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羊飼い 『生きた信仰』
マルコによる福音書9章14−29節
2007/1/14 説教者 濱和弘
賛美  11、415、379

昨日のことですが、家内と車に乗っていて、何気ない会話をしていたのですが、その中で、「私の母が亡くなってまだ2年しかたっていまいんだ」と言うことに気が付いて愕然と致しました。まだ、たったの2年なのに随分と前のことのようなそんな気がしたからです。一体どうしてなんだろうとそう思って、考えてみた結果が、おそらく母が召されてから2年間は、余りのも多くのことがいっぱいあったから何だろうと思います。余りにたくさんあって、たくさん考えて、そんなこともあって自分が意識している2年という時間の長さより長く感じってしまったのだろうと思います。時間というものは、不思議なものです。一時間、60分と言うときは決して代わらないおなじながさなのですが、時には長く感じますし、時には短く感じる。楽しい時間は早く過ぎてきますし、退屈な時間は長く感じます。たぶん私の説教も、大体30分から40分ぐらいではないかなと思うのですが、皆さんにとっては長く感じられるときもあるでしょうし、短く感じるときもあるのではないかと思います。できるならば、「いつも皆さんが短く感じられるような説教ができていればいいのだけれど」、と思うのですが、実際は、長い方が多いのではないかと心配もしています。

あるいは、昨年までは外部の教会にお招き頂くことも多くありましたので、教会を留守にすることもあったのですが、そんな時には、留守にした翌週に皆さんとお会いしますと、ちっと久しぶりという感じがしたりします。ましてや2週も続けて出かけますと、随分とあっていない感じさえする。それは、たぶん皆さんとの心の距離が近いからだろうと思いますし、皆さんが毎週礼拝の集っておられるからこそ、たった一回や二回礼拝でお会いできなかったことが、随分とあっていない感じを与えるのだろうと思うのです。そういった意味では、毎週の礼拝に集うということは、教会が教会性つまり神に召し集められた会衆であるということを保つためにも大切なことかもしれません。毎週毎週の礼拝に集う。それはある意味礼拝が習慣化しているということです。私が、聖書学院で学んでいるときに、松木祐三先生が「信仰が習慣化することは大切なことです。」とそうおっしゃったことがあります。始め、私はその言葉を聞いたときに、その言葉の意味がうまく受け止められませんでした。と申しますのも、信仰が習慣化するといわれると、私は何か信仰が形骸化されていくような感じがしたからです。習慣ということは、同じことをくり返すということです。同じことをくり返しているとだんだんと惰性化し、形骸化するのではないかとそう思ったのです。それで「信仰が習慣化することは大切なことです。」と言う言葉がピンとこなかった。

しかし、考えてみますと信仰の形骸化と習慣化は同じものではありません。要は、信仰に命があるか、信仰が生きた信仰になっているかどうかが問われるのであって、同じことがくり返され、習慣化するからと言って、必ずしも形骸化するわけではないのです。それでは、信仰が形骸化されないためにどうしたらいいのでしょうか。私たちが生き生きとした信仰を持ち続けるために大切なことは何なのでしょうか。今日のテキストの箇所は、イエス・キリスト様が口をきけなくするの霊に憑かれている人を癒した記事です。私どもの教会の公用聖書は口語訳聖書ですので、口語訳聖書をお使いの方が圧倒的に多いだろうと思いますが、口語訳聖書では「おしの霊につかれている」と書かれているのではないかと思います。しかし、「おし」というのは差別語でして、近年は聖書も注意して差別語を使わないようにしているのですが、口語訳聖書の場合、翻訳委員会が既に解散していますので、そのあたりの対応が若干遅れ気味です。しかし、善くないものは善くないわけですから、そこは、訂正しながらもちいていきたいと思います。そのようなわけで、今日の聖書の箇所には、17節と25節に「おし」「つんぼ」という差別語がありますが、それぞれ新改訳聖書の表現「口をきけなくする霊」「耳を聞こえなくする霊」に起き代えて使わさせて頂きます。

