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羊飼い 降誕節第二主日
『真の羊飼いなる神』
エゼキエル書34章1−24節
2006/12/10 説教者 濱和弘
賛美  155、68、206

今、司式の兄弟にお読みいただきました聖書の箇所は、旧約聖書のエゼキエル書です。エゼキエル書は、イスラエルの民が、バビロンで奴隷して捕われていったいわゆるバビロン捕囚の時に、捕われの地であるバビロンで、エゼキエルが伝えた神のメッセージが記されています。その内容は、ユダヤの人々に対する救いのメッセージでした。ユダヤの人々は、彼らが神の前に罪を犯したために、神の裁きとして、彼らは、奴隷としてバビロニア帝国に連れて行かれ姉妹待っていたのです。その捕われ地バビロンから、神は彼らの祖国に連れ帰って下さるというのです。ユダヤの人々が神の前に罪を犯したと書かれていますが、具体的には、聖書の神を捨て、異教の神々に仕えるといった宗教的な罪が上げられます。エレミヤ書の7章を見ますと、自分の子どもを神に捧げる犠牲としてベンヒンノムの谷で焼いたなどという記述などもあります。そんなひどいことが行われていたのです。ベンヒンノムの谷は、聖書に於いて地獄と訳される言葉ゲヘナという言葉の語源です。まさに地獄絵図のようなことが、この時代のユダヤの人々の間で、宗教的行為として行われていたのです。彼らが、聖書の神を捨て、異教の神を崇めるようになったとき、それと同時に、彼らは神の戒めをも捨てました。その結果、ユダヤの民の間の社会正義というもの崩れ始めました。そして、貧しい者や弱い立場にある者が虐げられ始めたのです。

というのも、ユダヤの民を支えていた神の戒めというのは、十戒を頂点に律法と呼ばれるものです。その律法は宗教的内容の部分である神と人との関係に関する戒めと、人と人との関係に関わる、いわゆる社会ルールを定めるような戒めがありました。それを見ますと、ユダヤの人たちの社会は、高い道徳心に支えられた相互扶助的高度な福祉国家であった事がうかがわれます。それは律法が、社会的弱者に対する配慮を求めているからです。しかし、そのような戒めを与えた神を、ユダヤの人たちは捨てたのです。神を捨てるということは、神を恐れなくなるということです。ユダヤの民は聖書の神を恐れることなく、自分勝手に、言うなれば好きずきに自分が好む神を拝み、自分の利益を追求するようになったのです。その結果、貧しい人たちや社会的弱者の人たちが虐げられるようになって行きました。時代はくり返すと言いますが、幼児がベンヒンノムの谷で犠牲として殺され、貧しい者や弱い者が虐げられている世相は、今の時代に重なり合うような気もしないわけではありませんが、ともかく、そのような罪のために、イスラエルの民は、神の裁きとしてバビロンに奴隷として連れて行かれるのです。もちろん、神はいきなりユダヤの民をお裁きになると言うことをなさったわけではありません。旧約聖書歴代誌下36章を見ますと、神は何度も何度も預言者を送って、神に立ち返り、正しい道を歩むようにとお語りになっておられます。

