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羊飼い 『本当に成すべき事』
マルコによる福音書9章2−8節
2006/12/31 説教者 濱和弘
賛美  22、344、397

いよいよ、今年も今日一日となりました。今年は暦の関係で12月31日、まさに大晦日が主日となりました。おそらく、今日ここに集われた皆さんも、礼拝が終わられますと、いろいろと信念の準備をなさらなければならないのだろうと思います。大晦日から、元旦へと移り変わるということを、単に時間的な側面から見れば、なんでもない、ただ連続する時間の中で、日付が一日変わると言うことでしかありません。しかし、その一日の変化に。大きな意味を見出してきたのが、私たちの国柄でした。一年が終り、新しい一年が始まる。それは、時の終焉があり、新しい時に誕生がある。そういった意味では、お正月というのは、時間というものが表す。救いの出来事のようなものです。まさに古きが過ぎ去って、全てが新しくなると言うわけです。そんなわけでしょうか、私が子供のことは、それもかなり小さかった頃のことですが、元旦には真新しい、真っ白い下着をつけて一日を始めると言ったことをしていたと記憶しています。それこそ、今考えてみると、全てを新しくスタートさせるという事だったのだろうと思います。

そう思いますと、今日の聖書の箇所も、イエス・キリスト様の新しい出発の時、大きな転機となる場面での節目の出来事であると言うことができるだろうと思います。9章2節に6日とありますが、それは、この9章の6節から8節までの出来事、いわゆる変貌山の出来事と呼ばれるものですが、それが、ペテロが、ビリポ・カイザリヤで、イエス・キリスト様を「あなたはキリストです」とそう信仰の告白した出来事から6日後のことであったと言うことを示しています。つまり、この変貌山の出来事は、ペテロの信仰告白と関連づけて語られているのです。ペテロが、「あなたはキリストです」と、そう告白するまで、6章からずっと、イエス・キリスト様は人々から理解されないという事のくり返しでした。律法学者やパリサイ派の人々はもちろん、故郷の人々からも、群衆からも、更には弟子たちからも正しく理解されていなかったイエス・キリスト様が、ようやく、8章の29節にいたって、ようやくペテロよって、「あなたはキリストです。」とそう受け止められるのです。もちろん、そのペテロの信仰告白にたったペテロの理解が完全なものであったというわけではありません。それはまだまだ不十分な理解であったのですが、しかし、ともかくも、イエス・キリスト様を信じる信仰にとって、最低限必要な理解と信頼に至ったものであったと言えます。

と言いますのも、マルコによる福音書には記されていませんが、マタイによる福音書16章13節から20節にある平行記事をみますと、ペテロが信仰告白をしたのちに、それを受けてイエスキリスト様は「私は、この岩の上に私の教会を建てよう」と、そう言われているからです。まさに、ペテロが、「あなたはキリストです」とそう告白することで、救い主つまりキリストの上に教会を建て上げるその基礎が据えられたのです。その6日後に、この2節から8節の出来事が起こった。そういった意味では、この出来事は、教会を建て上げるということにも結びつく出来事なのです。そして、それはイエス・キリスト様が、「私は、この岩の上に、私の教会を建てよう」といわれた、「私の教会」、イエス・キリスト様の教会を建て上げると言うことなのです。このイエス・キリスト様の教会が、まさにこれから建て上げられていく第一歩、まさにその新しいスタートが切られたときに、この出来事が思ったのです。その時、12人の弟子の中で、ヤコブとペテロ、ヨハネだけを連れて、高い山に登られたとあります。このヤコブとペテロとヨハネの三人は、マタイによる福音書の26章36節から記されているイエス・キリスト様のゲッセマネの祈りの時にも、イエス・キリスト様と行動を共にしています。

また、会堂司ヤイロの娘の癒しの場面でも、イエス・キリスト様は、この三人だけをその場にどうこうさせるのです。そういった意味では、この三人は、まさに使徒たちの中でも、特別な存在であったと言えます。しかし、どうして、この三人なのか。このことについて、聖書は何も明らかにしていません。ただ、ペンテコステ以後、具体的に初代教会が形成されていく中で、ペテロは教会の中心的指導者となっていきました。またヨハネは、使徒たちの中で最も長生きをしたといわれていますが、だとすれば、12使徒たちが天に召されていくかで、まさにキリストの証人である使徒として、最後まで教会の指導的立場にあっただとろうと思われます。そして、ヤコブは、ヘロデ王によって殺された、使徒としての最初の殉教者であると言われています。ユダヤ教によってキリスト教の迫害が始まり、信徒としてはステパノ殉教していました。そのように、キリスト教に対する反感が深まるなかで、ヤコブはヘロデ・アグリッパによって殺されるのです。このヘロデ・アグリッパの行為は、ユダヤ人の人気を得ようとしたもので、キリスト教会の中枢にダメージを与えようとしたものです。それは、さらにペテロも捉えようとしたことからも伺われます。ですから、ヤコブもまた、ペテロとあい並ぶような、教会の中心的存在であっただろうと思われるのです。

