『勇気を持って』
マルコによる福音書9章30−32節
2007/1/21 説教者 濱和弘
賛美 251、339、104
さて今日は、ただいま司式の兄弟からお読み頂いたマルコによる福音書9章30節〜32節からのお話しです。今、私たちの教会は、講解説教と申しますほどのものではありませんが、しかし、新約聖書の各書を、連続して取上げながら、礼拝の説教をしています。最初は、マタイによる福音書、次にローマ人への手紙、そして今のマルコによる福音書です。聖書を連続して説教するということは、聴衆、すなわち皆様方にとっては、聖書の各書を全体の中でもれなく、しかも文脈を追って学び、そこから階の言葉を聞くということにおいて、連続説教は有益であろうと思います。また、一つの書を、章節をおいながら、連続して説教するということは、説教する側にとって、つまり私にとって、次の週説教する場所は自ずと決まってくるのですから、来週はどこから説教しようかということを悩まないで済みます。以前、このような連続説教の形をとっていなかったときは、それこそ、その週の礼拝の説教が終わった瞬間から、「主よ、来週はどこからお言葉を取りつげばよろしいでしょうか」と祈り求めるような、感じでした。そういった意味では、次週お話しするところが、文脈によって決まっているのは、大変有り難いのですが、逆に困ってしまうことがある。と申しますのも、聖書の箇所によっては、一体ここから何を伝えることができるのかと、思われるような箇所があるからです。そんな時は、それこそ前の週の礼拝の説教が終わった瞬間から気が重くなります。実は、今日の箇所はそう言った箇所です。
「それから彼らはそこを立ち去り、ガリラヤをとおって行ったが、イエスは人に気づかれるのを好まなかった。それはイエスが弟子たちに教えて、『人の子は人々の手にわたされて、彼らに殺され、殺されてから後によみがえられるであろう』と言っておられたからである。しかし、彼らはイエスの言われたことを悟らず、また尋ねるのを恐れていた。」私は、この短い箇所を読みながら、礼拝説教として、一体何がここから語られるのか全く見当が付かない感じがしていました。そして、「主よ、あなたは一体何をここから、私たちの教会にお語りになられようとしているのでしょうか」とそう問い続けなければなりませんでした。そのような中で、ふっと「それから彼らはそこを立ち去り、ガリラヤをとおって行ったが、イエスは人に気づかれるのを好まなかった。」という言葉が疑問に思えてきた。ガリラヤというのは、イエス・キリスト様が、主に伝道していた地域です。ですから、顔見知りも多いでしょうし、イエス・キリスト様の方がしらなくても、人々の方はイエス・キリスト様のことをよく知っている。その人たちと顔を合わせたくないとそう思われたと言うのです。一体なぜだろう。
確かに、弟子たちは「それはイエスが弟子たちに教えて、『人の子は人々の手にわたされて、彼らに殺され、殺されてから後によみがえられるであろう』と言っておられたからである。」とその理由が記してあります。けれども、いったん疑問が湧いてきますと、その疑問はどんどんとふくらんでいきます。だとしたら、「なぜ、弟子たちに『人の子は人々の手にわたされて、彼らに殺され、殺されてから後によみがえられるであろう』と教えられることで、人々と顔を合わせたくない、人々に気づかれたくない」と思われたのだろうか。そのように疑問がふくらんでいくのです。皆さんは一体どう思われるでしょうか。そんな時、私は取りあえず本棚から何冊かの注解書を引っ張り出してくるのですが、そこを見ると、この箇所は「イエス・キリスト様の2度目の受難の予告であって、そのことを、弟子たちにお教えになられるのに、人々にわずらわされたくなかったからである。」と説明してありました。
しかし、一旦疑問に思うと、このような説明ではなかなか納得できないのです。そもそも、この箇所をイエス・キリスト様の二度目の受難の予告であると書いてありますが、イエス・キリスト様は、その何日構え、おそらく一週間そこそこだと思われますが、同じことを弟子たちに語られている。マルコによる福音書の8章31節32節です。「それから、人の子は、必ず多くの苦しみを受け、長老、祭司長、律法学者たちに捨てられ、また殺され、そして三日の後によみがえられるべきことを彼らに教えはじめ、しかもあからさまに、この事を話された。するち、ペテロはイエスを脇に引き寄せて、いさめはじめた…云々」注解書は、ここの箇所を2度目の受難の予告だというが、ひょっとしたら、ここでイエス・キリスト様が「弟子たちに教えて、『人の子は人々の手にわたされて、彼らに殺され、殺されてから後によみがえられるであろう』と言っておられた」ということは、マルコ8章31節のことを指しているのではないだろうか。そうも思えまして、そこで、ギリシャ語の聖書でもう一度と読直してみました。すると、ギリシャ語の文法的用法から、イエス・キリスト様は、『人の子は人々の手にわたされて、彼らに殺され、殺されてから後によみがえられるであろう』ということを、くり返し、くり返し言っておられたということが分かってきました。