そこで、本文ですが、イエス・キリスト様が変貌の山から下りてこられて、山の下で待っていた弟子たちのところにやってくると、弟子たちと律法学者たちが論じあっていて群衆がそれを取り囲んでいったのです。弟子たちと律法学者たちが論じあっていたというのですが、イエス・キリスト様と律法学者たちは、もともと折り合いが言い訳ではありませんでした。ですから、おそらくは、ここで弟子たちが律法が者たしと論じあっていたというのは、友好的な感じで論じあっていたというのではなくて、やり合っていたという感じなのだろうと思います。聖書注解者たちの中には、舞台となっているピリポ・カイザリヤ付近に律法学者がいるということは、歴史状況的には考えられないということと、この律法学者に冠詞が着いていないと言うことから、正式な教師ではないのではないかという意見もあります。しかし、だとすれば、聖書記者であるマルコは、それを敢えて律法学者という表現をつかったことで、ここで、弟子たちとの間にあった激しいやりとりを、読者たちに印象づけたかったのだろうと思います。そのような場面にイエス・キリスト様がやってきた。15節には群衆は非常に「驚いてイエス・キリスト様のところに駆け寄ってきてあいさつをした」というのですから、この場面でのイエス・キリスト様の登場は、群衆にとってはよそ街の出来事だったようです。

しかし、同時に非常に驚いて駆け寄ってきたという言葉の背後には、弟子たちと律法学者の論争が紛糾して解決が付かないところに、真打ちのイエス・キリスト様が登場して、その議論にスパッと解決を与えてくれると言った、そんなニュアンスも感じさせる言葉です。いずれにしても、その紛糾した場面にイエス・キリスト様がやって来たのです。聞けば、弟子たちが父親に連れてこられた、口をきけなくする霊に憑かれた息子を癒すことができなかったことについて論じあっているのだというのです。口をきけなくする霊とありますが、ここに書かれている症状を見ますと、どうやら、今日でいう「てんかん」という病気のようです。もちろん、当時の医学的知識では、今日の私たちが知っていることも、当時では分からないので、口をきけなくする霊に憑かれてしまったとそう思っていたのでしょう。そして、イエス・キリスト様も、そのようなものの考え方をする時代の人の中で生きておられたので、その汚れた霊を追い出すという形で、この口をきけなくする霊に憑かれていると言われていた人をお癒しになられたのです。

私は、この箇所を読んでいておもしろいなと思って心を引かれたのは、弟子たちと論じあっていたのが、弟子たちのところへ息子を癒して頂きたいと連れてきた父親ではなく、律法学者だということです。そして、この時には、父親はその議論を見守る群衆の一人になっているのです。本来ならば、息子を癒されなかった父親が、弟子たちに「何で癒せないんだ」と食ってかかるなら話が分かります。けれども、ここで弟子たちと論じあっているのは律法学者です。律法学者と冠がかぶせられている以上、彼らは、信仰の専門家です。それが、弟子たちと論じあっている。いうならば、手術に失敗した医者に、あなたの手術の方法は間違っている非難している別の医者に、いや、手術の方法は間違っていない問題は他のところにあるのだといいあっているようなもので、彼らが論じあっていたのは信仰の問題なのです。つまり、イエス・キリストに与えられた権威によって癒し行う弟子たちの方法が正しい信仰なのか、正しくないのかと言う問題です。というのも、同じマルコによる福音書6章の7節から12節には、イエス・キリスト様が12弟子を呼び寄せ。汚れた霊を制する権威を与え、二人づつ伝道の旅に出かけさせたことが記されています。そして、その旅で弟子たちは、「多くの人の悪霊を追い出し、大ぜいの病人に油をぬって癒した。」ということが書かれています。

ですからおそらく、この時に、弟子たちはその時と同じ方法で、この「口をきけなくする霊」につかれた子から、その汚れた霊を追い出そうとしたのだろうと思います。ところが癒されなかった。だとすると、問題はイエス・キリスト様の権威が正しい権威なのか、そうでないのかということになります。そすすると、問題はもうすでに「口をきけなくする霊」に憑かれた子の癒しは問題ではなくなっています。問題の中心はイエス・キリスト様というお方に移っている。だから、その父親は群衆の中の一人に成らざるを得ないのですそこにやってきたイエス・キリスト様が、当の本人がやって来た。彼らが論じあっている内容を聞いて、口を開きます。その言葉は、弟子たちと律法学者たちが、期待していたものです。この互いに譲り合うことなく論じあっていた問題に解決を与えてくれる。この「口をきけなくする霊」に憑かれた子が癒されなかった原因がどこにあるのか。弟子たちの信仰が正しいのか正しくないのか論じあっていた弟子や律法学者。そしてそれ取り巻いてみていた群衆。彼らがイエス・キリスト様の注目している。そのような中で、イエス・キリスト様が語られた言葉は「ああ、何という不信仰な時代であろう。いつまで、わたしはあなたがたと一緒にいられようか。いつまであなたがたに我慢ができようか」というものでした。

