『心からの信仰』
マルコによる福音書10章46−52節
2007/3/25 説教者 濱和弘
賛美 266、202、302
先日、私はある方とお食事をさせて頂く機会がありました。その方は、もう十数年来親しくさせて頂いている方なのですが、一緒にお食事をしながら話をしておりますと、昔話に花が咲きまして、その時の状況が生き生きと心によみがえって参りました。それこそ、「だれそれが、あんな事言ったじゃない。」「こんな子としていたね」と言ったあんばいで、色々なことが、詳細に思い出されてくるのです。今、私たちの教会でも、50周年の記念誌をつくろうと言うことで、皆さんに教会の思い出などの原稿を書いて頂こうとしています。締め切りは5月末と言うところを考えているのですが、もう、既に原稿を書き終えられた方もいらっしゃいます。きっと皆さんも、そうやって、原稿を書こうと、昔あったことを思い出されて降りますと、お書きになろうとなさっている頃のことが、生き生きと思い出されてくるのだろうと思います。今日の聖書の箇所は、盲人であったバルテマイの目が癒されたと言う出来事が記されていますがまさに、そのような生き生きとした表現で、彼が癒されたときに思い出が語られている場所です。例えば、50節に「彼は、上着を脱ぎ捨てて、躍り上がってイエスのもとにきた」とあります。
イエス・キリスト様が、エリコの町にやって来らえたとき。バルテマイという盲人がイエス・キリスト様がこの町に来られたと聞いて、癒していただきたいと大声で「ダビデの子イエスよ、わたしを憐れんで下さい」と叫びだした。人々は彼を黙らせようとしたのですが、その声を聞いて、イエス・キリスト様は「彼を呼んできなさい」とお弟子達に命じられるのです。そこで、弟子たちが、このバルテマイに「イエス・キリスト様があなたを呼んでおられる」と告げました。するとバルテマイは、その時に紹介しましたように「上着を脱ぎ捨てて、躍り上がってイエス・キリスト様のもとにきた」というのです。この、盲人の名前がバルテマイと言うことが分かっているのは、この人が、目が癒されて見えるようになった後、イエス・キリスト様に従っていったからです。ですから、おそらく、弟子たちの間で、バルテマイがお弟子たちの仲間に加わってきたときに話題になると「そういえば、『イエス・キリスト様がお前をお呼びになっている』と聞いて、躍り上がって上着を脱ぎ捨ててやってきたんだよな」というような、話がくり返し、くり返し話されていたのだろうと思うのです。そして、その時の様子がくり返し、くり返し話されるたびに、バルテマイ本人もまた、イエス・キリスト様に声をかけられたときの喜びや、癒されたときの喜びを生き生きと思い出していたのだろうと思うのです。それは、バルテマイにとっては、非常に大切な宗教経験だったからです。
そのように、語り継がれていく宗教的経験には、どんなに時間がたっても、その時の状況や、気持ちが思い起こされるような、豊かな経験があります。きっと皆さんにも、神様を信じるに至ったそう言う時があるだろうと思います。また、神様を信じたとき、あるいは、洗礼を受けたときといった、何かの折りに忘れられないことがあるだろうと重いのです。ある方は、日本海の荒波の中で洗礼を受け、水につけられたとき、ザブンと水に浸されたときに、花の頭だけけが水につからなかったのだそうです。その時に、ああ、私の鼻の頭だけは罪が赦されていないなと思ったというのです。それは、半分は冗談交じりの話ではありますが、しかし、洗礼を受けたときに自分の罪が赦されると言うことを確かに意識したという、大切な経験なのです。だから忘れないで、くり返し思い出される。そして、そのように、くり返し思い起こされる経験たその語り継がれていくも豊かな宗教経験が信仰の歴史を作り上げます。そしてその歴史は語り継がれて行くものなのです。その歴史は、そして、後の者が。その語り継がれた歴史を聞く、あるいは読む時に、同じように、その時の生き生きとした状況や気持ちを思い起こさせてくれるものなのです。いえ、逆を言うならば、その物語の中に、その時の生き生きとした状況や気持ちを思い起こさせてくれるものがかるからこそ、語り継がれていくのかもしれません。
