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羊飼い 『小さな宮の大きな神』
歴代誌6章12−42節
2006/11/19 説教者 濱和弘
賛美  2、88、266

さて、今日は、私たち三鷹キリスト教会の献堂記念礼拝です。今年の献堂記念礼拝は、在る意味、特別な献堂記念礼拝であると言えます。と申しますのも、私たちの教会の献堂記念礼拝というのは、この会堂が献堂されたと言うことを記念するだけではなく、教会の創立記念も兼ねていると思うからです。そして今年は、私たち三鷹キリスト教会が、教会として歩みを始めて、ちょうど50年に当たります。実に、この三鷹キリスト教会が産み出されて、実に半世紀になるのです。ご存知のように、私たちの教会は1951年に、東京宣教会と日本ホーリネス教団が合同で宣教開始した事に端を発します。その伝道開始から5年、1956年4月に加藤亨牧師が、日本ホーリネス教団より正式に牧師として任命を受け派遣されて、それまで伝道集会が教会としてのスタートを切ったのです。ですから、になります。それから50年、その加藤亨牧師も、今年の7月に召されました。私個人としましては、今年の献堂記念礼拝は、教会創立50周年でもありますので、ぜひ加藤先生に御用を御願いしたいという思いをもっておりました。ですから、今日、こうして、私がここに立っておりますのは、私に取りましては何とも辛い、複雑な思いなのでありますが、いずれにしても、50年、半世紀という一つの区切りの時でもあるのです。

そのような、特別な年であると言うことを踏まえて、後で詳しいことはお話し致しますが、役員会では、創立50周年の記念誌をつくってはどうかと言う話が出ています。50年という一つの歴史を顧みて、来年の献堂記念礼拝を目標に、発行できたらと考えているのです。それは、過去の歴史を、懐かしむだけでなく私たちの新しい50年に向けての歩みの始まりでもあろうかと思います。しかし、新しい歩みに向ってといっても、教会の本質が代わるわけではありません。教会の教会としての本質は決して代わらないからです。今日は献堂記念礼拝ですが、私たちの教会も会堂は何度か姿を変えました。この会堂も、改築されてから25年近くたち、やがては新しい会堂に姿を変えるかも知れません。しかし、会堂の形は変り、教会の外観は代わっても、教会の本質は代わらないのです。

今日、お読み頂きました歴代誌下の6章は、イスラエルの王ソロモンが、神殿を建設したときに祈られた、ソロモンの祈りが記されている所です。ソロモンは、この神殿の完成に当たって、6章の1,2節でこう言っています。「主はみずから濃き雲の中に住もうと言われた。しかし、わたしはあなたのために高き家、とこしえの住まいを建てた」この言葉からもわかりますように、ソロモンは、この神殿を神の永遠の住まいとしてするために、莫大な費用と多くに人たちの労力をもって、神殿を建てたのです。ところが、その神殿が完成したおりに、ソロモンが祈りを捧げたその祈りの中で、彼は、このように言うのです。18節です。「しかし神は、はたして人と共に地上に住まわれるでしょうか。見よ、天も、いと高き天もあなたを入れることは出来ません。わたしが建てたこの家など、なおさらです。」ソロモンは、莫大な費用と、多くの人の労力と、時間をかけて、神の住まいとしての壮大な神殿を建て上げたのに、結局、神はそこに住むことができないというのです。そこだけを見ますと、何という無駄なことをするのかと思いますが、しかし、そのような無駄と思える行為の真意が、その後の祈りの中で明らかにされます。その後に続く祈りを見ますと、そこには、神に懇願するような、ソロモンの祈りが綴られているのです。

