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羊飼い 母の日合同礼拝
『仲良くしよう』
創世記4章1−26節
2007/5/13 説教者 濱和弘
賛美  265、185、457

今日は、母の日です。毎年母の日には、大人と子供が一緒に礼拝をします。ですから、今日もみんなで一緒に礼拝を守りましょう。大人と子供の合同礼拝の時には、いつも、最初に子供のためのお話しをして、それから、その後に大人の人のためのお話をします。ですから今日も、最初に子供のためのお話しをしますから、教会学校のみんなはちゃんと聞いてきて下さいね。さて、あるところに、恵介くんと恵太くんという兄弟がいました。恵介君の方がお兄ちゃんで小学校1年生、恵太君が弟で年中さんでした。恵介君と恵太君は、いつもおもちゃやマンガの取り合いで兄弟喧嘩ばかりしていました。それで、いつも恵介君のお母さんは、二人が喧嘩ばかりしているので、本当にこまっていました。そして、とても悲しい気持ちがしていました。だって、お母さんにとっては、恵介君も恵太君も大切な子供です。お母さんは、恵介君も恵太君も大好きなのです。その二人が仲良くできないで喧嘩ばかりしているから、お母さんはとっても悲しくて仕方がなかったのです。

ある日、お母さんは恵介くんと恵太君をつれて町に買い物に行きました。そうしたら、買い物に行った大きなスーパーが抽選会をやっていました。1000円の買い物をしたら、抽選券を一枚くれて、くじ引きが一回出来るって言うんです。こんな大きながらがら回るくじ引きを回して、そこから金色の玉がころころと出てきたら1等賞。銀色の玉がころころっと出てきたら2等賞、黄色の玉ならば3等賞、赤い玉は4等白色の玉はハズレです。恵介くんも恵太君も、がらがらと回すくじ引きがしたくてたまりません。それで、お母さんに「ねぇ、ねぇ、お母さん、ぼく、あのがらがら回す、くじ引きがやりたいよ」とお母さんに御願いしました。するとお母さんは、「いいわよ、それじゃおおかものが終わって抽選券をもらったら、それでくじ引きをやらして上げるね」と約束してくれました。そして、スーパーでお買い物を始めたのです。晩ご飯のおかずにする野菜や魚、明日の朝に飲む牛乳や、朝ご飯のパン。それに恵太君や恵介君がおやつに食べるおやつ。お母さんは一杯買い物をして、お金を払いました。そしたら全部で5230円でした。5250円ってことは、1000円で抽選券が一枚でしょ。だから、抽選券は全部で5枚。5回、くじ引きが出来ます。

それで、お母さんは、「それじゃ、恵介くんがお兄ちゃんだから、3回、恵太君は2回くじを引いてね。」と恵介君に3枚、恵太君に2枚抽選券をくれました。二人は、お母さんからもらった抽選券を持ってくじ引きをしているところに走っていきました。「おじさんこれ、」二人は、お母さんからもらった抽選券を、くじ引きをしているおじさんに渡して、くじを引きました。最初に、くじを引いたのは恵介君です。がらがらが、一回目。コロンと出たのは、白い玉です。「残念はずれ。はい、ハズレのティッシュペーバー」おじさんは、はずれのテッシュペーパーを一つくれました。2回目です。恵介君はガラガラガラとくじ引きの機械をまわしました。コロン。出てきたのはやっぱり白色の玉。ハズレです。3回目、これではずれたら全部ハズレです。恵介君はゆっくりとくじ引きの機械を回しました。そしたら、今度は色の付いた黄色い玉が出てきました。やったー3等賞だ。「坊やよかったね。ハイ3等賞の商品。」そういっておじさんはサッカーボールを渡してくれました。恵介くんは、もうサッカーボールを持っていましたけれど、でもくじ引きがあたったことがうれしくて、胸を張ってもらったサッカーボールとテッシュペーパーをお母さんに見せました。すると、お母さんは、「よかったわね。」と喜んでくれました。

