『神のものは神に』
マルコによる福音書12章13−17節
2007/5/6 説教者 濱和弘
賛美 2、344、202
先日は、私たちの教会の教会総会がありました。そこで色々な意見が出されましたが、それは、皆さんが教会の将来を思っての議論であったと思います。そのような意見や議論は、言うなれば建設的なものですから、非常に良い議論であるといえます。ところが、今日のこの聖書の箇所は、イエス・キリスト様とパリサイ派の人たちやヘロデ党の人たちとイエス・キリスト様の間でなされた議論は、そのような建設的なものではありませんでした。それは、今日の聖書の箇所の、最初の部分13節に書かれておりますように、イエス・キリスト様の言葉尻を捕得ようとしたものだったからです。それにしましても、パリサイ派とヘロデ党という組み合わせは、ミス・マッチというか実に奇妙な組み合わせです。ともうしますのも、パリサイ派の人々とヘロデ党の人たちとは、全く主義主張が生反対の人たちだったからです。
たとえば、パリサイ派の人たちは、異邦人であるローマ帝国からユダヤ民族が支配されている現実を快く思っていない、どちらかと言えば反ローマ、反体制といった立場の人たちでした。異邦人であるローマ帝国からの支配を好ましく思わないということは、同じように異邦人であるイドマヤ人の出であるヘロデ一族の支配も好ましく思わないと言うことです。それに対して、ヘロデ党の人たちは、その名前の通り、ユダヤ地はヘロデ一族によって統治されることが望ましいと考えていた人たちです。ですから、圧倒的な力を誇るローマ帝国に支配されている現実の中で、新ローマ的姿勢を見せ、ローマ帝国に協力することで、ローマ帝国の後ろ盾を経て、ヘロデによる統治を目指していました。それが、現状の中では国が一番安定する方法だと考えたのかもしれません。ですからどちらかと言えば体制側、つまり保守的な人たちだと言えます。それは、今日の箇所にある税金の問題に置いても、はっきりと違った立場が違っていました。パリサイ派の人たちは、ローマに税金を納めることは、ローマに支配されているという現実を認める屈辱的な事で、快く思っていませんでした。しかし、親ローマ帝国的立場に立ち、ローマ帝国に協力的だったヘロデ党の人たちは、税金をローマ帝国に納めると言うことには賛成していたのです。そのように互いの主張や立場が違うものが、互いに手を結びあって、イエス・キリスト様に「カエサル、つまりローマ帝国に税金を納めてよいでしょうか」と尋ねるのです。
税金を収めると聞いて、今の時代の私たちが、それをあまり嬉しいこと、喜ばしいこととは思わないだろうと思います。実際、消費税が5%から10%、20%にあがると言われて、喜ぶ人はあまりいないだろうと思います。だからこそ、選挙の前には、議員などは増税と言ったことを、声高には言わず、選挙が終わって増税をしたりするのです。それは、税金の負担と言うことを言えば、人気が落ちるからであり、それはつまりは、人々が税金と言うことをあまり快く思っていないからです。それは今の時代のことだけではなく、イエス・キリスト様の時代でも同じだったのです。ですから、もし、イエス・キリスト様が、カエサルに税を納めることは良きことだと言えば、群衆の人気は一気に落ちてしまう可能性は十分にあります。そうすれば、群衆を恐れてイエス・キリスト様を捕らえることの出来なかったパリサイ派の人たちにとっては願ったりかなったりです。群衆の人気、支持さえなければ、彼らはおおっぴらにイエス・キリスト様を捕らえることが出来るのです。