つまり、マルコによる福音書の8章31節32節で、御自分が、受難に合い、殺され、死んで三日目によみがえると言うことを、最初の弟子たちにお告げになられてから、何度も繰り返し、そのことを話していたということなのです。同じことをくり返して言う。何度も何度も繰り返して言う。それは、本当に大切なことだからです。大切なことだからくり返す。私だって、子どもたちに言っていることは、同じことばかりです。例えば、勉強しろとか、何かをする時は手を抜いてやるな」とかそれこそ、子どもたちにしてみれば、「またか、うるさいな」と思うかもしれません。いや、きっと思っているだろうなと思います。けれども、大切なことだから、ついつい口を衝いて出てしますのです。イエス・キリスト様が、弟子たちにくり返し、くり返し「人の子は人々の手にわたされて、彼らに殺され、殺されてから後によみがえられるであろう」教え、語り聞かせておられたとするならば、とても大切なことだったからです。そうすると、あの注解書に書いてあった、そのことを「弟子たちにお教えになられるのに、人々にわずらわされたくなかったからである。」ということも、分かるような気がします。
ところが聖書は、イエス・キリスト様がくり返し、くり返し、受難と復活のことを語り聞かせたというのに、当の弟子たちは、そのことを悟らなかったと書いてあります。イエス・キリスト様はくり返し、くり返し、語って聞かせる。しかし、弟子たちは、何度言われても、そのことについて理解できなかったのです。いや事態はそれだけではない。悟らなかったと言いう言葉は、認めなかったとも訳せる言葉なのです。ですから、弟子たちは、イエス・キリスト様が「人々の手にわたされて、彼らに殺され、殺されてから後によみがえられるであろう」と言う言葉が、何のことを指し、どうしてそのようなことが起こるのかといった、真意、言うなれば、キリストの十字架の死の真意を理解することができなかったというだけでなく、イエス・キリスト様が十字架で死なれるということそれ自体も認めなくなかったのです。だから、今日の聖書の箇所の最後の言葉が、「また尋ねるのを恐れていた。」となっていたのです。要は、その話に触れたくなかったのです。なぜなら、取り扱っている内容が、イエス・キリスト様の死と言うことだからです。
人の死と言うことは、あまり話題にしたくない、触れたくない内容です。それは決して気持ちのいい話でもなければ、楽しい話でもない。あまりそんな話をしない。私たちの国では、それこそ「そんな不吉な話はするもんではない」と言われてしまうようなことなのです。しかも、イエス・キリスト様の場合、それが「人々の手にわたされて、彼らに殺される」という内容ですから、なおさらのことであったろうと思います。それは、絶望的なことだからです。私たちにとって、死と言うものは絶望的な響きを持って聞こえてくる言葉なのです。だから、話したくないし、考えたくない。
これは、以前にもお話ししたことですので、皆さんご存知だろうと思いますが、私が以前甲状腺ガンを患ったとき、私も、私の家内もはじめて死という問題にぶつかりました。そして、何度も病気のことについて話し合いました。もちろん、病気を治療して直すということについて話すわけですが、なにせ病名が病名ですから、最悪のことも考える。そして、最悪のことについても話をする。私も、一応は一家の大黒柱の「つもり」ですし、この教会の牧師でもありますから、一応最悪の時のことを考えて、家内にいろいろなことを話していました。そしたら、ある時、それこそ、「もし助からなかったら」ということをということを前提に話をしているときに、家内が声を上げて泣き出した。そんな話は、聞きたくもなかったし、考えたくもなかったのだろうと思うのです。きっとそれまでもそうだったろうと思う。でも、私も話したくないことでは合っても大切なことなので話さなければならない。本当は、誰でも絶望的な話よりも希望のある話をしたいものですし、希望のある話をしたいのです。イエス・キリスト様の弟子たちにとって「人々の手にわたされて、彼らに殺される」と言う話は、まさに絶望的な響きを持った言葉だったのです。だから、そのことについて聞きたくもなかったでしょうし、認めたくもなかった。「彼らはイエスの言われたことを悟らず、また尋ねるのを恐れていた」とそう書かれている聖書の言葉の背後には、そのような弟子たちの気持ちが隠されているとそう考えてもよろしいだろうと思います。
