『神の圧倒的な恵みの中で』
マルコによる福音書10章13−16節
2007/2/25 説教者 濱和弘
賛美 11、309、474
先日、昨年の修養生でありました佐々木修養生からお電話がありまして、無事に聖書学院の卒業論文を提出しましたということでありました。私や家内、またかおり師が聖書学院に在学していました頃は、卒業論文の提出期限は決められていましたが、提出期限までに書き上がらなければ、先生方は書き上がるまで待って下さいました。実は私も、提出期限を一週間過ぎてから卒業論文を提出したような者です。ところが、今年からは提出期限までに提出しなければ受け付けてもらえないということになったそうです。確かに、提出期限は提出期限ですから、本来はそれを守らなければなりません。ですから、それに間に合わなければ受け付けてもらえないと言うのは道理でありまして、一般の大学でも、提出期限の締め切りをすぎると受け付けてもらえません。ですから、私の時代に一週間も待って下さったということは、今にして思えば本当に憐れみであったなととそう思います。本来、受け入れられないと思う者が、受け入れられていくところに憐れみや恩寵があります。そういった意味では、教の聖書の箇所は、そのような神様の憐れみとか恩寵を感じさせるところであると言えるかもしれません。
13節に「イエスにさわっていただくために、人々が幼子をみもとに連れてきた。ところが弟子たちは彼らをたしなめた。」とあります。ここには、イエス・キリスト様の所に連れてこようとする人々と、それをたしなめる弟子たちの姿が書かれています。しかし、弟子たちがなぜ、幼子を身元に連れてこようとした人をたしなめたのかについては書かれていません。ある注解書には、弟子たちはイエス・キリスト様をこれ以上患わせないようにと言う配慮からたしなめたのかもしれないと書かれていましたし、また別の注解書では、当時は女性や子供の人権は認められていないような時代であったので、弟子たちは幼子を連れてくるのをたしなめたのではないかといったことが書かれていました。そのようにいろいろと調べていく中で、エードゥアルト・シュバイツァーという人が、次のように言っているのに出会いました。エードゥアルト・シュバイツァーは、スイスの新約学者で、有名な医者のアルベルト・シュバイツァーではありません。そのエードゥアルト・シュバイツァーはこういうのです。「弟子たちは、信仰の純粋さに心を配っている[ため彼らをしかりつけたのであろう。なぜなら]信仰なくただ[イエス]に触るだけで、奇跡的な力が伝達されると考えるのは、魔術的思考ではないか[と弟子たちは考えたのであろう]」この言葉を読んだとき、私は「はっと」するものがありました。もし、この弟子たちがエードゥアルト・シュバイツァーの言うように、信仰の熱心さから、幼子たちをイエス・キリスト様の所につれてくることを拒もうとしたのであるならば、それは私たちの中にも起り得ることだからです。
今日では、全くなくなったというわけではありませんが、子供や女性の人権といったものは、認められる傾向が強くなっています。ですから、単に、人権と言うことで子供を排除するという考え方は、教会の中には見られないと思います。けれども、信仰の熱心さが、人を排除するということは、今日の教会でもあることなのです。例えば結婚ということについて、私は全く違った反対の主張を聞いたことがあります。今日では、キリスト教式の結婚式が圧倒的に多くなってきたようです。2005年の統計では全体の65%がキリスト教式で結婚式を挙げられる方が増えてきたようです。そのような中で、ある牧師は、クリスチャンでない方が教会で結婚式を挙げたいと言ってきても、信徒でなければ結婚式を挙げないといっておられました。神を信じていない人に神の前での式だけを行うのはおかしいというのです。ところが別の牧師は、クリスチャンでなくても、神の前に祝福と幸いを願って来ている人を拒んではならないと思う。とそう言うのですが、みなさんはどう思われるでしょうか。確かに、クリスチャン以外の人の結婚式をしないという牧師の主張は、それはそれで筋が通っていますし、私も純粋な信仰をもっておられる方だなと思います。けれども、それでもやはり、クリスチャンでなくても結婚式を挙げるという牧師の主張の方が、教会のあるべき姿に誓いように感じるのです。というのも、神は全ての人に祝福を与えたいと願っておられるからです。この地上に生まれてくる人全てを神様は祝福したいと願っておられるからです。いえ、神の祝福なしに生まれてくる命など一つもないのです。
