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羊飼い 『敬虔な恐れ』
マルコによる福音書9章42−50節
2007/2/11 説教者 濱和弘
賛美  18、266、372

さて、今日の聖書の箇所は、マルコによる福音書9章43節から50節までですが、私たちは、9章33節以降から弟子として生き方ということを学んできています。すなわち、33節から37節までから、身を低くしてへり、人に仕える生き方を、38節から42節までからは「寛容な心」をもって生きるべきであることを学びました。そして、今日は、その最後として43節から50節を通して、キリストの弟子は、罪から離れてきよい生き方をすべきであるということ学びたいと思います。今、その、マルコによる福音書の9章43節からを司式の兄弟にお読み頂きましたが、お聞きになって頂いて分かりますように、この箇所は、罪を犯さないようにということを印象づけるために、かなり強い表現がなされています。「あなたの片手が罪を犯させるのなら、それを切り捨てなさい。両手がそろったままで地獄の消えない火の中に落ち込むよりは、片手になって命に入る方がよい」とか、「もし、あなたの片足が罪を犯させるなら、それを切り捨てなさい。両足がそろったままで地獄に投げ入れられるよりは、片足で命に入る方がよい」

などと言われますと、まことに厳しい感じがします。しかし、「それほどまでに地獄と言うところは恐ろしいところなのだ」と言うことだろうと思います。しかし、今の私たちは、そのように地獄というものを恐ろしいと所あるとして恐れているかというと、必ずしも、そうではないように思います。もちろん、死そのものに対する恐れや不安といったものは誰でも持っています。しかし、それは死そのものに対する恐れであって、死んだ後のことを恐れているわけではありません。近代になって、科学が発達し、人間の理性は自然の様々な現象が何であるかを解明してきました。そうやって、私たちの周りにある様々な神秘を解明し、神秘のヴェールを取り除いてきたのです。私たちの教会があるこの三鷹市のお隣の調布市は、漫画家の水木しげるさんのお住まいがあります。水木しげるさんは「ゲゲゲの鬼太郎」や「カッパの三平」といった作品で知られますように、妖怪の研究家でもあります。妖怪というのは、ある意味では神秘的な存在です。今のように電灯があって、夜も昼間のように明るく過ごすことができる時代とは違って、夜になると闇に覆われ、わずかな蝋燭の灯りだけを頼りに生きていた時代の人にとって、闇の中から聞こえてくる様々な音や理解できない不思議な自然現象に、何か自分たちの知らない神秘的な存在が関わっていると考えました。それが妖怪です。

自分たちの知らない世界、自分たちの理解で見ない世界に思いを馳せ、いろいろと考えていく中で生まれてきたのが妖怪という存在なのです。もちろん、そこには大変教訓的な意味もあります。闇夜の中に出かけていけば様々な危険がありますから、それこそ、川の側や海に出かけていくのは、危険なことなのです。ですから、注意を促す警告的な意味もあっただろうと思うのです。ところが、そう言ったものが、神秘的なものが、だんだんと何であるかが明らかにされてくる。知らなかったことが分かる。理解できなかったものが理解できるようになるにつれて、私たちの周りから、神秘的なものが取り去れていくようになりました。私たちだって、無意識のうちに合理的でないものや非科学的なものを拒否し、信用しないような、そのような精神構造が身に付いています。そんな私たちにとって、死や病気はリアリティ、つまり現実味があります。具体的に私たちの周りには、死ということがあるからです。そして私たちも、病気にかかることもあれば、死に遭遇するということもあるからです。

けれども、死後の世界はあまり現実味がありません。それは、私たちの生きている世界とは断絶した世界だからです。そして、死が、この世の生の終りの時なので、それで全てが終わってしまうように思ってしまうのです。だから、死は恐ろしいものであったり、不安を感じさせる存在であったとしても、死後の世界が恐れの対象にはならないのです。いや、むしろ、死後の世界など、「まゆつば」のことのように思ってしまうのです。それは、死後の世界が未だに私たち人間にとって神秘のヴェールに包まれているからです。けれども、そんな私たちでも、死という出来事に直面したならば、死後の世界ということに思いを馳せることもあります。たとえば、家族や身近な存在のかたが亡くなるというようなことにであうと、何となく死後の世界のことについて考えているのです。最近、車などで走っていますと、ラジオからよく聞こえてくる歌が「千の風になって」という歌です。

