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羊飼い 『呪いから祝福へ』
マルコによる福音書12章1−12節
2007/4/29 説教者 濱和弘
賛美  253、339、343

さて、今日の聖書の箇所は、今、司式の兄弟にお読み頂いたマルコによる福音書1章12節から12節までにある、イエス・キリスト様のたとえ話です。このたとえ話は、マルコによる福音書11章27節かから33節までに記されております、イエス・キリスト様と祭司長、律法学者、長老たちとの論争に引き続くものとして語られています。ですから、このたとえ話の聴衆は第一義的には祭司長や、律法学者、長老たちに向って語られたものです。その内容は、大体次のようなものです。「ある主人がぶどう園を造り、その管理を農夫達に委ねて、旅に出かけ、収穫の季節になったので、分け前をもらおうと僕を送ったところ、分け前を受け取るどころか、その僕を痛めつけたり、殺してしまったりしてしまったという話です。そして、最後には、自分の子どもなら敬ってもらえるだろうと思って、ぶどう園の主人がその子供を送ったところ、農夫達は、主人の息子を殺してしまえば、主人の財産は自分たちのものになると言って、互いに話し合いそしてその息子を捕まえ殺してしまった」という話です。なんとも、ひどい話ですが、当然、そのような仕打ちをされた主人は、農夫達に鉄槌を加えて、彼らを処罰し、殺してしまい、ぶどう園を他の農夫に貸し与えるという結末になっています。

このたとえ話においては、ぶどう園の主人は、父なる神のことを指し、僕というのは、旧約聖書に出てくるような預言者達、そして主人の息子は、イエス・キリスト様の事を指し示していると考えられます。そして、ぶどう園で働く農夫達は、ユダヤの民、特に、祭司長、律法学者、長老たちは、立ちを指していると言えます。ですから、このたとえ話は、祭司長、律法学者、長老たちが、神の一人子である、イエス・キリスト様を殺してしまうと言うことを暗に述べた内容となっているのです。そして、このような、ひどい話を、イエス・キリスト様がたとえ話としてお話しになったのは、まさに、マルコによる福音書11章18節にありますように、祭司長、律法学者、長老たちが、イエス・キリスト様を捕らえ、殺そうとしていたからです。この、イエス・キリスト様を殺そうとするまでに嫌い、憎んでいる祭司長や律法学者、長老たちの心情は、11章27節からの論争において、それこそ彼らの口調や仕草から十分に感じ取ることが出来たのでしょう。そのものズバリの核心をついた言葉をイエス・キリスト様はお語りになられたのです。

それは、あまりにも的を射ておりましたので、12章12節では、祭司長、律法学者、長老たちは、イエス・キリスト様のこのたとえ話が、自分たちを指して語られたものであると言うことを悟ったと聖書は告げています。そして、このたとえ話が、彼らのイエス・キリスト様への憎しみを一層かき立てたようです。イエス・キリスト様をどうにかして殺そうと考えていた彼らは、今すぐにでも、イエス・キリスト様を捕らえようとするのです。もっともこの時も、祭司長、律法学者、長老たちが、イエス・キリスト様に好意をもっている群衆達を恐れたために、実際に捕らえると言うところにまでは生きませんでしたが、彼らが、イエス・キリスト様を更に疎んじ、憎んだことは間違いがありません。そのように、イエス・キリスト様が語ったたとえ話が、祭司長、律法学者、長老たちの心に、更なる憎しみをかきたてたのは、このたとえ話の物語の結末が、「このぶどう園の主人は、どうするだろうか。彼は出てきて、農夫達を殺し、ぶどう園を他の人々に与えるであろう」という、呪いの言葉ともとれる言葉で終わっているからです。だからこそ、彼らの怒りや憤りを買い、より一層憎まれるようになってしまうのです。