ところが、聖書において、イエス・キリスト様が人々とやりとりをしている様をみなすと、その会話が何ともちぐはぐな感じがすることが少なくありません。どうも話がかみ合わないと言った感じを受ける場面が、いくつもあるのです。そういった意味では、今日の聖書の箇所もイエス・キリスト様の心、弟子たちの心が、どうもうまくかみ合っていない感じがします。そして、うまくかみ合っていないときに、往々にして見られるのは、同じことを全く別のとらえ方をしてみていると言うことです。
同じ一つの事柄を見ていても、それに対するとらえ方が違ってくれば、全く話はかみ合いません。先日、テレビを見ていましたら、国の教育再生会議のことについて話がなされていました。そのなかで、教育再生会議から、学校教育の中に社会奉仕の時間を必修に組み入れるという提案がなされていました。その提案に対して、ある方が、社会奉仕はボランティアなのだから、授業として強制されてやるものではない。第一、そのような強制でなされた社会奉仕を受ける側の、例えばご老人だとかの立場になって考えて見るとどうなのだろうか、言う趣旨のことを話しておられました。なるほどな、思わされる一面もありましたが、反面、何か議論がかみ合っていない感じがしたのです。それはおそらく、社会奉仕という一つの事柄に対して、一方は教育という立場から、生徒を対象して奉仕をする側として捉えているのに対して、一方ではその本質から、奉仕を受ける側として捉えているからだろうと思うのです。
おなじように、ここでも、弟子たちはイエス・キリスト様の十字架の死を、人の世にある忌みきらうべき不幸なこととして捉え聞く、一方、イエス・キリスト様の方は、それを神の出来事として捉えて語っているのです。だから、両者の間に、どこかかみ合わない「すれ違い」が生じている。弟子たちがイエス・キリスト様の十字架の死を、人の世にある忌みきらうべき不幸なこととして捉えたのは、私たちの一般的な見方です。私たちも、その場に居合わせたなら、きっと同じように捉えたでしょう。それが、世間一般の常識的な見方だからです。けれども、イエス・キリスト様は、ご自身の死をそのようには捉えていませんでした。弟子たちにとって、イエス・キリスト様が死ぬと言うことは、大切な人を失うことであり、辛く悲しいことに違いはありません。だから、弟子たちにとっては、イエス・キリスト様が「人の子は人々の手にわたされて、彼らに殺され、殺されてから後によみがえられるであろう」と言われることは、かれらの悲しい知らせなのです。ところが、当のイエス・キリスト様にとっては、ご自身が十字架で死なれることは、「人々に罪の赦しをもたらされ、永遠の命をもたらされる」という神の恵みの業であり、良き知らせ、福音なのです。
だから、イエス・キリスト様は、「ご自分が殺され死んでしまうと言うだけでなく、三日目に死人の中からよみがえる」と、そう言われるのです。私たちにとって、悲しく辛い死という出来事が、イエス・キリスト様によって、悲しい出来事ではなくなるのだというのです。それは、復活という出来事に結びつくからです。私たちが、いつまでも死というものに縛りつけられているのではなく、復活し永遠の命を神からいただいて神の国で生きる者とされるのです。 もちろん、それは世間一般の見方とは全く逆なものだと言えます。そして、それは常識からは逸脱したものの見方です。ですから、そのことを教えなければ分かりません。そして、それを教えることは大変なことですあたりまえのことに対して、当たり前でない物の見方や考え方を教えるからです。けれども、それがよいことだからこそ、その大変なことを、イエス・キリスト様は、くり返し、くり返しお話しになり、ら語り伝えようとなさったのです。良い知らせだからです。大切なことだからです。イエス・キリスト様が十字架でしなれることで、死というものの意味が全く変わってしまった。それは人間の命の終りではなく、滅びでもなく、新しい命の始まりとなったからです。