けれども、ユダヤの人々は、その預言者達が伝える神の言葉を軽んじ、彼らをあざけり、ののしったと聖書は告げています。そして、ついに救う言葉出来ず、神の怒りが下ったと告げるのです。その神の怒りが下ったところの神の裁きがバビロンに捕われに身として、連れて行かれると言うことでした。それも王が連れて行かれるといった一人、二人のことではなく、民族のほとんどが連れていう、大きな出来事だったのです。エゼキエルは、その、奴隷として連れて行かれていたバビロンの地で、神の裁きのただ中で、神の言葉を伝えていたのです。そのエゼキエルが伝えた神の言葉の中で、先程司式の兄弟にお読みいただいた箇所は、ユダヤの人たちに対する神の回復の約束が語られている部分です。回復と言いますが、要は救いであり赦しです。神の裁きの中に置かれている人々に、神が罪を赦して下さり、神の裁きから救って下さるというのです。おそらくは、エゼキエルと共にバビロンに捕われの身となっていた人たちは、深い失望と不安と恐れの中にあっただろうと思います。そのような中で、エゼキエルは希望を語るのです。それは、聖書の神は、真の牧者、すなわち羊飼いたる神だからです。その羊使いたる神のお姿が、まさに今日お読みいただいた聖書の箇所に示されているのです。羊飼いというの、羊と寄り添い歩みながら、羊を養い育てます。ですから、神がその羊飼いの姿になぞらえられるようなお方であるということは、聖書の神は、神の民と共に寄り添い歩み養いそだててくださる神であるということです。

そこで、34章1節から6節迄をみますと、1節に人の子よ、イスラエルの牧者たちによって預言せよ。預言をして、彼ら牧者に言え。主はこう言われる」と記されています。この時、エゼキエルが「イスラエルの牧者たち」といっている牧者は、神の子とではありません。むしろ、ここで言う「イスラエルの牧者たち」とは、当時の王や指導者たちを指す者と考えるべきです。ユダヤの王や指導者は、もともとは神対して誠実に歩み、神のお心に添って民のことを顧みなるべき存在でなければなりませんでした。本来あるべき言うや指導者の姿は、弱ったものを強くし、病んでいるものを癒やし、傷ついた者を包んで、迷っている者を連れ戻し、失われた者を探し出すといった、そんな姿だったのです。そして、それこそが、真の羊飼いの姿なのです。けれども、エゼキエルの時代の王、エホヤキンという王様であったと思われますが、そのイスラエルの王や指導者達は私腹を肥やし民のことを顧みなかったがゆえに、民が苦しむことになってしまったというのです。そういった意味で、この時代のユダヤの民には羊飼いがいない状況だったと言えます。そして、神の民である羊自身も神を見失っていたのです。その結果として、国が滅び、バビロンという遠い異国の地に連れて行かれてしまっている。それが、この当時のユダヤの人たちの状況なのです。いずれにしても、ユダヤの王や指導者たちが牧者としてユダヤの民の羊飼いとしての責任を果たさなかったことが、彼らの苦難の大きな原因でした。だからこそ、エゼキエルと通して、神はこの34章でを厳しく糾弾しています。

しかし、だからといって民は、ただその指導者達の罪のとばっちりを受けて神の裁きにあっているかというと、必ずしもそうとは言えません。確かに、今日の聖書の箇所だけを見れば、エゼキエルの言葉に、民衆を責め、糾弾するような感じは見受けられません。けれども、ユダヤの民衆もまた、たとえ王や指導者達がどうであたにせよ真の神を見失ってはならなかったのです。だからこそ、エゼキエル書には、くり返し、くり返し「あなた方は、わたしが主であることを悟るようになる。(あるいは知るようになる)」と言う言葉がのべられるのです。その数は、なんと70回以上に及ぶと言われます。そんなわけで、このエゼキエル書を読み解く鍵となる言葉は、この「あなた方は、わたしが主であることを悟るようになる。(あるいは知るようになる)」と言う言葉であるといわれるのです。ユダヤの王も、指導者も、民も、彼らに決して神の民に寄り添い歩き導いておられる真の羊飼いである神であるお方を知って、決してこの方を見失ってはならないのです。だからこそ、神もまた神を見失ってしまった羊を尋ねて探し出して下さるのです。ですから、このエゼキエル書34章7節以降は、この世の王や指導者ではなく、神が私たちの真の羊飼いとなって、私たちを導き養って下さるという約束が語られています。まさに、神を見失って、遠い異国に奴隷の民として捉えられている人たちに、神はあなた方を忘れてはいない、あなた方を捜し求めておられるのだとそう言うのです。

