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羊飼い 復活祭記念礼拝
『絶望の中で出会う神』
ヨハネによる福音書20章19−23節
2007/4/8 説教者 濱和弘
賛美  127、112、252

今日は、イースター、復活祭です。クリスマスとは違って、毎年日にちが変わる移動祭日で、毎年、春分の日の次の満月のあとの日曜日が復活祭になります。この復活祭において、私たちはイエス・キリスト様の復活を記念するわけですが、死からよみがえられたと言うことの前には、当たり前のことですが、イエス・キリスト様の死があります。そんなわけで、先週の金曜日、6日が教会歴では、キリストが十字架に架かられた事を覚える受難日です。アメリカなどでは、この受難日をグッド・フライデーといって礼拝を持ったりします。そうやって、キリストの受難を覚え、その死の意味を想いめぐらして時を過ごすのです。キリストの死の意味を思いめぐらして問う。このことは、2000年の長い歴史の中でくり返し、くり返し行われてきたことです。そして、そのような営みの中で、キリスト教の神学が形成されていったと言っても良い側面があります。しかし、何よりもイエス・キリスト様の死に直面して、最も考えさせられたのは、イエス・キリスト様と共に生活した弟子たちであったろうと言えるでしょう。

彼らは、イエス・キリスト様を「神の聖者です。」(ヨハネ6:69)であるとか「あなたこそ、生ける神の子キリストです。」(マタイ16:16)と、そう告白していました。もちろん、彼らは、イエス・キリスト様が、ご自分が律法学者や祭司長によって苦しめられ、殺されると預言なさっておられた言葉を聞いていました。しかし、その言葉が現実となり、その出来事の前に立たされたときに、改めて彼らはイエス・キリスト様が十字架の上で死ななければならなかったのかと言う意味を考えざるを得ない状況であったろうと思うのです。しかも、その死に様は決して尋常なものではありませんでした。パリサイ派の人々や律法学者、祭司長たちに扇動された群衆が、イエス・キリスト様を「殺せ、十字架に付けろ」と叫び(ヨハネ19:15)、「彼は他人を救った。もし彼が神のキリスト、選ばれた者ならば、自分自身を救うがよい」といった嘲笑の中で死んでいかれたのです。イエス・キリスト様は、多くの人の病を癒し、悪霊を追い出し、人々がこれは新しい教えだ、今までにない権威ある教えだと言われるように、威厳と権威を持って教えを語られてこられたお方でした。その権威は、嵐といった自然現象さえも従わせるような、まさに創造主としての権威でもあったのです。

弟子たちは、まさにそれらのことを目撃し、その出来事の証人でもありました。彼らは、イエス・キリスト様の権威と力の体験者だったのです。なのに、その権威あるお方が、人々のあざけりと嘲笑の中で、実に無惨な死に方をしなければなりませんでした。その悲惨さ、むごさというものは、私たちの想像を超えるものです。3年前、「パッション」と言う映画で、キリストの最後の12時間が再現されました。その映像の無惨さは、余りに残酷なために、R-15指定という15歳以下の鑑賞は親の同伴がなければ出来ない映画に指定されたほどです。そして、それはおそらくかなり史実に近いものであったろうと考えられます。神の聖者であり、神の子としか呼べない、人間を超えた聖なるお方が、如何にご自分が預言されたことであったとしても、どうして、そしてなにゆえ、あのように、無惨でみじめな死に方をなさったのか。それは、弟子たちにとっては、到底理解できない事なのです。しかも、人々のあざけりと嘲笑、そして「殺せ、十字架に付けろ」と叫び声は、いつ、キリストの弟子である自分たちに降りかかってくるかもしれないのです。