イエス・キリスト様は、問題が不信仰にあるのだとそういうのです。いえ、正確に言うならば、今、イエス・キリスト様が目にしている状況それ自体が不信仰に満ちた状況だというのです。だから「ああ、何という不信仰な時代であろう。」と嘆かれたのです。このイエス・キリスト様が不信仰な時代だと嘆かれた状況を作っているのは、そこにいる弟子たちと律法学者、そして、この「口をきけなくする霊」に憑かれた子の父親と、群衆です。その中の誰かを指して不信仰だといわれたのです。その言葉を、そこに集っていた人たちはどんな思いで聞いたのでしょうか。彼らはイエス・キリスト様が「不信仰な時代だ」と言われたとき、誰を指していわれていると思っていたでしょうか。はたして、自分もイエス・キリスト様が嘆かれた不信仰を気付いているひとりだと感じているでしょうか。そもそも、イエス・キリスト様が感じられた不信仰とは何だったのか。もちろん、「口をきけなくする霊」に憑かれた子が癒されなかったと言うこともそう妥当と思いますが、私はもう一つあるように思います。それは、弟子たちも、律法学者たちも、そして群衆も、口をきけなくする霊」に憑かれた人のことを、またその父親の存在を忘れているからです。本来、この場面の主役であるのは、「口をきけなくする霊」に憑かれた子のはずです。なのに弟子たちも、律法学者たちも、その主役の存在を忘れて、自分たちの立場を主張するかのような信仰論議をしてやりあっている。群衆も、そちらの方に関心があるから、彼らを取り巻いて、そちらに注目しているのです。

イエス・キリスト様はこの状況を不信仰な時代だといわれているとそう思うのです。誰もがみんな自分の関心だけに目が向いている。けれども、本当に目を向けなければならないのは、もっとも悲しい思いをして居るであろう、癒されなかった子、そしてその父親なのです。だからイエス・キリスト様は「ああ、何という不信仰な時代であろう。いつまで、わたしはあなたがたと一緒にいられようか。いつまであなたがたに我慢ができようか」といわれた後、即座に「その子を、私のところに連れてきなさい」とそう言われています。再び、本来主役であるはずの子を、舞台の中央に呼び戻すのです。私たちの教会の、今年の念頭の聖書の言葉は、ヨハネ第一の手紙4章7節の言葉です。「愛する者達よ、わたしたちは互いに愛し合おうではないか。愛は、神から出たものなのである。すべて愛する者は、神から生まれたものであって、神を知っている」です。この言葉はさらに、8節の「愛さないものは神を知らない」に続いています。愛するということは神から始まっている。だから、愛する者は神から出たものであるというのです。ですから、神を信じると言うことは愛するということでもあるのです。

もちろん、信仰というものは神を信じ、神を信頼して依り頼むことです。19世紀初頭のシュライエルマッハーという人は、「宗教論」という本の中で「宗教とは、絶対依存の感情である」とそう言いました。「宗教論」といいますが、19世紀のドイツに生まれ育ったシュライエルマッハーにとって、宗教とはキリスト教そのもの他なりません。ですから、シュライエルマッハーが「宗教とは、絶対依存の感情である」と言うとき、それは「キリスト教の信仰は、神に絶対的に依存し依り頼む心だ」ということなのです。そして、確かに、それはそうだろうと思います。だからこそ、イエス・キリスト様は、22節でこの「口をきけなくする霊」に憑かれた子の父が、「しかしできますれば、私たちどもをあわれんでお助け下さい。」という言葉に、即座に「もしできれば、と言うのか。信ずる者には、どんなことでもできる。」と、イエス・キリスト様に対する絶対的な信頼と依り頼む心、いうなれば「絶対依存の感情」を求めておられるのです。けれども、それが最初に弟子たちが試みたときに、この子が癒されなかった理由ではありません。なぜなら、イエス・キリスト様がこの子から汚れた霊を追いだした後に、弟子たちから「私たちは、どうして霊を追い出せなかったのですか」とたずねたときに「このたぐいは、祈りによらなければ、どうしても追い出すことができない」とそう言っておられるからです。