私のお墓の前で 泣かないでください
そこに私はいません 眠ってなんかいません
千の風に 千の風になって
あの大きな空を 吹きわたっています
秋には光になって 畑にふりそそぐ
冬はダイヤのように きらめく雪になる
朝は鳥になって あなたを目覚めさせる
このような歌詞は、愛する人、愛する家族をなくされた方には大きな慰めになるだろうと思います。そして、そこには、身近な人の死を通して死後の世界に思いを馳せている人間の姿があるのです。

聖書は、その死後の世界のことを語っています。その死後の世界は、この世の在り方と決して無関係ではない、この世での私たちの在り方と密接に繋がっているというのです。普通、私たちは死後の世界について語るとき、マイナスのイメージで語ることはあまりありません。それこそ、天国という肯定的なイメージを持つ言葉で死後の世界を表現します。楽天的に考えてしまいますし、また考えたい。けれども、今日の聖書の箇所は、地獄という極めて恐ろしい、マイナスのイメージに結び付けて死後の世界を語るのです。それは、イエス・キリスト様が死後の世界がどんなものであるかということではなく、むしろ、今のこの世の生を如何に生きるかと言うことに着目して語っておられるからです。イエス・キリスト様は、イエス・キリスト様の弟子であるならば、罪の引き起こす恐ろしい結果を知って、罪から離れていきなさいと、そう教えておられるのです。たしかに、人間は一度だけ死ぬことと、死んだあと裁きを受ける事が定まっていると聖書はそう教えます。ヘブル書9章27節です。そして、人はその犯した罪によって神に裁かれるというのです。そのことをもって、今日の聖書の箇所を読むならば、私たちは死という現実に恐れおののかなければなりません。なぜなら、私たちは大なり小なり罪を犯して生きているものだからです。

聖書は、ふしだらな思いをもって女性を見ることがあったならば、その人は心の中で既に姦淫を犯しているのだと言います。神は、私たちの心の底までも見通しておられるのです。また、兄弟に馬鹿者というものは、地獄の火に投げ込まれるとも言っています。そこには、小さな言葉の背後にある人間の深い憎悪までも見通す神の目があります。このような聖書の罪の理解、基準で見られているとするならば、私たちは救われようがないものだと言わざるを得ません。だからこそ、イエス・キリスト様は私たちの罪に神の赦しをもたらすために、十字架の上で死なれたのです。まさにローマの兵隊に鞭打たれ、皮がさけ、肉がちぎれる苦しみを味わい、十字架に貼り付けられて死の苦しみを味あうことで、神の裁きの恐ろしさを示し、救い主であるイエス・キリスト様を、私たちの罪の贖い主であり、救い主であると信じるものに、死んだあと受ける神の裁きから救って下さったのです。「私たちは、自分の犯した罪に応じて神に裁かれるから、イエス・キリスト様を信じましょう」。それは、宣教の言葉だといえます。

ところが、今日の聖書の箇所は、その、死後の悲惨な裁きから救われ者に向って、つまりイエス・キリスト様の弟子たちである私たちに向って、神の裁きによって地獄の火に投げ入れられる恐ろしさを知って、罪を犯さないように、罪から離れて日々生活しなさいとそう言われているのです。死後の世界は神秘のヴェールに包まれていると、先程そう申し上げました。本当にそうだろうと思います。同じように神の救いも神秘のヴェールに包まれています。それはつまり、分からないことがたくさんあるということです。それこそ、イエス・キリスト様のことを一度も聞かないで死んだ人はどうなるのか?イエス・キリスト様を信じ易い環境に生まれた人と信じることが難しい環境に生まれた人という差があるのはどう考えたらよいのか。牧師といえども分からないことはいっぱいあります。ですから、誰が裁かれるなどと言うことは、人間が言うことができることではありません。それこそ、そのような分からないことは、神の愛の御手の中に委ねるしかないのです。そして、そのような中で、はっきりと断言することができるのは、イエス・キリスト様を自分の罪の救い主として信じ受け入れた人の罪を、神は赦して下さるということです。そして、罪を赦し、神の裁きから救って下さって永遠の命を与えて、天国に迎え入れて下さるということです。これだけは、はっきりと言うことができます。だから、イエス・キリスト様を信じると言うことは大切なことなのです。

