『幸せをもたらす条件』
マルコによる福音書10章35−45節
2007/3/18 説教者 濱和弘
賛美 185、284、379
さて、私たちはこうして、三鷹キリスト教会という一つの群れとして集められています。群れとして集められていると言うことは、そこには種々様々な人がいると言うことです。そして、種々様々な人がいれば、そこには、それぞれの考え方や違いや考え方があるということです。それが、一つの教会という群れとして、ここに集められているのです。人が一つの群れ、集団として集められますと、そこにはいわゆる組織というものができます。それは教会や教団でも同じです。ですから、教会のも、長老制の教会があったり、監督制の教会があったり、会衆制の教会があります。私たち、日本ホーリネス教団は監督制の教団ですから、そこに属する私たちの教会もまた監督制の教会です。監督制といのは、監督職にある人が中心になって教会、あるいは教団を指導し導いて行く体制をいいます。私たちの教団で言えば、教団の責任役員会が監督職ですし、私たちの教会では役員会がそれにあたります。しかし、この「指導し、導いていく」という言葉がくせ者です。というのは、「指導し、導いていく」という言葉は、一歩間違いますと上下関係を表すような言葉に聞こえるからです。けれども、私たちは神の前には上下関係もなければ、尊卑もありません。神様の前には、一人一人がみな等しい立場にあるのです。ですから、「指導し、導いていく」といっても、そこに上下にもとずく力関係などはないのです。教会とは本来そう言うところなのですし、イエス・キリスト様のもたらす神の国というところもそのようなところです。
なのに、教会に置いても、知らず知らずのうちに上下関係を伴った組織、ヒエラルキーが出来上がる事が少なからずあります。それは、私たち人間の内に人に上下関係を付けて、自分は人よりも上に立ちたいというそのような意識が、自然と起ってくるからです。その典型的事例のようなものを、今日のこの聖書の中から見出すことが出来ます。今日の聖書の箇所に置いて、ゼベタイの子ヤコブとヨハネが、イエス・キリスト様に、栄光をお受けになるとき、つまり、あなたがお建てになる国の王位につかれた時には、私たち兄弟を、一人はあなたの兄弟を、一人はあなたの左にすわるようにして下さい。とそう願い申し出ます。マタイによる福音書を見ますと、このようにヤコブとヨハネが、キリストのみ国において、王座につかれたキリストの右と左にすわらせて欲しいと願っているのか、彼らの母親であったと記されています。彼らが、キリストのみ国で、キリストの右と左にすわるという時、それは王座に継ぐ位の高い地位につくと言うことです。それこそ、日本的に言うならば、右大臣、左大臣といったところです。ですから、彼らは、イエス・キリスト様に自分たちの立身出世を求めていたということになります。そして、それは、彼らだけではなく彼らの母親もそうであったというのです。ですから、家族をあげて二人の出世を願っていたのでしょう。それは在る意味、標準的な家族の姿かもしれません。それは、立身出世をするということが、栄光であり幸せに繋がると考えていたからです。
子供の幸せを願わない親はいないと言っても良いだろうと思います。それほど、親は子供の幸せを願うものです。だから、ゼベタイの子らの母親はイエス・キリスト様に息子達の出世を願い求めたのです。このヤコブとヨハネの願いを聞いた他の弟子たちは、二人の行動に憤慨したとあります。おそらくは出し抜かれたということだろうと思います。つまり、他の弟子たちも、ヤコブとヨハネと同じなのです。だからこそ、これまでも、誰が一番偉いのかということで、弟子たちは互いに論じあっていたのです。誰が偉いのか、あるいは誰が偉くなるのか、それは弟子たちに限らず、私たち人間に共通する関心かもしれません。そして、誰かが出世すれば、そこに妬みや嫉妬が起ってくる。それは、誰もが自分は偉くなりたいという気持ちがあるからです。偉くなる、出世をする、それが短絡的に幸せであるということではないということは、今の私たちにとっては、ごく自然に受け入れられます。今日では、出世することだけが幸せではなく、自分の好きなこと、やりたいことが出来ることが幸せだと考える人が多くなってきたからです。それは、価値観というものが、今と昔とでは大きく変わってきたからです。けれども、今も昔も変わらないことは、幸せというものを求めて、それを得たい、それを獲得したいという気持ちが、私たちの根底にあることは、同じであろうと思うのです。
