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羊飼い 『希望があるのだ』
マルコによる福音書10章32−34節
2007/3/11 説教者 濱和弘
賛美  310、251、249

週報でも、ご報告いたしておりますが、私共の教会の横浜集会に集っておられる池田姉妹、お嬢さんの貴恵ちゃんは、何度か三鷹の礼拝に出席しておりましたが、その池田姉妹のお父様が、先週の6日、火曜日にお亡くなりになりました。水曜日に、お通夜がありましたので、私と家内とで参列させて頂きました。遺族席におらえる姉妹の様子を拝見していますと、「ああ、お疲れになっているな」ということが伺われる感じが致しました。私も、自分の家族を見送る経験を致しましたし、教会の牧師としても、多くの人のこの地上での最後に立ち会わさせて頂きました。そう言った中で感じますのは、ご家族の方の悲しみや、疲れと言ったものは、葬儀が終わってしばらくしてドット襲ってくるものです。ですから、皆さんも是非、池田姉妹のために、また池田姉妹のお母様やご家族のために、お祈り頂ければと思います。

お通夜は小田原で行われましたので、私と家内は車で小田原まで行ったのですが、帰りの車の中で、改めて、葬儀には残された家族のための慰めが必要だなと言うことを感じました。確かに、葬儀は故人を見送る場でもありますが、同時に、そこに残された家族に確かな慰めがあたられるための場でもなければならない。そんなことを、家内と話しながら小田原から帰ってきたのです。絶対に慰めが必要なほど、死という現実は悲しいものなのです。その悲しさをもたらす死は、私たちの罪によってこの地上にもたらされたと聖書は言います。つまり、人間の罪の結果として死が私たちの世界には入りこんだというのです。いうならば、罪に対する裁きが死なのです。その罪に対して、赦しをもたらしたのがイエス・キリスト様の十字架だといえます。イエス・キリスト様が、私たちの犯した全ての罪に、神の罪の赦しをもたらすために十字架で命を投げ出すことで、神に私たちをとりなして下さった、それゆえに、私たちは神の裁きから解放され、死から解放されるというのです。その証が、イエス・キリスト様の復活です。イエス・キリスト様が死から蘇られたという出来事が、私たちが、もはや死に対して勝利したというまぎれもない証なのです。ですから、最早、死は私たちを永久に縛り付けておくことはできません。イエス・キリスト様によってもたらされた罪の赦しという恵みに与るとき、私たちもまた死に対して勝利をえているのです。

この罪に赦しを与え、死に対する勝利を与えるイエス・キリスト様の十字架の死と復活の出来事を、イエス・キリスト様ご自身が語っておられる所が、今日の聖書の箇所です。この箇所は、イエス・キリスト様ご自身による3度目の十字架の死と復活の予告です。一度目はマルコによる福音書、8章31節、32節で、ペテロが「あなたこそキリストです」と信仰告白した、その信仰告白を受けて、「人の子は必ず多くの苦しみを受け、長老、祭司長、律法学者たちに捨てられ、また殺され、そして、三日目によみがえられるべきこと」と述べられています。2度目は9章31節において、これからエルサレムに行こうとするその旅立ちにあたって「人の子は人々の手にわたされ、彼らに殺され、殺されてから三日の後によみがえるであろう」と言われています。そして、今日の箇所に置いて、「見よ、わたしたちはエルサレムへ上って行くが、人の子は祭司長、律法学者たちの手に引きわたされる。そして彼らは死刑を宣告した上、彼を異邦人に引きわたすであろう。またかれをあざけり、つばきをかけ、むち打ち、ついに殺してしまう。そして彼は、三日の後によみがえるであろう」とそう3度目の予言がなされるのです。

この3度目の予告がどのような状況の下でなされたかと申しますと、31節に「さて、一同はエルサレムへ上ると途中であったが、イエスが先頭に立って行かれたので、彼らは驚き怪しみ、従う者たちは恐れた。」とそう書かれています。弟子たちや従う者たちが、驚きと怪しみの中にあるから、イエス・キリスト様は12弟子を呼び寄せて、ご自分の身に起ろうとしていることをお話しになったというのです。この弟子たちや従う者達が、驚き怪しんだのは、「私は祭司長や、律法学者たちに殺される」とそう公言しながら、自らすすんで、それこそ先頭に立ってエルサレムに行こうとしているからです。イエス・キリスト様は、1回目の予言の時に「長老、祭司長、律法学者たちに捨てられ、また殺され」と明言していますから、そのような受難が起るとするならば、それはエルサレムで起るということは弟子たちにも十分予想できることです。そのエルサレムに、わざわざ、イエス・キリスト様ご自身が先頭を切っていこうとしているのです。弟子たちにしてみれば、気が知れないといったところだろうと思います。というのも、弟子たちにとって、イエス・キリスト様が予言なさっている内容は、決して好ましいものではありませんでした。

