三鷹教会のロゴ メッセージ

羊飼い 降誕節第三主日
『祝福の確かさ』
ゼパニア書3章8−20節
2006/12/17 説教者 濱和弘
賛美  1、86、357

さて、今、式の兄弟にお読みいただきましたゼパニヤ書は、三章からなる短い書です。ですから、旧約聖書の中では、小預言書と言われる部類に入れられています。確かに、短い3章の書物で、それこそ、分量としては3章、四、五頁ぐらいのものですから、ものの10分〜20分もあれば読み終えてしまいます。すが、しかし、このゼパニヤ書が見渡している世界は、全地宇宙の滅亡、終りといった所にまで、及ぶ実に大きなものです。このゼパニヤをお読みますと、そこには神の厳しい裁きについて書かれています。その神の裁きは主の日、主の大いなる日と表現されていますが、その神の裁きがやってくるというのです。

たとえば、1章2節からを見ますと「主は言われる『私は地のおもてからすべてのものを一掃する』。主は言われる。『わたしは人も獣も一掃し、空の鳥も一掃する。わたしは地のおもてから人を断ち滅ぼす』」と記されています。その「地のおもてからすべてのものが一掃」される主の日が近いと、ゼパニヤはそう告げるのです。2章14節〜16節です。「主の大いなる日は近い、その日はすみやかにくる。主の日の声は耳にいたい。そこに勇士もいたく叫ぶ。その日は怒りの日、なやみと苦しみの日、荒れ、また滅びる日、暗く、薄暗い日、ラッパとときの声の日、堅固な町と高いやぐらを攻める日である。」このゼパニヤが言う、主の日、主の大いなる日というのは、単にイスラエルの民に対する神の裁きと言うだけではありません。「主は言われる『私は地のおもてからすべてのものを一掃する』。主は言われる。『わたしは人も獣も一掃し、空の鳥も一掃する。わたしは地のおもてから人を断ち滅ぼす』」といわれているように、全ての人に神の裁き臨み、全世界が滅びるということを、ゼパニヤは見据えているのです。全世界が滅んでしまうなどと、今の世の中で声を大にして叫んでも、にわかに信じる人はいないのではないだろうかと思います。全世界などと大きく広げなくても、このままでは日本が滅亡しまうと言っても、やはり、耳を傾ける人はいないのではないないでしょうか。

そのような話を、ゼパニヤはゼパニヤ時の人々に語り聞かせたのです。ゼパニヤの時代というのは、1章1節にありますように「ユダの王アモンの子ヨシヤの世」、つまりヨシヤ王が南ユダの王様であった時代でした。それは、今から約2700年以上前の紀元前7世紀半ばのことです。このヨシヤ王は、八歳で王の位につきますが、10代半ばから、イスラエルの神にたち帰り、イスラエルの民が偶像崇拝から離れ、神の前に正しく歩ようにと宗教改革を行ない初めまた。具体的には、偶像崇拝の対象となっていた様々な像を取り除き、20代半ばには神殿の修復を始めたのです。その神殿を修復している際に、神殿でモーセが伝えた律法の書が発見されます。その、律法の書の言葉を聴いて、ヨシヤ王は「衣を裂いた」と聖書は記しています。「衣を裂く」とは悔い改めを表す表現です。それまで、イスラエルの神に立ち返り、偶像を取り除くと言った改革を進めてきたヨシヤでしたが、神の律法の書に書かれている内容をみると、まだまだ自分たちは神の前に悪を行っていると言うことに気が付いたのです。それでヨシヤは、更に改革を徹底します。つまり、徹底して罪をイスラエルの民の中から取り除かないかぎり、神の裁きからは免れ得ないと知るのです。そして、偶像崇拝に関わるようなものは、器から何から全て焼き捨て、かって偶像礼拝が行われた場所も全てこわしていきます。そして、自分を含め人々が神が与えた律法の書に従って生きていくようにとしていったのです。

このような事が行われたその時代に、ゼパニヤはこの神の強烈な裁きを語るメッセージを人々に語り聞かせたのです。ですから、このゼパニヤが伝えたメッセージは、ヨシヤ王の強力な後押しになっただろうと思います。そういった意味では、現代においては、「にわかに信じ難い内容で、耳を傾ける人などほとんどいないのではないか」と思われるメッセージも、ゼパニヤの時代では、それなりに役割を果たしたと言えるかも知れません。ですから、これは2700年前の人に対するメッセージなのであって、現代の私達には関係がないものだと思われるかも知れませが、そうではないのです。ともうしますのも、この宗教改革を行ったヨシヤはわずか31歳で戦死するのです。そしてヨシヤが死んでしまうと、次に王となったエホヤキンも、またイスラエルの民も、かってイスラエルの民が行っていたような悪に立ち返ってしまうのです。つまり、人の心の中に住み着いている悪、罪の心は、一人の傑出した良い王が指導力を発揮して改革をしても取り除けなかったと言うことです。ヨシヤは偶像や偶像礼拝をする場所、道具、偶像に仕える祭司と言ったものを、神の前に悪だといって全て取り除き清めたのですが、人の心の中にある悪は取り除けなかったのです。

