『汝が為に』
マルコによる福音書10章1−12節
2007/2/18 説教者 濱和弘
賛美 201、38、376
先週の祈祷会の時に、高木彪兄弟が、ちょっとお出かけになったときにICU高校の合格発表の風景をごらんになったとおっしゃられていました。受験に失敗して泣いている子供や、同じ不合格でも、たんたん、その事実を受け止めている子など、いろいろなお子さんがおられたようですが、高校受験といえば、まだ15歳程度のお子さんです。そのお子さんが、合格不合格といった選択を受けるというのは、酷だといえば、酷な感じがします。たった一枚の、しかも一回限りに試験でその人の能力か可能性といったものを試されるというのは、「いかかがなもか」と言う感じがしないわけでもありません。しかし、現実として、そこには入学試験が歴然としてあるわけで、今年も多くの子どもたちが、今の時期高校受験、あるいは大学受験といった、彼らにとっては大きな試練に立ち向かっているわけです。しかし、試されると言うことは子どもたちだけのことではありません。私たちもいろいろな場面で試し見られていますし、言いようによっては、教会もまた世の中から試されているともいえます。
さまざまな宗教がある中で、キリスト教とはどのような教えを伝えているのか、教会ではどのような生き方に人々を導いているのか、そういったことが、直接的ではなくても、それとなく見られていると言っても良いのだろうと思います。先日、東京聖書学院の図書館で調べものをして降りましたとき、ちょっと一休みをして、図書館の休息所においてある「キリスト新聞」を読んでいました。そこに、「power for Living」に関する記事が出ていました。「power for Living」というのは、テレビや新聞の一面広告などで、プロ野球のヒルマン監督や歌手の久保田早紀さん、ジャネット・リンさんなどが「私は、この本のメッセージで運命が変わりました」といった宣伝をしているものです。しかし、ご連絡して下さった方には無料で本を差し上げますというだけで、いったい何の宣伝なのかさっぱり分からないのです。しかし、そのコマーシャルの内容から、どうも宗教関係だろうということは分かります。そんなわけで、この教会でも、何人かの方から「あれは何ですか」というご質問を受けました。しかし、わたしも良くわからなかったのです。しかし、どうやらキリスト教関係のものであるたしいということはわかってきました。そして、キリスト新聞の記事です。それを読みますと、どうもアメリカの団体が、あえてキリスト教の名前を出さないで、しかも日本の教会には一切知らせず、独自で10億にもなると言われる多額のお金をかけて伝道のためにはじめた要だと言うことは分かりました。
けれども、その新聞記事を見ても、実体は良くわからないのです。ですから、まだどことなく安心しきれない気持ちが残ってしまいます。また、教会内でも、キリスト教という名前を全然出さないのは、逆にマイナスであるという声もあるようですし、インターネットでの評判を見ても、いったいなんだろうかという興味はあるようですが、宗教だと分かると、実体を伏せている文、逆に「怪しい」といったマイナスの印象になっているような感じがします。やっぱり、世の中の人たちも、それとなくではあっても、見るところはきちんと見ようとしておられるのだなと思わされます。そのようなものを見ていますと、私たちは、自分たちは何もので、何を信じ、どのように生きているかということを、人々の目にさらす必要があるように思います。はっきりと、どうどうと私たちは何を信じどのように生きているかをきちんと示すこと、それが本当の意味で宣教というものに繋がるのです。もちろん、そのように、自分たちを世間の目にさらすことは、世間の目から試し見られることですから、大変なことです。でも、私たちは、誰から見られても、私はクリスチャンですと胸を張って言える者を持っていなければならないと思うのです。そういった意味では、今日の聖書の箇所のイエス・キリスト様は、それこそ、ご自分を試見ようとするパリサイ派の人々に対して、ご自分が何を教え、どのような生き方に人々を導こうとしておられるかを、はっきりとしかも堂々と語っておられます。