逆に、「カエサルの税金を収めることは良くないことです。」とイエス・キリスト様が答えれば、イエス・キリスト様に対する群衆の人気は下がることはないだろうと思います。いえ、むしろ人気が上がるかもしれません。しかし、「カエサルの税金を収めることは良くないことです。」と言えば、ヘロデ党の人たちは、イエス・キリスト様を反逆罪で訴えることが出来るのです。ローマ帝国への反逆罪と言うことになれば、ローマの総督は群衆の人気がどうであろうと、そんなことは気にもかけず、イエス・キリスト様を捕らえ処罰するでしょう。ですから、このパリサイ派の人たちと、ヘロデ党の人たちの「カエサル、つまりローマ帝国に税金を納めてよいでしょうか」という問いは、「先生、わたしたちはあなたを真実な方で、だれもはばかられないことをしっています。あなたは分け隔てをなさらないで真理に基づいて神の道を教えて下さいます。」という、まことに丁寧で謙遜な言葉に飾られていますが、ただただイエス・キリスト様を陥れ、殺してしまおうという、極めて不純な動機でなされているのです。そのような、罠とも言えるような問いに対して、イエス・キリスト様は「デナリを持ってきなさい」と言われ、そのデナリに硬貨に刻まれている肖像をさして、「これは、だれの肖像、だれの記号か」と問い返されました。そして、彼らが「カイザルです。」と答えると、「カエザルのものはカエザルに、神のものは神に返しなさい」とそう答えられたというのです。
この答えを聞いて、「彼らは、イエスに驚嘆した。」と聖書は記しています。この彼らとは、ヘロデ党の人たちやパリサイ派の人たち、そして、おそらくはこの論争を見守っていた群衆達も含んでいただろうと思いますが、そう言った人々がみんな驚嘆したと言うのです。それは、この意地悪い、悪意に満ちた質問の意図を、質問した当人達だけでなく、その周囲にいた人たちもみんな気が付いていて、イエス・キリスト様がどのよう、その窮地を切り抜けられるのかを、見守っていただろうと思われるからです。そのような視線の中で、イエス・キリスト様は、このような難問を実に見事に切り抜けられたので、みんなが驚嘆したと言うことなのだろうと思うのです。そのイエス・キリスト様の見事なお答えは「カエザルのものはカエザルに、神のものは神に返しなさい」というものです。
イエス・キリスト様が15節で「デナリをもって来て見せなさい」と言っていますから、この言葉の背景には、1デナリ硬貨に皇帝テベリゥスの肖像と「神的アウグストゥスの子、皇帝にして大祭司なるテベリゥス」と言う言葉が刻み込まれていたことを背景にして語られています。1デナリというのは、当時の人ひとり当りに求められた人頭税の金額です。その求められている税金に匹敵する1デナリ硬貨にカエザルの肖像が記されているのです。そのことを明らかにしながら、イエス・キリスト様は「カエザルのものはカエザルに、神のものは神に返しなさい」と言われる。ですから、そういった意味ではイエス・キリスト様は税を納めると言うことを否定なされませんでした。むしろ肯定的なお答えをしたようにさえ思われます。しかし、実際の所は、イエス・キリスト様は、ヘロデ党の人たちにも、またパリサイ派の人たちに対しても、明確には答えておられません。むしろ、逆に「これがカエサルのものであるとあなたがそう思うならば、カエサルに返しなさい。そしてあなたがそれは神のものであると思うなら神に返しなさい」とそう問い返しているようなお答えなのです。
最初に、デナリ硬貨をさして、そこに刻まれているのは誰の肖像、誰の記号化と問われた上で、「カエザルのものはカエザルに、神のものは神に返しなさい」と言われていますから、税を納めることに対して肯定的にきこえますが、実のところは、カエサルに税を納めるべきかどうかという問題の答えは、あなたが思うところに従ってしなさいと言っているようなものなのです。だから、ヘロデ党の人もパリサイ派の人も反論出来ないのです。もし、彼らが、「それでは、この1デナリが神のものなのか、カエサルのものなのか」と問いただせば「あなたはどう思うか」と問い返されるからです。そうすると、イエス・キリスト様に向けられた悪意の質問が、矛先を変えて自分自身に向ってきます。だから、彼らは、また周囲の人たちは感嘆するしかないのです。そういった意味では、たしかにイエス・キリスト様は、見事な機知でこの窮地を切り抜けられました。