このように、この三人、具体的に教会というものが目に見える姿として形成されていく中で、中心的指導者となっていった三人であったといってほぼ間違いがないだろうと思います。その教会の指導者になっていく三人に、まさにこれから私の教会を建てようとなさるその最初の歩みのところで起こった出来事を目撃させるのです。それが、この高い山に登られ、そこでイエス・キリスト様は真白く輝く姿に姿変わりをし、そこに現われたエリヤとモーセと会見していたのだというのです。イエス・キリスト様がここで、エリヤとモーセと何を話し合っていたかについては、11月に加藤望牧師が、来られたときの礼拝説教でお話し下さいましたように、これから起こるイエス・キリスト様の十字架の死についてでありました。イエス・キリスト様は「私の教会、イエス・キリスト様の教会」をお建てになろうとなさっているのですが、その教会を建てるためには、十字架の死と言うことが、極めて重要な位置を占めているのです。ちょうど建物を建てるときには、設計図が必要ですが、イエス・キリスト様の十字架の死が、その設計図にあたるような、大切なものなのです。イエス・キリスト様が、「私は、この岩の上に私の教会を建てよう」といわれたイエス・キリスト様の教会は、救い主であるイエス・キリスト様という岩の上に立て上げられるものです。だからこそ、「あなたこそキリスト、(すなわち救い主)です」というペテロの信仰告白が、あって始めて、「私の教会を建てよう」とそう言うことができた。

その救いの業として、十字架の死がある。ですから、教会はこのイエス・キリスト様の十字架の死という出来事なしには立ち上がらないのです。これが、キリスト教会が社会のどの団体とも異なるキリスト教会たるところです。私たちは、互いに仲が良かったから教会を作ったのではない、何か共通の趣味や話題があったから教会を作ったのでもない、ただイエス・キリスト様の十字架の死が、私たちに罪を赦し、わたしたちに希望を与えるから、教会という神の群れを、この三鷹という地に築いてきたのです。だから、わたしたちは十字架を掲げるのです。それは、教会の中心が、十字架に架かって死なれ、そして蘇られたイエス・キリスト様だからです。教会の中心に、この、十字架に架かって死なれ、蘇られたイエス・キリスト様がおられなければ、教会は教会ではないのです。もちろん、十字架に架かって復活なさったイエス・キリスト様は、天の父なる神様の右に座しておられるので、教会の中心におられるといっても、この地上に受肉したような形で、おられるというわけではありません。第一、世界中にはごまんと教会があるのですから、その教会一つ一つの中心にイエス・キリスト様がおられなければ、その教会は教会でないとしたら、イエス・キリスト様のお体は幾つあってもたりません。

しかし、イエス・キリスト様は、十字架に架かって、天に昇られたのちの、助けぬしなる御霊、聖霊なる神様を教会に送って下さると約束して下さいました。その約束はペンテコステの時に成就したのです。だからこそ、ペンテコステが教会の誕生日だと言われるのです。ペンテコステの時に下った聖霊なる神は、父から送られるところの神の霊でもあり、かつ十字架に架かり三日後に蘇って天に昇られたイエス・キリスト様の御霊でもあるからです。このイエス・キリスト様の御霊でもある聖霊なる神が、教会の中心にある時に、教会は教会として建て上げられていくのです。今日の聖書の箇所、変貌山の出来事は、まさにそのイエス・キリスト様の十字架が語られ、復活され天に昇られるイエス・キリスト様の栄光が表されています。3節に、イエス・キリスト様のお姿が「真白く輝き、どんな布さらしでも、それほどに白くすることはできないくらいになった。」と記されているのは、それはまさに、復活され天に昇られる神の御子、三位一体の第2格であられるイエス・キリスト様の栄光に満ちたお姿です。そしてこのお方が、天にあって父なる神の右に座して私たちのために取りなしをし続けていて下さるのです。だからこそ、教会は、このイエス・キリスト様を中心において建て上げて行かなければならないのです。そして、今からその「イエス・キリストの教会」を建て上げて行かれようとするイエス・キリスト様は、その中心的な指導者となっていかなければならないペテロとヨハネとヤコブの三人に、この変貌山の出来事をお見せになった。

