元旦礼拝
『神の愛を基として』
ヨハネ第一の手紙4章7節
2007/1/1 説教者 濱和弘
賛美 21、343、266
さて、いよいよ2007年がスタートしました。新しい年の始まりを、こうして皆さんと共に、神を礼拝することで始めることができることを、本当に嬉しく思います。昨日の礼拝が、年の変わり目という節目に対する終り、つまり時の終焉のメッセージであるとするならば、本日の元旦礼拝の説教は、時の再生、始まりのメッセージです。毎年、元旦礼拝には、その年一年の指針となる聖書の言葉を上げて、そこから説教をします。今年は、そのお言葉として、今お読み頂きましたヨハネによる福音書四章七節をあげさせていただきました。そこには、「愛する者たちよ。わたしたちは互いに愛し合おうではないか。愛は、神から出たものなのである。すべて愛するものは神から生まれたものであって、神を知っている。」とあります。
この言葉には、表裏一体なものとしてネガテブ(つなり消極的、否定的な)な一面、がともないます。それが8節の「愛さないものは、神を知らない」という言葉です。その否定的な一面を示す「愛さないものは、神を知らない」という8節の言葉は、あえて除きました。それは、「互いに愛し合おう」という聖書の言葉に向って、皆さんと一緒に、より積極的に愛し合うという生き方をしていきたい。肯定的な見方で歩んでいきたいというそう言う思いがあるからです。「愛しあわなければならない」と言う響きではなく、「愛し合おう」という響きの中で歩んで聞きましょうということです。しかし、言葉としての「愛し合う」「愛する」という言葉は、何だか年々教会用語としての「愛」の意味から、少しづつ離れて言ってしまっているような気がします。もともと、愛という言葉を、国語辞典で引きますと「親兄弟への慈しみあう心、情」「男女間の相手を思う情」「このむこと」「めでること」となっています。このような意味を持つ愛という言葉が、英語のLOVEの訳語に振り当てられました。しかし、言葉の翻訳というのは難しいもので、翻訳にあたって、その訳語を元々の言葉に振り当てても、なかなか、その言葉の実体が伝わるわけではありません。言葉だけではない、異なる文化の間では、感情や感覚と言ったものはなかなか伝わりにくいものがあります。
先日、スペインから帰ってこられた高木香寿子さんのご主人潤一さんとお話しをしていました。「スペインでの生活ははどうでしたか?」と言ったような話だったのですが、その中で、ご存知のように潤一さんはフラメンコギターのギタリストですので、勉強になったでしょうと、そうお訪ねしたのです。すると、「確かに、技術的にはいろいろとあったけれども、どうしてもつたわらない、文化の中にある本質のようなものがあると感じました」と言うような感じのおっしゃっておられました。私は、その話を聞きながら、ぴんと来るものがありました。というのも、以前、ある方がNHKの番組を見られて、こんな観想をお話しさっていたことがあるからです。それは「ただ一撃にかける」というタイトルのドキュメンタリー番組で、北海道県警の栄花直樹という人の物語でした。この栄花直樹というひとは2000年の全日本剣道選手権の優勝者で、剣道の世界選手権の優勝者でもあるのですが、どうしても勝てない選手がいたのです。それは昭和の剣聖とか天才と言われた宮崎正裕という選手です。この人にどうしても勝てないため全日本選手権で優勝できないでいた。そこで、栄花選手はどうしても宮崎選手に勝ちたい、かって全日本選手権で優勝したいと思い、毎朝、道場の雑巾がけを始めたというのです。その場面を見た方が、この話はおそらく、外国の人にはわからないだろうと言うのです。
スポーツ選手が優勝するために雑巾がけをするなどと言ったことは、おそらく外国の人にはわからない理解できないだろうと言うのです。確かにそうでしょう。けれども、私たち日本人には、何となくピンとする。それは、朝早く道場を雑巾がけをすることで心を研く、心を研いて練り上げて始めて勝負に勝つ、心と気が研かれる。それは私たち日本人には、チャンと伝わってくる日本の心なのです。心の問題というものは、なかなか文化が異なると、伝わりにくいものです。心を研くと言うことも外国の人には伝わりにくいでしょうし、わび、さび、言った日本人の心を伝え理解してもらうと言ったことは、本当に難しいものなのです。「愛する」と言うことも、言葉にすれば動詞です。しかし「愛する」ということは心の問題です。ですから、この聖書の箇所で言っている「愛する」と言うことが、私たちにチャンと伝わっているかどうかは問われることなのです。このヨハネ第一の手紙4章7節でいう「私たちは互いに愛し合おうではないか」と言われている「愛するという言葉は、有名なアガペー(αγαπη)です。そのアガペーが英語ではLoveと訳され、そのLoveに愛という訳語が振り当てられた。ですから、教会で「愛し合いましょう」とか「愛する」と言うとき、それはαγαπηーLoveー愛という手順で、教会の言葉としての「愛する」と言う言葉になっているのです。これは、元々の言葉を英語に翻訳し、その英語に翻訳された言葉を日本語に翻訳するという手順、いわゆる重訳という手順と同じ事です。
