三鷹教会のロゴ メッセージ

羊飼い 『神の御旨』
マルコによる福音書11章1−11節
2007/4/1 説教者 濱和弘
賛美  20、339、396

さて、今日の聖書の箇所、マルコによる福音書11章1節から11節は、イエス・キリストさまが子ロバに乗って、エルサレムに入場するという、いわゆるエルサレム入場に関する記事です。実は、今日は、教会歴では棕櫚の日曜日になります。教会歴とは、一年をそれぞれの季節毎に、キリストの生涯の出来事と結び付けながら、それを記念し、また教会の一年の歩みのサイクルを定めたもので、通常、カトリック・プロテスタントと言った西方教会の伝統では、アドベントの第一周から一年がスタートします。そのような、中にあって私たちの教会では、教会歴にもとづいて礼拝や教会の行事や礼拝を行うのは、アドベント、クリスマス、復活祭、ペンテコステ、昇天者記念礼拝です。ですから、来週は復活祭(イースター)ですから、イースター特別礼拝が持たれます。この教会歴ですが、実際は、私たちの教会が行っているものよりも、もっと事細かく定め得られています。例えば、イエス・キリスト様が弟子たちの足を洗われたと言うことを記念して、実際に互いの足を洗いあう洗足の木曜日、これは復活祭の前の木曜日に行われます。他にも、受難節が始まる事を告げる灰の水曜日や受難日といったものがあります。その中で、今日はその受難節の中にあって、キリストがエルサレムに入場する際に、ヨハネよる福音書12章12節で棕櫚の枝を敷き詰めて、ちょうどあたかも赤絨毯で迎えるようにお迎えしたと言うことを記念する、棕櫚の日曜日(Palm Sunday)が、まさに、今日に当たるわけです。

私たちの教会は、この一年半は、礼拝において、ずっとマルコによる福音書を取上げてきました。ですから、意図したわけではありませんが、しかし、ちょうどその棕櫚の日曜日に、このエルサレム入場の記事の箇所が、めぐってきたのです。そういった意味では、神の不思議な配慮であった、お導きであったとそう思えるのです。そしてそれが、このマルコによる福音書であったと言うこともまた、実に不思議な感じが致します。ともうしますのも、このマルコによる福音書は、同じエルサレム入場を記したマタイによる福音書21章やルカによる福音書19章、あるいはヨハネによる福音書12章などと比べてみましても、イエス・キリスト様がエルサレムに入場する様子よりも、子ロバが連れてこられる様子の方が詳細に描写されているからです。マタイによる福音書にも、ルカによる福音書にも、イエス・キリスト様の命じられた言葉に従って、つながれていた子ロバが連れてこられた記事が書かれてはいますが、それ以上に、人々がどのような熱気を持ってイエス・キリスト様をお迎えしたのかに力が入れられ描かれています。しかし、マルコによる福音書は、その部分に関しては、人々が上着を敷き、葉のついた枝を敷いて、「ホサナ、主の御名によってきたる者に祝福あれ、今きたる、われらの父ダビデの国に、祝福あれ。いと高き所に、ホサナ」と叫んでお迎えしたと伝えるだけで、マタイやルカやヨハネによる福音書から感じ取られるような、人々の生き生きとした熱気は伝わってこないのです。むしろ子ロバがイエス・キリスト様の所に連れてこられる描写の方が、生き生きと描かれています。