ですから、たとえどのような中にあっても、神の祝福を求めてくる人を教会が拒んではならないし、もし仮に、祝福するのが難しいと思われるような状況があるならば、その困難な状況を祝福されるような正しい状況に導いていくのが教会の勤めだと思うのです。それは、結婚だけのことではない葬儀についても、同じようなことが言えます。宗教改革者であるルターについては、何度かこの講壇からお話ししたことがありますが、もう一人宗教改革者としてよく知られている人物にカルヴァンと言う人がいます。このカルヴァンのお父さんは、何かの問題でカトリック教会とトラブルをおこし、教会を破門された状況にありました。カルヴァンはフランスの人でしたが、当時のフランスは、ほとんどの人がカトリックでした。そのカトリック教会から破門されると言うことは大変のことです。とりわけ、葬儀の時が大変です。教会から破門されていますので、教会で葬儀をしてもらうことも、教会の墓地に埋葬してもらうこともできないのです。実際、カルヴァンのお父さんが亡くなったとき、カルヴァンは葬儀と埋葬のことで本当に苦労します。お兄さんと一緒にかけずり回って、何とか葬儀を上げ埋葬してもらえるように奔走するのですが、結局、受け入れてもらえないのです。もちろんこの事だけが原因ではありませんが、このこともカルヴァンがカトリック教会を離れて、旧教改革側、つまりプロテスタント教会側に移る原因の一つであったと私は考えています。つまり、カトリック教会の不寛容さがカルヴァンをカトリックからプロテスタントへと追いやったのです。
それは、カトリック教会側からすれば、純粋で熱心なカトリックの信仰からでたことなのかもしれません。けれども、もし仮にカトリック教会にだけ、神の恵みと救いがあるとしたならば、いかに純粋で熱心な信仰であったとしても、教会の不寛容さが、カルヴァンをその神の恵みと救いから遠ざけたのです。たとえば、それは今日の教会の聖餐式の問題の中にも見られます。来週は聖餐式礼拝ですが、皆さんもお気づきだと思いますが、聖餐式の時にまだ洗礼を受けておられない方のために、祝福の祈りをするようになりました。というのも、聖餐式が洗礼を受けていない人に疎外感を与えるとか、差別しているような感じを与えるといったことで、現代の教会の中では、洗礼を受けない人聖餐のパンと杯を与えるかどうかといったが問題になってきました。そんなわけで、教会では洗礼を受けていない人でも聖餐に与れると言った教会も出てきたのです。私も、私たちの教会も、教会の伝統に従って、聖餐は洗礼を受けた人だけがそれに与ると定めています。しかし、そのためには、洗礼を受けていない人のつまずきにならないようにするためにはどうしたらよいかを考えなければなりませんでした。なぜなら、洗礼を受けていない人も、神様の祝福の中で生まれてき来、神様が祝福を与えたいと願っておられるひとりひとりだからです。そして、こうしてこうして礼拝に集う、礼拝の場に導かれていると言うことは神様が祝福したいと願って導いておられるからです。
だからといって、洗礼も聖餐もイエス・キリスト様によって定められた教会の礼典であり、歴史の中で守られてきた大切な伝統でもあります。ですから、単純に洗礼を受けていない人でも聖餐に与れるようにしようというわけには生きません。それは教会の魂を売り払うようなことで、安易な妥協はできません。だからこそ、共に神様が祝福したいと願っておられるひとりひととりとして、聖餐の恵みと祝福の中に招かれているのだと言うことをどのように、表していくかと言うことを勧化なければならなかったのです。そのような中で、いろいろと模索し学んだ中で、洗礼を受けていない方には祝福の祈りをするという聖餐式の在り方に出会い、私たちの教会の聖餐式でもそれにならって、祝福の祈りをするようになったのです。それは、まさに今日の聖書の箇所の弟子たちの振る舞いに対して、エードゥアルト・シュバイツァーが理解したような、純粋な信仰の熱心さが、逆に人々がイエス・キリスト様のところに来ることを排除してしまったというようなことがないようにという思いからなのです。もし、そのような信仰の熱心さが、人々をイエス・キリスト様のところに来ることを拒むことになってしまうならば、それがいかに純粋な信仰から出たものであったとしてもイエス・キリスト様はそのことに対して憤られるのです。