翻訳という作業をなさったことがある方ならおわかりになるだろうと思いますが、翻訳では、重訳されたものは良くないと言われます。それは翻訳を重ねる事に、元々の文章が持っている意味や本質が違ったものになっていくからです。ですから、できるだけ元々の言葉の持つニュアンスに近付いていかなければなりません。幸いなことに、今の日本では神学校で、ギリシャ語やヘブル語が必修科目になりましたし、聖書ギリシャ語の辞典や文法書も初級から中級の適い善いものを見られるようになってきました。そんなわけで、このアガペーという言葉も、ただの愛ではないと言うことを、多くのクリスチャンの人が知って下さるようになってきました。そして、それは相手に、自分自身を与える、自己犠牲の愛であるということを理解して下さるようになってきたのです。けれども、それは相手に、自分自身を与える、自己犠牲の愛であるということ言う理解にいたったとしても、それを更に突っ込んで、「それでは、自らを犠牲にして相手に、自分自身を与える」ということは具体的にはそう言うことなのですか?」と問われると、皆さんどうでしょうか。一体、具体的に「自らを、犠牲にして相手に自分自身を与える」ということを具体的に表すならば、それはどういう行為なのでしょうか。
そう言われると、私たちクリスチャンは、すぐにイエス・キリスト様を思い浮かべるのではないだろうかと思います。そして、確かに「イエス・キリスト様が私たちの罪を赦すために十字架に架かって死んでくださった」その行為は、愛とは何かを表している行為です。そして、聖書ヨハネによる第一の手紙3章16節にも「主はわたしたちのためにいのちを捨てて下さった。それによってわたしたちは愛と言うこと(つまりαγαπη)を知った」と書かれています。そして、さらに「それゆえに、わたしたちもまた、兄弟のためにいのちを捨てるべきである。」とさえ言われているのです。互いに愛し合うと言うことは、相手のために命を投げ出すと言うことであるならば、命が幾つあってもたりません。確かに、いのちを捨てるそれは自分自身を犠牲にし、自分自身を相手に与える行為です。けれども、イエス・キリスト様が命を投げ出すにはそれなりの理由がありました。それは、罪を償うと言うことのためだったのです。4章10節11s節を御覧下さい。そこにはこう書いてあります。「わたしたちが神を愛したのではなく、神がわたしたちを愛して下さって、わたしたちの罪のためのあがないいの供え物として御子をおつかわしなった。ここに愛がある。愛する者たちよ。神がこのようにわたしたちを愛して下さったのであるから、わたしたちも互いに愛し合うべきである。」
「わたしたちの罪のためのあがないいの供え物として御子をおつかわしなった」というのは、イエス・キリスト様の十字架の死のことです。イエス・キリスト様が命を投げ出したのは、罪の赦しをもたらす為なのです。つまり、愛すると言うことの具体的な行為は、命を投げ出すことにあるのではなく赦すと言うことなのです。みなさん、赦すと言う行為には自己犠牲が必要です。赦すという以上、非は相手にあるからです。過ちや罪が相手の側にあるから、「私はあなたを赦す」のです。そして、相手に過ちや罪、非があるとき、赦すためには、赦す側が「怒りや憤り」あるいは相手の非を裁く「正義」すら、放棄する、あるいは我慢すると言うことが求められます。まさに、自分自身の感情にいったん死ななければならないのです。そうしないと、愛すると言う心は生まれてこないのです。この愛することとは赦すことであるということを、もっと異文化のわたしたちに分かり易く示してくれている聖書の箇所があります。それは。ヨハネによる福音書13章の洗足の記事です。過ぎ越の祭りの前に、この世を去って父のみ元に行くべき時、つまり十字架に架かって死ぬことがわかったとき、イエス・キリスト様は弟子たちひとりひとりの足を洗い始めたのです。
当時のイスラエルの服装ですと、外を歩くと一番汚れるところは足です。その汚れた弟子たちの足をイエス・キリスト様は洗い始めたのです。汚れを洗い落とす行為、それは私たちの罪やけがれを洗い落とすと言うことを指し示すものです。そして、そうやって足を洗った弟子たちひとり、ひとり過ぎ越の食事に招き入れているのです。イエス・キリスト様は弟子たちにとっては、主であり師匠です。足を洗うという行為は本来奴隷がすることであり、百歩譲っても師匠が弟子の足を洗うなどとは考えられないことです。自分が師匠であるプライドも何もかも捨てて、弟子たちの足を洗うイエス・キリスト様の姿ことが、罪を赦すと言うことを指し示す行為なのです。そして、足を洗って、食事のせきに迎え入れているのです。ですから、罪を赦すと言うことは、迎え入れると言う結末に繋がらなければなりません。私は、あなたの罪を赦しました。罪は赦しましたから、どうぞ私からさって下さい。私とあなたとは無関係です。と言うのであるならば、それは罪の赦しにはならないのです
この2007年と言う年に、この「愛する者たちよ。わたしたちは互いに愛し合おうではないか。愛は、神から出たものなのである。すべて愛するものは神から生まれたものであって、神を知っている。」というヨハネ第一の手紙4章7節が、わたしたちの歩みの指針として掲げられている、それは、言葉としてイメージされる「愛し合う」ということではなく、イエス・キリスト様が弟子たちの足を洗ったあの場面からイメージされる赦しの出来事、弟子たちの罪や汚れを赦し、ご自分のところへ招き受け入れたイエスキリスト様の行為を指針として歩んでいきましょうと言うことなのです。そのイメージの。みなさん、わたしたちは互いに愛し合おうではありませんか。赦しあおうではありませんか。受け入れようではありませんか。愛とは赦し受け入れる事なのです。そして、そのような愛でわたしたちが愛するとき、わたしたちは、始めて、本当に神を知っていると言うことができますし、わたしたちもまた神に知って頂いていると言うことを、心に確証できるのです。
お祈りしましょう。