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羊飼い 降誕節第一主日
『不安と恐れの中での告知』
ルカによる福音書1章26−39節
2006/12/3 説教者 濱和弘
賛美  20、67、394

先日、新聞を見ますと、一面に、レオナルド・ダ・ヴィンチの書いた「受胎告知」と言う絵が、来年3月に日本にやってくると言う記事が出ていました。今年は、ダ・ヴィンチコードという小説や映画で、レオナルド・ダ・ヴィンチと言う名前をよく耳にしましたが、ダ・ヴィンチの描いた絵というのは、最も有名なものが、「最後の晩餐」ですが、この「受胎告知」もまた、彼の作品の中では対策と呼べるものの一つです。今日、司式の兄弟にお読みいただきました聖書の箇所は、まさにその受胎告知の場面です。ここには神からの御使いガブリエルが、マリヤの所にやってきて、「あなたは身ごもって、聖なるものである神の子イエスを生む」とそう告げられた出来事が記されている。この受胎告知の場面を、ダ・ヴィンチも描いているのですが、中世の絵画、特に宗教画を描くときには、実はその描かれるモチーフごとに、持ち物やある使う色といったものに対する一定の大まかな決りごとがあります。そのような決まり事をアトリビュ−トというのですが、たとえば、受胎告知であれば、純潔の象徴である白百合を天使が持っている、あるいは飾ってあるとか、マリヤは蒼い服を着て、読書をしている(聖書をイザヤ書を読んでいる)といった風に描かれているのです。そして、構図的には向って右にマリヤ、左に天使が書かれています。

先程のダ・ヴィンチの受胎告知も、そのような約束事にのっとって書かれています。そして、他の画家の描いた受胎告知の絵、たとえばアンジェリコやフランチェスカ、ボッテチェリたちと同様に、厳粛な静けさの中で、厳かにイエス・キリスト様の受胎が告知が起こったように記されているのです。そのような、受胎告知の絵の中で、一つだけ異彩を放つ作品があります。それはロレンツォ・ロットという人が1527年に書いた「受胎告知」です。ロレンツォ・ロットと言う人は、1480年から1556年というのですから、ミケランジェロやラファエロ、レオナルド・ダ・ヴィンチと言った人と同時代の、いわゆる16世紀ルネッサンス時代の人です。そのロットの「受胎告知」をみますと、マリヤは青い衣をまとい、天使の手には白百合の花が握られています。また、確かに書見台があり、そこには聖書が開かれているのですが、マリヤは天使の出現に動転し、恐ろしさと不安の中で逃げだそうとしているのです。もちろん、他の受胎告知の作品でも、「どうしたことだろうか」というマリヤの戸惑いといった表情をした作品もあります。ボッテチェリの「受胎告知」のマリヤなどは、そのような戸惑いの表情をしていると言われます。けれども、静けさと荘厳さの中での、深い思慮に満ちた戸惑いなのです。ところが、ロットの「受胎告知は」驚きと混乱、恐怖とうろたえの中にあるマリヤの姿を描いているのです。部屋の中にいる猫までが、身を縮めて天使を恐れています。

そこで、今日の聖書の箇所ですが、この聖書の箇所を読む限り、マリアにはロットが描くような混乱や恐怖、うろたえといったものは感じられません。むしろ、他の多くの画家が描いているような静けさと荘厳さを感じさせるような穏やかな表現になっています。けれども、私は、このロットの描いた「受胎告知」の場面があながち間違っているとは言えないような気がするのです。ともうしますのも、実際に私の前に、御使いが突然現われたならば、きっと私は、驚き、おそれ、混乱して、きっと不安を感じるだろうと思うのです。マタイによる福音書14章22節以降には、イエス・キリスト様が、夜、弟子たちを船に乗せて、先に湖の向こう側に渡るように出発させた後、ご自分は後から歩いて湖を渡っておられた出来事が記されています。その時弟子たちは、暗い夜の湖を歩いて渡っているイエス・キリスト様のお姿を見て、幽霊だといっておじ惑い、恐怖の余り叫び声を上げたというのです。私も、その場面にいたならば、きっと弟子たちと同じようにしただろうと思います。そして、それと同じように、今ここで、私の右に突然御使いが姿を現したら、「おお!」といって、ほうほうの体で、私はこの講壇から逃げ降りるだろうと思います。そして、何が起こっているのか変わらない混乱と恐れの中でうろたえているだろうと思うのです。きっと不安を感じて冷静ではいられないだろうと思います。みなさんは、いかがでしょうか?