1節に「それから、イエスはそこを去って、ユダヤの地方とヨルダンの向こう側へ行かれたが、群衆がまたより集まったので、いつものように、また教えておられた。」とあります。このユダヤ地方とヨルダンの向こう側に行かれたというのは、ついに、私たちの十字架に架かって罪の赦しを成し遂げるためにエルサレムに向って歩みをはじめられたと言うことです。その旅の途中に、イエス・キリスト様のものと人々が集まってくるたびに、イエス・キリスト様は人々に教えを語っておられました。そんな中で、ある時、パリサイ派の人が、イエス・キリスト様にこう質問しました。「夫はその妻を差しても差しつかえないでしょうか。」この質問の背後には、当時のユダヤ教の教えがあります。それは、3節で「モーセはあなた方になんと命じたか」と問い返すイエス・キリスト様に、パリサイ派の人たちは「モーセは離縁状を書いて妻を出す事を許しました。」と答えていることの中に見られます。つまり、パリサイ派の人たちは、「夫はその妻を差しても差しつかえないでしょうか。」と問いかけることによって、イエス・キリスト様が律法に忠実であるかどうか、律法にどのような従い方をしているのかということを見極めようと試みていたようです。しかし、この試みはパリサイ派の人たちからの試みだけではありません。イエス・キリスト様のところに集まってきている群衆からも試みられていることでもあります。
特に、この離婚の問題は、当時の人々にとっては関心のある問題だったようです。と申しますのも、当時、同じパリサイ派の中でも、ヒレル派と呼ばれるグループとシャンマイ派と呼ばれる二つのグループが、この離婚の問題に対する解釈であい分れて論争をしていたからです。モーセの律法では、申命記24章1節に「結婚した後に、女に恥ずべきことがあるならば離縁状を書いて、彼女の手に渡し、家をさらせなければならない」とあります。この恥ずべきことがなんであるかについて意見が分れていたのです。シャンマイ派のたちは、この恥ずべきことは妻の不品行な行ないであるといい、ヒレル派は獄些細な理由であっても、とにかく理由があれば、それは恥ずべきこととして離縁して良いと言っていました。そのような中で、イエス・キリスト様がどのようにお答えになるのか。それまで、イエス・キリスト様が語り教えてこられたことと一貫するようなお答えをなさるのか。あるいは、パリサイ派のヒレル派かシャンマイ派に迎合するようなお答えをなさるのか。人々は関心を持って、イエス・キリスト様の答えを待っておられたのだろうと思います。その人々が見つめる中で、イエス・キリスト様は「モーセが離縁状を書いて離縁をすることを赦したのは、あなた方の心が頑なな為であって、本来、神様のご意志は、そのようなことを望んではおられなかった」というのです。
イエス・キリスト様は、どういう状況であれば離婚しても良いかというようなことを、あい論じあっているような状況に対して、「本来は離婚するというようなことはあってはならないし、そのような状況になることを神は望んではおられない」というのです。それでは、なぜ、モーセはあのような、「結婚した後に、女に恥ずべきことがあるならば離縁状を書いて、彼女の手に渡し、家をさらせなければならない」と言うようなことを語ったのか。それは、あなた方の心が頑なだからだというのです。先日、柳沢厚生大臣が、「女性は子供を産む機械」というような発言をしてひんしゅくを買い、問題となりました。私も時代錯誤、まさに女性の人間としての尊厳を軽視するようなアナクロな発言だと思いますが、この時代のイスラエルにおいても、女性の立場は極めて弱い立場にありました。ですから、「結婚した後に、女に恥ずべきことがあるならば離縁状を書いて、彼女の手に渡し、家をさらせなければならない」というのは、男性の側の一方的な視点だと言えます。それでも、そのような中で、きちんとした理由と文書を書き記すという公的な手続きを要求し、さらに復縁を禁止するというのは、女性に対する身勝手な男性の振る舞いを規制するものでもあります。そもそも、申命記23章24節から24章は弱い立場にある人に対する憐れみと配慮の心にも基づく戒めです。ですから、結婚において弱い立場におかれている女性に対する、当時、強い立場にあった夫への一方的な横暴や身勝手さに対する戒めとして、この申命記24章があったのです。