そして、「幼な子らを私のところに来るままにしておきなさい。止めてはならない。神の国はこのような者の国である。良く聞いておくがよい。だれでも幼子のように神の国を受け入れる者でなければ、そこに入ることは決してできない。」とそう言われて、幼子を抱き、手をその上において祝福されたのです。確かに、イエス・キリスト様のみもとに連れてこられた幼子に信仰があったかといわれると、あったと断定する証拠は聖書の中に見つけることはできません。もちろん、同じように信仰がなかったという根拠も見出すことができません。ですから、イエス・キリスト様が、この子どもたちを祝福なされた根拠や。「神の国はこのような者の国である。良く聞いておくがよい。だれでも幼子のように神の国を受け入れる者でなければ、そこに入ることは決してできない。」といわれた根拠を、幼子の中に信仰を見出してそれに結び付けようとするには無理があります。聖書が淡々と伝える事実は、むしろ、信仰もないもないこの幼子が、イエス・キリスト様にさわって頂きたいと思った人たちによって連れてこられたと言うことです。そして、その幼子が、イエス・キリスト様に受け入れられ祝福を祈っていただいたのです。このイエス・キリスト様にさわって頂きたいと願う人たちが誰であるかについて、聖書は何も記していません。普通に考えれば親であろうと思いますが、しかし、聖書が告げるのは、イエス・キリスト様にさわっていただきたいというその思いだけです。そのような思い持った人たちによって、幼子は連れてこられたとだけいうのです。
もちろん、イエス・キリスト様にさわっていただきたいと願う気持ちの背後には、子どもたちの幸せや祝福を願い気持ちが合っただろうと思います。しかし、当の幼子達にそのような気持ちがあったかどうかは疑問です。むしろ幼子と言うからには、そのようなことさえ思いつかないでいるのではないだろうかと思うのです。けれどもこの幼子は、彼らの幸いを願い祝福を願い人たちの手に、自らを委ねているのです。イエス・キリスト様が、「神の国はこのような者の国である。」とか、あるいは「誰でも幼子のように神の国を受け入れる者でなければ、そこに入ることは決してできない。」といわれる先には、幸いを願う者の手の中に身を委ねている幼子の姿があるのです。そのような、幼子、姿を例えに使いながら、神の国とは、幸いを与えようとする神に身を委ねる者の国であるとイエス・キリスト様は、弟子たちに、そして私たちに教え諭しておられるように思うのです。それは、「神はあなたに神の恵みや祝福を与えたいと願っておられるのだから、その神の手に自らの身をお委ねしなさい。」と呼びかけておられる言葉だと受け止めても良いのではないかと思います。イエス・キリスト様のところ、さわっていただきたいとおもい連れてこられた幼子は、弟子たちがそれを拒んだために、その場で右往左往しなければなりません。大人達の都合によって、「あっちにやられ、こっちにやられ」しています。
それこそ、大人達の都合に巻込まれて翻弄されてしまっていますが、本当に祝福していただきたいという願いに抱かれているならば、どんなに翻弄されようとも、神の祝福に与ることができるのです。そして、天の父なる神も、また子なる神イエス・キリスト様も、そして聖霊なる神も、この三位一体なる神は、私たちに祝福を与えたいと願っているのです。そして、私たちが、その私たちを祝福を与え恵みを与えたと願っておられる神のみ手に、私たちの自身を委ねるならば、神は、必ず私たちを祝福し恵みを与えて下さるのです。世間の波は、私たちの人生にさまざまな荒波を立てます。そして、私たちの人生を翻弄してしまうことがあります。けれども、どんなに荒波が襲ってきて、私たちの人生をかき回していったとしても、私たちが、私たちの人生を祝福したいと願っておられる神の御手の中に身を委ねているならば、神は私たちを必ず祝福して下さるのです。神が与えて下さる祝福と恵みは、罪の赦しと天国における永遠の命です。私たちは、自分自身を神様にお任せすれば、神は必ず私たちの罪を赦し、天国に終える永遠の命を与えて下さいます。そして、どんな困難なときでも、慰めを与え、永安を与えて下さり支えて下さるのです。