そのように、驚きと戸惑いの中で恐れ、おじ惑うのは、予想もしなかった出来事、経験したことのないような出来事に直面した人間の素直な感情ではないかと思います。まさに新しい事態に出くわし、これから一体なのが起こるのか、どうなっていくのか、いえそれ以上に、今一体何が起こっているのかわからない。そう言った状況に陥った時には、恐れ、戸惑い、混乱し、逃げ出したくなるのが、私たちの正直な気持ちではないかと思うのです。聖書の記述は、そのようなマリヤの気持ちを断片的にではありますが告げています。マリヤに御使いガブリエルが、「恵まれた女よ、おめでとう」と告げる言葉に、29節、「マリヤは、この言葉にひどく胸騒がして」と書いてあります。そして、そのマリヤに御使いは「恐れるな、マリヤよ。」と呼びかけています。この恐れるなと言う言葉、ギリシャ語の φοεω は、先程の、湖を歩いて渡るイエス・キリスト様を見て、恐れ、戸惑い、叫び声を上げている弟子たちに、「しっかりするのだ、わたしである。恐れることはない」といわれたイエス・キリスト様の言葉にある「恐れることはない」という言葉と同じものです。ですから、マリヤも、このとき、あの湖の上の舟の中で恐れおじ惑い、叫び声を上げるような狼狽ぶりを見せた弟子たちと同じよう姿を見せていたとも言えます。そして、それは、私たちが、思っても見なかったような事態に出くわし、全く知らない世界に出くわしたときに、私たちが見せる、驚きと混乱。そして、逃げ出したくなるような恐れと戸惑いなのです。

ロレンツォ・ロットと言う画家が、このような混乱し、恐れ、おじ惑うマリヤの「受胎告知」を描いたのは、ひょっとしたら、ロット自身が、全く新しい事態に直面し、混乱し、恐れを感じていたからかも知れません。と申しますのも、ロットがこの受胎告知を描いたのは1527年です。1527年というと、まさに宗教改革のまっただ中です。1524年から25年には、宗教改革をきっかけにドイツで農民戦争がありましたし、まさに、この絵が描かれた1527年5月には、神聖ローマ帝国の軍がイタリアに侵攻し、教皇庁のあるローマで殺戮や強奪をおこない、町を破壊するなどの非道を行った事件もありました。また、この時期は、度重なるペストという伝染病で、多くの人が亡くなっていったという記憶もあたらしく、また、オスマン・トルコ軍がいつ攻めてくるかといったそのような恐れもあり、明日はどうなるかわからないといった、一種の終末的な思想が人々の間に漂っていた時代でもあったのです。その中で、宗教改革という新しい時代が起ころうとしている。けれども、それもどうなっていくかわからない混乱の中にある。まさにそのようなただ中に生きていた、ロットの素直な思いが、この受胎告知の中のマリヤの恐れや戸惑いに重なり合って受け止められたのかも知れません。けれども、確かに、聖書に記されている受胎告知の出来事に、マリヤの驚きと混乱、恐怖とうろたえといったものを読みとって行くことは出来るかも知れませんが、しかし、それはただ単に、驚きと混乱、恐怖とうろたえで終わるものではないのです。

