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羊飼い 『繁栄の中身』
マルコによる福音書11章12−26節
2007/4/15 説教者 濱和弘
賛美  359、415、282

先週12日の日に、黒岩さんのお宅を訪問させていただきました。顔色もよく、皆様方にヨロシクとのことでした。訪問させていただき、ご主人と黒岩さんと色々と話をさせていただき、聖餐式を行って帰ってきたのですが、その話の中で、季節柄、桜の話が出ました。 それこそ「今年は桜があっという間でしたね」などというようなたあいもない話だったのですが、確かに、もう、井の頭公園を始め、桜の木は花が散り、葉の緑が目につくようになりました。日本は、四季の移り変わりがはっきりとしていますので、季節季節の花や食べ物というのが、生活や文化の中にかなり色濃く出てきます。たとえば、俳句の季語などといったものは、そのような季節感と文化というものが密接に結びついたものの一つかもしれません。そのような中で、特に桜というのは、散り際の潔さ美しさから、私たち日本人の人生観を桜の花に読み取るほど、私たちと深く関わっています。つまり、自然や自然の出来事が、ただ一つの現象として捉えられるだけではなく、その自然の背後に、人としての生き方や、人としてのあるべき姿、つまり、人生哲学とでも言いましょうか、そのようなものを、そこに見ているわけです。

今日の聖書の箇所も、ある意味そのような箇所であるといえるかもしれません。イエス・キリスト様が、多くの群衆の歓声に迎えられてエルサレムに入城した翌日のことです。前の日エルサレムに入城したイエス・キリスト様達の一行は、一端ベタニヤに退いて、再び、そのベタニヤからエルサレムに出かけられたときの事です。空腹を覚えられたイエス・キリスト様が葉の茂ったいちじくの木を見て、その木に何かないかと近寄られたのですが、そこには、葉以外には何も見あたらなかったので、その木に向って「今から後、いつまでも、おまえの実を食べることがないように」と言われた、と言うことがありました。この話は、20節に繋がります。イエス・キリスト様から「今から後、いつまでも、おまえの実を食べることがないように」と言われた木は、その翌日になると枯れていたというのです。そのことを知った、イエス・キリスト様は、その出来事を通して、ペテロ達に次のように言われたというのです。22節以下ですが、かいつまんで言うと次のようなことです。すなわち、「神を信じなさい。だれでもこの山に、動き出して、海に入れといい、その言ったことは必ずなると心に疑わないで信じるなら、その通りになる。なんでも、祈り求めることは、すでにかなえらえたと信じなさい。そうすれば、そのとおりになるのだ。また、たって祈るとき、誰かに対して、何か恨みごとがあるならば、ゆるしてやりなさい。そうすれば、天にいますあなた方の父も、あなた方のあやまちをゆるしてくださる」とお教えになられたというのです。

これだけを見ますと、イエス・キリスト様は、ご自分がいちじくの木に「今から後、いつまでも、おまえの実を食べることがないように」と言った言葉が、現実にいちじくの木が枯れるという結果に繋がったことから、「神を信じ祈り求めたことは必ずなると信じるならば、祈り求めたことは必ず実現する。」 と言うことをお教えになったと言う風に受け止められます。しかしこの箇所を、果たしてそのように単純に受け取って良いものでしょうか。というのも、このいちじくの木の物語の間には15節から18節の、いわゆる「宮清め」の物語が挿入されているからです。「宮清め」の物語というのは、次のような出来事です。エルサレムの神殿には、神殿で捧げる犠牲の動物、たとえば、今日お清書の箇所にある鳩であるとか、あるいは牛とか羊と言ったものが売り買いされていました、また、神殿に収める税のために、外国から来た巡礼者が時刻のお金を両替するといった商取引が行われていたのです。これらのことに対して、イエス・キリスト様が憤られ、犠牲の動物を売っている人や両替商を神殿から追い出されたという出来事です。

