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羊飼い 『全ての人に仕える』
マルコによる福音書9章33−37節
2007/1/28 説教者 濱和弘
賛美  20、341、388

さて、今日の聖書の箇所は、「誰が一番偉いのか」と互いに論じあっていたことに対して、イエス・キリスト様が訓戒なさったことが記されています。33節に「彼らはカペナウムにきた」とありますが、カペナウムはイエス・キリスト様が伝道の拠点としていた町です。いわばホームタウンのようなところですが、そこで家におられると、弟子たちが何か論じあっている。そこで何を論じあっていたのかをお訪ねになると、弟子たちは黙って答えなかったというのです。黙って答えない。いえ答えられなかったと言うのが実情ではないかと思うのです。返事がしにくい、こたえられない。そう言ったときは、得てして心にやましいことがあるという場合が少なくないように思うのですが、いかがでしょうか。この時の弟子たちも、きっとイエス・キリスト様に論じあっていた内容が何であるかをお答えするにはやましさを感じていた、だから答えられなかったと考えても良さそうです。そのやましさを感じさせる理由が、彼らが「誰が一番偉いかと論じあっていた」とマルコはそう伝えています。

私もそうですが、誰でも人にのぞき込まれたくない心の中の思いがあります。ましてや神様には決してして知って欲しくないような、心の醜さや汚れた思い、ずるさや、エゴイスティックの心の実像といたものがあるのです。きっと、弟子たちが「だれが一番偉いのか」と話し合っていたことを、問われたときに、彼らは、そんな心の中をのぞき込まれたのではないかとそう思うのです。誰が一番偉いのかということを論じ合うと言うことは、おのずと人に序列をつけると言うことと繋がります。それは結局「自分はあの人よりもは劣るけれども、この人よりもよは優るとか、あの人は、やっぱり一番ビリかな」などと、人をランク付けすることなのです。そのような人をランク付けする様なことをしていたことを、誰もイエス・キリスト様に話すことがで生きなかった。そのようなことをイエス・キリスト様が喜んで聞かれようはずのないこと、あるいはお怒りになるような内容だったからです。だから話せずにいた。そう考えるのが妥当だと思います。彼らが黙っている中で、35節ではイエス・キリスト様は、ご自分の方から「だれでも一番先になろうと思うならば」といって語りはじめています。ですから、彼らが黙っている姿に、「ああ、誰が一番偉いかで言い争っているな」とぴんと来るものがイエス・キリスト様にあったのだろうと思います。それはきっと今回だけでなく、何度も何度も弟子たちの間で話題になっていた出来事なのだろと思うのです。だから、イエス・キリスト様は、黙って返事をすることのできない弟子たちの姿を見て、ピンと来たのだろうと思います。

弟子たちは、弟子たちで、誰が一番偉いのかを議論するたびに、イエス・キリスト様から、そのような態度や考え方が間違っていると言うことを、くり返し諭されていたのではないかと思いますし、ひょっとしたら、そのことで叱られたこともあるのではないかと思うのです。だから返事をすることができなかった。この、34節の短い「彼らは黙っていた。」と言う言葉は、そのような、イエス・キリスト様と弟子たちの関係を私たちに想像させてくれるような一句です。しかし、そのように何度も話題になると言うことは、それが弟子たちにとって実に深い関心であることを意味しています。実際、この後にも10章の35節でもゼベタイの子ヤコブとヨハネが、イエス・キリスト様が「栄光をお受けになるとき、ひとりをあなたの右に、ひとりをあなたの左にすわるようにしてください」と申し出ています。ここでも、やはり、自分は弟子たちの序列の中でどこに位置するかが問題とされている。それほどまでに、序列と言うことは人間の深い関心なのです。けれども、イエス・キリスト様にとって、つまりは神様にとっては、人に序列つけると言うことは好ましいことではないのです。神様の前には、誰が偉い誰が偉くないと言ったことなどは存在しない。神様のまえには、ひとりひとりが、皆ひとしい存在なのです。