その天国に迎え入れられる弟子たちに向って、つまりは私たちに向って、この世の生き方が神の裁きに繋がるのだから、罪を犯さないようにとそう言われるのです。それはたとえクリスチャンであっても、イエス・キリスト様から離れ、罪の生活に立ち戻るならば、せっかく得た救いであっても失われてしまうというようなことを指し示しているだろうと思われます。しかし、それ以上に私たちは、イエス・キリスト様の弟子として生きると言うことは、きよいものとならなければならないのだということを教えているのだと、そう受け止めるべきだろうと思います。罪が赦される。あるいは神の裁きから救われ、永遠の命を与えられて天国に迎え入れられる。それは、神の恵みです。この恵みは、イエス・キリスト様を信じている限り、くり返し、くり返し私たちに起る出来事です。それこそ、罪の誘惑というものは、本当に強いものですから、如何にクリスチャンといえども、その誘惑に打ち勝てないことだってあります。そのようにして、私たちが罪を犯すことがあっても、私たちが、自分の罪を悔い、イエス・キリスト様を信じ続けるならば、私たちの罪はくり返し、くり返し赦されるのです。

けれども、だからといって、そのように神が罪を赦して下さるというからというので、罪を犯すことに無頓着であってはなりません。私たちの罪というものが、本来どのような結果を生み出すものであるかを、心にしっかりと留めて、神がどれだけ大きな恵みを私たちに賜ったかを、心にしっかりと刻み込まなければなりません。昔のある宗教改革者は、「神の恵みが増し加わるように、大胆に罪を犯そうではないか」と、そう言ったそうです。これは、ローマ人への手紙5章20節でパウロが「罪の増し加わったところには、恵みもますます満ちあふれた。」という言葉を受けての発言でした。彼が、「神の恵みが増し加わるように、大胆に罪を犯そうではないか」と、そう言ったとき、それは積極的に罪を犯そうと言っているのではありません。「私たちが自分自身の罪の自覚が深まれば深まるほど、恵み深さが、より一層分かってくるのだ」ということを言いたいのです。それは、自分の犯した罪がもたらす結果としての神の裁きは、本当に恐るべき結果を私たちにもたらすものだからです。しかし、その罪の結果としての神の裁きから、イエス・キリスト様の十字架の死のゆえに、私たちは、救われているという大きな恵みをいただいている。そのことを知っているものだからこそ、むしろ、罪から離れ、清い生き方をすべきなのです。

それはまさに、今日のこの聖書の箇所マルコによる福音書9章43節以降でイエス・キリスト様街っておられることでもあるのです。イエス・キリスト様は人となられた神です。人となって肉体を取られ、私たちと同じようにこの地上で生きられました。ですから、罪の誘惑がどのようなものであり、その罪の誘惑にさらされる私たちひとりひとりが、どんなに弱い存在かを知っておられます。そして、その私たちを襲ってくる誘惑の中で、最もやっかいなものが、自分自身の心の中から起ってくる誘惑です。それは、「大丈夫、これをやっても神様は赦して下さる。」「この罪を犯しても、私たちは赦されている。」「大丈夫、悔い改めればいいのだ」というような、信仰の甘えから来る誘惑なのです。だから、イエス・キリスト様は、「あなたの片手がつみをおかさせるのなら」といい「あなたの片足が」「あなたの片目が、罪を犯させるならと言われるのです。」片手が勝手に罪を犯す、片足が勝手に罪を犯す、片目が勝手に罪を犯すといったことはありません。それらが具体的に罪を犯すとき、そこには私の意志が働いているのです。その自分の意志が、罪を犯しても大丈夫だと、自分自身を誘惑するようなことがあったとするならば、それは恐ろしいことなのだとイエス・キリスト様は言われるのです。

