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羊飼い 『勝利のしるし』
イザヤ書8章5−10節
2006/12/24 説教者 濱和弘
賛美  1、86、357

今日は、クリスマス記念礼拝です。この一ヶ月余り、町中と言いますが、日本国中、あるいは世界中と言っても良いぐらいクリスマスの雰囲気が溢れていました。そして、クリスマスという言葉それ自体が、その本来の意味から離れ、聞くだけでわくわくとするような言葉になってしまっているという現実を思い知らされるのです。そのことを思いますとき、わたしは、どうしても歴史を振りかえらざるを得ないような気持ちになります。それは1500年から1700年前の教会の歴史です。クリスマスごとのお話しをしていますので、教会の多くの皆様が、イエス・キリスト様がお生まれになったのは12月25日ではないと言うことは、ご存知のことだろうと思います。そして、初代教会においては、キリストの十字架と復活の意味を考えることの方が重要で、誕生の方にはそれほど大きな関心が払われなかったようであるということも、知っておられることと思います。なのに、「どうして教会がクリスマスを祝うようになったのか。」とについては、まさにクリスマスが祝われ始めた1700年から1500年前の3世紀末から5世紀の教会が置かれた状況がありました。

3世紀末から5世紀にかけての教会の事情といいますと、初代教会が、確実に進展していき、教会に多くの異教徒たちが加えられて来た時代です。もちろん、使徒時代から、パウロの宣教によって、キリスト教会はユダヤ人だけではなく、多くの異邦人をメンバーに加えていきました。そうやって、教会がだんだんと進展して参りますと、教会はどうしても異教文化と接しなければなりませんし、異教文化で育った人たちがクリスチャンになった場合、その人達はどうしても異教の習慣や文化背負った形でキリスト教信仰を生きることになります。そう言った中で、当時の異教の祭りと祝い事の中で、クリスチャンはどう生きるのかという問題が起こってきます。祝い事や祭りといったものは宗教的起源を持っていても、実際にはその宗教的起源をはなれて、楽しみ、娯楽的な意味を持った習俗・習慣になりがちです。ですから、人々は宗教心がどうこうと言うことなく、楽しみとしてそれに参加していきます。そのような中で、当時の教会では、異教的な文化の中で育ったクリスチャン達が、異教の神々の祭りに参加するようにいたようです。当然、教会の構成員の中で異教的背景を持った人はかなりの数になっていたので、教会もその問題に対処しなければならなくなってきました。そう言う中で、クリスマスや復活祭と言った教会の祭りが制定されてきたというのです。そうやって、文化、あるいは習俗と言ったものの中で、無批判的に異教の習慣を引きずっている人々を、そこから引き離し、真の神にしっかりと目を向けさせるために、キリスト教の祝祭が定められていき、クリスマスもその中にあったと言うのです。

ですから、クリスマスというのは、教会と異教との壮絶な戦いの中で生まれてきたものなのです。よく「クリスマスはキリスト教が異教の習慣を取り入れたものである」と言われる方がおられますが、それは正しい見解ではありません。クリスマスは、クリスチャンが異教の習慣から離れるために定められたものでもあるのです。そして、結果として、それこそ3世紀末から5世紀のクリスチャンは、異教の習慣の中で異教の祭りを祝うのではなく、真の神の誕生を喜び祝うようになって行きました。つまり、教会と異教との戦いにおいて、教会は勝利を収め、その勝利は、世界中に広がっていったのです。

ところが、今日私達の国の状況を見ますと、クリスチャンでない方々が、クリスマスという真の神の一人子の誕生覚え記念する祭りに流れ込んできています。そういった意味では、今度は立場を変えてクリスマスを舞台で教会とこの世とが戦いを繰り広げていると言っても良いのかも知れません。そして、現状を見る限り、圧倒的にこの世の側の方が有利に見えるのです。それこそ、クリスマスシーズンだというのに、教会の存在は、どこか端っこに追いやられてしまっているような気がするのです。教会の周りを見ても、前の畑が宅地になり、多くの家々が建てられ、引っ越しもすすんでいますが、クリスマスイルミネーションは、教会以上に、一般のご家庭の方が華やかだったりします。確かに、振り返ってみますと、私の子供の頃は、それでもクリスマスだというと、教会のミサのシーンなどが報道されていました。しかし、最近はそれすら見る事が出来ない。まさしく教会が置き去りにされているような感が否めません。私たちはこのまま敗北してしまうのでしょうか?

