『キリストに従う生き方』
マルコによる福音書10章17−31節
2007/3/4 説教者 濱和弘
賛美 310、36、396
さて、今日の聖書の箇所は、ひとりの人がイエス・キリスト様ところにやって来て、「永遠の命を受けるために、何をしたらよいでしょうか」。とそう尋ねるところから始まります。この問いかけをするときに、この人は、「よき師、」とそう呼びかけています。この「よき師よ」という呼びかけは、興味深い呼びかけ方です。ユダヤ教の教師達に対する呼びかけとしても、異例であったようですが、この人が、そのような呼びかけ方をして、イエス・キリスト様の所に近づいてきたのです。このように、この人が異例な呼び方をした理由については、それがイエス・キリスト様に対するお世辞であったという見方もありますし、彼がイエス・キリスト様に特別な敬意、尊敬の念を持っていたという見方もあります。しかし、17節の「ひとりの人が走り寄り、みまえにひざまづいて尋ねた」と書かれています。このような記述を見ますと、この人が「よき師よ」と呼びかけたのは、単なるお世辞以上の者があったと考えて良さそうです。そのような尊敬の念を持ってこの人は「よき師よ」と呼びかけたわけですが、しかし、どんなに尊敬の念を持って、いたとしても、この「よき師よ」という呼びかけは、人間の教師として、イエス・キリスト様を捉え、教えを請おうとしていることを示しています。
「よき師」という呼びかけの「よき」つまり「よい」という言葉は、ギリシャ語では、元々は道徳的な善を指している言葉ですが、この人がイエス・キリスト様に呼びかけた時には、ギリシャ声はなくアラム語で呼びかけたと思われますので、おそらくは「いつくしみ深い師よ」といったものであったろうと思われます。この「いつくしみ深い」ということは、旧約聖書では神の御性質として語られています。そのことばをもって、「いつくしみ深い師よ」とこの人はイエス・キリスト様に呼びかけるのですが、それは、神のいつくしみ深さではなく、人間の道徳的な意味でのいつくしむ深さなのです。だからこそ、この人の言葉が、ギリシャ語に翻訳されるときに、道徳的善を意味する「善い」と言う言葉に訳しただろうと思います。おそらくは、この人は、イエス・キリスト様のそれまでの、なさられた業、多くの人を癒し、悪霊につかれた人を解放するといたことを見聞きしていたのでしょう。また、イエス・キリスト様の語られる言葉も聞いていたのだろうと思います。そう言ったことを通して、イエス・キリスト様にあるいつくしみ深さを感じていたのかもしれません。それが、「いつくしみ深い師よ」という言葉になって出てきたのだろうと思います。そのような「いつくしみ深い主」だからこそ、彼は教えを請おうと思ったのではないかと思われます。
というのは、彼の質問は「永遠の命を受けるためには、何をしたらよいでしょうか」というものだったからです。この「永遠の命をうける」ということは、当時のユダヤ教の中の考え方の一つに、この世の壊滅的な終りがくる前にメシヤの時代が来て、その後に最後の審判があって、来るべき神の国である新しい天と地が起り、永遠の命が与えられるというものがありました。そして、その最後の審判を経て、永遠の命を得るためには、「天国のくびき」を負うことだと考えられていたのです。そして、この天国のくびきを負うと言うことは、律法を守り行うことであると考えられていたのです。おそらく、このイエス・キリスト様の所にやって来た人は、そのような当時の考え方を背景にして「いつくしみ深い師よ、永遠の命をえるために、何をしたらよいでしょうか。」と尋ねてきたのです。その人に対して、イエス・キリスト様は「なぜわたしを、いつくしみ深い者というのか、神ひとりのほかにいつくしみ深い方はいない。」とそう言われています。それは、このイエス・キリスト様の所にやって来た人が、イエス・キリスト様を、如何に深い尊敬の念を持っていたとしても、ひとりの人間の教師として捉えていたからです。