しかし、この「カエザルのものはカエザルに、神のものは神に返しなさい」言葉は、ヘロデ党の人たちやパリサイ派の人たちに、鋭い矛先を向けながら、窮地を切り開いていくだけでなく、私たち自身にも鋭く問いかけてきます。なぜならば、イエス・キリスト様が問題になされたのは「誰の肖像か、誰の記号化」と言うことだからです。カエサルの像が刻み込まれているデナリをさして「カエサルのものはカエサルに」と言われますと、そのデナリはカエサルのものであるとそう思います。だからこそ、イエス・キリスト様の言葉は、税を納めると言うことを否定なされない、むしろ肯定的な言葉のようにさえ思えるのです。そこには、デナリ刻まれた像が大きな役割を果たしています。だとすれば、「神のものは神に返しなさい」と言われるとき、一体何を持って、神のものと判断するのでしょうか。1デナリが、底意刻まれたカエサルの肖像を持ってカエサルのものであるという思いを与えるとしたら、神のものを神のもとと思わせるものは何なのでしょうか。
そのことを思うとき、私たちは創世記1章26節27節の言葉に行き当たります。そこにはこう書いてあります。「神はまた言われた。われわれのかたちに、われわれにかたどって人を造り、これに海の魚と空の鳥と、家畜と、地のすべての獣と、地のすべての這うものとをおさめさせよう」。神はじぶんのかたちに人をそうぞうされた。すなわち、神のかたちに想像し、男と女とに想像された。この、人を「神のかたちに、神にかたどってつくられた」という神のかたちは、ラテン語でimagodei といいます。英語ですとimageあるいはiconといいますが、日本語で表すときには像と書き表します。つまり、私たち人間の中には神の肖像が刻み込まれているのです。この神の肖像とは何かと申しますと、人間の持つ道徳心や理性、あるいは愛し合う心、と言ったものです。そして、そのようなものを持って互いに交わりを持つところに、他の動物にはない、人間にしかもっていない神の肖像が刻み込まれているのです。
例えば動物は、お腹がすかない限りは他の動物は襲いません。けれども、お腹がすいていれば、例えばライオンは目の前にシマウマがいれば確実に襲って食べます。そして、そのことに対して良心が痛むことなどありません。けれども、人間は例えお腹がすいていても、それが良くないことだと思うと、他の人のものを奪ってまで食べると言うことを思いとどまる心を持っています。また、どうしても我慢できなくて、人のものを奪って食べたとしても、そのことに対する良心の呵責を感じたりします。そこに、他の動物にはない、人間の中に刻み込まれた神の肖像があるのです。また、人を愛し、相手を思いやり愛し合う心をもって交わりを持つというのも私たちの中にある神の肖像です。もちろん、動物の中にも、親子の愛情と言ったものが見られないわけではありません。子を守るために命がけで戦う動物の親子の姿があることも間違いありません。 けれども、そのような親子関係や種の保存と言うことを超えて、男と女が愛し合ったり、自分の子どもではない子供であっとしても、大変な境遇になる子供や人たちを可哀想に思い、助けて上げたいと思うようなヒューマニステックな心は、動物の社会には見られないものです。
ですから、時折、キリスト教の世界の中や、牧師の中で、ヒューマニズムをバカにしたり否定したりするような事が見られますが、それは間違っています。ヒューマニズムの中にこそ、私たちの中に刻み込まれた神の肖像が見られるのです。もちろん、私たちのヒューマニステックな心にも罪はしっかりと入り込んでいますから、ヒューマニズムだけに完全な信頼をおく事は出来ません。そのようなヒューマニズムは、そのものの中にある神の肖像をあたかもかき消してしまっているかのような状態にあるからです。しかし、それでも 私たち人間の心の中に植え付けられたヒューマニステックな心に神の肖像が刻み込まれているからこそ、私たちは「神のものは神にお返し」しなければならないのです。愛し合うと言うことに置いてもそうです。私たちが愛し合う時に、その愛の中に神の肖像を見出さなければ、その間は極めて脆弱なもろいものになってしまいます。そのような弱さをもつものは、何もなければその形を守ることはできますが、何か大きな事があると、それを保つことが出来なくなってしまいます。けれども、愛し合うと言うことに置いても、その愛を自分のものとしてではなく、神のものとして「神のものは神に」お返しするならば、私たちは愛し合うことにおいても、支えられていくのです。