今日の聖書の箇所は、イザヤ書7章14節に引き続くところです。イザヤ書7章14節「それゆえ、主はみずから一つのしるしをあなたがたに与える。見よ、おとめがみごもって男の子を産む。その名はインマヌエルととなえられる。」この言葉は、マタイの福音書1章23節で引用されたクリスマスに対する預言の言葉です。同時に、イザヤの生きていた紀元前750年〜700年頃のユダ王国の状況をも指し示しています。当時のユダ王国の状況をも指しています。この当時のユダ王国のスリヤの王レジンと北イスラエル王ペカが連合して攻めてくるなど、国は国家存亡の危機的状況の中にありました。ユダ王国の王アハズは、一度はアッシリア帝国に援助を求め、スリヤと北イスラエル軍にうちかちますが、再び攻めて来るという話が南ユダ王国の王アハズの耳に入ります。せっかく、アッシリアの援助をえて打ち勝ったのに、再び同盟を組んで攻めて来るらしいと言う知らせに、アハズ王と民の心は、風に揺れ動かされる林のように動揺したとあります。そんな、アハズ王と南ユダの民に対して、神はスリヤと北イスラエルが攻めてきても大丈夫だ、彼らに勝利できるとお告げになる。その勝利のしるしとしてインマヌエルととなえられる男の子が生まれるというのです。ですから、このインマヌエルととなえられる男の子は「勝利のしるし」なのです。

ところが神は、「スルヤと北イスラエルには打ち勝つことが出来る」という嬉しい知らせと同時に、逆に、前回のスリヤと北イスラエルの連合軍との戦いにおいて、アハズ王が援助を求めたアッシリアが、今度は、南ユダ王国にとっての脅威となると言われるのです。8章7節8節は、「それゆえ見よ、主は勢いたけく、みなぎりわたる大川の水を彼らに向ってせき入れられる。これはアッシリアの王と、そのもろもろの威勢とであって、その全ての支流にはびこり、全ての岸を越え、ユダに流れ入り、あふれみなぎって、首にまで及ぶ、インマヌエルよ、その広げた翼はあまねく、あなたの国にみちわたる。」とあります。これはアッシリア軍が、単に南ユダにとって脅威となると言うだけでなく、実際にその猛威がユダ全土におよび、ユダ王国は瀕死の状態、つまり滅亡寸前まで追いやられるということです。せっかくスリヤ軍と北イスラエル軍が攻めてくると言うことですら国家存亡の危機を勝利で乗り切っても、今度は更に大国であるアッシリアまでも敵にしなければならず、国は壊滅的な打撃を受けるという神の言葉は、ユダ農国の人々には絶望的な響きを持って聞かれただろうと思います。ところが、この神の語られた壊滅的な状況を示す言葉は、8章8節以降の「インマヌエルよ。その翼はあまねく、あなたの国に満ち渡る」という言葉で締めくくられています。ここでもインマヌエルという存在が語られている。勝利のしるしであるインマヌエルが、解決的な敗北を期する中で語られるのです。

この8節の言葉は、「アッシリア軍の猛威は洪水のように全土を襲い、その水、即ち翼は国の幅一杯になる。インマヌエルよ。あなたの国なのに」という意味であると言われます。「勝利のしるしであるインマヌエルよ。あなたは勝利のしるしであるのに、この国は壊滅的な敗北の中で瀕死の状態ではないか。」とそう言うのです。これは、敗北をなげくような言葉のように聞こえますが、実はそうではないのです。むしろ、国は壊滅的な敗北の中で、今にも滅びそうだが、しかしこの国は、勝利のしるしインマヌエルが存在するから、今は瀕死の状態だが、決して敗北に終わることがない。とそういうのです。だからこそ、9節10節の言葉が続くのです。それは、南ユダを攻めてこようとする諸々の民、遠き国々のものは、どのような企てをしても、それは実現しない敗北する」という神の宣言です。そして、どうして、それらの企てが成功しないかというと、南ユダの人々と神が共におられるからであると、そういうのです。「インマヌエル」と言う言葉、それは「神が共におられる」という意味です。まさに10節に神が我々と共におられるからわれわれは、決して敗北しないということは、インマヌエルなるお方がおられ支配する国は決して敗北に終わることがないと言うことなのです。だからこそ、私は、クリスマスを舞台で教会とこの世とが戦いを繰り広げているなかで、今はどんなに教会が不利な状況におかれているとしても、クリスマスシーズンだというのに、教会の存在は、どこか端っこに追いやられてしまっているにしても、決して教会が敗北して消え去っていくことはないと確信を持つことが出来るのです。なぜなら、教会にはインマヌエルなるお方がおられるからです。教会の中心には、2000年前に、宿屋にいる場所がなく、おそらく馬小屋だったでしょう、そのようなおおよそ王なる救い主がお生まれになるには、ふさわしいとは思われない場所で、お生まれ下さった勝利のしるしであるインマヌエルなるお方がおられるからです。そして私たちが、このインマヌエルなるお方を、教会の中心に据えているならば、教会は決して敗北することがないのです。しかし、それはつまり、教会がインマヌエルなるお方以外を、教会の中心においたとき、教会はこの世に敗北してしまうと言うことを意味しています。