人間の中にいつくしみ深さを見出そうとしても、人間のいつくしみ深さは、神のいつくしみ深さには、到底及ぶものではないからです。そういった意味では、本当にいつくしみ深いお方は神だけだからです。そして、人間に、更に言うならば、ユダヤ教の教師であるラビに、どうしたら、神の国の命である永遠の命が得られますかと尋ねるならば、イエス・キリスト様のお答えになられた「いましめは、あなたの知っているとおりである。『殺すな。姦淫するな、盗むな、偽証をたてるな、欺き取るな。父と母を敬え』といった答え、つまり「天国のくびき」を追うことだという答えしか返ってこないのです。それは、イエス・キリスト様ご自身が「あなたも知っているとおりである。」というように、その当時の人であれば、分かり切っている内容です。分かり切っているからこそ、この人は、それらの事はみな、小さいときから守っております」とそう答えるのです。実際、この人はその言葉通り、これらの律法の規定を守り行っていたのだろうと思います。けれども、そのように「天国のくびき」を負って生きていても、それだけでは何かがたりない。不十分だと言う思いがあったのでしょう。だから、イエス・キリスト様の所にやってきたのです。そのような人に、イエス・キリスト様は「彼に目をとめ、いつくしんで言われた」とあります。いつくしんでと訳されていますが愛してと訳しても良い言葉です。いつくしみ深さが神の御性質であるならば、愛も神の御性質です。
この口語訳聖書の翻訳者は、おそらく先程の「いつくしみ深い」という言葉をめぐって、人間には、本当の意味ではいつくしみ深いという言葉を持って形容できるような心は持ち合わせていない、それは、本来は神に属するものだからという、イエス・キリスト様の言葉を念頭において、敢えていつくしみと訳したのではないかと思われます。良い訳だなと思います。人間の師に、どうしたら永遠の命を得られますかと尋ねるならば、どんなに素晴らしい教師であったとしても、「天国のくびき」を追うことだという通り一遍の答えしか返ってきません。しかし、まさに神の御性質を持たれる神なるお方は、そのような通り一遍の答えを超えて、何か不十分さを感じている、今のままではダメだと感じている心に語りかけて下さるのです。それは本当に私たちの心の本質を刺し通す言葉なのです。それが、この人にとっては、「あなたには足りないものが一つある。帰って持っているものをみな売り払って、貧しい人々に施しなさい。そうすれば、天に宝をもつようになろう。そして私に従ってきなさい。」という言葉です。「あなたには足りないものが一つある。」といいますが、しかし、イエス・キリスト様の言葉をよく見ると、イエス・キリスト様が求めておられることは二つあります。ひとつは「帰って持っているものをみな売り払って、貧しい人々に施しなさい」ということ、もう一つは「私に従ってきなさい」と言うことです。
このように二つの内容を持つものを「一つ」といわれているということは、その二つある内容は本質において一つであるということだろうと思います。つまり、この人に対して、「帰って持っているものをみな売り払って、貧しい人々に施しなさい。」ということは、その本質においてイエス・キリスト様に従うと言うことであるし、イエス・キリスト様に従うと言うことは、「帰って持っているものをみな売り払って、貧しい人々に施しをする」ということなのです。どういう事かというと、こういう事だろうと思います。イエス・キリスト様が、「帰って持っているものをみな売り払って、貧しい人々に施しなさい。」といわれるとき、それは、その前の「殺すな。姦淫するな、盗むな、偽証をたてるな、欺き取るな。父と母を敬え」ということに対して語られています。もちろん、この「殺すな。姦淫するな、盗むな、偽証をたてるな、欺き取るな。父と母を敬え」ということは、律法、十戒の中に記されていることですから、それ自体に価値がないとか無意味なものであるということではありません。イエス・キリスト様が問題にしているのは、その神の戒めに向き合う態度なのです。「殺すな。姦淫するな、盗むな、偽証をたてるな、欺き取るな。父と母を敬え」というのは、十戒の中に記されているものですが、十戒の全てではありません。十戒の中の人と人との関係に関わる部分だけを上げて取上げています。
そして、それを「小さいときから守り行っています。」という人に、あなたには一つ足りない者があるといって「持っているものをみな売り払って、貧しい人々に施しなさい。」というのです。それは、人のために、特に貧しい人のために何かをして上げなさいと言うことです。「殺すな。姦淫するな、盗むな、偽証をたてるな、欺き取るな。父と母を敬え」という戒めは、「父と母を敬え」ということ以外は、禁止命令です。要は、自分の欲望を満たすために悪しき行ないをするなと言うのです。その戒めを、自分が永遠の命を得るために守り行っている人に、「あなたには足りないことが一つある。それは人のために生きることだ。」とイエス・キリスト様はそう言われているのだと思います。そして、この人のために生きることこそが、イエス・キリスト様に従うということなのです。なぜなら、イエス・キリスト様ほど、人のために生きた方はおられないからです。神であられたのに、人となり、神の国の王であられるお方が、貧しい僕の姿に身をやつして、私たちのために生きて下さり、私たちのために死んでくださいました。そのお方に従うということは、イエス・キリスト様の後に付いていくと言うことです。私たちのために生きて下さり、私たちのために死んでくだった方の後に従ってついて行くことなのです。だから、この人に対して「持っているものをみな売り払って、貧しい人々に施しなさい。」ということと、「私に従ってきなさい。」ということは一つのこととしてむすばれるのです。