20節21節には、こう記されています。「どうぞ、あなたの目を昼も夜もこの家に、すなわちあなたの名をそこに置くと言われたところに向ってお聞き下さい。どうぞ、しもべがこのところに向って捧げる祈りをお聞き下さい。どうぞ、しもべと、あなたの民イスラエルがこの所に向って祈る時、その願いをお聞き下さい。あなたのすみかである天から聞き、聞いておゆるし下さい。」神は、どんなに壮大な神殿であったとしても、そこにおさまりきるようなお方ではないと言うソロモンの言葉は、確かに真実であろうと思います。天地宇宙をつくられた神を、治める神殿など作れる者はいないはずです。けれどもソロモンは、神のために神殿を造りました。そして、そこに、たとえ神がお住まいになることが出来なかったとしても、神にその神殿に昼も夜も目を注いで下さいと祈るのです。そして、わたしも、またイスラエルの民も、神殿に向って、つまり神殿に目を向け祈りますというのです。するとどうなるのでしょうか。神殿を中心にして、神殿に目を注ぐ神のまなざしと、神殿に向って祈り人々のまなざしが、神殿を中心に一つにして出会い、一つに結ばれます。つまり、神殿がまさに、神と人とが出会い結ばれる接点と成るというのです。そのために、ソロモンは神殿を建てたというのです。

しかし、これは、よく考えてみますと、これはおかしな話だといえます。ともうしますのも、天地宇宙をつくられた神は、それこそ神殿には収まりきらないような全てを越えたお方です。言い換えるならば、全地のすべてを覆っておられるようなお方なのです。ですから、ことさら神殿などを造らなくても、世界中どこにいても、神にむかって祈りを捧げる事が出来るはずではないかと思うのです。それを、わざわざソロモンのつくった神殿、ただ一点だけに神の目を注ぎ、また人々もそこに向って祈るようにする。いったいどうして、そんな回りくどいことをするのか。それは、その答えを解く鍵は、その後に続く祈りの中にあるように思います。ソロモンは、神に対して、神殿に目を注いで下さい、私たちも神殿に向って祈りますと言った後に、具体的にどのような祈りを捧げるかについて語っています。22節23節「もし、人がその隣り人に対して罪を犯し誓いをするとき、来てこの宮で、あまたの祭壇の前に誓うならば、あなたは天から聞いて、行ない、あなたのしもべらをさばき、悪人には報いをなして、その行ないの報いをそのこうべに帰し、義人を義として、その義に従って、その人に報いて下さい。」これは、神の正しい裁きを求める祈りです。この22節の「誓い」は新改訳聖書ではのろいの誓いとなっていまして、人が罪を犯したのではないかと疑われたとき、「自分は疑われているような罪を犯していない。犯していたら神に呪われても良い」と誓う誓いのことのようです。

もちろん、本当に罪を犯していなければ何も問題はありません。また、もし罪を課していたならば、誓うことなくして、その罪を償えばいいのです。しかし、自分の罪を隠して、自分は悪いことはしてないと祭壇の前で、つまり神の前でも言い張るならば、神は全てをご存知だから、神によって裁かれると言うのです。そこには、罪に対して裁きをなさる神の公正な裁きが望まれています。そのような、正しい神に向って、24節以降の祈りの全てが罪の赦しを伴う祈りです。24節25節には、「もし、あなたの民イスラエルが、あなたに対して、罪を犯したために、敵に敗れたとき、あなたに立ち返って、あなたの名をあがめ、この宮であなたの前に祈り願うならば、あなたは天から聞き、あなたの民イスラエルの罪を赦て…」とあります。26節27節も、干ばつの時、また28節〜31節の様々な災害や様々な災いの時、その干ばつや災害、災い引き起こす原因となった罪の赦しを求める祈りです。また32節では、イスラエルの神を信じあがめるようになった異邦人のための祈りがなされます。イスラエル人に取って、本来異邦人は、汚れた民です。けれども、その異邦人がイスラエルの神をあがめ、神の民となると言うことは、汚れが清められ聖なる民とされると言うことです。そこにも罪の赦しの問題があります。