先日、関川泰寛という方の「教会と聖霊」という本を読んでいました。その本に書かれていることは、日本の教会が低調で生きず待っているのは、教会の中心に、また礼拝の中心に主なるイエス・キリストの現臨がおかれていないからだというのです。そして、主イエス・キリストの変わりに、牧師であったり、有力な信徒であったり、あるいは何かの賜物が中心に据えられているのが日本の教会の現状ではないかというのです。私は、その本を読みながら、「なるほどな」と反省させられると同時に、ああ、三鷹教会はまだそのような状態に陥っていないなどと、反省と安心とを交互に重ね合わせながら読んでいましたそして、ただ一点、私たちが今、教会の中心に据え、礼拝の中心に据えている、この主イエス・キリスト様を決して、その場から引き下ろしてはならないと決意に近い思いで読んだのです。それは、私たちの世界に、インマヌエルととなえられる方としてお生まれ下さったからです。そしてインマヌエルととなえられる方は勝利のしるしだからです。このしるしを失ったならば、教会はこの世に敗北して滅んでしまわなければなりません。しかし、この勝利のしるしであるお方に教会を支配して頂く限り、この世の中の洪水が教会の中に流れ込んできて、水があふれみなぎって、首にまで及んでも、教会は大丈夫なのです。神はこの勝利のしるしの上に、教会をお建て下さっているのです。このように、勝利にはしるしが伴います。教会に対する勝利のしるしはインマヌエルなるイエス・キリスト様でした。もちろん、それは、私たち一人一人が、このインマヌエルなるお方が中心におられる教会に繋がっているからです。

そして、その教会に私たちが結び付けられていると言うことを証するしるしが洗礼です。洗礼は、神を信じ受け入れたものが、水に浸されることで、古い自分に死に、神の民として新しく生まれた事を意味します。まさに、再生、誕生のしるしなのです。神の民ということは、一人ではないと言うことです。民とは人の集まり群れです。ですから、洗礼は神の民の群れである教会に結びあわされる事でもあるのです。洗礼によって、勝利のしるしをいただく教会に結び付けられるのですから、洗礼というものは、私たちにとっても勝利のしるしでもあります。今日、私たちの教会では、田中こずえ姉妹が洗礼を受けます。それは、姉妹にとって、人生のどんなに苦しいときや、もう立ち上がれないと言うときであっても、我々と共にいて下さるインマヌエルなる神が共にいて下さるという証です。この洗礼によって姉妹が、この三鷹キリスト教会に繋がれ、更には全世界にまたキリスト教2000年の歴史に横たわる教会に繋がるからです。そして、その教会には勝利のしるしであるイエス・キリスト様がおられるからです。だから、苦しいときや悲しいとき、自分ではもう立ち上がれないと言うときには、どうか今日の洗礼に出来事に立ち返って欲しいのです。また教会員の皆様も、姉妹が教会に繋なげられたものであると言うことを覚え、支え合って行って頂きたいと思います。教会か神を信じる神の民の群れだからです。同時に、教会員のお一人お一人も、同じように苦しいとき、悲しいとき、倒れてしまったときは、どうかお一人お一人が、ご自分の洗礼の出来事に立ち返って頂きたいのです。それは、あなたが勝利のしるしであるインマヌエルなるイエス・キリスト様につなげられた紛れもない証だからです。そのインマヌエルなる主が、私たちに罪に対する教理を与え、死に対する勝利を与え、慰め励ますためにこの地上にお生まれ下さったことを祝う日です。クリスマスは、そういう意味では救い主が生まれたことを祝うのではなく、私たちに勝利がももたらされたから祝うのだということもできます。ですから、今日クリスマスの一日を、私たちは大きな喜びを持って過ごしたいと思います。

お祈りしましょう。