今日の聖書の箇所のヨハネによる福音書20章19節にある「その日、すなわち、一週の始めの日の夕方、弟子たちはユダヤ人をおそれて、自分のおる所の戸をみなしめていると、」と言う言葉は、そのような弟子たちの不安や恐れ、そして戸惑いの中にある弟子たちの姿を、実に見事に言い表しています。ヨハネによる福音書の著者であるヨハネも12弟子の一人ですから、この時の自分自身の家にあった恐れや不安、戸惑いといったものをリアルに感じた一人だったのでしょう。しかも、イエス・キリスト様が捉えられようとするときには、裸で逃げたというのですから、臆病な一面を持っていたのかもしれません。だからこそ、より一層、不安と恐れでこころがいっぱいになっていたのかもしれません。それで、こうして他の福音書記者が書き記さなかった弟子たちに姿を書きとどめたのかもしれません。使徒と呼ばれるイエス・キリスト様の弟子たちが、「自分のおる所の戸をみなしめて」家に閉じこもるほどの不安と恐れと戸惑いの中にあった姿というのは、いかにも人間臭い姿です。そのような人間臭い不安と恐れのただ中にある弟子たちの所に、復活したイエス・キリスト様が現われたのです。

私は、今日の復活祭記念礼拝のメッセージのタイトルを「絶望の中で出会う神」と致しました。弟子たちの不安や恐れ、戸惑いといったものを、そのまま、不安や恐れ呂言う言葉で言い表すのではなく、絶望と言う言葉に置き換えさせて頂きました。ともうしますのも、この弟子たちは、その日の午前中にキリストの墓に出かけていき、キリストの墓が空っぽになっていた事実を見たペテロや、復活のキリストにであったマグダラのマリアの話を聞いていただろうと思うからです。そういった話を聞いていても、彼らはなおかつユダヤ人のことを恐れ、「自分のおる所の戸をみなしめて」家に閉じこもるほどの不安と恐れと戸惑いの中にあったのです。そこに、私は人間の言葉ではもはや慰められない、癒されないほどに打ちひしがれている弟子たちの姿を感じるのです。キリストが復活なさったと言う言葉を聞いても、そこに希望のかけらも見いだせないような絶望の中にひきこもっているそんな弟子たちの姿を思うのです。ところが、その弟子たちに、イエス・キリスト様は現われて下さり「安かれ」と声をかけて下さったのです。そして、十字架にかけられたときに釘打たれた傷と脇腹に槍を刺された傷跡をお見せになられました。それは、まさに、イエス・キリスト様が復活なさったという証であり、彼らは復活のイエス・キリスト様と出会ったのです。

聖書は、その時「彼らは主を見て喜んだ。」と告げています。キリストの墓が空になっていた、よみがえられたイエス・キリスト様に出会ったと言う言葉を聞いても慰められることも、希望を見出すことも出来なかった弟子たちが、復活したイエス・キリスト様と出会って喜んだというのです。私は、この「彼らは主を見て喜んだ。」という言葉を読みながら、心に感じるものがありました。それは、私自身が牧師として、ずっと心に思っていた一つの事に対する示唆のようなものがあるように思えたからです。私が牧師としてすっと心に思っていたこととは、自分自身の力のなさです。牧師として私はこの三鷹教会を含めて三つの教会の牧師としてご奉仕させて頂きました。教会と言うところは、皆さんもご存知のように、様々な問題が起ってきます。もちろん、牧師という職務は、教会の中起ってきた問題のただ中に身を置きますし、置かなければなりません。そんな時に、自分の力のなさを感じるのです。問題が起ると言う場合、往々にしてその問題には苦しみや悲しみが伴います。たとえば、例として、その問題が病気だったとします。そうしますと、病気にかかった本人も、またその家族もまた、深い悲しみや大変なご苦労の中に置かれます。もちろん牧師も、その病気の苦しみや大変さに向き合い祈ります。