そしてあなた方を緑の牧場に伏させ、泉のほとり憩わせ、あなた方を養ってくださる。そして、傷ついた者を包み、弱った者を包んでくださるとそう言われる。私は、このように語るエゼキエルのかたわらで、この言葉を聞いた人はどんな気持ちで効いていただろうかと思いめぐらしていました。遠い外国で、希望もなく失意のどん底にある人達が、このようなエゼキエルの言葉、いえエゼキエルを通して語られる神のメッセージを聞くのです。涙を流しながら聞いていた人もあるだろうと思います。顔を伏せてうつむきがちだった人も、顔を上げ、食い入るようにして聞いていたのではないかと思うのです。エゼキエルの言葉には、希望があったからです。慰めがあったからです。そして、その希望も慰めも決して虚しいものにはなりませんでした。この言葉が語られてから50年から55年たってではありますが、ユダヤの民は祖国に帰ることができたのです。もちろん50年という年月は決して短い時間ではありません。ですから、中には祖国への帰還という喜び時を見ることなく、無くなってしまった方も少なくはなかっただろうと思います。けれども、エゼキエルの伝えた神のメッセージは、単に、国に帰ることができるという者ではありません。それは神があなた方を決して見捨てたのではない、神はあなた方と共にいるという約束なのです。この約束をしっかりと心で受け取っていたならば、例えとらわれの身という状況の中にあっても、きっと支えられただろうと思うのです。なぜならば、彼らは決して神に見捨てられているわけではないからです。苦しみや悲しみの中にあっても神は彼らと共に住み、共に歩んで下さっているのです。

伝道者の書4章9節10節にこういう言葉があります。「ふたりはひとりにまさる。彼らは良い報いを得るからである。すなわち、彼が倒れるときには、そのひとりがその友を助け起す。しかしひとりであって、その倒れる時、これを助け起す者のない者はわざわいである。」「ひとりであって、その倒れる時、これを助け起す者のない者はわざわいである。」といわれます。けれどもエゼキエルは「われわれはひとりではない」というのです。それは、神が私たちの羊飼いとなってくださり、私たちと伴い、導き、養ってくださるからだというのです。今日は降誕節第二主日礼拝です。キリスト様の降誕を心に覚えながら過ごすアドベントの第二主事つと言うことですが、イエス・キリスト様はインマヌエルと呼ばれるとマタイによる福音者1章23節で言われています。インマヌエルとは「神、われらと共にいます。」と言うことです。イエス・キリストはインマヌエルと呼ばれる。これは、第一義的にはイエス・キリスト様御自身の中に、神性(神としての本質)と人性(人間としての本質)とが伴っているという事であろうと思います。神学的用語で言うならば神人両性と言うことです。しかし、同時に、神の一人子であるイエス・キリスト様が私たちと共に住んで下さると言うことでもあります。神であるお方が人となって私たちの間に住まわれたからこそインマヌエルなのです。

いみじくも、今日の聖書箇所エゼキエル34章1節から24節の最後の部分、23節からは、そのイエス・キリスト様の到来を予感させる言葉になっています。「わたしは彼らの上にひとりの牧者を立てる。すなわちわがしもべダビデである。彼は彼らを養う。彼は彼らを養い、彼らの牧者となる。主なるわたしは彼らの神となり、わがしもべダビデは彼らのうちにあって君となる。主なるわたしはこれを言う」「わたしは彼らの上にひとりの牧者を立てる。すなわちわがしもべダビデである。」とありますが、ダビデは、これよりもずっと以前の人です。ですから、ここで言われている、彼らの上に立てられる牧者であるわがしもべダビデというのは、ダビデの家系に生まれるダビデに匹敵するような存在であると言うことです。ダビデという王は、神を畏れ敬い、ユダヤの人たちを正しく導いた人であると言えます。そのダビデに匹敵するような存在として、イエス・キリスト様が、ダビデの家系の中にお生まれになるとそう言うのです。エゼキエルの時代、エゼキエルが、「神が共に歩み共に住んで下さる」と言い、それをその言葉通りに受け止めたとき、その言葉は彼らの心の支えとなり慰めとなっただろうと思います。それは約束の言葉がもたらす支えであり慰めです。しかしながら、イエス・キリストというお方は、具体的に歴史の中に住み、歴史の中で私たちと一緒に生きられたのです。まさに、現実に私たちと共に歩み、導き養われた、そんな牧者、羊飼いであられたのです、