イエス・キリスト様を救い主として信じる者は、決して滅びることはない。たとえ死んでも、死わ私たちをしはいすることはできません。主イエス・キリスト様が再び来られるときに、復活し永遠の命をいただいて神の国で生きることができるのです。けれども、結局、弟子たちは、この時には、イエス・キリスト様が語らえるご自身の死、十字架の死について、理解することも、そのことがやがて起こるという認めることもできなかった。避けたのです。そして、避けた理由は、恐ろしかったからなのです。死という言葉の持つ重さに、彼らはイエス・キリスト様の言葉に向き合えなかった。もし彼らが、勇気を持って、イエス・キリスト様の言葉に向き合っていたならば、きっと彼らは、イエス・キリスト様の十字架の死の意味を理解することができただろうと思います。事実、これからしばらくした後に、彼らは言葉ではなく、イエス・キリスト様が十字架で死なれる当出来事に向き合わなければならなかったからです。ですから、もしこの時に、イエス・キリスト様の語られる言葉から弟子たちが逃げ出さなかったなら、勇気を持ってその言葉に向き合っていたならば、彼らは、きっと違った思いでイエス・キリスト様の十字架に向き合えただろうと思うのです。
イエス・キリスト様の十字架は、イエス・キリスト様を救い主として信じる者に対し、人間にとってもっとも大きな苦難である死さえも、滅びではなく命へとも変えてしまいました。しかも、永遠の命です。それは、私たちにとって、普通に考えたならば災いと思われること、苦難であり、悲しみであると考えられるものを、祝福に変え、恵みに変え。喜びに変えてくれると言うことでもあります。同じ事柄であっても、神の前に全く違った新しい出来事が起こるのです。だから私たちは、私たちの前にやってくる困難や苦難というものから目を背けてはいけないのです。、本当は、そのようなものから身を避け、目を背けていたい気持ちがあっても、勇気を出して、そのことと向き合わなければならないと思うのです。なぜなら、イエス・キリスト様は、どんな苦難や災いであっても、それを災いのまま、苦難のままで終わらしておかれる方ではないからです。イエス・キリスト様の死が、永遠の命という新しい命のスタートとなったようにその苦難や悲しみが次の第一歩へのスタートとなるのです。だから、私たちは決して逃げ出してはなりません。そして、勇気を出して向き合わなければならないのです。そして、その苦難の中から、イエス・キリスト様を求めることが大切なのです。
宗教改革をおこなった、マルティン・ルターと言う人は、人間にとって最も大きな苦難は、苦難がないことだとそう言いました。けれども、苦難のない人生なんてありえません。私たちの人生には苦難といったものはつき物なのです。ですから、ルターが言っていることは、苦難が苦難としてやって来たときに、それにきちんと向き合わないで逃げてしまうことが人間にとって一番の苦難なのだということです。私たち人間は、弱い存在です。ですから、苦しいことや悲しいこと、まさに苦難と呼ばれるようなことがあったならば、それに耐えられないで心がふさぎ、嘆き悲しむものです。耐えられるようなものであったならば、それは苦難でも何でもないのです。でも、本当に耐えられないような苦難に出会った時に、それから目をそむけないで向き合うならば、イエス・キリスト様が、支えて下さり、その苦難を苦難として終わらせはしないのです。
もしここで、弟子たちがイエス・キリスト様が語る十字架の死と復活のことについて、勇気を持って聞いていたならば、それか後の様々な困難にも彼らは逃げ出すことなく、きちんと向き合うことができただろうと思います。けれども、彼らはそうしなかった。だから、イエス・キリスト様に十字架の死の直前には、彼らはみんな逃げ出したのです。ただ、彼らは、イエス・キリスト様の十字架の死という出来事に遭遇し、復活という出来事を目の当たりにました。言葉として語られていたことが、目の前に起こったときに、それはもはや目楚々向けることの出来ない事実として、向き合わざるを得なかったのです。その時、はじめてイエス・キリスト様の言われたことが理解することができたのです。それからは、弟子たちの生き方が変わったのです。彼らにとっては最早、死も絶望ではなく、新しい命への希望となっていました。だから、苦難や困難のなかでも大胆に語り、イエス・キリスト様を伝えていったのです。私たちも、イエス・キリスト様を救い主として信じ生きていくならば、苦難の中にあっても、決して絶望する必要はありません。死をも命に変えるるお方が、私たちに希望を与えて下さるからです。
お祈りしましょう。