それが、治る希望のある病気であればまだよいのです。そこには希望がありますから、寄り添い励ましながら歩んでいくことが出来る。解決の光が見えているからです。けれども、必ずしもそうでない場合に出くわすことだってあるのです。癒されることがない、よくなる望みがまったくないという場合もあるのです。そんな時に、本当に力のなさを感じるのです。そんな時に、例えば病気ならば、癒しの賜物が欲しいと真剣に思ったりします。もともと、私は奇跡的な癒しと言うことに対しては、一歩下がったところから見ています。神による癒し、「神癒」と言うことを信じていないと言うわけではありません。「新生」「聖化」「神癒」「再臨」という四重の福音をかかげるホーリネス教団の牧師をしているのですから、当然、祈りによって病気が治るということも、神により奇跡的な病気に癒しも信じています。しかし、近年癒しを前面に打ち出して伝道を奨めていく風潮が起ってきた中で、また余りにも「神癒」が強調される中で、一歩下がったところで冷静にものごとを考えていかなければならないと思ってきましたし、今でもそう思っています。そうでなければ、キリスト教は癒しという御利益を看板にする宗教になってしまうと言う危惧感を感じるからです。そして、癒されることに恵みがあり、祈ったことが実現することの中に恵みがあるという風になってしまう。

けれども、本当は、癒されること中にも恵みがあり、癒されないことの中にも神の恵みがあるのです。また祈りが実現することの仲にも神の恵みがあれば、実現しないことの中にも神の恵みがあります。それは確かにそうだと思うし、確かにその通りなのです。実際に問題のただ中に関わっていると、なんとか目の前にあるこの問題を解決したい、解決させて上げたいと本当にそういう思いで、心が一杯になってきます。ですから、それが病なら、癒しの賜物が欲しいなどととそう思ってしまうのです。しかし、実際に問題がある場合、事はそう簡単には運びません。運ばないから問題なのです。そんなわけで、いっこうに自体が解決に向わないようなときに、自分の力のなさに、気が見える思いで「はぁ」とため息をついて座り込んでしまうことが、少なからずあるのです。そのような、私に、この「彼らは主を見て喜んだ。」という言葉は、結局、問題の本当の解決は、一人一人のクリスチャンが、いえクリスチャンだけではない一人一人の人が、復活した主イエス・キリスト様とお出会いすることなしには、本当の問題の解決などないのだということを教えてくれているように思われるのです。

私自身もそうですが、私たちは、何か問題が起って参りますと、その問題が目の前に立ちはだかって、その問題しか見えなくなります。そして、その問題さえ解決すれば全てがうまくいくように思ってしまいます。だから、例えば病気ならば、その病気が癒されること求めますし、癒しの賜物を求めたくなってしますのです。しかし、本当に大切なことは、問題が解決すると言うこと以上に、復活の主イエス・キリスト様と出会うということにあるのです。復活の主イエス・キリスト様と出会い、そのご人格に触れる事によってのみ、私たちの心の奥底にまで届く慰めが与えられ、希望が与えられるだろうと思うのです。そして、確かに、イエス・キリスト様は、私たちに慰めを与え、希望を与えて下さるお方のです。そのことは、私が言葉で語る以上に、ここに集っておられる皆さんの今までのクリスチャンとしての人生の歩みに、確かな経験として刻まれていると、おもうのですが、どうでしょうか?そのように、このイエス・キリスト様というお方と出会うことが出来たなら、人間の言葉では慰められなかった悲しみや苦しみに、このお方が与える慰めが与えられ、人の言葉では希望を見いだせなかった所に希望の光を見いだすことが出来るのです。

「弟子たちは、主を見て喜んだ」。復活の主、イエス・キリスト様とお出会いするときに、ユダヤ人のことを恐れ、「自分のおる所の戸をみなしめて」家に閉じこもるほどの不安と恐れと戸惑いの中にあった人々の顔に笑顔が戻るのです。おそらく、彼らは復活のイエス・キリスト様と出会ったときに、 なぜ、神の聖者であり、神の子としか呼べない、人間を超えた聖なるお方が、如何にご自分が預言されたことであったとしても、どうして、そしてなにゆえ、あのように、無惨でみじめな死に方をなさったのかと言う問いに答えを見出したわけではないだろうと思います。けれども、確かに死んだ方が蘇って、自分たちの目の前に現われて「安かれ」と声をかけられたとき、彼らの恐れ、それは自分たちも祭司長や律法学者、パリサイ派の人々から、イエス・キリスト様と同じように殺されるかもしれないという恐れであったろうと思われますが、その恐れが取り除かれたのです。なぜなら、イエス・キリスト様ご自身が、その死に勝利して、墓の中から出てこられ、こうして彼らの前に立っておられるからです。そして、「安かれ」と言っておられるからです。ですから、弟子たちが、イエス・キリスト様と同じ十字架の苦しみを受けるようなことがあっても、弟子たちもまた、イエス・キリスト様と同じように、その死に勝利をすることが出来るのです。だからこそ、恐れることなどないのです。