しかし、神殿で犠牲の動物が売り買いされていたのは、巡礼をしてきた人たちが自分で犠牲の動物を連れてきても、それが神殿で捧げるにふさわしいものかどうかを祭司に見てもらわなければならず、その手間を省くために、あらかじめ祭司に犠牲の動物として捧げるにふさわしいと認められた動物を売っていたのです。つまり、遠くから巡礼に来る人たちの便宜のために動物の売り買いがなされ、また両替もなされていたのです。ですから、犠牲の動物の売り買いも、両替も、ただそれだけであるならば問題は無いように思われます。むしろ問題は、そのような本来は巡礼者が神を礼拝するために便宜をはかるためのものであるものを、金儲けの手段としていた人々の姿にありました。15節には、イエス・キリスト様は両替商の台や鳩を売る者の腰掛けをくつがえし」とあります。神殿で捧げる動物として捧げられたものは鳩だけではなく、牛や羊と言ったものあるのですが、ここでは鳩を売る者だけが取上げられています。もちろん、イエス・キリスト様が追い払われた商売人の中には、牛や羊を売っていた者もいたのでしょうが、ここでは鳩を売る者だけを記しているのです。鳩というのは、最も貧しい者達がささげる捧げ物でした。その、鳩を売る者の腰掛けをくつがえし追い払われたと言うことが、ここ聖書の箇所で述べられていることによって、まさに神殿で商売していた人たちが、貧しい人からも利益をむさぼっていたようすを押し図ることができるのです。

実際、神殿の中で売られていた鳩の値段は、通常の数倍の値段で売られていたようです。ですから、彼らは神殿に詣でて神を礼拝するという行為を金儲けの手段に変えていたのです。そのように、礼拝という宗教行為を金儲けの手段とすると言った態度には、神を畏れかしこむところの敬虔さといったものを見ることはできません。逆に不敬虔な態度なのです。そのような不敬虔な態度が見ることができるのが、16節のある「(イエス・キリスト様は)器ものを持って宮の庭を通り抜けるのをお許しにならなかった」と言う言葉です。当時の神殿の外側の宮は異邦人の庭といって、ユダヤ人以外の人で神を信じる人が礼拝する場でした。ところが、その礼拝の場を、近道をするための道とつかっていると言うことがあったようです。まさに、「器ものを持って宮の庭を通り抜ける」といった様は、そのように人が礼拝している所を、近道だからと言って、平気で横切って言っているようなそんな状態なのです。そのような、人々の姿を見て、イエス・キリスト様は憤られ、商売人や両替商を神殿から追い払い「私の家は、全ての国民の祈りの家(つまり礼拝の場)ととなえられるべきなのに、あなた方は、それを強盗の巣にしてしまった」と憤り、嘆かれ、そうあってはならないと教えられるのです。

その「宮清め」の物語が、イエス・キリスト様がいちじくの木に向って「今から後、いつまでも、おまえの実を食べることがないように」といじちくの木を呪われた出来事と、その翌日になると枯れていたという物語に真ん中に挟み込まれているのです。そのことを思いますときに、このいちじくの木の話と、宮清めの話とは深い関わりがあるように思われるのです。ともうしますのも、商売人が、鳩を捧げ物にしなければならないような人からも暴利をむさぼるような商売をしていたのは、平たく言えば金儲けをしたいからです。そうまでして金儲けをしたいと言うことは、経済的豊かさが繁栄と考えられていたからにほかならないからでしょう。ですかた、この宮清めの出来事には、イエス・キリスト様がそう言った経済的豊かさが繁栄の印であるかのように受け止める姿勢をお咎めになられたのだという側面があると言えます。そして、そのような側面を持つ宮清めの直前に、葉の茂ったいちじくの木を見て、その木に何かありはしないかと近寄られたが、葉の他に何も見あたらず、結果としていちじくの木を呪われるという出来事があるのです。

しかも、おもしろいことに、聖書はいちじくの木が実を結んでいなかった理由を、まだ「いちじくの季節ではなかったからである。」とそう説明しています。季節でなければいちじくの木が実を結ばないのは当たり前です。そんなことはイエス・キリスト様も分かり切っていることだろうと思います。なのに、あえていちじくの木に何かありはしないかと近づいていったのは、むしろこの一連の行為を通して、弟子たちに何かをお教えになろうとしたからだったと考えるのが妥当だろ思われます。そして、その何かが、このいちじくの木の物語の中に挿入されている宮清めの記事であると良いだろうと思うのです。つまり、いちじくの木の物語は、暗に宮清めの出来事に指し示されているユダヤ人お姿を指していると考えられるのです。そして、そこには経済的豊かさが繁栄と考えている人々の姿があります。また、近道という便利さのゆえに、礼拝の場である庭を横切っていく人々の姿があります。それは、便利さを求め、繁栄を求める人々の姿であり、あの2000年前のエルサレムの神殿にいた人たちだけに言えることではなく、私たち人間に普遍的に見られる姿だと言えます。いつの時代のどこの地域の人々であっても豊かさと繁栄を求めてきたのが、私たち人間の姿であると言うことができます。