エルサレムの近く、オリブの山に添ったベテパゲ、ベタニヤの付近に来たとき、イエス・キリスト様は二人の弟子に、「向こうの村に行くと、まだ、だれも乗ったことのないロバの子がつながれているので、それを解いて引いてきなさい」と命じられます。その際、「もしだれかが、あなたがたに、なぜそんな事をするのかと言ったならば、主がお入り用なのです。またすぐ、ここに返して下さいますと、言いなさい」とも言われるのです。そして、まさにその通りになります。しかし、それは極めて当たり前のことです。知らない人間が、勝手にだれかが所有している子ロバがつながれているのを、勝手にその綱を解いて連れて行こうとしているのを見たのならば、「何をしているのか」と声をかけるのは、極めて普通の反応です。私どもでも、教会の前に置いてある自転車の鍵をだれかが壊して乗っていこうとしていたら、「君は何をしているんだ」と問いかけるだろうと思います。いえ、問いかける前に「泥棒!」と叫んでいるかもしれません。そういった意味では、イエス・キリスト様の「向こうの村に行きなさい。そこにはいるとすぐ、まだだれも乗っていないロバの子がつないでいるのを見るであろう。それを解いて引いてきなさい」という言葉は、一見、非常識にも見える言葉です。また、その様子を見て、「あなた方は、なぜそんなことをしているのか」と問いかけた人が、「主がお入り用なのです。またすぐ、ここに返して下さいます」といわれて、「はいそうですか」といって許してくれたというのも、なんとも不思議な話です。

それこそ、先ほどの自転車の話に例えるならば、自転車を持っていこうとしている見ず知らずの人に、「どうしてそんなことをするんだ」と問いかけたところ、「うちの社長が必要としているのです。後で返しに来ますから」と言われたからと言って、早々簡単に「はいそうですか」といって許すわけにはいきません。そんなわけですから、このイエス・キリスト様が二人の弟子たちに命じられたこと、そしてその言葉通りに事が進んでいったと言うことは、極めて不思議なことだと言わざるを得ません。そのため、この聖書の箇所は、イエス・キリスト様があらかじめ、そのロバの子の所有者と事前に話を付けており、主がお入り用なのですと言う言葉が、合い言葉のようになっていて、それで、子ロバを借りることが出来たのだと言うような理解をなさる方もいます。このようなとらえ方は、確かに合理的です。もちろん、このような合理的理解を裏付ける確かな根拠が聖書の中にあるわけではありません。あくまでも、つないでいる子ロバを連れて行こうとする弟子たちに対して、「主がお入り用です」と言うだけで、その子ロバを貸してくれたことが、あまりにも道理にかなっていないので、なんとか合理的に解釈した解釈に過ぎません。そしてその解釈は、この聖書の箇所が伝える物語の不思さを打ち消していきます。

なのに、そのような合理的理解が出てくるのは、合理的な内容というものは、私たちを納得させ、安心させるからです。そして、私たちは、不思議な出来事や納得できない出来事に出くわしますと、何かその不思議さをそのまま受けとめることができない、その不思議さに合理的説明をしようと試みます。 納得出来ないと、何か心の収まりが悪いからです。例えば、マタイのよる福音書21章では、イザヤ62章11節とゼカリヤ9章9節の御言葉を引用して、預言者によって言われた事が成就する為であったと説明しています。マタイによる福音書は、主な読者層をユダヤ人に置いていますから、旧約聖書の預言が成就したという説明は、それなりに納得できる者であったろうと思います。けれども、マルコによる福音書は、そう言った説明は一切しません。そして、子ロバが引いてこられるという物語の不思議さ漂わせるのです。私は、マルコによる福音書の、この不思議さを、決して無視してはならないだろうと思います。いえ、むしろ、この不思議さ自体が大切なのです。なぜならば、この子ロバが引いてこられると言う物語が、まさに受難週の幕開けだからです。神のひとり子であられるイエス・キリスト様が私たちの罪のために十字架に架かって死んでくださった。この事自体、実に不思議な出来事です。一体二千年も前のユダヤのエルサレムと言うところで、一人の男が十字架について死んだと言うことが全世界に救いをもたらしたと言うこと自体、極めて信じがたい内容です。