実際、1回目の受難の予告がなされた後に、ペテロは、イエス・キリスト様を引き寄せていさめたとあります。これが、好ましい内容を語っていたのであれば、別段いさめる必要もありません。忌まわしい内容だからこそ、いさめたのです。また、2回目の予告においても同様です。弟子たちはイエス・キリスト様の言葉を聞いても、その「言われたことを悟らず、尋ねるのを恐れていた」とあります。そのように、弟子たちは、イエス・キリスト様の受難の意味を悟ることができず、またそのことについて聞くこともはばかられていたのは、イエス・キリスト様がお話になった内容が、死という余りにも不吉な呪わしい内容だったからです。それは、弟子たちだけのことではない、きっと私たちだって同じであったろうと思うのです。死を宣告されてそれを喜ぶ人などいないだろうと思います。そのようなことは、あってはならないことだからです。なのに、あえて「私は、祭司長や、律法学者たちに殺される」というその危険な場所に、自らすすんでいこうとするのです。もちろん、何か危険を冒しても、危険を冒す以上に得るものが何かあるならば、それをやるだけの価値はあるかもしれません。

しかし、イエス・キリスト様が冒す危険は死なのです。しかも、そのような危険を冒してまで、エルサレムに行っても、イエス・キリスト様ご自身に何か利益があるかというと、どう考えても、弟子たちの目にその危険を冒すだけの価値あるものがあるとは思われないのです。死んだら、まさに、おしまいなのです。なのに、あえて死に急ぐようにエルサレムに向うイエス・キリスト様の行動が理解できないのです。だからこそ、イエス・キリスト様の行動に、弟子たちや、イエス・キリスト様に従っていた者たちは、驚きそして怪しんだのです。ところが、当のイエス・キリスト様ご自身は、ご自身が十字架に架かって死なれるというその苦難の死・受難のそれ自体に価値を見出しておられたのです。それは、ご自身の十字架の苦しみが全ての人に開かれている罪の赦し、救いをもたらすものだからです。ですから、イエス・キリスト様の受けられる苦しみには意味がある。イエス・キリスト様の死は、死ぬことそれ自体に、計り知れないほどの価値があるのです。「死んだらそれでおしまいよ」ではないのです。

だからこそ、イエス・キリスト様は、もう一度弟子たちを呼び寄せて、「見よ、わたしたちはエルサレムへ上って行くが、人の子は祭司長、律法学者たちの手に引きわたされる。そして彼らは死刑を宣告した上、彼を異邦人に引きわたすであろう。またかれをあざけり、つばきをかけ、むち打ち、ついに殺してしまう。そして彼は、三日の後によみがえるであろう」とそう語られるのです。そこには、死刑宣告があります。苦難の宣言があります。苦しみと辱めの予告があります。そのどれ一つとして喜ばしいものではありません。どんな人であっても、避けて通りたいと思うような出来事なのです。けれども、そのような喜ばしくないことが語られた後に、「彼は、三日の後によみがえるであろう」という喜びの出来事が宣言されるのです。そして、その喜びの出来事は、誰もが避けて通りたいと思ったあの苦しみの出来事によってもたらされたのです。「三日の後によみがえる」。そしてそのことが起った。復活の出来事です。その歴史的出来事となった復活は、死という私たちが受ける最も大きな苦難に対する勝利であり、苦難を通り抜けた先にある希望が開けているのです。

先日、私はある方からお手紙をいただきました。私を、そのお手紙を読みながら、自分の胸が締め付けられるようなそんな思いになりました。「せつない」まさにそのような気持ちでした。その方は、大変大きな試み、試練に会われている中での苦しい思いをそのお手紙に書きつづっておられました。具体的な内容はお伝えできませんが、それは、試練とか試みという言葉では言い尽くすことができないものです。まさに苦難としか言いようがありません。実際に、そのなかで、本当に苦しんでおられる。その文面には、その苦しみから出てくる呻くような言葉が綴られているのです。それは、たった一つの歯車が狂ったことから起ったものです。そして、そのような歯車の狂いは、現代社会の中で生きる私たちの生活の中には、起こりうるようなものなのです。ですから、お手紙をいただいた方がわるいとか、誰が悪いと言った類のものでないのです。けれども、結果としてそれが、とても大きな波紋となって広がっていき、大きな苦しみになり、傷ついたり痛んだりさせてしまっている。そして、それを何とか一生懸命乗り越えようとしているのに、次から次へと苦しみがおそって来るのです。そのような、苦難に何か意味があるのか、そのように苦しむことに何か価値があるのか。その方ご自身も、また私自身にも分かりません。むしろ、それは理不尽な苦難のように思われるのです。

そして、私自身もまた、その苦しみにふれて「神様なぜなのですか」とそう問い続けています。「神様いったいどうしてなのですか」と問い続けているのです。そして祈っている。しかし、もし仮に、その苦難や苦しみに、仮に意味があったとしても、現実に生きているその中にあって、例え、苦しみや悲しみ意味があるからと言われたとしても、決してその方の慰めにはならないだろうと思います。本当の苦難や苦しみといったものはそう言ったものです。けれども、そのような苦しみの中で、その方は必死になって神を見上げ、神を求めています。本当にけなげとしか言いようのないくらいに神を求めているのです。私は、今この方を支え、つなぎ止めているのは、イエス・キリスト様が自らの苦難を通して、自らが苦しみぬくことを通して与えて下さった希望であろうと思っています。自らが苦しみぬき、死をも味あわれるという苦難を通して開いて下さった苦難の先にある希望の光が、その方を支えているのだろうと思うのです。私は、その方のお手紙を見ながら、イエス・キリスト様が与えて下さった希望の壮絶さを思わざるを得ません。それは、決してロマンテックな希望ではなく、まさに生死をかけるような苦難の中にあっても、その苦難の先から、私たちを支え生かし、導いて下さっている希望なのです。