けれども、このイエス・キリスト様の言葉は、単なる呪いの言葉ではありません。と申しますのも、この、一見呪いともとれるような言葉の後に、「家造りらの捨てた石が、隅のかしら石になった。これは主がなされたことで、私たちの目には不思議に見える。」と述べられているからです。ですから、確かに、祭司長、律法学者、長老たち、あるいは、それを含むイエス・キリスト様を殺した者達にとっては、このたとえ話は呪いの言葉に聞こえるだろうと思いますが、けれども、そうやってイエス・キリスト様が殺されることによって、私たちに救いがもたらされ、神は、イエス・キリスト様を土台とするところの、神の民が築きあげられるというのです。ですから、これは、イエス・キリスト様を信じるものにとっては、まさに恵みの言葉、また祝福の言葉として心に響くのです。ですから、このたとえ話は、呪いの言葉で締めくくられますが、しかし、イエス・キリストが、旧約聖書詩篇118編の御言葉を引きながら、イエス・キリスト様の死の意味を語られるとき、それは、呪いを飲み込んで祝福の言葉、恵みの言葉となっていくのです。それは、殺され無惨に死んでいくイエス・キリスト様の死が、人々に罪の赦しを与え、神の子として神の愛を受け、神の命である永遠の命を与えられて、神の国の民となる、神の家族となると言う恵みをもたらすからです。

死という、忌まわしい出来事が、実は私たちの祝福の土台となっている。ここの、まさに私たちには不思議に見える、神の知恵があります。ですから、このマルコによる福音書12章1節から12節にあるたとえ話は、ただ単にイエス・キリスト様を殺そうとしていた祭司長、律法学者、長老たちを責め、糾弾する為のたとえであると言うよりも、むしろ、私たちに神の恵みと祝福とをつたえるたとえ話でもあるのです。私は、そのことを思ったとき、少しホッとする気持ちが致しました。どうして、ホッとするような気持ちになったのかと言うことをご説明するには、この水野源三さんの作られた詩をご紹介するのがよろしいのではないかと思います。それは、「私がいる」という短い詩ですが、次のような言葉で綴られています。

「ナザレのイエスを 十字架にかけよと
 要求した人 許可した人 執行した人
 それらの人の中に 私がいる」

水野源三さんは、この詩を通して、「イエス・キリスト様を十字架に架けて殺したのは私だ」とそう告白しているのです。ご存知の方も多いかと思いますが、水野源三さんは「瞬きの詩人」と呼ばれる方で、1937年にお生まれになりましたが、9歳の時に赤痢の高熱のために、脳性小児麻痺なり、手足の自由を奪われ、言葉を話すことも出来なくなりました。そのため、コミュニケーションの手段は、文字盤を使い、自分の伝えたい言葉の文字がさされると、瞬きをし、文字を一つ一つ積み重ねながら言葉を綴っていくことしかありませんでした。そのような中で、水野源三さんは、「ナザレのイエスを 十字架にかけよと要求した人 許可した人、執行した人、それらの人の中に 私がいる」とそう言って、私が、「イエス・キリスト様を十字架に架けて殺したのは私だ」とそう言うのです。しかし、当たり前のことではありますが、水野源三さんが、いくら「イエス・キリスト様を十字架に架けて殺したのは私だ」と告白しても、イエス・キリスト様は2000年も前の人です。ですから、実際に水野源三さんがイエス・キリスト様を殺したわけではありません。現代の私たちが、イエス・キリスト様を私が殺しましたと言っても、それはあまり現実感のない言葉です。