このお方が、私たちの羊飼いとなり、今も私たちと共のいて下さるのです。もちろん、実際の歴史の中に足跡を残されたイエス・キリスト様は十字架の上で、私たちの罪を赦すために十字架につけられ死なれました。その十字架の死が、神と私たちの間の関係を回復して下さったのです。そして、死んで葬られ、三日後に蘇り天に昇られました。ですから、2000年前のように肉体を以て私たちの中に住んでいると言うことではありません。けれども、イエス・キリスト様は、私たちの所にご自分の御霊つまり聖霊なる神を遣わすと言われたのです。そして、ペンテコステの時に、約束通り聖霊なる神が私たちの所に送られたのです。こうして教会の歴史が始まりました。それは新しい神の民の歴史、教会の歴史が始まったのです。私たちも、その教会の一つなのです。ですから私たちは、聖霊なる神によって、今もイエス・キリスト様が私たちと共にいて下さり、導いて下さり、養って頂くと言うことを経験することが出来るのです。祈りのうちに、また聖書を読む中で、私たちは、イエス・キリスト様にある導きや慰めをいただくことが出来るのです。エゼキエルの時代の人は約束の言葉によって支えられましたが、イエス・キリスト様が聖霊なる神を通して私たちと共にいて下さるとことによって導かれ、支えられるのです。教会で、キリストの御現臨とか臨在と言うことはそう言うことなのです。

だからこそ、私たちは、イエス・キリスト様が私たちと共に歩んでいて下さるのだと言うことを意識して生きてく事が大切です。それは、神が私たちと共にいて下さると言うことと同じです。なぜなら、イエス・キリスト様は完全な御父のあらわれであり、全き人であり、全き神だからです。ですから、私たちは、このイエス・キリスト様というお方から目を反してはなりません。目を離すなといっても実際に目に見えているわけではありませんから、それはイエス・キリスト様のことを思うことを止めてはならないと言うことです。ことあるごとに、イエス・キリスト様であるなら場、どのように考え、どのように行動なさるかと言うことを思いめぐらせるのです。そのためには、私たちはイエス・キリスト様というお方をよく知らなければなりません。だから、聖書を読むのです。まただから教会に集うのです。カトリック教会には、ステーショナリーというものがあります。これはステーション、益と言うことですが、教会の中に絵やあるいは彫像が飾ってある。人々がその前に来ると、そこに立ち止まって、その絵や彫像を見ながら、イエス・キリスト様のことを思い瞑想するとのです。昔の人は、字の読めない人が多くいました。宗教改革の時代でも識字率は都市部であっても良くて30パーセント、農村部では5%程ではなかったかと言われます。ですから、聖書を読み事が出来ませんでした。おまけに、聖書もラテン語ですし、教会の礼拝もラテン語です。ですから、礼拝に言ってもなにをいっているのか、何をやっているのかもさっぱりわからなかったのです。