そのような、壮絶な希望を与えるためには、イエス・キリスト様は自ら先頭にたってエルサレムに向い、あざけられ、つばきをかけられ、むち打たれ、十字架の上で殺されるという苦難を、苦しみを味わなければならなかったのです。そして、イエス・キリスト様は、決してそこからはお逃げにはならなかった。神であられるお方が、人となられたのですから、人としてのイエス・キリスト様は、できることならば、その十字架の苦しみは避けて通りたいだろうと思われただろうと思います。実際、十字架に架かる直前のイエス・キリスト様は、ゲッセマネの園で血の汗を流すほどの苦しみの中で、「父よ、できることならばこの杯を、取り除いてください」とそう祈っています。そこには、できることならば、十字架の苦難を避けたいと願い苦しむイエス・キリストの姿が描かれています。人によっては、このゲッゼマネの祈りにおけるイエス・キリスト様の苦しみは、父なる神に捨てられる苦しみであり、そこからでた祈りの言葉であると言われる方もおられます。しかし、私は、それは余りにもロマンティックに神学化した理解の仕方のように思われて仕方がありません。第一、今日の聖書の箇所にも示されているように、イエス・キリスト様は十字架に付けられ死なれたあとに、三日目によみがえる復活のことをあらかじめ告知しておられるのです。ですから、神の御子が父から捨てられる苦しみといっても、回復することが分かり切っているのですから、そこに本当の苦しみがあると言うことはできません。

ですから、このできることなら、十字架の死を避けたいと願いイエス・キリスト様の祈りは、まさに人となったか身であるがゆえに、人として味わう苦しみなのです。そもそも、死ぬ、苦しむと言うことは、人間に属することです。神は決して死ぬことない永遠のお方ですから、神の持つ御性質の中に死ぬとか苦しむと言ったことはないのです。しかし、その神であるイエス・キリスト様が人となられたからこそ、神が苦しみ、神が死なれるのです。ですから、イエス・キリスト様は私たちが経験する苦しみや悲しみ、それも壮絶な苦しみや悲しみ、苦悩と言ったものを伴う苦難を通りぬけて、その先に開ける希望の出来事があることを十字架の受難の出来事を通して示して下さったのです。だからこそ、イエス・キリスト様は、弟子たちを、また私たちを呼び寄せて、「見よ、わたしたちはエルサレムへ上って行くが、人の子は祭司長、律法学者たちの手に引きわたされる。そして彼らは死刑を宣告した上、彼を異邦人に引きわたすであろう。またかれをあざけり、つばきをかけ、むち打ち、ついに殺してしまう。『そして彼は、三日の後によみがえるであろう』」そう語られておられるのです。

私は、先ほどお話ししたお手紙を下さった方が、イエス・キリスト様が人としてこの壮絶な苦しみを通り抜けた先から与える壮絶な希望を持ち続けて頂きたいと切に願っています。そして、そのような壮絶な苦しみを味われたイエス・キリスト様が、共に歩み支えて下さるように切に願い祈って止まないのです。もちろん、その希望は私たちにも与えられます。人生は決して順調なときばかりではありません。誰にも苦難の時があり試練の時があります。そして、そのような苦難や試練が襲ってきたならば、おそらく、私たちは、「神様なぜなのですか」とそう問い、「神様いったいどうしてなのですか」と問うだろうと思います。そしてそれは、私たちが人間だからです。神の御子であり、神であられるイエス・キリスト様であっても、人としては、十字架を前にして「父よ、願わくばその杯を取り除いてください」と祈ったのですから、そのように、その苦しい現実の中で、驚き怪しむのは、当然のだろうと思うのです。しかし、その苦しみを通り、その苦しみの先にイエス・キリスト様は希望の出来事を開いてくださったのです。だから希望はあるのです。苦難の先には必ず希望がある。そのことを信じて歩んでいくものでありたいと思います。

今日は、引き続いて聖餐式が行われますが、聖餐式のパンと杯はまさにキリストの壮絶な苦しみです。そしてそれは、その壮絶な苦しみをいただく私たちには、それによって与えられてる壮絶な希望が、私たちにはあるのだと言うことをも示しています。そのことを覚えながら、この聖餐の恵みに与りたいと思います。また、まだ洗礼を受けておられない方も、イエス・キリスト様は同じ希望に招いておられます。ですから、あなたの前にも希望の出来事は開かれているのです。ですから、まだ洗礼を受けておられない方のために、聖餐式に置いて祝福の祈りをさせて頂きます。どうか、その種の祝福を受け、イエス・キリスト様にある恵みを受け取って頂ければと願います。

お祈りしましょう。