それでも、水野源三さんは、「私がイエス・キリスト様を十字架に架けて殺したのだ」と言うのです。それは、直接、水野源三さん自身が、イエス・キリスト様を十字架に架けたという事ではなく、私の中にある罪がイエス・キリスト様を十字架に付けて殺したのだと言うことなのです。しかし、考えても見て下さい。水野源三さんは、先ほども申し上げましたように、9歳の時に手足の自由を奪われ、言葉を奪われたのです。その彼が、私の罪と言うほどの、どれほどの罪を犯したというのでしょうか。一体だれを傷つけたというのでしょうか。これは、私の推測に過ぎませんが、おそらく、水野源三さんは、自分の心の奥底をしっかりと見つめたのではないでしょうか。そして、そこで、妬みや嫉みやうらやみ、そして自己中心的な思いと言った、心の汚れや醜さと言ったものを見つめていたのではないかと思うのです。私たちは、罪というものを、表面的な出来事で捕らえたり、人と人との間にある関係において捕らえたりしがちです。しかし、私たちの罪は、私たちの生活の表面に出てくることだけでもなく、また人と人との間にあるものだけでもなく、私たちの心の中のあるものなのです。

だからこそ、水野源三さんも、「ナザレのイエスを 十字架にかけよと要求した人 許可した人、執行した人、それらの人の中に 私がいる」とそう言わざるを得なかったのだろうと思うのです。だとすれば、水野源三さんだけではない、私もまた、「ナザレのイエスを 十字架にかけよと要求した人 許可した人、執行した人、それらの人の中に 私がいる」のです。そして私だけではない、みなさんも、そこにいるのです。それはつまり、私もみなさんも、「イエス・キリスト様を十字架にかけて殺したのは、私なのです」とそう告白しなければならない一人一人だと言うことです。今日のテキストの箇所を丹念に呼んで参りますと、この農夫達の思いが良くわかって参ります。この農夫達が、最初に主人の僕をひどい目に遭わせたり、あるいは殺したりしたのは、ぶどう園の収穫物を、主人に分け与えたくないからです。収穫物を主人に分け与えるのは、「主人がぶどう園を造り、垣をめぐらし、また酒ぶねの穴を掘り、やぐらを立て」たからです。そして、農夫達はそれを借りることによって、収穫を得たのです。だから、その収穫の一部を分け前として、主人は得ようとしているのです。

それに対して、農夫達は、分け前を全部独り占めにしようとして、分け前を受け取りに来た主人の僕をひどい目に遭わせ、何も持たずに返し、更に別の僕がやってこようものなら、それを殺してしまうのです。更には、主人の息子が送られてきたならば、これを殺して息子が受け継ぐべき財産を奪い取ろうとさえします。そこには、欲と身勝手な自己中心の論理が働いています。確かに、このたとえ話は、第一義的には、祭司長、律法学者、長老たちのことを指し、預言者を迫害し虐げてきたユダヤ民族の歴史が背景にあります。しかし、そこに語られている本質的な問題は、私たち人間の心の底の巣くっている、醜い欲望や身勝手な自己中心な心なのです。ですから、この農夫達は、祭司長、律法学者、長老たちのこと、ユダヤ人ことで、私には関係ないとは言えないのです。そこに、人間の心の底の巣くっている、醜い欲望や身勝手な自己中心な心がある以上、私も、皆さんも、そこに「私がいる」のです。ですから、もし今日の聖書の箇所にあるたとえ話が、ただ単にイエス・キリスト様を十字架に架けて殺した者に対する呪いの言葉であり、裁きの言葉であったとしたら、それは本当に恐ろしいことです。なぜなら、私も、また皆さんも、神の裁きの中に置かれ、神の呪いを受ける者でしかないからです。