そして、本当に一つ残らず取り除かなければならない悪は、私達の心の中にあるのであって、本当に全く清められなければならないのは、私達の心なのです。だからこそ、ゼパニヤは、2章において、ただイスラエルの民に対してだけでなく、ペリシテ、モアブ、アンモン、アッシリアといった諸外国の滅亡、それはつまり全世界が滅びるというより大きな裁きを語るのです。なざなら、イスラエルの民の心の中にあった罪は、それら諸外国の民の中にもあり、全ての人の心の中にあるものだからです。そして、それが全ての人の心の中にあるならば、私たちの心の中にもあるのです。ゼパニヤは、自分たちの国の内側をしっかり見つめ、また自分たちの国をとりまく外の世界をしっかりと見つめながら、全てのものが裁かれるという主の日を見ていました。同じように、私たちは、自分自身の心をしっかりと見つめなくてはなりません。そして、自分を取り巻く世界に目を向けなければなりません。確かに科学が発達し、人間の技術や知識というものは、2700年前のゼパニヤの時代とは、明らか異なっています。それはすぐれて高度に発達したものになっています。しかし、人の心は、2700年前の人たちと何ら変わってはいません。そこには、自分の欲望や欲求、願望を満たすことを思う自己中心的な思いや、虚栄心な思いがあるのではないかとおもうのですがどうでしょうか。

そして、そのような罪の心は、人間の技術や知識が高度に発達したように、さまざま悪、例えば、戦争だとか、犯罪だとか、あるいは不道徳なものと言ったことを、より複雑に、そしてより悲惨なものとなして引き起こしているように思います。こうした、様々な悪は、自分の外側の世界で起こっている事のように思います。そして、どこか自分と関係ないように思います。教会で、お寺の話をするのは何ですが、毎年12月12日の漢字の日に、京都の清水寺で、今年一年の世相を象徴する漢字一字が発表されます。今年は「命」という時だそうです。天皇家に男の子が産れた一方、いじめによる子どもの自殺が社会問題化、飲酒運転による死亡事故が相次ぐなど、生まれた命、絶たれた命、奪われた命、そして、命の不安への膨らみが理由だそうです。いじめの問題など、わたしも親ですからひどい話だと思うこと良くありましたが、しかしひどい話だと批判しているときは、自分はまだ問題の外側にいて、外側から批判していたように思います。けれども今年は、それがずっと身近な問題として捉えられるようになりました。それは人ごとではないと言うことです。問題が身近になって人ごとではなくなると、批判していた自分が、批判される側に容易になりうるということがわかります。それは同じ生身の人間だからです。

それは飲酒運転の問題でも同じだろうと思います。飲酒運転をして人の命を奪ったというニュースを聞きますと、憤りや怒りを感じます。けれども、それでも飲酒運転をする人たちがいる。そこには、自分は大丈夫だという思いがあるからだとそうです。それは極めて自己中心的な考え方だと思います。結局、自分を問題の外側において見ている。だからいつでも批判する側に立ってみていられる。しかし、事故を起した人も私たちと同じ生身の人間なのです。自分もいつ加害者の側になるかも知れないのです。同じような弱さや、自己中心的な心を持っているからです。私はお酒をたしなみませんので、飲酒運転と言うことはないかも知れませんが、しかし、やはり自己中心的な弱さは同じように持っている。急いでいるときなど、知らず知らずのうちにスピードが出がちになってしまうことがあります。これだって十分に危険な運転なのです。だからこそ、私たちは周囲を見渡して、そこに問題があり、これはダメだ、悪いことだとそう思い違反すべきようなことがあれば、自分自身の内側を問い直してみなければなりません。そうすると、ここでゼパニヤが見ていた世界が見えてきます。

それは、私もまた、世界中の全ての人と同じように罪人なのだと言うことです。そして、罪人である以上、神の裁き日、手の大いなる日の前に立たされているのです。ですから、ゼパニヤが伝える神の裁きにメッセージは、今日の私達にとっても耳を傾けなればならない神の言葉として語りかけているものであるといえます。もちろん、ゼパニヤが語るメッセージが、裁きだけであるとしたら、何とも悲しい感じがしますし、救いはありません。けれども、ゼパニヤのメッセージには救いがあります。2章に1節から3節です。そこにはここ書かれています。「あなたがた、恥を知らぬ民よ、共に集い集まれ、すなわちもみがらのように追いやられる前に、スの激しい怒りがあなた方に臨まない前に、主の憤りの日がまだあなたがたに来ない前に、すべて主の命令を行う、この地のへりくだる者よ、主を求めよ。正義を求め。謙遜を求めよ。そうすれば、あなた方は、主の怒りの日に、あるいは隠されることがあるろう。」ここに示されていることは、謙遜にへりくだって主を求める者は、主の怒りの日に、あるいは隠されることがあろうということです。「あるいは隠されることがあろう」と言う表現は、「隠されることがあるかも知れない」といった愕然とした可能性を述べている言葉であって、確かに隠される、救われるといった約束を語って這いません。しかし、先程お読み頂きました3章になりますと、その漠然とした可能性が、はっきりとした断言になります。3章9節からです。