なのに、人は人と人との間に序列を造りたがるのです。それは、一つには、序列というものができますと、そこに秩序が生まれます。そして秩序が生まれますと、その実序がある社会は安定します。そういった意味で、人は序列というものを求めると言うことはあるかもしれません。そして、秩序というものは、確かに必要なのです。学校の教師と生徒の間の秩序、親と子の間の秩序、そう言ったものが乱れますと、その社会自体が乱れ崩壊してきます。そして、このような乱れは、生徒が教師と同等であろうとする、子供が親と対等であろうとするところから生まれます。そして、それは置かれている立場の違いです。神様は、このような立場の違いを否定されているわけではありませんし、秩序をひていなされているわけでもありません。むしろ、そのような立場の違いをわきまえ知らないことから、人間の罪が始まっているのです。創世記の3章の記事は、そのことを顕著に示しています。創世記3章4節から6節は、蛇がエヴァを誘惑して、神に背く罪を犯させるところですが、このような言葉で、蛇はエヴァを誘惑するのです。「あなたは、決して死ぬことはないでしょう。それを食べると、あなた方の目が開け、神のように善悪を知る者となることを、神は知っておられるのです。」

つまり、あなたは神と同じようになれる。とそういって誘うのです。それに対して、エヴァは「それは食べるに善く、目には美しく、賢くなるには好ましいと思われたから、その実をとってたべ、また共にいた夫にも与えた」と書いてあります。ですから、エヴァも神のようになろうとしたのです。しかし、神様と人とは決して同じではありません。しかし、人が神のようになろうとしたときに、神と人との間の秩序が壊れてしまったのです。ですから、秩序と言うことを聖書は決して否定はしてはいないのです。けれども、序列が秩序を産み出すという面は確かにありますが、秩序と序列とは必ずしも一緒ではありません。序列とは上下関係です。そして、上位者が下位にある者を支配することで序列関係に置いて築き上げられた社会の秩序を保ちます。だからこそ、人は、より高い地位を求めようとするのだろうと思います。けれども神様の秩序は、そのような支配する・されるという関係の中で起るものではありません。むしろ、愛し仕えるという関係の中で起こるのです。イエス・キリスト様は「だれでも一番先になりたいと思うならば、一番あとになり、みんなに仕える者とならなければならない」とそう言われました。一番先になるものは、全ての人に仕える人である。それが、まさに神の国の秩序なのだと言うことです。

そして、そのことが良くわかるようにと、ひとりの幼子を弟子たちの真ん中に立たせて、「だれでも、このような幼子のひとりを、わたしの名のゆえに受け入れる者は、わたしを受け入れるのである。そして、わたしを受け入れる者は、わたしを受け入れるのであるではなく、わたしをおつかわしになった方を受け入れるのである。」とそう言われています。幼子は、それこそ何もできない、力もない存在です。その幼子をわたしの名のゆえに受け入れるというのは、「人々がイエス・キリスト様に接する態度のようにして受け入れる」とするならば、と言うことです。いうなれば、この幼子を、イエス・キリスト様に仕えるように使えるならば、わたしを受け入れるのであり、神を信じ受け入れているのだというのです。それは、信仰は具体的な生き方につながっていくからです。どんなに力がなく、何もできない幼子のような人であったとしても、イエス・キリスト様に接するように生きる、それは仕えていくと言うことそれが本当に神を信じるということだ、ということなのです。それを、12弟子を呼んで、イエス・キリスト様がお語りになった。それがすごいことだと思うのです。12弟子というのは、まさにイエス・キリスト様の直弟子として、指導者になる人たちです。それこそ序列ができれば、教会のトップグループになる人たちです。その人に、あなたは使える人になりなさいとそう教え諭している。それも徹底的に仕えなさいと言っているのです。

その12弟子が教会の柱になることは、間違いがありません。だからこそ、この12弟子に言われる。それはキリストの教会は、そのような教会にならなければならないからです。けっして12弟子だけの問題ではない、教会は愛し合うこと、仕え合うことで秩序を産み出していくそう言うところでなくてはならないのです。けれども、歴史を振り返ってみますと、イエス・キリスト様が12弟子にそのようにお教えになったのに、教会は必ずしもそのようにはなっては行きませんでした。やがて、教会の中にも序列ができるようになってきたのです。特に、私たち西方教会の伝統においては、教皇をキリストの代理として頂点におき、司教、司祭、信徒といった階層社会が出来上がっていきました。そのような歩みを見ると、私たちはどんなに、人々に序列をつけたがる存在なのだろうかと思うのです。本質的なところでは、何も変わっていない。もちろん、そのような反省に立って、プロテスタント教会は、万人司祭制と呼ばれる縦型の階層的教会制度ではない教会のある方を、教会のあるべき姿としてきました。そこには、教職者と信徒の職制上の立場の違い、区別はありますが、縦型の階層社会ではありません。