38節に「私は、主のはしためです。お言葉通りになりますように」というマリヤの言葉があります。この言葉は、マリヤの信仰の素晴らしを表す言葉として、教会では語られ続けてきました。そして、それは確かにその通りであろうと思います。しかし、そのすばらしい信仰は、アンジェリコやフランチェスカ、ボッテチェリ、そしてダ・ヴィンチといった人たちが描いた静けさの中で至ったマリヤの信仰であったとは限りません。ロレンツォ・ロットの描いた、逃げ出してしまおうとするほどの恐れと困難さを通って、最後の最後の行き着いた信仰であったかも知れないのです。いえ、むしろ、御使いガブリエルが、「恐れるな、マリヤよ。」と、そう呼びかけている言葉からすれば、そのように考える方が自然なようにも思えます。そのような混乱と不安、そういったものの中で、恐れおじ惑う。そんな人間の弱さを、最後の最後で乗り越えて、マリヤは「お言葉通りになるよう」と言うことの出来る信仰に至ったということもできるのかもしれません。いや、私にはむしろそのように思えるのです。そして、そのような人間の弱さを、何が乗り越えさせたのかというと、そこには、確信に満ちた御使いガブリエルの言葉ではなかったかと思うのです。その言葉は、「神にはなんでもできないことはありません」と言うものでした。それは、神が、ご計画なさったこと。神のお心にあること。それは、必ず神によって成し遂げられると言うことです。私たちの考えでは、決して出来ないと思われるようなことであっても、神がご経過砂されたことは必ず実現に至るのだと、御使いガブリエルはそういうのです。

そしてその証として、御使いガブリエルは、マリヤの親族のエリサベツの事例をあげます。最早年老いて、こどもを得ることは出来ないと思われていたエリサベツにこどもが与えたれた。この事実は、親族だっただけに、マリヤにも驚きを以て受け止められていただろうと思います。その出来事、マリヤが見聞きして知っている事例を挙げながら、御使いガブリエルは、神がご計画なさったと事は必ず実現する。神には出来ないことはないのだとそう告げるのです。そして、その神のご計画は、28節に「恵まれた女よ、おめでとう、神があなたと共におられます。」というものでした。神がマリヤを恵まれる。そのご計画は必ず実現するからこそ、マリヤは「わたしは、主のはした目です。お言葉通りこの身が成りますように」とそう言うことが出来たのだろうと思います。この時マリヤの年齢は、ヨセフと婚約中であったと言ったところから、十代前半ではなかったかと言われています。もちろんこれは、当時のユダヤの事情からの推測です。しかし、例え10代前半であったとしても、1章46節から55節の、マグニフィカートと言われるマリヤの賛歌をみると、随分としっかりとした人であった事が伺えます。ですから、マリヤは、当時のユダヤ人社会の中で、未婚の自分がこどもを身ごもると言うことが、どういうことかということを十分に知っていただろうと思います。それはただならぬ尋常な事態をもたらすものなのです。

けれども、親族であるエリサベツに起こった現実の出来事を引き合いに出しながら、揺るぎのない確信を持って、神には出来ないことがないとそう告げられる中で、マリヤは「恵まれた女よ、おめでとう、神があなたと共におられます。」と言う言葉に、自分のみを委ねられたのだろうと思います、いや、それだけでもマリヤは本当にすごいとそう思わざるを得ません。けれども、このマリヤの受胎告知のもの語りは、マリヤだけの物語ではないのです。たとえばそれは、ロレンツォ・ロットの物語でもあっただろうと思うのです。中世からルネッサンス期の画家というのは、近代の画家とは違い、一般的に自分の描きたい絵を描くというのではなく、以来を受けて注文された絵を描くといった感じでした。ですから、ロットも誰かから依頼を受けてこの受胎告知を書いたと思われます。そして、その描かれたものを見ますと、ちゃんとマリヤのアトリビュ−トである青い衣と白百合が描かれていますから、全く型破りな絵を描いたわけではないと言うことがうかがわれます。ただ、構図とモチーフだけは、従来の落ち着いた静けさの中で、受胎告知というとてつもない出来事に向き合っているマリヤではなく、驚きと恐れの中で今にも逃げだそうとするマリヤを描いている。そして、それは、まさに中世から近世に移り変わる、ルネッサンス、宗教改革という時代のうねりの中に飲み込まれていく、ロット自身の不安な気持ちだったかも知れないのです。ロットの受胎告知は、そのような不安さが伝たってわって来ます。