ひどい場合は、司式をしているその司祭自身がラテン語がわからないために、やっている本人が何をやっているかわからないと言うこともあったようです。わからないけれども、取りあえず習い教わったことをくり返すことで礼拝が成立していたというわけです。そんな状態の中で、絵画や彫像は。イエス・キリスト様というお方を伝えるためには大切な教育的役割があったのです。そんなわけ瀬、カトリック教会では、多くの絵画や彫像、あるいはステンドグラスなどを遣って、人々にイエス・キリスト様のことを伝え、教えたのです。その絵を遣って、イエス・キリスト様の御生涯をあらわし、それぞれの絵の前に来たならば、その絵を見ながら、その絵の場面のことを思い、イエスキリスト様のことを思ったのです。そうやって、イエス・キリスト様のことを思うことで、その当時の人々は神と向き合い、神を感じ取るところの霊性というものを養ったのです。そして、その目で見たイエス・キリスト様が私たちと共にいて下さる、私たちの羊飼いであると言うことを感じ取っていったのだろうと思います。今日の日本に住む私たちは、識字率は100%ですし、聖書も日本語に訳されている、また、プロテスタント、カトリックに限らず礼拝は母国語で行うことが出来ますので、礼拝で語れていることや何をやっているのかと言うことがわからないとと言うことはありません。

そういった意味では、絵に頼らなくても(もちろん頼ってもかまわないのですが)、聖書を読むことでイエス・キリスト様の事を知り、心に思い巡らして瞑想することが出来ます。そのように、しながら、私たちの霊性を養い、私たちと共に歩まれる神を、イエス・キリスト様という歴史的・具体的存在を通して感じ取ることが出来るのです。愛する兄弟姉妹のみなさん。イエス・キリスト様は私たちと共にいて下さいます。私たちと共にいて、私たちと共に歩んで下さいます。そして、私たちを導き、慰め励まし、そして支えて下さるのです。それはエゼキエルが、バビロンという、遠い異国後に奴隷として連れて行かれたユダヤの民に示した神のお姿と同じものなのです。ですから、イエス・キリスト様は、私たちの神であり、また真の牧者、羊飼いとなって下さるお方だと言えるのです。エゼキエルが、捕囚となって捕われている民に、神を羊飼いとして示したのは、彼らを導いてきたユダヤの王や指導者達が、誤って彼らを導いてきたからです。そして、そういった誤った指導者達に導かれたために、彼らもまた神を見失い、誤った道を歩いてしまったのです。だからこそ、あなた方が回復され、奴隷から解放されて祖国に帰ったら、今度はどんな指導者が現われても決してまどわされないで、ただ神に従って歩みなさいと、エゼキエルを通して、神はユダヤの民はそう教えているのです。

ユダヤの民を誤らせた指導者達の誤りは、彼らが自分自身を養うことに目を奪われたからです。要は私利私欲に走ったと言うことです。そのような私利私欲という者の背後には損得勘定があります。ですから、彼らを誤らせた指導者というのは、損得勘定で物事を考えるような指導者だったのです。つい先日も、ある方の裁判がありました。それは株取引に関する裁判でしたが、その方は、捕まる前にテレビカメラの前で「お金儲けをすることは悪いことですか」と言い切っておられました。確かに、お金儲け自体が悪いことかと言えば、悪いことだと言うことは出来ないかも知れません。しかし、お金儲けの根底にあるのは、損得勘定です。この損得勘定が先立つようなものに、神はあなたの人生を賭けるなと言われるのです。それは神の国とはほど遠いものだからです。そして、それは神が人間をお創りになった本来の人間像とはかけ離れたものなのです。神の国の原則は、神の愛です。神の思いやりと、慈しみが溢れているところが神の国なのです。そして、私たち人間は、元々は、この神の国に住む住人として、互いに思いやり、支え合うものとして創られているのです。ですから、私たちは、どんなに社会の風潮が損得勘定を優先したものになったとしても、それに盲従してはなりません。少なくともそのような風潮の中に教会を導き、私たちクリスチャンを導くものはなにのです。私たちにとって、私たちの生き方、教会の在り方を導き、私たちを養って下さる真の羊飼い、この歴史の中に人としてお生まれ下さり、実際に人として生きて下さった、イエス・キリスト様だけなのです。ですから、このイエス・キリスト様を見失わないように、祈り、聖書を読み、礼拝を捧げ、聖礼典に与りながら歩んでいきたいと思います。

お祈りしましょう。