けれども、人間の本質に、序列によって整えられた社会を造り、自分がより偉くなりたいというような思いが深く根ざしているならば、プロテスタントの教会であっても、いつ同じ過ちをくり返すことがないともいえません。ですから、私たちは、今日の聖書の箇所を、肝に銘じておかなければならないと思うのです。いえ、実際にはもう始まっているかもしれないのです。あの牧師と、この牧師は立派な牧師、あの教会とこの教会は立派な教会。そのようなことが、ささやかれるようになっているとしたら、あるいは、心の中にそのような思いがあるならば、万民司祭制という名目がありますから、制度上はカトリック教会のような階層的な構造になってはいないかも知れませんが、しかしそれは、序列をつけて、人や教会をランクわけするようなことだと言えます。けれども教会は、幼子の子のような、力のない小さな存在が尊ばれるべきところなのです。そして、その力のない、小さな存在に仕えるとこと、いえ、それだけではない全ての人に対して仕えるところそれが教会という場所なのです。そのためには、私たちの心が自由にされていなければなりません。

宗教改革者のマルティン・ルターと言う人が書いた本に「キリスト者の自由」という本があります。この本の冒頭には、次のような言葉が書いてあります。「キリスト者はすべての者の上にたつ君主であり、何人にも従属しない、かつキリスト者はすべてのものに奉仕する僕であって、何人にも従属する」ここで言われていることは、人間はイエス・キリストの恵みの依って罪ゆるされたものは、何ものにも縛られない自由な存在である。だから、その自由な存在の者として、手にした自由を神と人に仕え、奉仕するために用いなければならないということです。それは、まさに、今日の聖書の箇所が言わんとしているところです。それは、まさにキリスト者の生き方です。ルターは、このような生き方をするために必要なものは、神への感謝だと言います。神に対する感謝の気持ちが、人に向けられるとき、それは奉仕の業となってくるのだというのです。なるほどなぁと思います。たしかに、感謝の気持ちがないところに奉仕は起こってきません。ですから、神への感謝が私たちの奉仕の原動力となると言うことは、間違いのないことのようです。

けれども、実際にその感謝の気持ちを維持すると言うことは、思いのほか大変なことです。「いつも喜び、絶えず祈り、全てのことに感謝しなさい」とはテサロニケ人への第一の手紙5章16節から18節において聖書が語るところです。そして、聖書はそれにつづいて「これが、キリスト・イエスにあった、神があなた方に求めておられることである。」といわれているのです。そのように、「いつも喜び、絶えず祈り、全てのことに感謝する」ということを神が求めておられるその理由の一つが、私たちが、全ての人に仕えることができるようになるためなのだろうと思います。でも、それを実践することがどんなに難しいことであるかということを、私たちは私たちの普段の生活の中で、痛いほど感じているのはないかと思うのですが、どうでしょうか。いつも喜んでいたい。感謝の気持ちを持っていたい。本当にそうです。そしてもし、教会から感謝の心がなくなったら教会は教会でなくなってします。それはよくわかっているのですが、でも実際は感謝なきもちより不満の方が多かったるするものです。そして、人に仕えて生きる、互いに仕え合うようにして支え合えれば、それとても素晴らしいことだと思うのですが、なかなか思うようにはいかない。あたまでは、全てのことで神に感謝することを神が求めておられるということは良くわかる。私たちの信仰的理性もそれを承認する。けれども、現実は、そうはいかないのです。