おそらく、ロットは、本来の受胎告知を描くときの構図、天使を左に描きマリヤを右に描いて、静かな荘厳さの中で描くということを知らなかったわけではないだろうと思います。けれども、激しい時代の変化の中で、ロットの言いようのない心の不安が、婚約中とは言え、まだ結婚もしていない自分が神の子を宿すという出来事に直面して、恐れ、不安を感じ逃げ出したいような思いに駆られるマリヤの不安と重なり合ったのだろうと思うのです。そして、そのような不安や恐れといったものは、私たちにとっても無縁なものではありません。様々な問題や心配事といったことが、私たちの生活の中にはいっぱいあります。実際に、クリスチャンといえども、様々な試練や試みに合うことも少なくはないのです。そして、私たちもまた、試練や試みにあうならば、私たちの心を悩ませたり、不安にさせたりします。だれでも、問題に直面したならば、それから逃げ出したい気持ちになるのです。いえ、それだけではない。神を信じて生きるということ、それは私たちに、今までとは全く違った生き方へと導いていきます。今までの、ごく当たり前の生活の中にそれまでにはない、新しい出来事を起していきます。そう言った中で、クリスチャンになったからこそ経験する、様々な問題といったものもあるだろと思います。時に、日本という社会においてはそうかも知れません。

以前、ある教会に招かれていったときに、一人の青年とお話する機会がありました。彼は教会に来て久しく、神を信じクリスチャンになる心の準備は出来てきたのですが、どうしても、一歩を踏み出していけないでいったのです。聞きますと、その方は大きな家のいわゆる本家を守っていかなければならない立場にあり、つまりは、お墓と仏壇を守っていかなければならない立場にあると言うことでした。そのために、自分がクリスチャンになると、親戚筋との付き合い等々で、何かと色々な問題が出てくるのではないかと言うことを心配なさっていたのです。その方の、ご様子をみていますと、なるほど繊細な方なのだろうなと言うことを感じられます。ですから、自分がクリスチャンとなり、洗礼を受けることによっておこる家との関わり合いの問題を思うと不安で仕方なかったのだろうと思います。洗礼というのは、単に洗礼式を受けたら終わりという、一回か限りのものではありません。洗礼は、神を信じるものが、古い自分に死んで、神を信じるものとして新しく生まれると言うことを表すものでもあります。そこには、私たちを愛し、罪を赦す神の深い愛があります。そして、私たちを祝福し、恵みを与えようとする神のお心、ご計画があるのです。しかし、神を信じるものとして新しく生まれたとしても、私たちは実際にはこの世の中で生きています。そういった意味では、私たちクリスチャンは、この世という現実の世界と、神の国と言う霊的な世界との接点で生きていると言うことができるのです。

そして、それは、洗礼と言う出来事が、現実生きているこの世と、神の国との狭間の出来事であるという事を意味しています。つまり、クリスチャンが洗礼を受けると言うことは、ただ単に通過儀礼的に一回限りの洗礼を受けるというのではないという事です。洗礼を受けたものは、この世で生きている限り、日々、その洗礼という出来事の中で生きているということになります。その洗礼には、罪の赦しがあり、私たちを祝福し、恵みを与えて下さる神の愛と神のお心があります。ですから、洗礼を受けたもの一人一人は、この私たちの罪を赦し、恵みと祝福を与えようとする神の愛と慈しみのお心の中で生かされているのです。そして、神のお心、ご計画は必ず実現します。神には何でも出来ないことはないからです。そして、そのことは、歴史の出来事が示している。このあとのマリヤの生涯がどのようなものであったか、聖書は余り多くのことを語ってはいません。イエス・キリスト様以外に、ヤコブ、ヨセ、ユダ、シモンという男兄弟と何人かの姉妹がいたとありますから、子供には恵まれていたのかも知れません。しかし、同時に、夫のヨセフは早死にしたのではないかともいわれていますので、そう言った面では苦労したのかも知れません。ときには、宣教の旅に出たイエス・キリスト様の「あれは悪霊によって不思議なことを行っている」とか「気がおかしくなっている」といった世間の評判に、心配させられ、イエス・キリスト様を連れ戻そうとしたこともありました。