私たちは、弱い人間です。ですから、私たちの外側からやってくる誘惑にどうしても打ち勝つことができないで罪を犯すことがあります。けれども、外側からやってきた誘惑に負けてしまったときには、本当に悔いが残ります。後悔します。やってしまってはならないと思う心が負けて罪を犯してしまうからです。そのような後悔の心は、私たちを悔い改めに導きます。そして、その悔い改めがいつも私たちを神に立ち返らせてくれるのです。けれども、信仰の甘えは、自分自身が自分自身を誘惑するのです。「これくらいは良い」「これくらいは大丈夫」そして「罪を犯しても赦されている」という思いは、私たちを真摯な悔い改めにはみちびきません。そこには、神の裁きに対する敬虔な恐れがないかです。ですから、信仰の甘えとは、神の裁きに対する敬虔な恐れの欠如だと言っても良いだろうと思います。だからこそ、イエス・キリスト様は、そのような信仰の甘えを厳しく戒められるのです。そして、私たちに、罪から離れて聖くあることをお望みになるのです。聖くありたいと願う心は、決して罪に妥協しようとはしないからです。

私たちは、弱さを持っています。ですから、どんなに清くありたいと思っても、失敗もしますし、過ちも犯します。罪の誘惑に勝てないことだってあるでしょう。けれども、私たちが聖くありたいと願い続けるならば、イエス・キリスト様の罪の赦しの恵みが、私たちを覆い続けます。ですから、私たちは罪に対する神に裁きに対する敬虔な恐れを持ち続けたいと思うのです。今日の聖書の箇所の最後の部分マルコによる福音書の9章49節50節には次のように述べられています。「人はすべて火で塩づけされなければならない。塩はよいものである。しかし、もしその塩の味がぬけたら、何よってその味がとりもどされようか。あなたがたは自身の内に塩を持ちなさい。そして、互いに和らぎなさい」「人はすべて火で塩づけされなければならない」といわれていますが、その直前の48節では「地獄では、うじがつきず、火も消えることがない」とありますから、おそらく、この火というものは、43説でも言われている地獄の消えない火と関係づけて考えて良いだろうと思います。つまり、神の裁きということです。罪がもたらす大きな裁きと言うことを、自分自身の人生を、また自分自身を味付ける塩として、自分自身の内もって起きなさいと言うことだろうと思います。

塩とはいうものは、ものを腐らせないようにする防腐剤としても用いられるものです。ですから、罪のもたらす結果が神の裁きであるということを意識し、神の裁きに対して敬虔な畏れを持って生きるものの人生は、神の前には決して腐敗してしまうものがないのです。なぜなら、そこには、いつも罪が赦された感謝があるからです。そして、たとええ失敗しても、くり返し、くり返し赦して下さる神の大きな恵みがあるからです。敬虔な恐れを持って生きる人には、赦しに対する感謝と恵みによって生かされている喜びが伴うのです。だから、最後の一言が、「互いに和らぎなさい。」なのです。赦されたことの感謝と、恵みによって生かされている喜びがあるならば、あなたも赦し、恵みを分かち合う人になるからです。そのような人に着方は、人と人との関係においても和らぎをもたらすものとなることができるのです。ですから、みなさん。私たちは自分の罪深さをますます深く知ろうではありませんか。また、その罪によってもたらされる神の裁きの恐ろしさに、敬虔な恐れを持って、恐れおののきたいと思うのです。そして、その敬虔な恐れの中から、イエス・キリスト様の十字架を見上げたいのです。その見上げた十字架には、その恐ろしい神の裁きから私たちを救って下さった神の愛と憐れみ深さがあります。ですから、その神の愛と憐れみ深さを知って、その恵みのゆえに感謝し喜びたいと思うのです。その敬虔な恐れが、私たちを、キリストの弟子にふさわしい聖い生涯に導いて下さるのです。

お祈りしましょう。