この、マルコのよる福音書は、おそらくはペテロの通訳をしていたマルコではないかと言われています。ペテロがイエス・キリスト様について語った言葉を元にまとめたものであろうと言われています。ですから、伝承を元に書かれているわけでありますが、それでも、このように生き生きとした表現で伝えられているのは、このバルテマイの物語が、その話を聞く人の心に、その時の状況やパルテマイの気持ちが生き生きと伝わって来るようなものだったからだろうと思います。バルテマイは、イエス・キリスト様が自分の住む町エリコに来られたと聞いて、大声で「ダビデの子イエスよ、私をあわれんでください」と叫びだしたと言うのです。ダビデの子という呼び方は、メシアという意味と同じ意味で捉えて良いだろうと思います。彼は、それこそ、救い主が来られたと聞き、大声で「私をあわれんでください」と叫び出すのです。すると、周りの多くの人々は、彼をしかって黙らせようとしますが、バルテマイはますます激しく叫び続けたと言うのです。しかし、考えてみればバルテマイはまったく目が見えないのですから、自分からイエス・キリスト様を見つけ出して、尋ねていくことは出来ません。たとえ、近くを取っていたとしても、イエス・キリスト様がどこにいるのかも分からないのですから、大声を張り上げて、自分の存在に気づいてもらうしか、イエス・キリスト様と接点を持つ機会はないのです。ですから、このバルテマイの叫び声は、ここにいる私にどうぞ気づいて下さいという精一杯の自己アピールなのです。
もちろん、例えそうであっても、突然大声を張り上げて叫び出したわけですから、周りの人も迷惑したでしょうし、だから彼をしかって黙らせようともしたのでしょう。あるいは、当時のラビと呼ばれるユダヤ教の教師は、歩きながら教える習慣が合ったそうですから、その教えを語るイエス・キリスト様の声を、バルテマイの叫び声がかき消してしまうので黙らせようとしたのかもしれません。けれども、それでもバルテマイには、叫ぶしか方法はなかったのです。しかも、46節には、「イエスが弟子たちや大勢の群衆と共にエリコから出かけられたとき」とあります。つまり、エリコにやってきたイエス・キリスト様が、そのエリコから去っていこうとしている時なのです。この記述は、バルテマイの置かれている状況をますます切迫した状況に追い込んでいます。せっかく来られた救い主が、今去っていこうとしている。だからこそ、ますます激しく叫び続けたのです。おそらく、このチャンスを逃したら、もうイエス・キリスト様と出会えるチャンスはないかもしれない。「次」はないかもしれないのです。ですから彼は、何があっても叫び続けたでしょうし、叫ぶのを止めなかったろうと思います。それは、彼が悲しみの中におり、かつ自体は切迫していたからです。
聖書は、このバルテマイが盲人であり、乞食をしていたと記しています。盲人の人が乞食をしていたという記事は、このバルテマイに関する事以外にも、ヨハネによる福音書9章にもありますし、使徒行伝3章には、盲人ではありませんが、足のきかない人が、エルサレムの美しの門と言うところで、物乞いをしていたという記事が出ています。現代でも、昔よりもずっと良くなって意はいるかもしれませんが、しかし、まだ障害を持っておられる方へ偏見や差別といったものがまったくないというわけではありません。それが、イエス・キリスト様の生きておられた2000年も前の社会事情ですので、そのような偏見はずっとひどいものではなかったかと思います。実際、ヨハネによる福音書の9章に置いて、生まれながらの盲人の人に対して、イエス・キリスト様の弟子たちが、「先生、この人が生まれつき盲人なのは、誰が罪を犯したためですか。本人ですか、それともその両親ですか。」と尋ねている場面があります。目が見えないと言う傷害を罪の結果、日本流で言うならば「罰(ばち)」のような感覚で捉えているのです。もちろん、今日の私たちから見れば、それこそ、とんでもない「偏見」でそんなことはないのですが、それがその当時の一般的な見方だったのです。ですから、この人は、そのような偏見と差別の中に置かれて、結局、町の出入り口に座って、人の憐れみを請う物乞いをするしか生きる術(すべ)がなかったのだろうと思われます。それは、本当に悲しい事です。だからこそ、もう2度とは来ないかもしれないイエス・キリスト様との出会いのチャンスを逃すわけにはいかなかったのです。