そして何よりは、それは神の御子であり、救い主であろうと、自分が生んで、オッパイを与え、育てた子が、自分の目の前で十字架につけられ無惨な死を遂げたのです。自分の子の無惨な死に様を見守らなければならないマリヤの心中を考えますと、マリヤの生涯は、決して良い生涯であったようには思えません。それこそ。御使いガブリエルの語った「恵まれた女よ、おめでとう、かみがあなたとともにおられる」と言う言葉も、また受胎告知を受け入れたマリア自身が、47節「私の霊は救い主なる神をたたえます。この卑しい女さえ、心にかけて下さいました。今からのち代々の人はわたしをさいわいな女というでしょう」いった言葉も、彼女の生涯には訪れなかったように思われます。しかし、今ここで、キリスト教の歴史を振り返ってみますと、キリスト教2000年の歴史の中で、マリヤは多くの人から慕われ、尊敬の念を以て見てこられました。私たちプロテスタント教会は、中世の教会のマリヤに対する崇敬が余りにも行き過ぎてしまっていた反動で、マリヤに対して、ほとんど述べられてきません。しかし、この受胎告知の出来事一つを取ってみても、マリヤに学ぶべき所も多くあるのです。そういった意味では、マリヤのこの地上での生涯は、神の国とこの世との激しい攻めぎあいの狭間で、様々な苦難や困難を負ったことでしょう。また悲しみも決して少なくはなかったであろうと思います。そんなマリヤの生涯も、今は主イエス・キリストにあって、祝福され、恵みを受け、さいわいな女と呼ばれるようになったのです。

もちろん、人によっては、生きている間に報われなければ何になるのかと思われ方もいるかも知れません。しかし、今わたしたちが生きている、時間と空間は限られた時間と空間です。けれどの、神の与える祝福と恵みは、そのような限られた時間と空間に制限されることのない永遠のものなのです。ですから、マリヤは、今もなお、神の恵みと祝福の中に置かれ続けていると言っても良いのです。そして、それはつまり、あの恐れ、不安を感じ逃げ出したいような思いに駆られた受胎告知の出来事からはじまったマリヤの物語が今もなお続いているということでもあります。きっと、マリヤはこれからもずっと、さいわいな女と呼び続けられ続けるでしょう。このマリヤの物語は、ロレンツォ・ロットの物語でもあっただろうと思います。だから彼は、従来の慣習を打ち破ってでも、恐れと不安の中で混乱し、逃げ出そうとするマリヤの受胎告知を描いたのだろうと思います。きっと自分もまた、不安と恐れの中で混乱し、不安定になっている心に救いが欲しかったからのでしょう。そして、私たちもまた、不安や恐れに駆られ、心が落ち着かない不安定な思いになる事があるならば、どうぞ思い出して欲しいのです。マリヤの物語は私たちの人生の物語になると言うことを。

そして、その物語は、どんなに恐れや不安がっても、また事実その恐れや不安が現実の苦難やコンなおして襲ってくるような時代が起こってきても、神は、神を真実ものに豊かな恵みと祝福へと導いて下さるのです。それは、単なる一時的なものではありません。永遠に続く祝福と恵みなのです。その物語を、私たちは渡した死の人生に作り上げていくために、私たちもまた、マリヤのように言わなければなりません。「わたしは主のはしためです。お言葉通りこの身になりますように」と、そう「神に向って言わなければならないのです。それは、私たちがキリストの体なる教会の肢体として、この世にあっては、教会に繋がり、神のみ旨に従いながら生きていくということなのです。

お祈りしましょう。