そのような中で、イエス・キリスト様は幸せというものについて、私たちの考えとは全く違ったものを示しています。それは、獲得するものではなく、与えていくものであり、産み出していくものなのだと言うことです。例えば、イエス・キリスト様は、ヤコブとヨハネに「あなた方は自分が何を求めているのかわかっていない。あなたがたは、わたしが飲む杯を飲み、わたしが受ける杯を受けることが出来るか」とそう問われています。この「わたしが飲む杯を飲み、わたしが受けるバプテスマを受けることが出来るか」とそう問われている「わたしの飲む杯、わたしが受けるバプテスマ」とはイエス・キリスト様の十字架の苦難のことです。それに対して、彼らが、「出来ます」と答え、またその彼らに「あなたがたは、わたしが飲む杯を飲み、わたしが受けるバプテスマを受けるであろう」とそうおっしゃられるのです。そして、その言葉通り、使徒行伝12章2節を見ますとヤコブは12使徒最初の殉教者として、またヨハネは迫害によって捉えられパトモス島に島流しになるという受難を受けるのです。つまり、キリストの栄光とは、自分自身に幸いをもたらすものではなく、キリストを信じる人に幸いをもたらすものなのです。ですから、その多くの人に幸いをもたらす福音を告げ知らせるために受ける苦難をあなたは引き受けられるかと、イエス・キリスト様は、そうヤコブとヨハネに問うておられるのです。そして、「しかし、わたしの右、左にすわらせることは、わたしのすることではなく、ただ備えられている人々だけに許されることである」とそういわれのです。
この右、左にすわらせる人が誰かと言うことについては、イエス・キリスト様でさえ「わたしがすることはない」つまり分からないと言うのですから、定かなことを言うことは出来ません。注解書によっては、イエス・キリスト様が十字架に付けられたときに、一緒に磔になった二人の強盗のことをさしているのではないかというものもありますが、はっきりとそうだと言いきることができる確証はありません。ただ言えることは、少なくとも、ヤコブやヨハネ、あるいは、イエス・キリスト様の弟子たちに求められていることは、イエス・キリスト様の福音、十字架の受難によってもたらされた恵みを伝えるための苦しみを引き受け、福音宣教に与って欲しいということなのです。そして、こう言われるのです。「しかし、あなた方の間では偉くなりたいと思う者は、全ての人の僕とならなければならない」。弟子たちは、当時の社会に置いては、決して裕福ではない中産階級からそれ以下の生活をしていた人たちがほとんどです。ですから、彼らにとって、偉くなり多くのが彼らに仕えるようになるというのは、夢のような生活かもしれません。しかし、そう言う生活は、けっして人を幸せにする者ではないというのです。むしろ、人を本当に幸せにする生き方は、人に仕える生き方なのだというのです。
それは、まさに宗教改革者ルターが言った。「キリスト者はすべてのものの上に立つ自由な主人であって、誰にも服さない。そしてキリスト者は、すべてのものに仕える僕であって、だれにでも服する」という言葉を思い出させます。キリスト者は全てのものの上に立つ自由を持つ、だから誰にも服さないというのです。この言葉を念頭に置きながら、ヤコブやヨハネ、あるいは他の弟子たちを見るときに、彼らは本当に全てのものの上に立つ自由を持っていたのでしょうか。たとえば、ヤコブやヨハネがイエス・キリスト様に「あなたが栄光をお受けになるとき、ひとりをあなたの右に、ひとりをあなたの左にすわるようにしてください」と言ったとき、彼らの心は本当に自由だったのだろうかと思うのです。ひょとしたら、いやたぶん間違いなく、彼らの心は自由ではなかったのだろうと思うのです。なぜなら、彼らには偉くなりたいと思う強い願いがあるからです。私たちの強い願いや望み、あるいは欲求というものは、私たち自身の内側から出てくるものですが、それが余りにも強すぎると、私たちは、私たち自身の願いに縛り付けられてしまい、本当の自由を失ってしまうことがあります。それは、その願いや重いにあまりにも大きな価値を与えてしまっているがために、私たちの持っている本当の自由を失わさせてしまう事もあるのです。