34節からは戦勝祈願の祈りですが、古代イスラエル戦いに勝つことは神の祝福であり、罪人は神の祝福を得ることは出来ません。しかも、ソロモン自身、36節では罪を犯さない人はいないと言っています。罪を犯さない人はいない故に、戦争で捕虜となって連れて行かれることがあるというのです。ですから、戦意での勝利を祈るとき、そこに神に罪ゆるされてこそ勝利できるという前提があります。そして、だからこそ、36節以降で、仮に罪を持ったまま戦いに望んで、捕虜になるようなことがあっても、悔い改めて、このみやの向って祈るならば、罪をおゆるし下さいと祈るのです。このように、ソロモンが、天地宇宙をつくられた全てを越えた神であり、世界中どこにいても、神にむかって祈りを捧げる事が出来るはずのお方に対して、「ただ神殿一点に目を注いで欲しい、私たちも、その神殿に向って祈りますから」と言うのは、神殿に罪の赦しと言うことがあるからなのです。

そもそも、神殿では一体何行われるのか、神殿の機能は一体何なのかということを考えてみますと、それは、動物の犠牲が捧げられる場所と言うことできます。イスラエルの人たちが犯した罪を贖うための動物の犠牲が捧げられる場所、それが神殿なのです。そのように、神殿においての罪の赦しのための贖いの供え物である犠牲の動物が捧げられるからこそ、「その神殿に目を注いで下さい。私たちもそこに目を向けます」というのです。捧げられた罪の贖いの供え物の、犠牲としてながされた動物の血は、神に罪が赦されるという確かな根拠なのです。そして、その根拠があるからこそ、人は神と交わることが出来るのです。本来なら、神は全てを越えた、全てを覆う超越者ですから、私たちは、いつでも、どこででも、神に祈り、神と交わることが出来ます。私たちは神と近い存在なのですし、神は私たちの身近にいてくださいます。けれども、そのように神の身近にいても、私たちの内に罪があるならば、神は近くて遠い存在なのです。罪という大きな壁が、私たちのすぐ側、近くにおられる神との間と隔ててしまっているからです。この私たちと神との間を隔てる罪という壁を取り除くための贖いの供え物が捧げられるのが神殿なのです。だからこそ、神に対しては、神殿に目を注いで頂きたい、私たちも神殿に向い祈りますということなのです。

今日、教会では動物を贖いの供え物として殺し、血を流すと言うことを致しません。またする必要もありません。それは、イエス・キリスト様が十字架の上で、私たちの罪の贖いの供え物として死んでくださったからです。イエス・キリスト様が十字架の上で、肉を裂かれ血を流して、私たちの罪を赦しを成し遂げてくださり、私たちを贖ってくださった、罪を赦して下さったのです。ですから、私たちは、ソロモンが、神に対して、彼が建てた神殿に目を向けて下さい、私たちもそこに向って祈りますと言ったように、私たちもイエス・キリストに向って祈らなければ成りません。イエス・キリスト様が、私たちの罪を赦す場だからです。だから私たちはイエス・キリスト様の名によって祈るのです。

しかし、イエス・キリスト様に向って祈ると言ってと言っても、それは二千年も前の出来事であり、私たちが顔を向けようにも向けようがありません。そんな私たちに、聖書は、教会はそのキリストの体であるといいます。そして、そのキリストの体である教会が、具体的にこの地上で表されたものが、いわゆる教会として全世界にある一つ一つの教会であり、私たち三鷹キリスト教会もその中の一つなのです。ですから、私たちもキリストの体なのです。ですから、教会では罪の赦しがなければ成りません。私たち一人一人が神の前に赦され、互いに許し合うという罪の赦しがそこで起こってこなければならないのです。私たちプロテスタント教会は、宗教改革という歴史的事件を気に、カトリック教会から分れ独自の歩みを始めました。その最初に時期に、自分たちの信仰の表明として、アウグスブルグ信仰告白というものが出されましたが、そのアウブスブルグ信仰告白に教会の役わりと言うことが記されています。そこには、教会は「福音を教え、聖礼典を行うべき役務が設定された」と書かれています。平たく言えば、人々に罪の赦しの福音を語り、洗礼と聖餐式が行われているところが教会であると言うことです。