もちろん、便利さや繁栄と言った事が悪いということではないだろうと思います。しかし、繁栄や便利さと言ったものの内容が何であるかはと問われなければなりません。そして、今日の聖書の箇所は、私たちによっての繁栄と言うものは、単に経済的に、また物質的に豊かなことではなく、また便利なことというのは、必ずしも都合の良い手間のかからないことではないと言うことを、私たちに突きつけてきます。まさに経済的・物質的豊かさを求めた人々たちが、神殿で商売をしていた人たちであり、両替をしていた両替商達だったからです。経済的豊かさ・物質的豊かさを求めるがゆえに、鳩を捧げものとするもっとも貧しい人に対しても、市価の何倍もするような金額で、捧げ物とするための鳩を売りつけるのです。そこには、他者を思いやる気持ちのかけらも見いだせません。ただ自分が金儲けをするためにはどうすればよいのかしかないのです。それは、まさにミーイズム、自分中心の物の見方があります。自分がどうすれば、より多くのお金を手にすることが出来るか、多くの物を得ることが出来るか。そこには、まさに自己中心的な発送しかないのです。物の豊かさというのは魅力的ですし、便利さというものも実に魅力的です。ですから、私たちはそれに引きつけられます。ですから、どうやったら自分たちは多くの物を所有し、便利さを手に入れることが出来るかということを、私たちは追求してきたのです。こう言ったことが、国家レベルで展開するときに、侵略だとか植民地と言った問題が生まれてきました。

また、個人と言ったレベルに置いても、このような如何に多く所有することが出来るかと言う問題は、確実に私たちの生活の中に浸透しています。私も、会社という経済の世界から離れて牧師という信仰の世界に入って17年になります。ですから、この17年間は、経済の世界の外側からそれを眺めているわけですが、この17年間で経済の世界は随分と変わってきたように思います。たとえば、今の会社では利益を上げるその利益が、株主に還元される率が多くなりました。利益を上げるために従業員の給料など、働く人の為にかけるコストが以前よりもずっと抑えられるようになっているように思えるのです。この背景には、会社は従業員のものではなく、株主のものであると言うことから、株主の利益を確保するために、従業員のコストを抑える傾向にあるからだと聞きました。だから、日本の経済は上向きで好調でも、従業員の生活はそれほど楽になっていないという状況があるとも聞きました。それは、だれかがより多くの物を得ようとするならば、他の誰かの物を奪って来なければならないと言った構図であると言っても良いかもしれません。けれども、そのような私たち人間社会のあり方を、イエス・キリスト様が良しとされているかというと、決して添うではないと思うのです。

と申しますのも、私たち人間は、神の像に似せられて作られた者だからです。創世記2章26節27節にこうあります。「神はまた言われた。『われわれのかたちに、われわれにかたどって人を造り、これに海の魚と空の鳥と、家畜と、地のすべての獣とをおさめさせよう』。神は自分のかたちに人を想像された。すなわち、神のかたちに創造し、男と女に創造された。」この私たちが神のかたちにつくられた、神のかたち、これはラテン語でimage deiというのですが、色々なものだと言われます。ブルンナーという人は、神のかたちとは言葉である。言葉によって、人と人、神と人が互いに意思の疎通をして交わりを持つような存在に造られていることが神のかたちだと言います。またある人は、それは人間の理性、それも創造的な理性が神のかたちだと言います。例えば、雨が降り木の切り株に出来た水たまりに果物が落ちる。これが発酵すると果実酒が出来上がります。それを飲んだサルは、気持ちよくなり、その水が特別な水だと言うことを知って、それを飲みに再び訪れると言うことをします。味を占めたわけです。しかし、どんなに味を占めて、それを飲みに訪れても、その果実酒が亡くなればそれで終りです。所が人間は、その味を経験すると、それを自分たちで造ろうとします。そのような創造的な知恵が、神のかたちだというのです。

なるほどなと思います。そのような交わりを産み出す言葉や、創造的な理性といったもの、それらも確かに神のかたちだろうと思います。それに大して、20世紀最大の神学者だと言われるカール・バルトは、神のかたちとは、男と女が愛し合う、そのことだというのです。ちょうど、三位一体の神が、互いに愛し合い、一つの心、一つの思いになるように、男と女が愛し合い、一つの心、一つの思いになろうとするところに神のかたちがあるのだというのです。だから、創世記1章27節では「神は自分のかたちに人を想像された。すなわち、神のかたちに創造し、男と女に創造された。」と書かれているのだというのです。これも説得力のある言葉です。そして、互いに愛し合い、一つの心、一つの思いになろうとするところには、自分がより豊かになるためなら、他の人のものを奪ってまでもより豊かになろうという考えは起ってきません。むしろ、愛し合うならば、自分のものを相手に与えようとさえします。イエス・キリスト様というお方が、そのようなお方でした。このお方は、私たち人間を愛してくださったがゆえに、ご自分の命をも、私たちに与えて下さったお方なのです。ですから、イエス・キリスト様の内には、まさに神のかたちである神の愛があったといえます。当然です。イエス・キリスト様は、神のかたちとなった三位一体の神の間にある愛の一翼を担う子なる神だからです。