次は、恵太君の番です。「よし、僕もあてるぞ。」恵太君はいきよいよくがらがらとくじ引きの機械を回しました。するといきよいよく出てきたのは真っ白い玉。残念ハズレでした。もう一回。恵太君はもう一度くじ引きの機械を回しました。そしたら、なんと、金色の玉がころころっと出てきたのです。一等賞です。くじ引きのおじさんはカランカランと鐘を鳴らして「おめでとうございます一等賞です。」と大きな声で言いました。あんまり大きな声だったので、周りにいた人たちはみんな恵太君の法を見ています。一等の賞品は、大人用の自転車でした。「すごいわねー恵太君。」お母さんも大喜びです。「この自転車は、大人用だから恵太君はまだ乗れないから、お母さんが使うね。でも、恵太君には、代わりに何かおもちゃを買ってあげるからね。」お母さんは本当に嬉しそうでした。それを見ていた恵介君は、恵太君が一等賞を当てて喜んでいるお母さんをみて、なんだかちょっと悔しくなりました。それで、「おかあさん。僕もこのサッカーボール、お母さんにあげる」そういってさっきもらった3等賞のサッカーボールをお母さんの前に差し出しました。

するとお母さんは、「いいのよ。そのサッカーボールはあなたのだから、あなたが使いなさい。」といって受け取ってはくれませんでした。帰りの道、お母さんは二人の前を自転車に買い物をした晩ご飯のおかずや牛乳やパンやお菓子をのせて、嬉しそうに歩いています。恵介君と恵太君はその後ろから並んで歩いてついて行きました。すると弟の恵太君がお兄ちゃんの恵介君にこう言いました。「おにいちゃん。ぼく一等賞当てたんだよね。商品の自転車はお母さんが使う代わりに、お母さん、僕におもちゃ買ってくれるんだって。お母さん僕が一等賞当てて喜んでたよね。」その言葉をきいていた恵介君は「僕だって、お母さんに喜んで欲しかったのに」と思いました。そして嬉しそうにしている恵介君が何だかうらやましくなってきました。そしてね、うらやましいだけでなく、だんだんと嫌な気持ちがしてきたんです。それで恵介君は、恵太君にバーンと体当たりしました。小学校1年生の恵太君に体当たりをされた年中組の恵太君はよろよろっと道に転んでしまいました。そのとき、ちょうどそこに自転車が走ってきたのです。それで、恵太君は走ってきた自転車とぶつかってしまいました。

ガッシャーン。ものすごい大きな音がしました。そして恵太君の「ワーン」と大きな泣き声。見ると恵太君が頭から血を流れています。お母さんはびっくりして、押していた自転車を放り出して真っ青な顔をして、恵太君の所にやって来ました。そして、血を流している恵太君を抱きかかえて、すぐに近くの病院に連れて行ったのです。幸い、恵太君のケガはたいしたことありませんでした。けれども、恵介君が恵太君に体当たりしたために恵太君が転んで自転車にぶつかったと聞いてとても悲しそうにしていました。その悲しそうにしているお母さんの様子を見ていて恵介君は、本当に自分は悪いことをしたと思ったんですね、それで、お母さんに「お母さんごめんなさい」と誤りました。そして、どうして、弟の恵太君にバーンとぶつかったか、そのわけを話したのです。恵太君がとった一等賞の商品をお母さんが喜んでいるのをみて、本当は、自分もお母さんに喜んでもらいたかったことや、お母さんに喜んでもらえたことをうれしがっている弟がうらやましかったり、悔しかったりして、ぶつかってしまったりして事、みんなお話ししました。

それを聞いていたお母さんは、恵介君にこう言いました。「お母さんが一番嬉しいことは、恵介君と恵太君が仲良くすること。だって、恵介君も恵太君もお母さんの大切な子供だから。だから二人が仲良く元気でいてくれることが、お母さんにとって一番嬉しいことなんだよ。」それを聞いて、恵介君は、本当に悪かったと思いました。今まで兄弟げんかばかりしていたからです。そしてこれからは兄弟げんかをしないで弟と仲良くしようと思いました。そしてもう一度「お母さんごめんなさい。これからは恵太と兄弟げんかをしないで仲良くします。」と謝ったんです。すると、お母さんは、「いいわよ」といって恵介君のことを赦してくれました。

さあ、教会学校のみんなは、兄弟げんかしたりしていないかな。みんなのお母さんも、恵介君と恵太君のお母さんのように、みんなが仲良く元気で育ってくれることが一番嬉しいんだね。それと同じように、天の神様も、兄弟だけではなく、教会学校のお友達や、学校のお友達、世界中の人たちと仲良くなって欲しいと思っています。みんなが人と仲が悪くなったり喧嘩をしたりすること喜んでいません。だから、みんなはお母さんや神様に喜んで頂けるように、やさしい心を持つ人になるようにしましょうね。仲良くできないで、人にケガをさせてしてしまったり、傷つけてしまったりするような気持ちは、優しい気持ちの反対の私たちのわがままな罪の心から起ってきます。そんなわがままな罪の心を、お母さんも神様も喜ばれません。お母さんや神様に喜んで頂けるように、わがままな罪の心を持つ人ではなく、やさしい心を持つ人になりましょうね。