ましてや、その十字架が私のためであったと言われても、早々簡単に「はいそうですか」と言えないような事です。けれども、その早々簡単に「はいそうですか」といえないような内容に、キリスト教の存在全てがかかっていると行っても言いすぎではないのです。そして、この出来事がまさに起ろうとする。それがこの子ロバが引いてこられるという不思議な物語から始まるのです。それは、イエス・キリスト様の十字架の物語に先行する不思議な物語だといえます。けれども、信仰の出来事というのは、きわめて不思議な出来事から始まるのです。考えてみますと、私たちが教会にいると言うこと自体が不思議な出来事です。私たちは、実に様々な理由や原因で教会に集うようになりました。その中で、さらに、この三鷹キリスト教会にこうして集っていると言うこと自体、不思議だと言えば不思議です。中には、親がクリスチャンだからお母さんのお腹の中にいるときから教会に来ていたという場合もあるでしょう。しかし、日本の1億2千6百万人の中でクリスチャンは50万人前後、どんなに多く見積もっても100万人ぐらいだと言われますから、その少ないクリスチャンの家庭に生まれてくると言うことは、本当にまれなことです。そういった意味では、私たち日本という国でクリスチャンであると言うこと、あるいは教会に来ていると言うことは、アメリカや諸外国の中でも、際立ってその不思議さを感じ取ることが出来るかもしれない事なのです。

それこそ私たちは、どうしてクリスチャンになったのか、どうして教会に来るようになったのか。たしかに色々な出来事を通してではありますが、しかし、それは、不思議なことなのです。そして、ただ私がここで言えることは、今日、ここにこうして集まっておられるお一人お一人は、すべからく、イエス・キリスト様から「主がお入り用です」と言われて、この場に呼び集められている一人一人だと言うことですだれ一人としてイエス・キリスト様から「主がお入り用です」と言われることなくして、イエス・キリストの御名を呼び求める教会には呼び集められることはありませんし、神を信じる民として召し集められることはないのです。実際、私たちがこの国でクリスチャンとして教会にやってくるのは、様々なしがらみや、私たちを取り巻くいろんなことから、解き放たれなければなりません。けれども、そのように、私たちを縛り付けている様々なことから、イエス・キリスト様は「主がお入り用なのです」といって、私たちを解き放ち、イエス・キリスト様の所に呼び集めてくださっているのです。しかも、そうやって私たちを呼び集めているその言葉は、「主がお入り用です」という言葉です。つまり、イエス・キリスト様が、私たちをお入り用として下さっていると言うことです。ですから、私たちは主イエス・キリスト様が大切な働き人として、私たちを必要として下さっているのです。

もちろん、主がお入り用ですといって下さったとしても、周りの人たちも、また自分自身も、とても自分が主の御用に役立つ者だと思われないことがあります。例えば、私事を考えてきても、自分が牧師にふさわしい信仰の持ち主であるかと言われれば、そうでない者であることは、自分自身が一番よく知っていることなのです。しかし、たとえそうであったとしても、主が私をお入り用だといってくいって呼んで下さるならば、そのふさわしくない者が、主の御用に役立つ者とされていくのです。今日の、聖書の箇所で、主がお入り用とされたのはロバの子でした。それは、エルサレムに入場する際に、それにのって入場するためです。しかし、それにまたがって入場するには、子ロバは決してふさわしい動物だとは思われません。だれもがそう思ったでしょう。けれども、イエス・キリスト様にとっては、子ロバでなければならなかったのです。たしかにそれは、マタイの福音書で言うように預言者達のいっていることが成就する為であったからでしょう。しかし、イエス・キリスト様が、預言者達の言葉に従って子ロバにのってエルサレムに入場なさるのは、このお方は決して力によってこの世を支配するこの世の王ではなく、神の恵みによって私たちを支配する神の国の王であることをお示しになられるためです。

そのためには、周りのだれもが、なぜ子ロバなのだと不思議に思ったとしても、子ロバでなければならない理由があったのです。そして、そのように、神の恵みによって私たちを支配する王としてのキリストとなるためには、十字架によって死ぬという、通常では、考えられないような不思議な選択をなさったのです。それは、なかなか理解しがたい、納得しがたい事です。そんなわけでしょうか、創価学会の方が折伏教典において、キリスト教は十字架という死刑に置いて刑死した人間を崇めるといったばかげた信仰であると非難するのです。それは、十字架の上で死ぬということが、神の国の王になるためには絶対不可欠な事であると言うことは、人間の知恵では決して思いつくことのできない不思議なことであり、神の知恵だからです。そして、そのような不思議な出来事だからこそ、その始まりも、実に理解しがたい不思議さをただ問わせる事件を持ってはじめられたのです。そうやって、考えられないような方法で、つなぎ止められていた子ロバが解かれ連れてこられ、普通に考えるならば、けっしてふさわしくないと思われるような子ロバにのって、エルサレムに入場なさるのです。