けれども、イエス・キリスト様は「家造りが捨てた石が、隅のかしら石になった。これは主のなさったことで、私たちの目には不思議に見える。」といった、呪いを祝福に変えて下さったのです。ですから、私たちは、最早、神の呪い、神の裁きの中にいるのではありません。神の恵みと祝福の中にいるのです。本来でしたら、キリストを十字架に死なせた私たちは、その罪の故に神の裁きを受けなりませんでした。ところが、キリストが十字架に架かって信なれたからこそ、私たちは神の恵みの中で生きることが出来るようになったのです。聖書の中に、次のような言葉があります。ヘブル書4章12節の言葉ですが、そこには次のように書かれています。「神の言葉は生きていて、力があり、もろ刃の剣よりも鋭くて、精神と霊魂と、関節と骨髄とを切り離すまでに刺し通して、心の思いと志とを見分けることが出来るのです。」この言葉が意味するところは、神の言葉、この場合は聖書の言葉と言っていいだろうと思いますが、聖書の言葉は、私たちの内面性の奥深いところまで探り出し、それを神の前に明るみに引き出すと言うことです。それこそ、だれも知らないような、私たちの隠れた罪や、醜い心、汚れた心、自己中心的な思いまでもさらけ出すというのです。

だからこそ、聖書の言葉を読み、その聖書が語るところに真剣に耳を傾けるならば、私たちは自分の内に罪があり、自分が罪人だと言うことを認めざるを得なくなるのです。そういった意味では、聖書の言葉は、鋭い剣のように私たちの心の中の罪や心の中の闇を貫き通すのです。そのように、私たちの内側にある罪を暴き出し、貫く通す聖書の言葉は、同時に、私たちにその私たちの罪を赦す、イエス・キリスト様の救い恵みを指し示すのです。そして、その救いの恵みへと私たちを導いてくれるのです。だからこそ、聖書の言葉はもろ刃の剣より鋭いのです。なぜなら、一面で私たちの罪を糾弾し、一面で私たちを神の愛である救いの御業に導いてくれるからです。ですから、私たちは、聖書の言葉に私たちの心を鋭く指し貫かれたとしても、恐れてはなりません。失望しても行けません。その言葉は、私たちを救いに導いてくれる神の愛の言葉でもあるからです。そして、私たちは、聖書の言葉によって自分の罪を深く意識したならば、そこから、私たちの主、イエス・キリスト様を自分の救い主として信じ立ち上がっていけばいいのです。そのときにこそ、私たちの罪がイエス・キリスト様を十字架に架けて殺した、その死が、私たちに罪の赦しと、神の国で生きる永遠の命をもたらす救いの出来事になるのです。

今日の聖書の箇所は、まさにそのことを私たちに教えてくれています。そして、神の前に、自分が罪人だとそう感じている者たちに、平安と慰めと希望を与えてくれているのです。それは、神の私たちに対する招きです。私たちに神を信じて生きる生涯への招きなのです。もちろん、今日ここに集っている私たち一人一人の多くは、既に、神を信じ、イエス・キリスト様を信じクリスチャンとなっておられる方々です。そういた意味では、この神の招きにお答えした人たちであると言えます。それは、神が与える平安と慰めと希望を、既に手に入れている人たちであると言っても良いかもしれません。けれども、私たちの内側にある罪の意識は、たとえその罪が赦されているとはいっても、私たちの心を揺さぶります。私たちの罪の思いにさいなまれ、罪の思いが私たちを激しく糾弾し責めあげる事があるかもしれません。でも、どうか忘れないでいて欲しいのです。私たちは、イエス・キリスト様という土台の上に立てられた新しい家なのです。それはどんなに激しい揺さぶりに対してもびくともしない、頑丈でしっかりとした家なのです。

ですから、どんなに心が揺さぶられようと神を信じ、イエス・キリスト様を信じる心を持って生きていって欲しいのです。そして、まだ自分は十分に神を信じ、イエス・キリスト様を信じ心に受け入れていないという人は、どうか、この今日のイエス・キリスト様の言葉、「家造りが捨てた石が、隅のかしら石になった。これは主のなさったことで、私たちの目には不思議に見える。」と言う言葉を心に留め、受け入れて頂きたいのです。あなたが、イエス・キリスト様というお方の上に人生の土台を据えたならば、それが、あなたの人生を導き、神が与える平安と慰め、希望の中を歩んでいけるからです。

お祈りしましょう。