さて、大人の方たちです。今、子どもたちにお話しした話は、お気づきのように、先ほど司式の兄弟にお読み頂いた創世記4章のアベルとカインの兄弟の物語が元になっています。アベルとカインの物語は、ある意味色々と考えさせられる内容を持った話です。なぜ神様は神様な弟アベルの捧げものを受け入れ、兄カインの捧げ物を受け入れなかったのか?考えさせられることはいろいろあります。もちろん、そのことに対して、弟アベルは、ただ捧げ物を捧げると言うだけでなくよく肥えた善きもの捧げ物を持ってくるという、その神を畏れ敬う気持ちが受け入れられたのだとか、子羊を捧げるという犠牲の血を流すことが、イエス・キリストの十字架に繋がるからだという、神学的な理由を挙げることは出来ます。けれども、私は、今日のこの箇所から、そのようなことではなく、どうして、カインは兄弟であるのにアベルの捧げ物が受け入れらたことを喜んであげられなかったのか。どうして、カインは、アベルのことを殺してしまわなければならなかったのかと言うことについて考えてみたいと思うのです。そこにある問題点というものに目を向けながら、私たちが本当に神にある兄弟姉妹として、今まで以上により仲の良い、神の家族となっていきたいからです。

「喜ぶものと共に喜び、泣くものと共に泣きなさい」とは、新約聖書ローマ人への手紙12章15節にある言葉です。もちろん、ローマ人への手紙は、ローマにいるクリスチャンに対して書かれたものですから、私たち教会に集うものの生きる指針です。しかし、「喜ぶものと共に喜び、泣くものと共に泣きなさい」と言う言葉は、確かに素晴らしい言葉だと思うのですが、実際にそのように生きるとなると、それは必ずしも容易ではありません。もちろん、私たちに、そのような気持ちが全くないとは言いません。他人の不幸は蜜の味がするとはいいますが、それでも、やはり悲しんでいる人をみると、やはり心から同情する気持ちが涌いてきます。最近、テレビで、子供か火事でなくなったとか、交通事故でなくなったと言う出来事があり、その詳細をニュースが報道しておりますと、ついついチャンネルを変えてしまいます。子供が火事や自己でなくなったと言うだけで、十分その家族の方の悲しみやつらさが分かりますので、それ以上詳細を聞くのが、少し辛い感じがするからです。

そういった意味では、悲しむものと共に悲しむと言うことは、私たちの中に、見られないわけではないのです。ところが、喜ぶものと共に喜ぶということは、以外と難しい一面を持っています。いや、確かに喜んではいるのですが、しかし、心のどこかでは、完全に手放しで喜びきっていないというったこともあり得るのです。だからちょっと「けちを付けて」みたくなったりする。そう言ったこともあるのではないかと思うのです。おそらくそれは、私たちの心の中にある、嫉妬心というものなのではないかと思うのです。嫉妬心というものは、不思議なもので、あまり関係のない人に対して湧き上がってくる感情ではありません。むしろ。それが身近な存在であればあるほど、より強い嫉妬心を感じてしまう傾向があるように思います。そういった意味では、今日のアベルとカインというのは、まさに兄弟という最も身近な血肉を分けた存在です。ですから、アベルの捧げ物が受け入れられ、カインの捧げ物が受け入れなかったという出来事の中で、カインがアベルに抱いた感情は嫉妬心ではなかったろうかと言うことは、容易に察しがつくことです。

昔、あの有名なマルティン・ルターという宗教改革者が、まだ宗教改革者となる以前に、ある書物にこのような書き込みをしていました。「原罪は罪、すなわち現実の罪の付け木である。それは肉の法則、肢体の法則、肉の欲であり、暴君、自然の弱さであって、原義の欠如である」これはつまり、人間の現実を見るならば、人間の心の中には罪の火種のようなものがあって、それに近づけると、ぼっと燃え上がり私たちに罪を犯させるような原罪ともいえるような罪の性質があると言うことです。この時にルターは、人間の原罪と言うことについて、明確な神学的理解を持ってはいなかったようです。しかし、現実の人間の姿を見るときに、人間の内側には、人間に具体的な罪を犯させる衝動のような罪の思いがあるということを感じ取っていたのだろうと思います。この時のルターは、修道院の中で厳格な生活を、罪の誘惑から離れた生活をしていました。けれども、その自分自身の中に、どんなに物理的に罪の誘惑となるようなものから離れ、修道院という塀の中に逃げ込んでも、どうしようもならない罪に対する衝動のようなものを感じ取ったのだろうと思うのです。