だからこそ、イエス・キリスト様は、「神は人を男と女に造られた。それゆえに、人はその父母を離れ、ふたりの者は一体となるべきである。」と、創世記2章24節の言葉を引用なさるのです。それは、アダムとエヴァの最初の結婚の時に語られた言葉です。アダムがひとりでいることが良くないと思われた神が、アダムのためにふさわしい助け手を造ろうと決断され、エヴァを連れてこられて、そして、二人が結婚した。そこに人類最初の結婚があります。その時に神は、聖霊を通して、「人はその父母を離れ、ふたりの者は一体となるべきである。」と聖書に記されるのです。エヴァはアダムの助け手として、造られそしてアダムの所に連れてこられました。助け手という言葉は、互いに向き合うものという意味があります。互いに向き合い、話し合い語り合うとき、相手の支えに者となることができます。ですから、助け手ということには、一方的な関係ではないと言うことです。イエス、キリスト様は、本来は弱い立場にある女性に対する配慮、もちろん、今日から見れば、それでも男性優位の一方的に見える戒めではありますが、そのような配慮と思いやりをもって語られた律法の意を汲み取らないで、相変わらず男性の立場から、一方的にどうすれば離婚できるかを論じている人たちに、そうではないだろうというのです。
結婚は本来、お互いに向き合って、よく話をすること、語り合うことだというのです。そうすることで相手のことが分かるようになるからです。そうやって相手のことが分かって相手のことを思うこと、相手のためにと考えるときに、ふたりが一つになって生きていくことが本来あるべきになるだというのです。ですから、強い立場にある者が、弱い立場にある者に対して一方的に離縁状をだすとか、人がそこにしゃしゃり出てきて一つになろうとするものを引き離してもならないと言うのです。結局、イエス・キリスト様は、その当時、強い立場にあった男性からの神の言葉を受け取り、強いある立場からそれを理解しようとしている人間の姿勢に対して、本来、神様はどのような視線、目線で語られたのかと言うことを問いただしているのです。そしてそれは、相手のことを思う、相手のためのことを考えるということなのです。だからこそ、弟子たちが、そのことについて尋ねたとき「だれでも、自分の妻を出して他の女をめとる者は、その妻に対して姦淫を行うのである。またその妻が、その夫と別れて他の男にとつぐならば、姦淫を行うのである。」とそう言うのです。それは、結婚という関係の中に、自分の勝手な振る舞いを持ち込んだ結果だからであり、自己中心という人間の罪が最も良く表れているからです。相手と向き合い、話し、語り合う。そして相手のことを知って、相手のことを思い、考える。また、相手のために生きる。結婚している者には、本当にどうかと問われる思いがしますが、どうでしょうか。そのことの大切さを、もう一度、改めて思わされる気持ちがします。
また、誤解を招かないようにお話ししますが、「『神は人を男と女に造られた。それゆえに、人はその父母を離れ、ふたりの者は一体となるべきである。』彼らはもはや、ふたりではなく一体である。だから、神が合わせられたものを、人は離してはならない」。という言葉を持って、教会法で離婚を禁じていることも、私はどうかと思っています。現代の事情は、イエス・キリスト様の時代とは随分と違っています。ですから、単純に教会法や戒規で、その善し悪しを問うことが出来ない場合もあります。そう言って点は十分に考慮されるべき者だと思っています。止む得ない場合もないとは言えないのです。もちろん、そうならないことの方がもっと大切ですけれども…。いずれにしても、イエス・キリスト様は、夫婦というものは、互いに向き合い、相手のことを思い、相手のために生きるということが基本であり、神様はそのような意図で人と人とを結びあわされたのだというのです。その神様の意図に立ち返る、神の思いに立ち返ることが大切であることを教えておられるのです。このことは、夫婦関係のこととして語られていますが、夫婦は社会の最小単位です。ですから、単なる夫婦関係だけではなく、人がより集まっている社会にも関わる問題でもあります。2300年ほど前ギリシャの哲学者のアリストテレスは「人間は社会的動物である」といいまました。それは、人間は親子、夫婦、友人といった社会環境の中で、生きていくものだと言うことであり。人はひとりでは生きていけない者だと言うことです。その最も小さな単位が、夫婦なのです。
