとがのゆえ、イスラエルの家の罪のゆえである。ヤコブのとがは何か。サマリヤではないか。ユダの家の罪とはなにか、エルサレムではないか。このゆえにわたしは、サマリヤを野の石塚とし、葡萄を植える所となし、またその石を谷に投げ落とし、その基をあらわにする。その彫像はみな砕かれ、その得た値は火で焼かれる。わたしは、その偶像をことごとくこわす。その遊女の値からあつめたのだから、遊女の価に帰る。わたしは、これがために嘆き悲しみ、裸足で歩きまわり、山犬のように嘆き、ダチョウのように悲しみ鳴く。サマリヤの傷はいやすことできないもので、ユダの門までひろがり、わが民の門、エルサレムまでおよんでいる。

北イスラエル王国の民は、もともとは南ユダ王国とは、同じユダヤの民です。それがソロモン王の後継者問題で国が二つの別れてしまったために、北イスラエル王国には、神を礼拝する神殿がありませんでした。ですから、エルサレムにある神殿に変って、彼らはサマリアにあるゲリジム山に神殿を建てて、そこで神を礼拝するようになったのです。列王記12章26節以下を見ますと、その神殿でどのような礼拝が捧げられたかがわかりますが、そこに、金の子牛をつくり、偶像礼拝をしていた様子が記されています。つまり、北イスラエル王国のでは、まさに偶像礼拝という大きな礼拝の乱れがあり、それが神に対する信仰の乱れといったものとなっていったのです。神に対する信仰の乱れは、畏れるべきものを畏れない自分勝手な生き方に繋がっていきます。そしてそれが、権力者の民に対する虐げという、社会全体の大きな乱れや苦難、不正などになってあらわ、個々人にまで及んでいったのです。預言者ミカは、そのよう、罪が、始めはサマリヤからはじまったが、それがエルサレにまで広がってくるとそう言います。罪は、聖なるエルサレムの神殿にまで侵蝕してくると言うのです。それが、どんなに神殿という聖別された場所であったとしても、神の民が神を畏れ、心からの礼拝が捧げられていない限り、神殿であろうと教会であろうと、罪は確実に入り込んできます。世の中の不正や腐食に対して、私たちも、また教会も無条件に守られているわけではないのです。

この、私たちをまた教会を侵蝕していく不正や腐食と言った罪を退ける、退ける方法は、私たちが心からの礼拝を捧げると言うことです。北イスラエル王国では礼拝の乱れが、信仰の乱れに繋がり社会の乱れに繋がっていきました。ですから、礼拝が私たちにとって第一のものとして整えられ、捧げられると言うことは大切なことなのです。礼拝を整えると言うことは単に形式上の問題を言うのではありません。現代のプロテスタント教会は、様々礼拝の形を生みだしています。それこそ、音楽一つをとっても、パイプオルガンで礼拝をまもっているところもあれば、エレキギターやドラムをいれて賛美し礼拝しているものもあります。個人的には、ギターやドラムを入れた礼拝はよいのかどうかということについては言う疑問もありますが、取りあえずは形式の問題は、自由があったとしても、礼拝がエンターテーメント化して、礼拝に集う人が楽しめるかどうかということに目が向いているとすれば、問題です。もちろん、教会は楽しい場所でなければなりません。教会には神を信じる民の楽しい交わりが絶対に必要ですし、それを禁じるものはなにもありません。しかし、だからといって、礼拝は、楽しいから礼拝に出席する。楽しくないなら出ないというものではありません。

もし、私たち一人一人が、礼拝が楽しいから行く、楽しくないから行かないと言うことであるとするならば、それはもはや礼拝を捧げると言うことではありません。また、教会もそう言った方が教会に来るようにと、礼拝をそのような人が楽しめるものへとかけていったとするならば、そこには礼拝の世俗化、礼拝の乱れが始まっているのです。礼拝は、ただただ、神を畏れかしこみ、神の前にひれ伏して、神と交わる場です。そして、罪人である私たちが、決して交わることの出来ない神と交わりを持ち、神の民とされたことを喜び、神を証するものとして、神に奉仕する生涯に、自らを捧げていく場なのです。それが、ローマ人への手紙12章1節にある「あなたがたのからだを、神に喜ばれる、聖なる、生きた供え物としなさい。それがあなた方のなすべき霊的な礼拝である。」ということであり、整えられた礼拝とは、そのような礼拝を指しているのです。そのためには、まず何よりも自分の罪深さを知り、その罪がもたらす結果がどのように恐ろしいものかを知らなければなりません。神が預言者ミカを通して、北イスラエル王国に対する厳しい裁きの宣言をなさったのは、彼らが、自分自身の犯している罪を知るためです。そして、それは、南ユダ王国に人々にも、同じような罪の心があることを知らせるためでもありました。