人間の罪の性質というのは、一筋縄ではいかない容易なものはではないと思い始めていたのだろうと思います。そして実際に、確かに一筋縄でいくようなものではないのです。このような、心の中にある性質が、今日の聖書の箇所においては、おそらくカインの心に嫉妬となって現われ、兄弟殺しという結果に至らせたのだろうと思います。そういった意味では、嫉妬の心が罪の火付け役になったと言えますし、嫉妬の心自体が罪そのものだろうと思うのです。そして、そのことを、私たちは、カインという特別な人に起った出来事だと言うことは出来ません。なぜならば、私たちは心から、「喜ぶものと共に喜び、泣くもの共に泣く」と言ったことがなかなか出来ないものだからです。実際、ローマ人への手紙12章15節に、クリスチャンの生きる指針として「喜ぶものと共に喜び、泣くものと共に泣きなさい」と言う言葉がわざわざ書かれていると言うことは、そう書かなければならないほど、私たち人間の中に「喜ぶものと共に喜び、泣くものと共に泣きなさい」ができない現実があるからです。

しかし、そのような現実の中にあって、それでも「喜ぶものと共に喜び、泣くものと共に泣きなさい」ということが、私たちクリスチャンの中にあっては出来るからこそ、ローマの教会にいる信徒達に向って、「喜ぶものと共に喜び、泣くものと共に泣きなさい」と言うのです。私たちは、心のどこかではカインとは無関係ではいられない嫉妬に身を焦がし、場合によっては、そのような嫉妬の中で、取り返しのつかないような罪を犯してしまう存在かもしれません。けれども、そのような私たちであったとしても、神を信じ生きるならば、「喜ぶものと共に喜び、泣くものと共に泣く」ものとなることが出来るのです。そして、「喜ぶものと共に喜び、泣くものと共に泣く」ものとなったならば、アベルとカインのような兄弟の間に起った悲劇がくり返されることはありません。神を信じる神の家族の中で骨肉相争うようなことはなく、互いに仲良く支え合っていくものとなることが出来るのです。だとしたら一体どうやって、そのように「喜ぶものと共に喜び、泣くものと共に泣く」となっていくことが出来るのでしょうか。

今日の聖書の箇所の後半は、神のカインに対する憐れみが記されているところです。自分の犯した罪の大きさを知り、それを神前に告白するカインに対して神は、「だれでもカインを殺す者は7倍の復讐を受けるでしょう」といい、カインを見つける者が、彼を打ち殺す事の内容に、彼に一つの印を付けられました。そこには、カインを憐れむ神のお心を見ることができます。結局、神はカインの捧げ物を顧みられませんでしたが、カイン自身のことは顧みておられたのです。いわば、カインもまたアベルと同じように神に顧みられ愛されていたのです。つまり私たちは、神の前に等しく愛されているのです。たとえ、そこに起っている現象として、アベルの捧げ物が顧みられ、カインの捧げ物が顧みられないと言う出来事おこっていても、アベルもカインも等しく神に顧みられ愛されているのです。この神が私も顧みて下さっているという事に気付き、その事が私たちの心に受け止められるならば、私たちは、神の家族として「喜ぶものと共に喜び、泣くものと共に泣く」となっていけるとそう思うのです。それは決してたやすいことではないかもしれません。けれども、私たちが神を信じ、神の愛に触れるならば、必ず出来るのです。

今日、私たちは、このあと賛美を捧げますが、その歌詞には、「道は狭くとも我ゆかん」と記されています。そう、どんなに狭く困難な道であっても、私たちは、「喜ぶものと共に喜び、泣くものと共に泣く」仲の良い神の家族を、この教会において築きあげたいと思います。そして、それこそが、私たちが先人達から受け継ぎ、そして今日ここに共に礼拝を守っている子どもたちに受け渡していってあげられる教会の最も大きな遺産だと思うのです。ですから、その教会の宝を更に豊かで大きなものとして残していってあげたいと思うのです。

お祈りしましょう。