よく、教会は会堂ではなく、神の民の会(群れ)が教会である。といいます。それは確かにその通り、正解です。しかし、その神の民の群れにおいては、福音が語られ、洗礼がなされ、聖餐が分かち合われていなければ、教会は教会としての機能を果たしてはいません。それは、私たちが神に祈り、神と交わることの出来る根拠だからです。福音は、イエス・キリスト様が私たちの罪が赦されると言うことの告知ですし、洗礼は、私たちが罪ゆるされたと言うことの宣言です。そして、聖餐は、その罪の赦しが今も私に及んでいる、今も赦の出来事が私たちの中に起こっていると言うことの証なのです。ですから、洗礼は受けて設けなくても良いというものではありません。また聖餐も与っても与からなくても言いよいとものではないのです。この、福音が語られ、洗礼がなされ、聖餐が分かち合われるところとして、会堂がある。それはまさに、神の宮、神殿であり、神と私たちが交わる場なのです。ともうしますのも、この福音が語られ、洗礼がなされ、聖餐が分かち合われるということ、これは全て礼拝と言うことと結びついているからです。ですから、礼拝を守るというこことは大切なことなのです。礼拝には、私たちの罪の赦しの根拠があります。そして、礼拝において、今も、私たちの内に罪の赦しが起こり、私たちが神と交わる場がそこに開かれているのです。

私は、加藤先生が、この教会の残していった功績の一つに、聖餐式を毎月行うようになさったということをあげることができるだろうと思います。10年ほど前になりますが、もう引退なさった私たちの教団の高橋政夫と言う先生が、日本ホーリネス教団の聖餐式の状況ということを調査なさったことがあります。聖餐式がどれぐらいの頻度で行われているか、その際にガウンの着用があるかなどと言ったことに関する調査です。どこかにしまい込んでしまったようで、その具体的な資料は見つからなかったのですが、毎月聖餐式をしている教会というのは、そう多くはなかったように思います。教会によっては、全く行わないという教会もあったように記憶しています。もちろん、聖餐式の執行は按手礼を受けた正教師しか出来ませんから、教会の牧師がまだ按手礼を受けていない場合、全く行われないという事もあるかも知れませんが、それにしても、聖餐が行われる頻度は決して多くはないのです。現在は、その調査から10年近く代わっていますので、その実体も随分と代わっているだろうと思いますが、それにしても、その時点で、この三鷹の教会では毎月聖餐が分かち合われていました。

私は、残念ながら加藤先生とは聖餐に関しての神学的意義とか意味と言ったとについて、深く突っ込んだ話はしたことがありませんでした。それは加藤先生と話の越した内容の一つなのですが、しかし、それでも、加藤先生が聖餐を大切に考えておられるということは、ひしひしと伝わってまいりました。そして、それは、加藤先生が私たちの教会に残して下さった大切な信仰の遺産の一つなのです。そういった意味では、私たちは、その遺産を受け継ぎ、聖餐式の在り方やもち方と言ったことを深めていかなければならないだろうと思いますし、聖餐に対する理解も深めていかなければならないだろうと思います。そのようにして、渡した誌の罪が赦されたということ、いえ、今も罪の赦しが神を信じる私たちの中に起こっているのだと言うことを確かめながら、私たちの信仰の歩みを歩んでいかなければならないのです。福音が語られ、罪の赦しが宣告され、今も罪の赦しが私たちの中に起こっている。福音が語られ、洗礼が行われ、聖餐が分かち合われる礼拝という場、それが、この教会堂の中で毎週毎週起こっているのです。