先日、私たちホーリネス教団の年会において任命式がありました。牧師の一人一人が、たとえ同じ教会に今年も派遣されるとしても、そこにおいて、神からの任命を受けて教会に使わされます。それは、牧師の一人一人が、毎年、神様から任命を受け、使命を与えられてその教会に派遣されるのだと言うことを、心に銘記する必要があるからです。ですから、私も家内も、今年もこの三鷹キリスト教会に任命を受けました。それは、今年もまた、神様から、使命を与えていただき、この教会で、皆さんと共に主の与えて下さった使命を果たすために、任命されたと言うことだと思っています。この任命式に置いて、私はそこに出席した牧師の一人一人が、自分がその任命にふさわしい存在だからこそ、その使わされた教会に任命されたのだなどと思っていないと信じたいと思っています。そして、だれもが、私は、神様から使命を与えていただき、教会の牧師に任じられると言うことは、不思議なことがとそう思い、厳粛な思いで任命を受けていかれたとそう思いたいですし、そうでなければならないのです。それは、皆さんとて同じ事だろうと思います。今日、ここにおられるお一人お一人は、イエス・キリスト様から「主がお入り用ですと」言われて、この教会に呼び集められてきたお一人お一人なのです。

しかしそう言うと、きっと皆さんお一人お一人が、私はイエス・キリスト様が「お入り用だ」と言ってくださっている事が不思議だと感じているのではないかと思うのです。そして、自分は「主に、あなたが必要だと言われるにふさわしい存在だ」と思っておられる方が、一人もいないと確信しています。なのに神様は、そのような私たち一人一人だからこそ、私たちを必要として下さっているのです。神の恵みによって支配されている神の国のこの地上での現われ、窓口である教会を築き上げていく為には、そのような一人一人が必要なのです。そのために、私たちが呼び集められているということは不思議なことですが、それが神様の御旨なのです。私が、今、牧師として心にかけていることがあります。それは、私がしたいと思う働きをするのではなく、私が働きたいと思うところで働くのでもなく、私が本当に必要とされている働きをさせていただこうということであり、また私が本当に必要とされている所で働かせていただこうと言うことです。そして、それが本当に神様の求めておられることあり、神の御旨であるとするならば、私自身は、子ロバのように、けっしてそれにふさわしくない者であり、なおかつ、いろいろな事に縛られて、今は身動き出来ないものであっても、必ず、そこから解かれて、主をお乗せして、エルサレムの門をくぐっていくという不思議な出来事に参与させていただくことが出来るだろうと思うのです。

そうやって、神の恵みと愛が支配する神の国が建設されていくという、不思議な業に私も加えていただけるとそう信じているのです。そして、それは皆さんも同じなのです。私が、教団の任命式で三鷹キリスト教会に神様からの任命を受けて、神の働きに派遣されたように、皆さんもまた、神の任命を受けて派遣されているのです。そして、そこにおいて果たすべき働きというのは、イエス・キリスト様と共に神の恵みと愛が支配する神の国が表されている教会を築きあげると言うことなのです。神の恵みと愛が支配する神の国は、十字架の死という方法でしか築くことが出来ません。そして、この十字架の死という業は、私たちには決してできないことです。それは、ただイエス・キリスト様にしか出来ないことであります。ですから、私たちは、このイエス・キリスト様と共にあって、一人の子ロバのような存在として、このお方にお仕えしていきたいのです。そうやって、神のお心にかなって、共に神の御旨を全うする者でありたいと願うのです。神はあなたを必要として下さっています。あなたに「主がお入り用なのです」と言って下さっているのです。そうやって、私たちは、主イエス・キリスト様の所に連れてこられた一人一人なのですから、神様のお心に添い、神様の御旨にそって生きるものでありたいと願います。

お祈りしましょう。