けれども、もし、私たちが神の手に委ねることをしないで自分自身の手で神の祝福を勝ち得ようとするならば、決して手に入れることはできません。ただ、あなたに幸いをもたらしたいと願う神のみ手に自らを委ねることによってのみ与えられるのです。それは、私たちの心が、神の前に何も誇ることがなく空っぽになって、神の与えて下さる罪の赦しと圧倒的な恵みと祝求めると言うことです。「幼な子らを私のところに来るままにしておきなさい。止めてはならない。神の国はこのような者の国である。良く聞いておくがよい。だれでも幼子のように神の国を受け入れる者でなければ、そこに入ることは決してできない。」というのは、そのようなことであると言っても良いだろうと思います。そして、それがイエス・キリスト様の私たちに対するお心であり、そのような思いで私たちを見つめていて下さっているのです。ですから、私たちは、この圧倒的な神の恵みの中で生き、私たちの罪を赦し、天国での永遠の命を与えたと願っておられるイエス・キリスト様の懐の中に、自分自身の身を投げ出しておゆだねしてゆけばいいのです。同時に、私たちもまた、このイエス・キリスト様が、このような憐れみと恵み深いお心を持って私たちを見つめ、全ての人のことを思って下さっているその思いに心を重ね合わせる必要があります。
今日の聖書の箇所では、12弟子達は、ある意味、そのイエス・キリスト様に自分の心を重ね合わせることができなかったように思います。だからこそ、幼子をさわっていただこうとイエス・キリスト様の所に連れてこようとした人たちをたしなめたのです。イエス・キリスト様は、本当に、私たちのことを、また全ての人のことを愛し、慈しんで下さっておられるのです。ですから、私たちもまた、そのイエス・キリスト様のお心に、自分の心を合わせ、イエス・キリスト様に罪の赦しを求め、憐れみを求めてくるものを拒んではならないのです。むしろ、この幼子を連れてきた人たちのように、神の祝福が受けられるようにと、人々を抱きかかえてイエス・キリスト様の所にやってくるものでなければならないと思うのです。「神の祝福が受けられるようにと、人々を抱きかかえてイエス・キリスト様の所にやってくる」。具体的には、お祈りすると言うことだろうと思います。誰でも良い、私たちの家族や友人がイエス・キリスト様の十字架によってもたらされる罪の赦しが得られるように祈ることです。神は、そのような祈りの中に置かれているものを、憐れんで下さるからです。そういった意味では、私たちが誰かの救いのために祈るということは、その人をキリストの愛を持って愛するということなのです。そのような、愛に中でイエス・キリスト様のもとに連れてこられたものを、イエス・キリスト様も放ってはおかれません。
ですから、私たちは、教会に訪れた方の救いのために祈る事が大切です。私たちの家族のために祈ることが大切です。教会に与えられている子どもたちのために祈ることが大切なのです。その私たちの祈りが、イエス・キリスト様に祝福を与えていただくために、身元に連れて行くことでもあるのです。そう言うわけでしょうか、今日の聖書の箇所は、幼児洗礼を行っている教会においては、その幼児洗礼と関係づけて考えられる箇所でもあります。幼児洗礼とは、生まれたばかりの赤ん坊に、親の信仰に基づいて洗礼を授けるものです。私たちの教会は、個人の主体的信仰に基づいて洗礼を行います。ですから、例え小学生でも、神を信じ、イエス・キリスト様に罪を赦して頂きたいと願い洗礼を受けたいと願うならば、その意志に基づいて洗礼を行います。けれども、自分の意志を明確に持たない嬰児、生まれたばかりの赤ん坊には洗礼を授けるといったことはしていません。ところが、実際にカトリック、ギリシャ正教会を始めとして、改革派教会やルーテル教会など、大多数の教会は、幼児洗礼を行っているのです。もちろん、洗礼というものの持つ意味からすれば、幼児洗礼の是非ということは神学的にしっかりと検証しなければなりませんが、そのように幼児洗礼を行う背後には、このマルコによる福音書10章13節から16節にある精神があると言えます。
そして、そこにはイエス・キリスト様にさわっていただき、祝福を与えて頂きたいと願う親の気持ちと、祝福を与えて下さるという親の信仰があるのです。それは決して否定されるべきものではありません。ですから、私たちは、まず何よりも私たちが、業でもなく行ないでもなく、功績でもない、ただイエス・キリスト様に寄りすがるものを愛し慈しんで下さるイエス・キリスト様の圧倒的な恵みの中で生かされていることを知って感謝を捧げたいと思います。そして、その恵みに、私たちの家族や友人、教会に集っている人、子どもたちも招かれているのだと言うことを知って、そう言った一人ひとりのために祈るものとなりたいと思います。
お祈りしましょう。