同じように、クリスチャンも決してひとりでは生きていけない存在です。だから、イエス・キリスト様は、イエス・キリスト様にお従いする「小さな群れ」と呼ばれる小さな社会をお造りになりました。それは、教会へと発展し、今日まで続いています。私たちクリスチャンは決してひとりではクリスチャンとしていきていくことが出来ないのです。そのクリスチャンの社会の最も小さな単位が、こうしていろいろな地域に根を下ろしている教会です。世界中のいろいろなところに立てられ、礼拝を守っている教会の一つ一つが、私たちクリスチャンがクリスチャンとして生きていくための社会なのです。そこで、礼拝を持ち、祈り、御言葉に養われ、聖餐を分かち合う。そのような群れ、社会として、私たちの教会はこの三鷹の地に建て上げられています。そして、私たちが互いに結びあわされているのは、互いに助け手となるためです。アダムにエバが助け手として与えられたように、私たちも互いに助けてとしてここに呼び集められている。助け手というのは、先程も申しましたように向き合う者です。互いに向き合って話をし、語り合うものです。語り合って相手のことをよく知り、相手のためのことを思い、考え、祈ることが助けてとなると言うことです。私たちは、この教会に集うひとりひとりに対して、あなたのためにと祈り支え合う存在として、この教会に集められているのです。
私たちの教会の良い伝統の一つとして、礼拝の後にみんなで共に食事をするという慣習があります。もちろん、ご家族のことやお仕事のことなどがあって、必ず残れると言うことではありませんが、そのように食事を共にしながら交わりを持つ時がいつも開かれています。また、今年度から、祈祷部の提案で毎週礼拝後に、二人づつ、あるいは3人でお祈りする時間を毎週持つようになりました。はじめは戸惑いもあったように思いますが、こうして一年続いて少しづつですが定着しつつあるように思いましし、ぜひ定着していって欲しいと思っています。それは、私たちが、この教会に互いの助けてとして呼び集められているからです。教会のひとりひとりと、短くてもいい、話をし、語り合い、互いを知って支え合う、祈り合うものだからです。神様が、そのようにと思って、この教会に私たちを呼び集めて下さっているのです。それが、神様の私たちをこの教会に集う神の民として下さった意図だと言っても良いだろうと思います。その神の意図を忘れてはならないのです。人がひとりでいるのは良くない。同じように、私たちはひとりのクリスチャンとしているのはよくない。そういって教会に集い互いに支え合い、祈り合うものとされたのです。だから、私たちは、「私のために」ではなく「あなたのために」という生き方ができる者になりたいと思うのです。
今日の聖書の箇所において、パリサイ派の人は、「夫がその妻を出してもさしつかえないでしょうか」とイエスキリスト様に問いかけました。それに対して、イエス・キリスト様が「『神は人を男と女に造られた。それゆえに、人はその父母を離れ、ふたりの者は一体となるべきである。』彼らはもはや、ふたりではなく一体である。だから、神が合わせられたものを、人は離してはならない」とお答えになったとき、最終的にイエス・キリスト様がいわんとしたことは、夫が妻のことを思い、妻のために生きているならば、離婚と言うことは起らないとのだろうと思います。もちろん、妻が夫のために生きていたならば、やはり同じであろうと思います。人が相手のために生きるならば、そこには麗しさがあり幸いが生まれるからです。そしてそれは、教会という、クリスチャンが生きていくための最小単位の社会でも同じなのです。わたしは、この言葉をイエス・キリスト様がユダヤの地方とヨルダンの向こう側へ行かれたときに語られたと言うことがすごいことだなと思います。というのも、このユダヤ地方とヨルダンの向こう側へいかれたのは、十字架に架かるためにエルサレムに向われる途中だからです。十字架の上で、私たちの罪のために命を投げ出される。これこそ、究極に「汝のために」といって、相手のために自らを投げ出して生きる生き方だからです。私たちに、妻のために生きなさい、夫のために生きなさい、家族のために生きなさい、教会に集う人のために生きなさい。といわれるイエス・キリスト様御自身が、まず「汝が為に」といって、私たちのために、ご自分の生涯といのちをなげだしてくださったのです。
私たちは、そのイエス・キリスト様の弟子です。そして、神から助けてとして、それぞれの家庭に遣わされ、この教会の呼び集められたのです。そのことを思い、「汝が為に」と言う生き方を示して下さった主イエス・キリスト様に従って、そみ足の跡を踏み従うものでありたいと思います。
お祈りしましょう。