「神のものを神にお返しする。」それは、神を信じて生きると言うことです。どんな時にも、神を信じて、神を見上げて生きると言うことです。今日のこの箇所について、色々と本を読み備えておりますと、このように書いてある注解書がありました。それは、この「カエサルのものはカエサルに、神のものは神に」ということについて書かれているものですがこのように書いてありました。「第一の命題『カエサルのものはカエサルに』は、第2命題『神のものは神に』によって完全に支配されている。なぜならば、何が本当に皇帝(カエサル)に属するものであり、どこに[皇帝に対する]忠誠の限界があるのかと問い返すならば、それは神自身以外にはないからである。従って、イエスの答えに従うものとしても、そのつど新しく生起する問題に対して、人は常にくり返し神の意思を尋ねなければならない。」難しい言い回しをしていますが、要は、私たちが生きていく上で様々な問題が起ったとき、神に祈り、神の導きと、聖書や説教を通して私たちの心に語りかける神の言葉に耳を傾けて生きていくことが、「神のものは神にお返しする」という生き方なのだと言うのです。私たちの人生には、様々な問題が起ってきます。愛し合うという神の肖像が刻まれているようなものの中にも、抜き差しならないような問題が起っていきます。そのようなときに、神を信じ、神に祈りながら生きていくことが大切なのだという事です。
私たちクリスチャン一人一人が、そのように神を信じて、神に祈りを捧げ、聖書の言葉や説教の言葉を通して私たちの心に語りかけ理神の言葉に耳を傾けながら生きるときに、実は私たち自身が、自分自身を、神のものとして神のもとにお返ししている事になるのです。そして、自分自身を神のものとして、神にお返ししたならば、私たちは人のことに無関心であってはなりません。また教会のことに無関心であってもなりません。そして社会のことに対しても無関心であってはならないのです。「個々の人と人との間に、神に肖像が見いだせるのか。教会は、神の肖像をしっかりと示すことが出来るような道徳性や理性を示しているか。そこに愛の交わりがあるのか。さらには、社会の中の人間の営みの中に、国家の営みの中に神の肖像が表されるように、私たち一人一人が社会に参与しているのか、教会が参与しているのか」と言うことに心を向けなければならないと言うことなのです。そういった意味では、今日の聖書の箇所が、カエサルに治める税の問題であると言うことは、実に意味深長なことのように思われます。税金というのは、社会参与のあり方の一つだからです。
ある注解書にはこの箇所について、こう書いてありました。「ユダヤ人は、ローマの平和、経済、交通と、ローマの恩恵をうけていたとなれば、その通貨で社会貢献をすることは妥当である。」確かにそうかもしれません。そういった意味では私たち一人一人にも同じ事が言えるだろうと思います。そして、教会もそうです。もっとも教会は、公益法人として課税は免除されていますが、それは公益法人として、社会福祉に貢献するために、免除されているのです。それでは、教会が出来る最も大きな社会福祉に対する貢献とは何でしょうか。それは、私たちの社会の中に、私たちの中に与えられているヒューマニズムの中から神の肖像が消え去って、愛すること、人のことを思いやること、理性的で、道徳的であることに陰りがあるならば、一人一人の中に、そう言ったことが損われないように神の言葉を語り続けることだと思うのです。そのような存在として教会は社会の中で神の言葉を語り続け、神を伝えながら歩んでいく。そのような教会に繋がるひとりひとりとして、私たちは、この教会に呼び集められているのです。そして、呼び集められたこの教会から、皆さんお一人お一人の家庭に、また社会に遣わされているのです。
お祈りしましょう。