「その時」、その時とは、神の裁きがなされる、主の大いなる日のことですが、「その時わたしはもろもろの民に清きくちびるを与え、すべて彼らに主の名を呼ばせ、心を一つにして主に仕えさせる。私を拝む者、私が散らした者の娘は、エチオピアの川々の向こうから来て、私に供え物をささげる。その日には、あなたはわたしにそむいたすべてわざのゆえに、はずかしめられることはない。その時わたしはあなたのうちから、高ぶって誇る者を除くゆえ、あなたは重ねてわが聖なる山で、高ぶることはない。わたしは柔和にしてへる下る民をあなたのうちに残す。彼らは、主の名を避け所とする。イスラエルの残りの者は不義を行わず、いつわりを言わず、その口に欺きの舌を見ない。それゆえ、彼らは食を得て欲し、彼らをおびやかす者はいない。シオンの娘よ。喜び歌え、イスラエルよ、喜び呼ばわれ、エルサレムの娘よ、心のかぎり喜び楽しめ、主はあなたを訴える者を取り去り、あなたの敵を追い払われた。イスラエルの王なる主はあなたのうちにいます。あなたはもはや災いを恐れることはない。」このように、柔和でへりくだる民を神が、神の裁きからお救いになると言うことが、ここでははっきりと神の宣言として語られています。柔和でへりくだりと言うことは、自分は弱く何も力がないと神に頼る人のことだと考えられます。

正義を行なおうにも、正義を行う力がない。謙遜になろうとしてもなりきれない。そのような者だからこそ、自分の中から、罪を一つ残らず取り除こうと思っても取り除くことが出来ないのです。自分の力では、自分の心を全く清くできないからこそ、主の名を呼び求めるのです。ゼパニヤは、3章9節で「その時わたしはもろもろの民に清きくちびるを与え、すべて彼らに主の名を呼ばせ、心を一つにして主に仕えさせる」と言っています。もろもろの民というのですから、イスラエルの民だけではない、それこそ世界中のすべての人がそこに含まれます。その世界中の全ての人の中にいる神に助けを求め、神により頼むものに、心から神を呼び求める者を神は起して下さるのです。神が、そのようなものを救って下さるのです。自分自身では自分の心の中にある罪の心を取り除けないと神によりすがる者を、神は清めて下さいます。このようにして、本来、神の裁きである「主の日」「主の大いなる日」は、自分の内に、自分では取り去ることの出来ない罪があることを認め、神によりすがる者にとって、それは最早裁きの日ではなく、救いの日となるのです。

ゼパニヤの伝えたメッセージは、神の裁きの宣言を伝えるものでした。しかし、神により頼みすがるのもの取っては、その裁きの日の宣言は、神の祝福の日の約束に変えられるのです。この裁きの宣言から祝福の約束へ移り変わる転換点にあるのが、15節の「イスラエルの王なる主は、あなたのうちにいます。」という言葉です。「イスラエルの王なる主が、あなたのうちにいます。」からこそ、あなたはもはや災いを恐れることはないと言うのです。そして、そのイスラエルの王なる主が、私たちの所に来て下さったのが、クリスマスという出来事なのです。私たちの救い主であるイエス・キリスト様がこの地上に来て下さった。このクリスマスという出来事が、歴史の中にたしかにおこった、だから災いなど恐れることはないのです。それはイエス・キリスト様によって私たちの罪が赦されるからです。罪の赦し、それは裁きからの救いです。滅びという決定的な災いである裁きから救われる。たとえ天地が滅びようと、自分自身では自分の心の中にある罪の心を取り除けないと神によりすがる者は、救われるのです。このような言い方は、実に大げさな表現のように見えます。しかし、それは確かに大げさな出来事なのです。そして、事が実に大げさな出来事だからこそ、神が人とならなければならなかったのです。神が人となって十字架に架からなければ解決できない問題だったのです。