おそらく、イエス・キリスト様が十字架で死なれ、復活し、天に昇りられた後に、ペンテコステでの聖霊降臨を経験したペテロ、ヨハネ、ヤコブに、この変貌山で経験したことは、いろんな意味で影響を与えただろうと思います。それこそ、敗北と思われるような十字架の死が、神が人を救われる救いのみ業であり、イエス・キリスト様の復活と昇天が、私たちに罪とその裁きである死に対する勝利の栄光をもたらすものであることを、この変貌山の出来事を思いながら、教会の中で語り続けただろうと思います。私たちの教会では、礼拝の時に、信仰告白として使徒信条を皆さんで唱和します。この使徒信条は、もともとはローマ信条と呼ばれる起源140〜150年頃には既にあったであろうと見られている、ローマ教会の洗礼文が原形だと言われています。洗礼文とは、洗礼を受ける人がする信仰告白です。そのローマ信条を信仰告白として告白することで洗礼を受けたのです。そのローマ信条と、今日私たちの教会で信仰告白として唱えられている使徒信条との内容はほとんど同じです。当然です。使徒信条はローマ信条を元にできているからです。

その使徒信条を見て参りますとこのようになっています。
我は天地の造り主、全能の父なる神を信ず。
我はそのひとり子、われらの主イエス・キリストを信ず
主は、聖霊にて宿り、処女マリヤより生まれ、ポンテオピラトのもとに苦しみを受け、十字架につけられ、死にて、葬られ、陰府に下り、三日目に死人の内よりよみがえり、天に昇り、全能の父なる神の右に座し給えり、かしこより来たりて、生けるものと死にたるものを裁き給わん。
我は聖霊を信ず、聖なる公同の教会、聖徒の交わり体のよみがえり、とこしえの命を信ず。
この使徒信条は三位一体の神に対する信仰告白となっていますが、そこで描かれているイエス・キリスト様は、まさに十字架に死に死んで蘇られ、天に昇られて父なる神の右の座しておられるお姿です。それは、まさにこの変貌の山で語られ、姿がわりしたイエス・キリスト様のお姿でもあるのです。そのお姿が、教会の中に語り継がれてきたのです。

その、教会の中心に据えられるべきイエス・キリスト様をペテロとヤコブとヨハネはここで見るという経験をしたのです。それは、神からの啓示と言っても良いでしょう。だからこそ、このことは2000年たった今でも、信仰告白として語り継がれてきているのだろうと思います。もっとも、弟子たちは、そのような貴重な体験をしたにも関わらず、その時にはそのことが十分に理解できなかったようです。ペテロは、この変貌山の出来事を見て、イエス・キリスト様に「先生、わたしたちがここにいるのは、すばらしいことです。それで、わたしたちは小屋を三つ建てましょう。ひとつは、あなたのために、一つはモーセのために、一つはエリヤのため」とそう言っています。そして、聖書によれば、ペテロがそう言ったのは、みんな者が非常におそれていたので、何を言って良いかわからなかったからだと言うことのようです。要は、全然ピンとはずれなことを行っていたと言うことです。しかし、何を良いかわからないときに、思わず出てきた言葉が「わたしたちは小屋を建てましょう。」と言ったと言うことは、考えさせられる言葉です。というのも、みんな者が非常におそれていたので、何を言って良いかわからなかったからだとこう言う発言をしたのだということは、それは、この言葉が、その人の本質を表している言葉だと言えるからです。