その叫び声を聞かれた、イエス・キリスト様は立ち止まったとあります。イエス・キリスト様は、「ここに私がおります。ここにあなたを求めておるわたしがおります。」という叫び声を、耳になされると、立ち止まらずにはいられないのです。そして、立ち止まって、「彼を呼べ」とそう言われるのです。そして、イエス・キリスト様がバルテマイを呼んでおられると聞いて、彼は「上着を脱ぎ捨てて、躍り上がって」イエス・キリスト様の所に行くのです。この「上着を脱ぎ捨てて、躍り上がって」という表現は、彼がどんなに喜び勇んでイエス・キリスト様の所に行ったかを生き生きと表現しています。まさに喜びが爆発しているという感じが伝わって来ます。この時、バルテマイはまだ癒されてはいないのです。まだ目が開かれ見えていないのですが、イエス・キリスト様がバルテマイを呼んで下さったということで、彼は自分が癒されたかのごとくに喜び勇んでイエス・キリスト様の所にやってくる。ですから、イエス・キリスト様から「わたしに何がして欲しいのか」と添う問われたとき、バルテマイは躊躇なく、「先生、見えるようになることです」と答えているのです。この時、彼は、一瞬のためらいも、疑いもなかっただろうと思われます。少なくとも、イエス・キリスト様が「お前を呼んでおられる」と言われ、「上着を脱ぎ捨てて、躍り上がって」イエス・キリスト様の所に行くバルテマイの姿には、キリストが自分を悲しみから解放し得下さると言うことに対する、みじんの疑いも感じ取られないのです。
ですから、その姿は実に印象的だったのだろうと思います。そして、だからこそ、バルテマイの物語を語るときには、語り継げなければならない大切なエピソードとなったのです。そしてそのことによって、バルテマイの物語は、単に目の見えなかった人の目が見えるというような癒しの物語ではなく、イエス・キリスト様に対して、心から信じ信頼する人の物語となったのです。しかし、バルテマイは、このイエス・キリスト様を心から信じ信頼する信仰を、一体どうして身につけたのだろうかと思わされます。というのも、おそらくというか、まず間違いなく、この時に至るまで、バルテマイは、イエス・キリスト様とお会いすると言ったことはなかったはずです。ただ、バルテマイは、噂としてイエス・キリスト様の事を聞いていただけのことだろうと思うのです。そのうわさ話として伝え聞こえてくるイエス・キリスト様のことを聞いて、一点の疑いもなく、心からイエス・キリスト様のことを信じられる。それはある意味、すごいことだと思いますし、素晴らしい事だと思います。
先日、風邪を引いて病院に行ったのですが、時期が時期ですので、待合室には、結構たくさんの人がおり、診察まで、かなりの時間待たなければならないと言った感じでした。そこで、待合室にある新聞か雑誌でも読もうかと思って見渡したのですが、あいにく婦人雑誌と「クレヨンしんちゃん」の漫画と、4コマ漫画の本しかなく、それで、4コマ漫画本を読んでいました。これが、なかなかほのぼのとするなかで、しかし、考えさせられる内容の言い漫画本でして、その中に、今は、子どもたちには、知らない人は疑ってみなければならないことを教えなければならなくなったと嘆いているものがありました。確かに、私も、親として子供が小さいときに知らない人について行ってはダメだとか、車に乗った人に道を聞かれても、離れたところで話しなさいといったことを子供に教えてきました。それはそれで、子供の誘拐や引き回し事件などの背景がありますので、身の安全を守るためには仕方のないことです。しかし、それによって、私たちは、人を信じることよりも、人を疑うことを教えなければならない世の中になってしまい、すっかりそれが身に付いてしまっているのではないかとも、思わされるのです。しかし、少なくとも神を信じると言うことに置いて、また神の言葉を信じると言うことに置いて、は、私たちはいつまでも純粋な心を持っていなければならないと思うのです。
先日、ある方とお話しをしていますと、その方のお知り合いの話になりました。その方も、話題となったその方のお知り合いの方共々、クリスチャンなのですが、そのお知り合いの方は、人生の岐路に立たされるような場面におられるとのことでした。その方は、一つの夢を持っておられて、それを実現させようとして今、一生懸命になっているのだそうです。ところが、私に知人は、どう考えても今、その方が自分のやりたい夢に向って歩み始めるのは、信仰的に見ても、時期早々のように思われるし、その方を取り巻く人々も、そのように思っておらえるそうなのです。そして、神様が道を開いて下さるまで、もうすこし待った方が良いのではないかとアドバイスをするのだけれども、耳をかしてくれないし、周囲の反対を押し切っても、自分の夢に向って踏み出そうとしているのだそうです。そこで、「どうして、今でなければならないのか」を尋ねたところ、今、踏み出せば、これこれこういうメリットがある、こういう有利な点があると答えられるのだそうですが、それらは、すべて人間的な条件なのだと言われますし、聞いている私も、確かに、それは人間的な事だなと思わされるのです。そして、その方が、こういうメリットがある、こういう有利な点があるというのは、いわゆる損得勘定で計算できるような内容のもの、平たく言えば金銭勘定できるものであって、神様が本当に導いて下さるもであるならば、きっとそれらは備えられるものであると思わされるのでした。