一昨日、藤塚家での家庭集会がありまして、車で家庭集会に参りました。途中、山の手通りにはいる交差点の角の所に映画の専門学校がありました。行きもその前を通り、帰りも同じようにその前を通りました。高校生の頃、私は映画が好きで、映画の制作関係の仕事をしたいとずっと思っていました。ですから、そう言った関係の大学に行くことや専門学校に行くことを考えていました。けれども、周りからも反対されますし、道も開かれないし開くことも出来ないで、結局あきらめてしまいました。そんなわけで、その映画の専門学校に前を通り過ぎた時に、家内に、もしあのときに、何が何でも映画の世界に飛び込んでいたらどうなっていただろうなどと話しますと、家内はあっさりと、「きっとすさんだ生活をしているんじゃない」とそう言いました。そして、私もきっとそうだろうなと思うのです。今、こうして思えば、自分に才能がないことは良くわかります。でも、何が何でもとしがみついていたならば、それでも現場にかじりついて、でも、チャンスをつかんで聞く人間を見て、嫉妬し、うらやみ、不平と不満の中で生きていただろうと思うのです。万が一、自分自身がそのチャンスをつかみ成功するようなことがあったとしても、それが自分の人生の中で、もっとも大きな価値となってしまっているならば、何とかそれを失わないようにと必死になってしがみついていただろうと思うのです。そして、それをしっかりと自分の手に握りしめておくために、多くのものを犠牲にしていたでしょうし、場合によっては仲間や友人を犠牲にしたり、利用し、踏みつけてしまうということさえあるだろうと思うのです。
それは、夢とか願望といった自分の内側にあったものが、自分の外側に出てきて、それに縛り付けられてしまっている姿と言えます。そして、それは、今日の聖書の箇所にあるイエス・キリスト様の弟子たちの姿と重なり合って来るものなのです。弟子たちは、イエス・キリスト様と共に旅をし、同じ釜の召しを食べてきた仲間であり、盟友です。苦楽をともにしてきた間なのに、こと誰が一番偉いかという問題が起ると、互いに論じ在ってしまう。そこには、自分は偉くなりたいと願う弟子たちの思いがある。そして、その思いを遂げるためには、同じ釜の召しを食べ、苦楽を共にした仲間さえも出し抜こうとするのです。結局、自分の夢や願望、それが仕事であったり、地位であったり、あるいはものやお金であったりしても、それが絶対的価値、最終的目標となってしまったならば、それが私たちを縛り付けてしまい、私たちから、私たちの本当の自由を奪ってしまうのです。イエス・キリスト様は、仲間を出し抜こうとしたヤコブやヨハネのことを憤慨している弟子たちを呼び寄せて、こう言っています。42節〜45節です。「あなたがたの知っているとおり、異邦人の支配者と見られている人々は民を治め、また偉い人たちは、その民の上に権力をふるっている。しかし、あなたがたの間では、そうであってはならない。かえって偉くなりたいと思う人は、仕える人となり、あなた方の間で頭となりたいと思う者は、すべての人の僕とならねばならない。人の子がきたのも、仕えられるためではなく、仕えるためであり、また多くの人のあがないとして、自分の命を与えるためである。」
イエス・キリスト様は、ヤコブやヨハネが願い求めた高い地位に対して「あなたがたの知っているとおり、異邦人の支配者と見られている人々は民を治め、また偉い人たちは、その民の上に権力をふるっている。」とそう言われています。それは、まさに自分の思いによって人々を治め、自分の思いを成し遂げるために権力を行使している姿です。わざわざ、「異邦人の支配者達と見られている人々」とそう言っているのは、ローマの役人達を思い出させる言葉です。また、弟子たちのほとんどはガリラヤの出身ですから、偉い人たちは、その民の上に権力をふるっているという言葉は、ヘロデ王を思わせただろうと思います。そう言った人たちは、弟子たちにとっては好ましくない、どちらかといえば嫌っている、いえ憎んでいると言っても良いような人たちです。それは、自分のために力を行使し、人を虐げ、犠牲にしているような人たちだからです。弟子たちが、自分が偉くなりたいと願い、そのために人を出し抜こうとしたり、出し抜かれたと思い憤っている限りは、行き着く先には、そのような人たちの姿があるのです。そして、人々から嫌われ、憎まれるような生き方の中には、本当の幸せがあるわけでもなく、本当の自由があるわけでもないのです。