つまり、ペテロが「わたしたちは小屋を建てましょう。」というとき、ペテロは、モーセとエリヤとイエス・キリスト様のために、何かをしようとしているのです。つまり、何か神々しい、恐れおののくようなものの前に立つとき、われわれは何かをしようとするのです。それは、念仏を唱えるとが、手を合わせて拝むとか、いろいろな行動になってあらわれてくるでしょう。わたしたちは、何か超越的な存在と出会ったときには、何かをしなければならないと思ってしますものです。少なくとも、ペテロはそう思った。そして「小屋を三つ建てましょう」と言ったのです。それは信仰というものの根底にある感情なのではないかと思うのです。神のために、あるいは畏れ多い方の前に、何かをする、何かの行動を起すことが信仰であるかのように思ってしまう。そして、何かを熱心にすることが信仰的な生き方のように思ってしまうのです。ところが、今日の聖書の箇所は、何かをしようとするペテロに、湧き上がってきた雲の中から声がします。雲というのは神がご臨在なさっていることを、視覚的にわからせるために、良く神がお用いになるものです。ですから雲の中から声がしたと言うことは、神がペテロに語られたと言うことです。

そして、神が語られたその内容が、「これは、私の愛する子である。これに聞け」と言うことでした。言うまでもない、「イエス・キリスト様に聞け」と言うことです。キリストのために何かをしようとしているペテロに対して、しなければならないことは、イエス・キリスト様の語られる言葉に耳を傾けて聴くとだというのです。「信仰とは何かをすることではない、イエス・キリスト様の言葉に耳を傾けて聞く事である」と言うことなのでしょう。「これは、私の愛する子である。これに聞け」とそう言われるのです。今まさに、この変貌山にて、ペテロの「あなたはキリストです。」という信仰告白を基礎として、イエス・キリスト様が「私の教会を建てよう」と言われ、教会を建て上げようとして新しい一歩を踏み出されようなさいました。その時に、そのイエス・キリスト様が「私の教会」といわれた教会にとって、最も大切な、なくてはならないものは、十字架で死に、よみがえり、天に昇られたイエス・キリスト様と言うお方の存在です。その存在を、教会の中に著わすお方として、キリストの御霊である聖霊が私たちに与えられたのです。そして、その「イエス・キリスト様の語られる言葉に耳を傾けて聴く」、ということが、クリスチャンにとって本当に成さなければならないことなのです。

イエス・キリスト様は「私の教会を建て上げよう」といわれました。実際にその「イエス・キリスト様の教会」が、目に見える具体的な形で歴史の中に現われてくるのは、ペンテコステ以降です。ペンテコステの時に、キリストの御霊である聖霊が下ったからです。そして、そのイエス・キリスト様の教会を、具体的に建て上げるために、全くの初期の中心的な指導者となっていったペテロ、ヨハネ、ヤコブたちなのです。その彼らに、神は、本当になさなえればならないことは「「イエス・キリスト様の語られる言葉に耳を傾けて聴く」と言うことなのだ、と父なる神はそうお教えになられたのです。それはつまり、教会にとって最も大切なことは、教会の中心に、聖霊によって御現臨下さるイエス・キリスト様であり、その教会に御現臨下さるイエス・キリスト様の語られる言葉に、耳を傾けて聞くと言うことなのです。要は神を礼拝するということです。なぜなら、礼拝は神への応答だからです。礼拝を通して、神は私語りかけて下さいます。礼拝で読み上げられる聖書の言葉を通して、説教を通して、教会の中心に御現臨下さるイエス・キリスト様の言葉を私たちは聞くのです。その言葉を聞いて、その言葉に応答して私たちは、この礼拝の場から帰ってキリストの弟子として生きていくのです。だから礼拝は教会にとって最も重要なものなのです。何よりも大切なものなのです。

わたしは、今日のこのイエス・キリスト様が教会を建て上げるという節目の時の出来事が記された聖書の箇所が、大晦日の主日礼拝という、それこそ滅多にない機会、巡ってきたと言うことに、神の配材を感じています。しかも、今年であったと言うことに奇跡的な導きを感じるのです。それは、今年は、私たちが敬愛して止まない、加藤亨先生が天に召された年だからです。それは、私たちにとって、これ以上ない大きな節目の年だったのです。そして、私たちはその節目を乗り越えて、新しい年のスタートを迎えようとしているのです。だからこそ、私たちは、もう一度、私たちの教会の中心には、イエス・キリスト様の御霊である聖霊なる神様を通して、主イエス・キリスト様の御現臨があり、このお方を礼拝し、このお方が語る言葉に耳を傾けて聞きながら歩んでいく者であるという決心を確かなものにしたいのです。そして、新しい年に、皆さんと共に「私の教会を建てる」と言われた、イエス・キリスト様の教会を共に建て上げていく歩みに、新たな思いで臨んでいきたいと思うのです。

お祈りしましょう。