そのような、礼拝が捧げられる教会堂は、聖なる場所です。それは、単に言葉だけでなく、聖なる場所であるという、具体的な根拠にもとずいています。歴代誌下7章1節から4節を御覧下さい。そこにはこう書いてあります。「ソロモンが祈り終わったとき、天から火が下って燔祭と犠牲とを焼き、手の栄光が宮に満ちた。主の栄光が主の宮に満ちたので、祭司たちは主の宮に入ることができなかった。イスラエルの人々はみな日が下ったのを見、また主の栄光が宮に望んだのを見て、敷石の上でひれ伏して拝し、主に感謝していった。「主の恵みは深く、そのいつくしみはとこしえに絶えることがない。」そして、王と民とは皆主の前に犠牲を捧げた。ソロモンが、「神殿という罪の贖うための犠牲を捧げる場に目を向け神に祈りますが故に、あなたもその場に目を注いで下さい」という祈りが捧げられたときに、天から火が下って神殿に神の栄光が満ちたと言うのです。天から火が下ったと言うことは、神がいけにえを喜んで受けれて下さったと言うことを示す行為だと言われます。そして、神殿に神の栄光が満ちたというのは、神がそこにいて下さるということです。いけにえの犠牲が捧げられ受け入れられるとき、そこに神がいて下さる。ご臨在下さるのです。ソロモンは「天も、いと高き天もあなたを入れることは出来ません。わたしが建てたこの家など、なおさらです。」といいました。確かに、神は人間のつくった神殿に収まるようなお方ではありません。しかし、そのお方が、罪の赦しのための犠牲が捧げられるとき、そこにごり臨在下さるのです。

そのことは、今日の教会に置いても変わりがありません。教会が礼拝を捧げ得るときに、神が礼拝という場にご臨在下さっている。それこそ、ソロモンが建てた壮大な神殿に比べれば、私たちの教会堂は、本当に、小さな家でしかありません。ですから、この教会堂に天地創造の神をお迎えするとことなど、到底出来るものではありません。けれども、私たちがイエス・キリスト様の十字架の死による罪の贖いという福音を語り、洗礼を行ない、聖餐を分かち合うところの、礼拝を捧げていくならば、聖霊なる神が、私たちのこの教会に、神の臨在を満たしてくださるのです。だからこそ、この礼拝を捧げる場である三鷹キリスト教会という私たちの教会堂は、聖なる場所となるのです。ですから、私たちが礼拝を捧げるとき。神の御霊が臨在し、キリストの御霊が臨在する聖なる空間です。そして、今、ここで私たちは、礼拝を通して神と交わるのです。そして、教会堂において礼拝を捧げるという、教会本来の機能を失わない限り、たとえ教会堂の外観が変わるようなことがあったとしても、そこは聖なる場所であり続けますし、私たちにいに理の根拠となる場所です。ですから、どうぞ忘れないでいて欲しいのです。私たち一人一人が祈りを捧げるとき、私たちは、このこうして礼拝を捧げているその礼拝の上に、祈りがさげられ、聖書の言葉が読まれているのだと言うことをです。

私たちが、祈りの最後に、「イエス・キリスト様の御名によってお祈りします」と言うとき、それは単に祈りの締めくくりの言葉ではなく、私たちが教会に顔を向け、教会で捧げられている礼拝に子を務得て祈っているのだと言うことを、堂か、心に留めていただきたいのです。私たちの罪が赦されたということは、何か実体のない観念的なものでもなければ、心でそう感じるというような主観的なものではありません。もちろんそれらも大切なものではあるのですが、それだけではない、礼拝を守るという具体的な出来事の中に、私たちが罪ゆるされて神に救われたというが具体的に表されているのです。神に罪ゆるされて救われた、言い換えれば神に愛された、あるいは愛されていると言うことです。愛というものは、なかなか形では見えて気まま先。それは、心の心情だからです。しかし、その心に心情も、様々な具体的な行為を通して知ることが出来ます。同じように、礼拝において福音が語られ、洗礼が授けられ、聖餐が分かち合われていくそのことが、私たちを神が愛して下さっている、私たちに目を注いで下さっていると言うことの紛れもない証しです。だからこそ、私たちも真心を込めて神を礼拝していきたいと思います。そのように、神に真心を込めて礼拝すると言うことが、神の愛にお答えすると言うことになるのです。 この事を覚え、これからも皆さんと一緒に真心を込めた礼拝を、この会堂の聖なる空間の中で守りつつづけていきたいと思います。

お祈りしましょう。