私は、今日の説教のタイトルを「幸せをもたらす原則」といたしました。それは、本当の幸せというものは、自分がそれを得ることによって得られるのではなく、それを人に分かち与える事によって得られるからです。そして、その根底には、使徒行伝20章35節にある、「受けるよりも与える方が幸いである」というイエス・キリスト様の言葉があります。私たちは、この「受けるよりも与える方が幸いである」という言葉それ自体を福音書の中に見出すことは出来ません。しかし、この言葉は初代教会の中にあって、主イエス・キリスト様の重要な教えの一つとして語り継がれていた言葉の一つ出会ったように思われます。と申しますのも、使徒行伝20章35節で、この言葉を引用しているのはパウロだからです。ご存じのように、パウロはイエス・キリスト様の直弟子ではありません。ですから、パウロがイエス・キリスト様の言葉として聞いている者は、全て伝聞であり、それはイエス・キリスト様の直弟子であった使徒たちがイエス・キリスト様から聞き、そして記憶にとどめておいた言葉なのです。つまり、ペテロやヤコブやヨハネ達の間に置いては、この「受けるよりも与える方が幸いである」という言葉は、記憶に残る言葉として彼らの心の中に深く刻み込まれていたのです。そして、わたしは、この言葉と、今日の聖書の箇所が重なり合って仕方がないのです。
自分のために偉くなりたいと考えていたヤコブとヨハネ、いえ彼らだけではない、そのヤコブとヨハネの行動に憤慨した他の弟子たちの心の底には同じ思いがある。その思いの中で、自分がより高い位置を得たいと思っている弟子たちに対して、本当に幸せな生き方は、自分のために幸せを得ようとする生き方ではなく、人に幸せを分け与え、喜びを与えていく生き方なのだということを、イエス・キリスト様は強く教えておられるように思えたのです。自分が笑顔になるために何かを得ようとするのではなく、人に笑顔をもたらすときに、自然と自分も微笑んでいるそんなところに人間の本当の幸せがあるのであり、そのためには、まず自分自身が、喜んで人に仕えることのできる、自由なこころ者になっていなければならないということなのだろうと思います。そして、私たちが、人に幸せを分け与え、喜びを分け与えて生きていくためには、何よりも私たち自身が幸せを持っていなければなりませんし、喜びを持っていなければなりません。自分自身が持っていなければ、それを分け与えようことなど出来ないからです。だからこそ、弟子たちを呼び寄せて語られたイエス・キリスト様は、「あなたがたの間では、そうであってはならない。かえって偉くなりたいと思う人は、仕える人となり、あなた方の間で頭となりたいと思う者は、すべての人の僕とならねばならない。」と言われたあとに、最後の締めくくりの言葉として、「人の子がきたのも、仕えられるためではなく、仕えるためであり、また多くの人のあがないとして、自分の命を与えるためである。」とそう言われたのだろうと思うのです。
それは、イエス・キリスト様が十字架の上で、命を投げ出して、私たちの罪に赦しを与え、死という私たち人間が経験する最も大きな苦難に勝利を与え、永遠の命を与え、天国という神の恵みを与えて下さるということです。そしてその命、それも永遠の命というものにまさる絶対的な価値などないのです。罪が赦され神と和解するという絶大な喜び、キリストの十字架の苦しみという壮絶な苦しみをとおってあたえられた希望は、そんなに苦しい中にあっても、私たちを支え生かすものです。それが、神を信じる者には既に与えられているのです。そして、それはイエス・キリスト様が仕える者としてではなく、私たちのためにその後生涯を捧げて下さったために、私たちに与えられたものです。 まさに、イエス・キリスト様が、「仕えられるためにではなく、仕えるために」ために来て下さったからなのです。ですから、そのイエス・キリスト様の弟子である私たちもまた、イエス・キリスト様の生きられたように「仕えられるためではなく、仕えるために」生きるものでありたいと思うのです。それは、教会という場であっても、そうです。家庭という場であってもそうです。
お互いが、「自分のために相手がいるのではない、相手のために自分がいる」そのような生き方が出来たならば、自然と教会には笑顔があふれてきます。夫が妻のために、妻が夫のために生きていくことが出来るようになるならば、そこにも笑顔が一杯になってくるだろうと思います。そのためには、自分に何かしてもらうことを求めるのではなく、相手に何をして上げられるのだろうかがもとめられなければなりません。まさに「仕えられるためではなく、仕えるため」の生き方がそこにあるのです。私たちの教会は、今年の初めに「愛する者たちよ。わたしたちは互いに愛し合おうではないか。愛は、神から出たものである。すべて愛する者は神から出たものであって、神を知っている」というヨハネ第一の手紙4章7節を一年の言葉として抱えました。だからこそ、自分のためではなく、相手のために生きる「仕えられるためではなく、仕えるため」の生き方を、私たちもまたキリストの弟子として、していきたいと思うのです。
お祈りしましょう。