だとしたら、私たちは一体どうしたら、「いつも喜び、絶えず祈り、全てのことを感謝」しながら、生きていけるのか。また全ての人に心から喜んで仕えて生きていくことができる、そんなキリスト者の生き方を全うできるのでしょうか。先程のルターの言葉は、もう一度よく見てみるとこうなっています。「キリスト者はすべての者の上にたつ君主であり、何人にも従属しない、かつキリスト者はすべてのものに奉仕する僕であって、何人にも従属する」そう、まず最初に「キリスト者はすべての者の上にたつ君主であり、何人にも従属しない」となっている。つまり、心が自由になっていなければ、感謝することもできないし、感謝することができないものは、人に仕えることなどできないと言うことです。どんなにそれが、イエス・キリスト様のお心であったとしてもです。私たちの心が自由になっていなければできないのです。それでは、私たちの心を縛り付けて自由にさせないものは何なのか。それは、私たちの欲だとか、虚栄心だとか、そう言った者だろうと思います。そして、人に序列をつけて偉くなりたいと言う思い、あるいは自分は偉いとごう慢さ、そういった心が、私たちを自由にしてくれないのではないでしょうか。

そこから、私たちが解き放される。それは単なる罪の赦しという問題だけかたづけられない人間の罪深さがあります。だから、だから聖化と言うことが必要になってくる。私たちが神の前に、自分自身の自我性、欲だとか虚栄心だとか、人に序列をつけて偉くなりたいと言う思いやあるいは自分は偉いとごう慢な心そんなものが一杯に詰まった人間の自我性が神の前に取り扱いを受けない限り、決して自由にはなれないのです。だから、局面、局面で感謝することはできても、「いつも喜び、絶えず祈り、全てのことに感謝しなさい」といわれると、なかなか難しい事だと思うのです。けれども、神は、私たちにできないことを望んでおられる方ではありません。神が聖書で私たちにお求めになって折られることは、必ずできることであり、必ずできるようにして下さることなのです。私たちの、自我性。神がそれをお取り扱い下さる神のみ業は、私たちが救われクリスチャンとなったときから始まっています。ですから、私たちが神を信じ受け入れたときから、私たちに対する聖化、清めのみ業は私たちの生涯全体におよんでいるのです。けれども、私たちが自覚的にそのことに気付き神のお取り扱いを経験するならば、それは私たちに生き方に大きく影響を与えます。

宗教的な経験は、信仰生活の大きな原動力になるからです。ですから私たちは、自分の内面をしっかりと見つめ、自分の罪深さの奥深く、まさに自我という私が私であるという、人間の尊厳性の最も奥深いところにまで根を下ろしている罪深さを、神様にお取り扱いただきたいと思うのです。そして、神様の罪に赦しが、私たちの心の奥底にまで行き届いていると言うことを実感できるならば、私たちの神に対する感謝はより深くなります。私たちが、自分の罪深さを知れば知るほど、神の恵みの豊かさを知ることができるのです。そのためには、人と何かを競い合って、自分の方がすぐれているとか、あの人よりも優っているなどとやっているようでは、自分の心の奥底にまで届く神の恵みに気が付くことができないのです。ましてやそれが、今日の聖書の箇所にあるように、イエス・キリスト様の弟子として「誰が一番偉いのか?」などと言い合っているようではなおさらです。私たちは、神の前に罪人である。その私たちの罪深さの全てを赦し、私たちをきよめて下さる神の恵みが私を包んでいる。このことを、私たちの生活の中で実感を持って受け止めることのできたならば、それが、全ての人に仕えることができる自由を手にすることのできる秘訣であろうと思うのです。

ですから、私たちは誰かと自分を比べてみると言ったことは止めたいと思います。人と自分を比べてみると言うことは、自分を見ていると言うことではなく、人を見ていると言うことでもあるのです。ですから、私たちは神の前にある自分を見つめていきたいのです。そして人の前に生きていくのではなく神の前を生きていきたいと思うのです。そうすれば、自分の至らなさや罪深さが分かります。そして、その至らなさや罪深さを赦して下さる神の愛が分かるのです。その愛をしっかりと受けているならば、神に感謝し、人に仕えていく生き方ができるようになるとそう信じています。そしてそのよう、互いに仕えあって生きていくならば、私たちは互いに愛し合いましょうと、宋、今年の最初に私たちの教会が掲げたお言葉が、必ず実現していくと思うのです。

お祈りしましょう。