「このたぐいは、祈りによらなければ、出来ない」と言いつつイエス・キリスト様が実際に癒された場面の25節26節を見ますと、イエス・キリスト様は汚れた霊をしかりとばされただけで、祈っておられる姿は記されていない。ですから、たぶんこういうことなのだろうと思います。「このたぐいは、祈りによらなければ、どうしても追い出すことができない」と言う祈りは、ただ祈るという行為が問題なのではない。祈る相手のことを思い、深く心を寄せて祈ること、相手のことを思って祈らなければダメだと言うことなのだということです。おそらく、最初に弟子たちが、この子供から汚れた霊を癒そうとしたときに、かつてふたりづつ旅に出て、イエス・キリスト様の権威で悪霊を追い出し、油をぬって人を癒した経験から、同じようにすれば大丈夫だと思って、引き受け、そして同じように行ったのでしょう。それこそ、最初にお話ししたような、やり方形は同じでも、そこの相手を思いやる深い愛と憐れみがない形骸化したものだったろうと思うのです。そんなことでは癒されないのです。相手のことを深く思い、憐れみ、愛する思いですがるような思いで愛し執り成す、そんな祈りによらなければ信仰の出来事は起こってこないのです。

たとえば、イエス・キリスト様も多くの人をお癒しになりました。そのときに、イエス・キリスト様は彼らを、深く憐れまれたと、聖書には記されています。イエス・キリスト様の癒しには、いろろな意味づけができますが、何よりも、イエス・キリスト様の愛から出た行為なのです。愛がなければ、どんなに形が整っていても、それは生きた信仰ではない。愛がなければ不信仰なのです。なぜなら、「愛さないものは神を知らない」ヨハネ第一の手紙4章8節だからです。神に信頼し依り頼むところの信仰が、生きた信仰になるのは愛することを始めたところからです。弟子たちが、癒せなかったのはそれこそ、形ややり方だけに従った形骸化しただけのものであって、愛するという生きた信仰のエッセンスを失っていたからです。だから、律法学者たちと議論になったとき、「口をきけなくする霊」に憑かれた子の存在も忘れ、その父親も群衆の一人にしてしまったのです。そこには愛が欠けていた。だから不信仰なのです。また群衆たちも律法学者たちも自分の興味があることだけに関心が向けられて、悲しんでいるもの、弱いものに向ける目を失っているところに彼らの不信仰な姿があったなのです。そのような状況を見て、イエス・キリスト様はああ、何という不信仰な時代であろう。」とそう嘆かれたのです。だからこそ、私たちは愛する者になっていかなければなりません。愛するところに、信仰があるからです。

昨今は、教会では、愛されると言うことが中心になってきたような感じがします。それはそれで間違ってはいません。神から私たちが愛されているからです。けれども教会は、愛されるだけではなく、愛されるからこそ愛する者とならなければ成りません。神を信じるものの群れは、生きた信仰に生きるならば愛する者の群れだからです。そう思いながら、先ほどのイエス・キリスト様の嘆きの言葉は良く読んでみると、実の深刻な言葉だといえます。「ああ、何という不信仰な時代であろう。いつまで、わたしはあなたがたと一緒にいられようか。いつまであなたがたに我慢ができようか」。イエス・キリスト様はそう言われるのです。そういわれるのです。それは、愛することがない群れの中に、イエス・キリスト様は居ることが出来ないと言う嘆きでもあります。もし、教会が愛することを忘れたら、教会の中にイエス・キリスト様は、その教会にいることはできないのです。イエス・キリスト様がいない教会など教会ではありません。そういた意味で、私は、今日のこの聖書の箇所を読み、メッセージの準備をしながら、あらためて、今年の念頭の言葉として掲げたヨハネ第一の手紙4章7節の「愛する者達よ、わたしたちは互いに愛し合おうではないか。愛は、神から出たものなのである。すべて愛する者は、神から生まれたものであって、神を知っている」と言う言葉の重さをかんじました。

プロテスタント教会は、万民祭司であると言われます。それは牧師も信徒もすべての人が執り成しのために祈るものだからです。けれども、その祈りも、愛がなければ形骸化した、それこそ形だけを踏襲した祈りに成ってしまいます。本当に、相手のことを思い、愛し、祈るとき、その時に教会は愛すると言うことを実践する生きた信仰の教会に成っていく。そのことを思いながら、イエス・キリスト様がいつまでも留まっておられる教会らしい教会であり続けたいと思います。

お祈りしましょう。