それは、自分のために生きている人に対して、徹底的に他者のために生きたイエス・キリスト様と共に生きる生涯が開けている。そしてイエス・キリスト様と共に生きると言うことが永遠の命ということに受けると言うことに繋がるのです。このイエスキリスト様の言葉を聞いたこの人は、その言葉を聞いて、顔を曇らせ、悲しみながら帰っていったとあります。そして、そのようにさっていった理由を、たくさんの資産を持っていたからだと言うのです。たくさんの資産を持っていることが、イエス・キリスト様に従っていくことができない、他者のために生きることができないということだろうと思うのですが、しかし、私は、この聖書の箇所を読んでいて、この去っていった男のことが、気の毒に思えてきました。というのも、イエス・キリスト様がこの男に言ったことは「持っているものをみな売り払って、貧しい人に施しなさい」ということです。「持っているものをみな」というのはいかにも高いハードルです。もしかりに、私が今、イエス・キリスト様に「持っているものをみな貧しい人に施しをしなさい」といわれたら、果たしてできるだろうかと思うのです。いや、正直なところ、「できないだろうな」というのが本音の所です。ですから、ただ単に、「持ち物の全てを売り払って」というような数字的なところを見、いろいろと計算してしまうと、とてもできない高いハードルのように思うのです。だからこそ、一歩も前に踏み出していくことができずに、この男のように顔を曇らせて去っていくしかないように思うのです。
けれども、イエス・キリスト様のお心に従って、人のために生きるということから入っていきますと、何とか一歩を踏み出せそうな気がします。そして、このイエス・キリスト様の言葉の本質は、そのイエス・キリスト様に従っていくということなのです。今日の聖書の箇所においてイエス・キリスト様は、23節で「財産のある者が神の国にはいるのは、何と難しいことであろう。」といわれています。さらには、この言葉を聞いて、驚き怪しんでいる弟子たちに向って「富んでいる者が神の国にはいるよりは、ラクダが針の穴を通る方がもっとやさしい」とまで言うのです。この言葉を聞いた弟子たちは、「それでは、誰が救われることができようか」と更なる驚きの声を上げていますが、これはイエス・キリスト様が語られた意図とは、少し違った理解をしているように思われます。おそらく、弟子たちが「富んでいる者が神の国にはいるよりは、ラクダが針の穴を通る方がもっとやさしい」と聞いて、「それでは、誰が救われることができようか」と受け止めた背景には、「豊かな冨や財産は神から顧みられている証拠」のように受け止められていたからです。「その、富めるものが神の国にはいることができないとしたらいったい誰が、神の国にはいることができるのか?永遠の命を受けることができるというのか?」弟子たちの驚きは、そのような驚きだったのです。けれども、イエス・キリスト様が、「財産のある者が神の国にはいるのは、何と難しいことであろう。」とか「富んでいる者が神の国にはいるよりは、ラクダが針の穴を通る方がもっとやさしい」言われた真意は、他の所にあったのです。
むしろ、イエス・キリスト様が言わんとしていることは、財産や冨が神の祝福の結果であるということではなく、むしろ逆に、財産や冨が逆に神の祝福に至る生涯になることが多いと言うことを言っておられのだと言えます。つまり、財産や冨に対して心を割く分、イエス・キリスト様に徹底してお従いすることができなくなるままあるのだと行っておられるのです。もちろん、豊かであることが悪いことではありません。貧しい事が良いのか、豊かのことが良いのかと言われれば、豊かな方が良いに決まっています。また富んでいる人が、神を信じることができない、イエス・キリスト様に従うことができないという事でもありません。しかし、冨や財産といったものに心奪われてしまうとことによって、イエス・キリスト様にお従いできないとするならば、それは、神の国における命である。永遠の命大切なものを失ってしまうというのです。そのように、私たちの心を奪い、イエス・キリスト様に従うことを疎外するものは、冨や財産以外のもいろいろなものがあるだろうと思います。地位や、名誉、権力といったものもそうです。そう言った者に心を奪われてしまって、イエス・キリスト様にお従いできなければ、何にもならないのです。ですから、何よりも、「私に従ってきなさい」ということの大切さを、イエス・キリスト様に従っていくことの大切さを、この、たくさんの資産を持っている人とのやりとりを一つの事例として、お示しになられたのだろうと思います。