それほどまでに徹底して、私たちの中から罪を追い出してしまい、罪を清めない限り、私たちは神の裁きを避けることは出来ないのです。けれどもの現実にはそれが出来ない。それほどまでに私たちの心の中にある罪の心は、私たちにとって手強い敵だと言えます。当然です、私たちの罪の心は私たち自身でもあるからです。だからこそ、自分自身では追い出すことが出来ない。出来ないからこそ神にすがらなくてはなりません。神が人となって、私たちの内に住んで下さり、私たちを罪の裁きから救って下さったというその神の出来事にすがるのです。十字架の死は、神の罪の裁きに対する勝利です。人となられた神が、私たちの王となって下さったのです。そして神が人となられたからこそ、その勝利は私たちにも与えることができます。十字架は人間の勝利でもあるのです。ですから、イエス・キリスト様の十字架の出来事と同じ重さで、イエス・キリスト様の御降誕、クリスマスという出来事も大切な出来事なのです。それは、イスラエルの王なる主が私たちの内にいてくださるという根拠だからです。

そして、そのことは。同時に神が最早私たちから遠くかけ離れた存在ではなくなったと言うことを意味しています。イエス・キリスト様の受肉、クリスマスの出来事によって、神と人とが一つになった、それほどまでに神が身近な存在になったのです。それは、神を信じ、神によりすがる私たちのうちに、イエス・キリスト様が聖霊なる神によって共にいて下さるというにもつながります。イエス・キリスト様が、聖霊なる神の働きによって私たちの心の内に、共にいて下さり、私たちの人生の同伴者となって下さるのです。それは、人生のどのような場面にもイエス・キリスト様がいて下さるのです。それは、神を信じ、神により頼むものがいつどのような場面で、自分の心の中をのぞいてみる、顧みてみるならば、そこにイエス・キリスト様の存在を見出すことが出来ると言うことです。ある場面では、自分の心の中を除いたならば、真っ黒い罪の心が見えるかも知れません。しかし、その真っ黒い罪の心の真ん中に、勝利者なるイエス・キリスト様がおられるのです。そして、その罪のまっただ中で、私たちに赦しの宣言をして下さっているのです。

もう十数年も前になりますが、前にもお話ししたことがあるかも知れません、ある聖会のときのことです。その時の聖会のメッセージのご奉仕は、亡くなられた千代崎秀雄牧師でした。実は、私はその時の説教箇所やメッセージの内容はすっかりわすれてしまっているのですが。ですから、皆さんも、私の説教を忘れてもそれはそれでいいのですが、もちろん覚えておいて下さるにこしたことはありませんが、ともかくも、内容は覚えていないのですが、説教を聴きながら、感じたことだけは鮮明に覚えています。千代崎牧師の話を聴きながら私は、私は、自分の色々な罪が思い出されていました。それは、まだ悔い改めの祈りをしていない罪です。これが今までの聖会なら、それこそメッセージが終わった後に、前に出て行って恵みの座で、悔い改めの祈りを他だろうと思います。ところが、その時に私は、一つ一つの罪、私が犯した罪や心の中の汚い思いや醜い思いと言ったものが思い起こされると同時に、「ああ、この罪も赦されている。あの罪も赦されているのだ」とそう思うことが出来たのです。それは、イエス・キリスト様による罪の赦しが徹底して私のすべてを赦して下さっているのだと言うことを経験した出来事でした。そして、神によって聖められていると言うことは、こういう事、罪の徹底した赦しを自覚することでもあるのだということを体験として知った出来事でもありました。今回、このゼパニヤ書のお言葉の前に立ちながら、私はそのことをもう一度思い返させて頂きました。

そして、「ああ、あのとき、一つ一つの罪を思い起こさせられながら『ああ、この罪も赦されている』『あの罪も赦されている』とそう思ったのは、きっと私はあのときに、私の心の中に共にいて下さる勝利者であるイエス・キリスト様を見ていたのだな」とそう思ったのです。それは、まさに私の罪の心の中に立たれた勝利者キリストであります。そして、この勝利者キリストがわたしの心の中の罪をすべて追い出し赦し続けて下さっている。十数年私が感じたように、今も私の罪を、私の心の中で赦し、洗い清めて下さっている。それは、私だけのことではない。今日ここに集っておられる皆さんに対しても同じです。イエス・キリスト様は、私たちの人生にともなって下さり、日々刻々、私たちが罪や過ちを犯すごとに、私たちを洗い清めて下さっています。そうやって、いつのときも私たちが神の前に一点の曇りもないように、私たちの内から完全に罪を取り除き、清めて続けて下さっているのです。だからこそ、私たちは日々刻々、新しくなっているのです。神によって毎日毎日新しく生まれ変わらせて頂きながら生きているのです。ですから、私たちは、そのことを覚えながら神を信頼し、神によりすがりながら生きていきたいと思います。キリストが日々刻々私たちの罪を赦し、新しく生まれ変わらせて下さっているからこそ、それにふさわしい、正しい神に喜ばれる生き方の中で生きていきたいと思うのです。

お祈りしましょう。