イエス・キリスト様が通られた道、人としてイエス・キリスト様が経験なさったこと、苦しまれたこと、悩まれたこと、悲しまれたこと、それら一つ一つにイエス・キリスト様は勝利して、天に凱旋なさりました。その中には、生まれたばかりの時に。馬小屋で冷たい飼い葉桶の中で寝かされるといったみじめな出来事もあります。愛する弟子の一人に裏切られるといった出来事もありました。心から尽くしてきた人々にあざけられ嘲笑されるといったこともあったのです。けれども、それらの全ての苦しみや悲しみを通り、イエス・キリスト様は復活なさる事で勝利を収められたのです。そのイエス・キリスト様の弟子となった私たち一人一人もまた、イエス・キリスト様が勝利した出来事は、イエス・キリスト様と同じように勝利することが出来るのです。私たちが、復活の主イエス・キリスト様とお出会いするならば、私たちはきっとそのことを実感することが出来ます。私たちが、復活の主と出会うことが出来たなら、どんな絶望の中にあっても、私たちもまた喜ぶことが出来るのです。

しかし、使徒ヨハネ達の時代とは違って、主イエス・キリスト様は復活なさり昇天なさっておられます。ですから、彼らが閉じられた部屋でイエス・キリスト様とお会いしたのと同じように、私たちが、主とお会いすることは出来ません。そのかわり、私たちには聖書が残されています。イエス・キリスト様の時代とは違って旧約聖書だけでなく、新約聖書も残されているのです。この聖書66巻を通して、私たちはイエス・キリスト様とお会いすることが出来ます。静かに聖書を読み、その聖書の言葉を黙想することによって、そこに思い描かれるイエス・キリスト様のお姿や、黙想する中で心に湧き上がってくる思いや言葉を通して、イエス・キリスト様は私たちと出会い、語って下さるのです。だから聖書を読むと言うことが大切なのです。また、私たちには礼拝という場が与えられているのです。礼拝は主イエス・キリスト様が臨在なさる場です。礼拝で賛美し、祈り、聖書の言葉に耳を傾け、また聖書の言葉が解き明されていく佐越境の言葉を通して、私たちは、主イエス・キリスト様が私たちに語りかけて下さる言葉を聞き、主イエス・キリスト様の与えて下さる平安をいただくことが出来るのです。

また、礼拝においてなされる聖餐式には、復活の主イエス・キリスト様が御現臨下さっています。聖餐式のパンと葡萄酒には、主イエス・キリスト様がそこにご臨在下さっているのですだからこそ、私たちは、心して礼拝に出席しなければなりません。主イエス・キリスト様とお出会いするのだと言う気持ちで礼拝に集い、説教の言葉を通して主イエス・キリスト様の言葉を聞くのだという思いで耳を傾けることが大切なのです。ですから、私たちは礼拝を決して軽んじては生けないのです。そして、そうやって私たち一人一人が、イエス・キリスト様と出会うという経験を持つならば、私たちは必ず「弟子たちは主を見て喜んだ」と言う経験を持つことが出来ます。愛する兄弟姉妹の皆さん。私たちが生きている時代は、本当に不安と恐れが一杯の時代です。悲しみや苦難があふれている時代なのです。だからこそ、私たちは、聖書の言葉を通し、礼拝を通して、主イエス・キリスト様と出会い「主を見て喜ぶ」ところ経験を、感じ取っていくものとならなければならないのです。

お祈りしましょう。