そして、イエス・キリスト様にお従いして生きていくものは、それこそ針の穴のような狭い小さな門を通って、神の国には入っていくことができるのです。それこそ、当時の人たちが、あれは罪人だ、神の顧みられず祝福されない貧しい人たちで、あのような者が神の国に招かれようはずがないと人々が思うような人であっても、イエス・キリスト様にお従いしたものは、永遠の命をいただき、狭い門をくぐっていくことができるのです。それこそ、まさに「人にはできないが、神にはできないことはないのです。」ですから、私たちは、誰ひとり、自分は神の民としてふさわしくないだとか、イエス・キリスト様に受け入れて頂くことなどできないなどと思う必要はありません。私たちが、イエス・キリスト様にお従いして生きていくならば、私たちは誰ひとりとして、神の祝福からはもれることはないのです。イエス・キリスト様の弟子のひとりのペテロが、イエス・キリスト様に「ごらんなさい。私たちは、一切を捨ててあなたにしたがって参りました」といったときに、29節30節でイエス・キリスト様が神に従うものに与えられる祝福を約束なさっておられるからです。しかし、それにしても、イエスキリスト様に従うということが、「持っているものをみな売り払って、貧しい人々に施しなさい。」という言葉に結び付けられたり、ペテロの言葉のように、「一切を捨ててあなたに従ってきました。」だとか、「私のために、福音のために、家、兄弟、姉、母、父、子、もしくは畑を捨てたものは」などと言われると、イエス・キリスト様にお従いするということは、尻込みしてしまうほど大変なことのように思われます。
しかし、これらは、イエス・キリスト様にお従いするために、なさなければならないことではありません。むしろ、お従いした結果なのです。そして、そのお従い結果は、ひとりひとり違うのです。例えば、「だれでもわたしのために、また福音のために、家、兄弟、姉、母、父、子、もしくは畑を捨てた者は」といわれている言葉は、ペテロの言葉を受けての者ですから、直接イエス・キリスト様の伝道の旅におともした12弟子中心にした弟子たちに対する言葉だと思われます。また、そのような特別のお従いしている弟子たちの群れだからこそ、31節で、しかし、多くの先の者は後となり、後の者は先に成りだろうと警告の言葉を残しておられるのです。つまり、自分たちは全てを捨ててイエス・キリスト様に、それこそお従いしたものだから、他のものよりも先に神の祝福に与るなどと思っては生けないと警告しているのです。そこには、つまり、ペテロ達のような従い方ではない別の従い方をしている弟子たちもいるのです。その人達の従い方に比べてペテロ達12弟子に代表されるような全てを捨てて従っている人たちが、すぐれているというわけではないのです。だから、自分たちが先だなどと思ってはならないとそう警告されているのです。つまり、使徒たちには使徒として従うことが求められ、従った結果がそこにある、使徒のようにイエス・キリスト様に付き従わないで家に留まって、そこでイエス・キリスト様に従って生きていく生き方もあるのです。
例えば、マルコによる福音書5章1節から20節までにあるゲラサ人の土地で、悪霊レギオンに憑かれていた人が、イエス・キリスト様に癒された記事が出ています。イエス・キリスト様に癒された人はイエス・キリスト様にお供して、一緒の宣教の旅に出たいと願い求めましたが、イエス・キリスト様はそれをお許しにならず、「あなたは家族のもとに帰って、主がどんなに大きな事をしてくださったか、またどんなにあわれんできださったか、それを知らせない」といわれています。そのように、使徒には使徒としての召しがあり、ゲラサの人にはゲラサの人の召しがある。同じように、牧師には牧師としての召しがあり、信徒には信徒の召しがある。そして、その中で、ひとりひとりに対する神からの召しがあるのです。その神から与えられた召し、私たちが押したお従いしていくときに、私たちは、イエス・キリスト様と共に、他者のために生きる生き方に導かれ、そのような生き方ができるような者へと変えられていくのです。そして、その生涯の先に、神によって与えられる神の国の命である永遠の命をいただいて、天国の狭い門から、神の国に入っていけるのです。
お祈りしましょう。