そのイエス・キリスト様の目から見れば、神を礼拝する為に神殿に巡礼に来た人たちから、金儲けのために法外な金をとって犠牲の動物を売る商売人や両替商が神殿にあふれている様子は、まさに強盗の巣のように映ったのだろうと思います。マルコによる福音書11章11節には、いちじくの木を呪い、宮清めをする前日に、イエス・キリスト様は宮に入られて全てのものを見回ったと記されています。ですから、その時に強盗の巣のようになっている神殿のにわのようすもみておられたのでしょう。だから、その翌日に、葉の茂っているいちじくの木を見つけられたとき、そこに近づいていかれたのだと思います。おそらく、季節からいっていちじくの実がないことなど知っていたことでしょう。けれども、何も実を結んでいないいちじくの木だからこそ、それを題材にして、神を礼拝する、神を信じ伏し拝む場である神殿を強盗の巣のようにしてしまっている人々のことをさして、「今から後、いつまでも、おまえの実を食べることがないように」と言う呪いの言葉をかけられたのだろうと思います。そして、その言葉通りいちじくの木は枯れるのです。それは、長い歴史の中で神の憐れみと恩寵の中で生かされてきたイスラエルの民が、神が私たちに与えて下さった神のかたちとはほど遠い、自己中心的で利己的になってしまった人間の姿に対する厳しい神の裁きの言葉だといえます。それは、まさに、イスラエルの民を含み、私たち罪人に対する裁きの宣言とも言える言葉なのです。

しかし、自己中心や利己的な心が罪であり、その自己中心的な心や利己的な心に対して、神の裁きが下されると言われてしまいますと、私たちは本当に困ってしまいます。なぜなら、私たちは何らかのかたちで自己中心になってしまっていたり、利己的になってしまっていたりしまうからです。要は、だれでも、どこかにわがままな一面や強欲な一面を持っているということです。だとすれば、私たちは、神の裁きから逃れることが出来ない存在だと言うことです。そう思うと、私たちは、なんとみじめで悲惨な存在なのでしょうか。けれども、みなさんもご存知のように、そのような私たちを、主イエス・キリスト様は救って下さったのです。私たちは自己中心的な思いや利己的な思いから自分自身の力で、自分を解放させることは出来ません。だからこそ、自己中心的な思いや利己的な思いが原罪(orignal sin)といわれ、私たちの生まれながらにして持っている罪の性質、罪の本質だと言われるのです。けれども、私たちに不可能なことであったとしても、私たちが罪の赦しを神に切にもとめ、イエス・キリスト様の十字架の死が、私たちの罪の赦しのためであり、イエス・キリスト様が私たちの罪に赦しを与えるお方であると信じるものは、必ず、神の裁きから救われるのです。

ですから、22節以降の「神を信じなさい。よく聞いておくがよい。だれでもこの山に、動き出して、海に入れといい、その言ったことは必ずなると心に疑わないで信じるなら、そのとおりなるであろう。そこであなたがたにいうが、なんでも、祈り求めることは、すでにかなえらえたと信じなさい。そうすれば、そのとおりになるであろう」。と言う言葉は、単純に、信じて祈れば何でも答えられるという風に考えない方が良いだろうと思います。それこそ、ものが豊かになるお金持ちになる、便利になると言ったことが繁栄だと思って、それらを願い求めたとしても、神は、それを必ずしも繁栄の証だとは思っておられないからです。むしろこの文脈で言うならば、私たちが罪の赦し、神の恵みを求めるならば、人間には全く出来ないことであっても、神は許して下さるという、救いという文脈で理解する方がよいだろうと思います。そして、確かに神は私たちを救って下さり、これからも救い続けて下さるのです。だからこそ、私たちも恨み言があっても許してやれと聖書は言うのです。赦すと言うことが、三位一体の神に間にあった愛の交わりに似せて、互いに愛し合うように造られた神のかたちを回復することだからです。私たちは、そのように互いに愛し合うことで、私たち自身の中にある神のかたちを回復するために、こうしてこの三鷹キリスト教会に、神の民として招き集められているのです。ですから、互いに赦し合い、愛し合い、互いのことを思いやることのできる神の民の群れとなっていきたいと思います。それこそが、神の愛に満たされたキリストの体なる教会を気づきあげると言うことなのです。

お祈りしましょう。