ですから、神が裁きを宣告なさるときには、聞けと言う言葉で始まるのです。それは決して聞き漏らしてはならない言葉だからです。そして、しっかりと神の語る言葉に耳を傾け、自分が罪人であると言うことに気づかなければなりません。そして、その罪の結果がどんなに恐ろしい神の裁きをもたらすかを知って、恐れおののかなければならないのです。そして、自分の罪深さを知り、それに対する神の裁きの恐ろしさを知ったならば、その罪を赦して下さる神の恵み深さを知らなければなりません。神が、厳しい裁きの言葉を持って、私たちの罪をお示しになり、その罪に対する裁きを宣告するのは、私たちが神に立ち返ることを望んでおられるからです。私たちが神に立ち返るとき、神は私たちを赦し、受け入れて下さいます。もともと、神は私たちを赦したい、神の子として神との交わりを回復したいと願っておられるのです。だからこそ、イエス・キリスト様を十字架につけてまで、罪の贖いをなしとげ、このお方を私たちの罪をとりなして下さる弁護者としてお立て下さったのです。そんなわけで、このミカ書においても、神は預言者ミカを立てて、1章、2章、6章において3度も裁きの宣告をなさるのですが、その3度の裁きに宣告に対して、同じようにまた3度の神の恵みと憐れみを語られるのです。そして、その恵み深い神は、私たちの将来に希望を与えて下さるお方なのです。ミカ書7章11節から13節は、先程申し上げました3度ある神の恵みの言葉の一部分です。

そこにはこう書かれています。「あなたの城壁を築く日が来る。その日には国境が遠く広がる。その日にはアッシリアからエジプトまで、エジプトからユフラテ川まで、海から海まで、山から山まで、人々はあなたに来る。しかし、かの地は、その住民の故に、その行ないの身によって荒れ果てる」これは、回復の約束です。やがて苦しい試練や厳しい現実を生きなければならない人々に、やがて神があなた方を回復し、神が与える豊かな繁栄を与えて下さるという約束です。もちろん、ここで言う繁栄とは、単なる経済的な豊かさ、物質的繁栄を指しているのではありません。むしろ、そのような経済的な豊かさや物質的な繁栄を越えた、やがて来る神の支配したもう国で、全ての人間の苦悩から解放された、慰めと憐れみとの中で、心が平安に満たされながら生きていくことの出来る神の国での繁栄です。だからこそ、今どんなに苦難や苦しみ、試練の中にあっても希望を捨ててはならないのです。神は、私たちを苦悩や苦しみの中で慰めや支えを与えて下さり、将来を約束して下さるお方だからです。このように、私たちが、自分の罪深さとそれに対して下さる神の裁きの恐ろしさを知り、また神はその罪深さを赦し、罪の裁きから救って下さるお方であるという神の恵みの深さを知って、私たちの、希望を持ち続けるならば、私たちは、心からの礼拝を神に捧げるものとなることが出来ものに変っていきます。

そしてその礼拝は、決して交わることの出来ない神と交わりを持ち、神の民とされたことを喜び、神を証するものとして、神に奉仕する生涯に、自らを捧げていく、整えられたものとなります。っそのように私たちが、礼拝を第一のものとして霊とまことを持って神を伏し拝み神に仕える礼拝と整え、心から捧げていくならば、私たち一人一人も、教会も神の恵みと慈しみの中で生きていけるのです。今日、お読み致しましたミカ書7章18節から20節はミカ書の最後の部分ですが、賛美の歌でもあります。それは、罪を赦し、私たちに憐れみ、恵みと祝福を与えて下さる神に対する賛美の歌です。どんなに厳しい裁きが宣告がなされ、人の世の理不尽さや、不正、様々な試練の中に置かれていたたみが、なさなければならないこと、それは礼拝を何よりも大切なものとし、礼拝を整えていかなければ何らないと言うことを示すお手本でもあります。ですから、現実は厳しく苦しいと思われるようなことが起こってきても、私たちは礼拝を大切にし、整えられた礼拝を守りましょう。整えられた礼拝を捧げる姿勢が崩れていない限り、私たちの信仰も決して乱れることはありません。そして、私たちは、神の祝福と恵みの約束の中で、日々一歩一歩神の前生きていくことが出来るのです。

お祈りしましょう。