私たちは、「主の山に備えあり」という創世記22章14節の言葉を、よく口にします。それは神を心から信じ、神の言葉に従うものには、神は必要なものは全ていて下さると言うことを意味する言葉であります。ところが、実際に自分の人生の出来事、あるいは自分の将来や夢を叶えるとためと言った場面になりますと、とたんに計算機をはじき出して、今こうした方がよいとか、今こうしなければ夢が実現しないと、言って、神様が道を開いて下さるのを待つのではなく、自分で道を切り開こうとしてしまうのです。先ほどの、私の友人のお知り合いの方も、結局は人間的な方法での損得勘定で、今、夢に向って歩みをはじめれば有利だから、と言う理由で事をはじめようとしておられる。本当に、神の導きや、主が備えたもう時や方法というのを待つのではなく、推し進めようとしている、そんな感じがするのです。バルテマイは、盲人でした。ですから自分の目で、イエス・キリスト様を見ることはできません。どこにおられるかもわからない。ただ大声を張り上げ、叫び、その叫びにイエス・キリスト様が答えてくれるまで待たなければならなかったのです。また、自分の声がイエス・キリスト様に届けば、イエス・キリスト様は必ず立ち止まり、自分の存在に気が付いてくれる。そして気が付いて下さったならば、必ず、イエス・キリスト様の方から私が、イエス・キリスト様の前に出て行くことが出来るよう道を開いて下さる。そう信じて、叫ぶしかなかったのです。いえ、そう信じていたからこそ、周りが、彼をしかり、黙らせようとしても、彼は叫び続けたのです。
先ほど、引き合いに出した方もそうですし、私自身についても言えることですが、私たちは、何とか自分の夢や願いを実現させるためには、イエス・キリスト様に叫び続け、イエス・キリスト様に道を開いていただくのではなく、自分自身でそれを切り開こうとしている事の方が多いのではないだろうかと思うことがあるのです。それが、自分の夢や願い事と言ったことになると、特にそのような傾向に陥ってしまっていないだろうか反省させられてしまうのです。神は祈りの答えて下さるお方だと言いつつ、どこかでそのことを心から信じられずに、人間的な方法に頼ろうとしている自分がいないだろうか。神様は、最善をなして下さるお方だと言いつつ、けっして、神様の御手の中に自分を委ねきってしまうことが出来ないのではないか。神様に委ねきってしまうならば、自分の夢や願いがかなえられない時があるかもしれない、そのような事態は、決して受け入れられない。だから、叫び続けてまつのではなく、自分の考えられる最善の方法を選択し、道を切り開こうとする。その時には、私たちは、神様を信じてはいますが、しかし、心から信じ切っていないのではないかと思うのですが、皆さんはどう思われるでしょうか。
もちろん、私たちが心から信じ切れていないからと言って、神様は私たちを、見捨てたり、切り捨てたりするお方ではありません。たとえからし種の一粒のような、小さな、小さな信仰であったとしても、そのような信仰があれば、神様は、私たちを導き支え続けて下さるお方です。ですから、どんなに不信仰だと思われるようなものでも、神様は私たちを愛し、赦し、受け入れ続けて下さるのです。だからこそ、私たちは、そのような神の愛の中で、神を信じる信仰に置いては純粋でありたいと思うのです。心からピュアで純粋な心になりたいと思うのです。自分の力で、何かを成し遂げるのではなく、神の名を呼び、イエス・キリスト様の名を呼び続けながら、神が開いて下さる道を見出したいと思うのです。私たちが、イエス・キリスト様に叫ぶ、叫び声を上げ続けるならば、イエス・キリスト様は必ず、私たちの声を聞いて立ち止まって下さる。そして、私たちを身元に呼び寄せて下さるお方なのです。そして、私たちに最善をなして下さる。私たちは、この事を心から信じて、イエス・キリスト様にお従いして歩んでいきたいと思うのです。 そして、そうやって、私たちがイエス・キリスト様に
お祈りしましょう。